芥川龍之介「蜘蛛の糸」——令和リライト
渡貫 可那太
蜘蛛の糸
ある日のことです。
お釈迦様は極楽の蓮池のほとりを一人で歩いていらっしゃいました。
池に咲く蓮はどれも真珠のように白く、金色の花芯からは言葉にできない甘やかな香りが漂っています。穏やかな朝の光の中、極楽はただ静かに息づいていました。
やがてお釈迦様は歩みを止め、水晶のように澄んだ水面を透かして下を覗かれました。そこには地獄の景色が広がっています。血の池、針の山、暗闇にうごめく罪人たち――その中にひときわ目立つ姿がありました。カンダタという男です。人を殺し、火を放ち、欲にまかせて盗みを働いた大泥棒。救いようのない悪人でした。
そのとき、一匹の蜘蛛が蓮の葉の上から声をあげました。
「お釈迦様、どうかあの方をお救いください。あの方はわたしの命を助けてくださいました」
お釈迦様はその出来事を知っていました。
あるとき、カンダタが森を歩いていたときのこと。小鳥が一匹の蜘蛛を咥えて飛んでいました。カンダタは「腹の足しになる」と石を投げ、鳥を撃ち落としました。鳥は地に落ち、蜘蛛は口から逃げ出して命を拾いました。
カンダタは鳥を食べただけ。蜘蛛を助けるつもりなど毛頭ありませんでした。けれども蜘蛛は「命を救われた」と思い込み、こうして恩に報いようとしているのです。
お釈迦様は蜘蛛の声に耳を傾けながらも、すべてを知っておられました。この男がどれほどの悪人で、どれほど多くの命を踏みにじってきたのかも。
――それでも。
「では、この男は、糸を垂らせばどうするだろうか——」
お釈迦様は慈悲からではなく、ほんの気まぐれのように、玉のような蓮の花の間から銀色の糸を地獄の底へ垂らされました。
血の池でもがいていたカンダタは、ふと頭上を見て驚きました。暗闇を裂いて、一本の糸が光りながら垂れてくるのです。
「助かった……!」
両手で糸をつかみ、必死に上へ上へと登り始めました。血の池は遠ざかり、針の山も足の下に消えていく。久しく笑ったことのなかった彼の口から、笑い声がもれました。
しかし下をのぞくと、数え切れないほどの罪人たちが後を追って登ってきています。まるで蟻の行列のように、糸にすがりついて上へ上へと。
「こら! この糸は俺のものだ! 勝手に登ってくるな! 下りろ、下りろ!」
その叫びとともに、カンダタの手元から糸はぷつりと音を立てて切れました。彼はあっという間に暗闇の底へ、くるくると回りながら落ちていきました。
残されたのは、月も星もない空に短く垂れる蜘蛛の糸だけでした。
蓮の葉の上でその様子を見ていた蜘蛛は、小さな声でつぶやきました。
「わたしの恩人が……どうして……?」
その問いは風に消え、誰にも届きませんでした。
お釈迦様は黙ってそれを見つめていました。
「私が説いたことは、いったい何だったのか——」
下界をのぞけば、人は宗派に分かれ、言葉を奪い合い、互いを突き落としていました。慈悲は旗になり、真理は刃になっていました。
その傍らで、蓮は静かに揺れています。
白い花びらは朝の光に透きとおり、金色の花芯から甘い香りが絶え間なく広がっておりました。
人の愚かさと自然の清らかさ。その対比は、どちらも変わらぬ真実でした。
お釈迦様は歩きながら目を閉じ、風に運ばれる花の香りに、ひととき身をゆだねられました。
その顔には、悲しみとも、諦めともつかぬ静かな影が浮かんでおりました。
芥川龍之介「蜘蛛の糸」——令和リライト 渡貫 可那太 @kanata_w
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます