都市の黙示録
かもめ7440
第1話
その建物は、昭和四十年代後期に竣工した、
鉄筋コンクリート造の五階建てで、
外壁には歳月の重みを刻んだ薄茶色のタイルが貼られていた。
タイルの継ぎ目には黒ずんだ黴が這い、
雨水の流れた跡が幾筋もの暗い縞模様を描いている。
元々は地域の中核病院として機能していた建物だが、
医療法人の経営破綻により十五年前に閉院。
その後、債権処理の過程で競売にかけられ、
現在は「丸新タクシー株式会社」の本社ビルとして使用されている。
競売により七,二〇〇万円で取得した。
(通常の通常の医療法人物件なら一億円以上が妥当なところで、
およそ半額以下で購入したという、)
取得時の不動産鑑定書には、
『心理的瑕疵あり』との記載があったらしい。
地質調査報告書によれば、建設地の地盤は第四紀沖積層の、
粘土質シルト層で構成されており、
地下水位は地表面下三.二メートルに位置している。
この地質的特性により、建物内部の湿度は年間を通じて、
六八~七二パーセントの高い数値を維持し、
コンクリート内部の毛細管現象による水分移動が活発化している。
特に地下階では、壁面に白華現象(エフロレッセンス)による、
石灰質の析出が顕著に観察され、建築材料の経年劣化が進行している。
とはいえ、春の午後、建物の南側にある小さな中庭では、
植え替えられることなく自生した山桜が、
淡いピンクの花弁を散らしている。
かつて入院患者達が車椅子で花見を楽しんだであろうその場所は、
今では職員の喫煙所として使われ、
吸殻の詰まった灰皿が無造作に置かれている。
桜の根元には、病院時代の名残である小さな石碑が苔むして立っており、
『慰霊之碑 昭和五十三年建立』という文字がかろうじて読み取れる。
しかし曰くはある、
建物全体を呪いの磁場で包んでいるという気配はないが。
現在この建物を所有するタクシー会社の社長は二代目になるわけだが、
初代は購入後わずか三年で胃癌により死亡した。
これだけだと一笑に付されてしまうが、
副社長は交通事故、専務は首吊り自殺、常務は心筋梗塞。
と、カードが揃って来ると偶然では説目がつかない。
役員の異常な死亡率は会社の帳簿に『祟り対策費』
という謎の項目を作り、年間百数十万円が計上されている、という。
これはちょっとした話だが、
元病院みたいな場所だけではなく、地質調査では発見されなかったが、
建設地の地下三メートルには江戸時代の大量埋葬地が眠っていて、
コレラ大流行時に数百体の遺体が石灰と共に投げ込まれたらしい、
この、らしいが、何処まで本当かは分からないが、
そういう曰く付きの場所に、
かつて白衣を着た医師たちが廊下を闊歩し、
消毒薬の香りが充満していた建物は、
今やタクシー会社の事務所として第二の人生を歩んでいる。
*
◯◯日報 朝刊 社会面
2008年8月16日付
元病院で作業員が意識不明 熱中症か
◯◯市の元総合病院を事務所として使用している、
タクシー会社で14日夜、男性作業員(42)が意識不明で発見された。
男性は病院に搬送されたが、原因は分かっていない。
同社によると、男性は夜勤明けで社内の仮眠室で休憩していたところ、
翌朝出勤した同僚が発見したという。
発見時、男性は異常に冷たくなっており、体温は32度まで下がっていた。
「夏場でこんなに体温が下がるなんて」
と発見した同僚は困惑している。
市消防本部では熱中症とは逆の症状で困惑しており、
詳しい原因を調べている。
*
所長の田中は六十代半ばの小柄な男で、額の生え際が後退し、
残った髪は白髪交じりの薄茶色に染まっている。
彼は新入社員の研修で必ずこの話をする。
「一階の仮眠室はな、元の霊安室の真上なんだ。
だから夜中に変な音がするって運転手達は言うんだが、
俺は文句は言わん、気になるなら仮眠室で寝るな、
タクシーで寝ろ」
田中の声には、商売人特有の現実主義と、
どこか諦めにも似た達観が混じっている。
しかし安く買ったことで『祟り対策費』
という謎の項目を作ることについては明らかにヘタレだ。
だが、心霊現象の報告が最小限にとどめられているという現状は、
そのチキンのおかげなのだからこちらも文句を言うまいとは思う。
ただ、それって裏を返すと、
仮眠室で寝れば絶対に変な音がするのと言っているのに等しく、
また祟り対策費を大っぴらに認めるということは、
役員の死亡が事実であり、こんなこと言ってはいけないわけだが、
場合によっては、タクシー運転手の中には、
その祟りで亡くなった人もいるかも知れないわけだ。
もちろん、分からないわけだが。
*
◯◯日報 朝刊 社会面
2014年9月23日付
タクシー会社で2人目の異常事態 「呪われた部屋」の噂も
先月作業員が意識不明となったタクシー会社で、
22日深夜、別の男性運転手(38)が同じ仮眠室で異常事態に陥った。
男性は救急搬送されたが、搬送先の病院で死亡が確認された。
死因は心不全とされているが、発見時の状況に不可解な点が多い。
男性の全身には原因不明の内出血があり、顔面は恐怖に歪んでいたという。
同社の他の運転手からは「あの部屋はおかしい」
「夜中に変な音がする」などの証言が相次いでおり、
現在同室の使用は中止されている。
同社の◯◯社長は
「従業員の安全を最優先に対策を検討している」とコメントした。
*
霊安室は現在、書類保管庫として使用されている。
分厚いスチール製の扉を開けると、
湿った空気と古い紙の匂いが混じった独特の臭いが鼻を突く。
天井は低く、蛍光灯の光が青白く照らし出す室内には、
段ボール箱が整然と積み上げられている。
箱には『平成○年度売上台帳』『車両整備記録』
などと黒いマジックで書かれた文字が並ぶ。
で、所長も言っている通り、
仮眠室は一階にあり、霊安室の真上なわけなのだが、
そもそも、元中核病院の五階建て、
別の所に仮眠室を作るべきなんじゃないかと思うが、
二階から五階をそれぞれ別の会社に貸し、
わざわざ入り口を別の所に作っている。
考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しいが、
「一階の仮眠室はな、元の霊安室の真上なんだ。
だから夜中に変な音がするって運転手達は言うんだが、
俺は文句は言わん、気になるなら仮眠室で寝るな、
タクシーで寝ろ」
という金の亡者の発言がつくづく甦って来る。
*
タクシー運転手A氏の証言録音
録音日時:2023年1月20日 午後2時30分
場所:◯◯警察署第3取調室
対象者:匿名希望(以下A氏)
(録音開始)
「あのさ、最初に言っとくけど、俺は嘘なんか一つもついてない。
みんな頭おかしいって言うけどな、
俺はちゃんと見たんだよ。あの部屋で起きたこと、全部な。
8月13日だった。覚えてる、はっきりと。
仮眠室で休もうと思ったんだ。
部屋に入った瞬間、おかしいと思った。
空気が―――なんていうかな、重いんだよ。
湿ってて、変な匂いがして。
消毒薬みたいな匂いと、何か腐ったような匂いが混じってる。
ベッドに横になって、しばらくしたら・・・・・・」
(ここで証言者が激しく咳き込む。約30秒間の沈黙)
「廊下から音がしたんだ。
パタパタって。最初は他の運転手かと思ったけど、違った。
その音、人間の足音じゃない。もっと―――湿った音っていうか。
それから、ドアを叩く音。バンバンバンって。
でも誰も返事しない。俺、動けなくなってたから。
金縛りってやつ? 身体が石みたいに重くて。
そん時に見たんだよ。白衣着た奴らが入ってきた。
医者と看護婦。でも、その眼が...」
(長い沈黙。すすり泣く声)
「光ってた。動物みたいに光ってた。
俺をストレッチャーに載せて、どこか知らない部屋に運んでいった。
手術室みたいなとこ。
メスが―――メスが眼に向かって・・・・・・」
(証言者の叫び声。録音一時中断)
*
仮眠室は約十二畳の長方形の部屋で、窓は東側に二つ並んでいる。
窓枠は白いアルミサッシだが、経年劣化でくすんだ色になり、
硝子には手の跡や埃が付着している。
カーテンは薄手の青いポリエステル製で、日光を遮るには心もとない。
部屋の中央やや奥寄りに、学生寮で見かけるような、
二段ベッドが二台配置されている。
ベッドフレームはパイプ製で、
白いペンキが所々剥がれて鉄の地肌が見えている。
マットレスは薄手のウレタン製で、長年の使用で中央部分が窪んでいる。
枕は安価なポリエステル綿のもので、
黄ばんだ枕カバーには洗剤の匂いと微かに汗の臭いが染み付いている。
西側の壁際には、グレーのスチール製ロッカーが四台並んでいる。
それぞれに運転手の名前を書いた白いテープが貼られ、
「山田」「佐藤」「鈴木」「田辺」という文字が見える。
ロッカーの上部には段ボール箱が無造作に置かれ、
中身は古い地図帳や無線機の部品、使い古したタオルなどが入っている。
田辺のロッカーは扉が半開きになっており、
中にはタクシーの制服である濃紺のジャケットが、
ハンガーに掛けられている。
ジャケットの胸ポケットには会社のロゴマークが刺繍され、
肩の部分は長年の着用で毛玉ができている。
その下には白いワイシャツが畳まれ、領の部分に薄い黄ばみが見える。
部屋の隅、入り口近くには小さなスチール製のテーブルと、
椅子が一脚置かれている。
テーブルの上には灰皿、古い週刊誌、
使いかけのティッシュ箱が雑然と並んでいる。
壁には昭和の香りがする木製の時計が掛けられ、
秒針の音が部屋の静寂を刻んでいる。
ペダル軸の中心の真上か、
少し前方に位置するようにポジションを決める。
―――霊安室の真上。
でもおどろおどろしいところは本当にない。
キャッシュカードだって多少すりきれていたって使う。
すりきれて使用不可になって初めて交換する。
それはそういうものだ。
それに独房とか、猫の額みたいな感じではない、
ここにあるとすれば、ひどく悩ましい生理。
この仮眠室で起こる現象について、
運転手達の間では様々な噂が語られている。
夜勤明けの佐藤は「足音が聞こえる」と言い、
昼勤の山田は「誰かが話し声がする」と証言する。
しかし、それらの体験談はどこか曖昧で、
聞く者に確信を与えるほど具体的ではない。
もちろん怪談というのはそもそも語りが上手い人や、
わざわざ構成したもので、
その多くはうすぼんやりとしたものだ。
心霊体験の持ち込みを受け付けている作家曰く、
九割が没という具合だ。
その人にとっては怖くても、
多くの人にとっては怖くない。
見方を変えれば十割、胡散臭い。
どれもこれも似たり寄ったりだ。
という解釈だって出来ないことはない。
最初はそうした話を単なる疲労や睡眠不足による、
幻聴程度に考えていた。人間の感覚は思っている以上に曖昧で、
特に薄暗い場所では些細な音でも大きく聞こえるものだ。
エアコンの音、外を通る車の振動、配管を流れる水の音、
これらが重なり合い、
疲れた脳が勝手に意味を見出してしまうのだろう、と。
逆説を提示しよう。
枕のそれは汗染みではない。
死体から滲み出た体液の痕跡だ―――とか。
壁際のロッカーからは、時折かすかな呻き声が聞こえ、
扉の隙間から覗くと、制服の陰に青白い手が、
見え隠れしているのが見えるのだ―――とか。
過去にここで自殺した運転手の霊が、
今も制服を着て出勤の準備をしている―――とか。
ロッカーの上の段ボール箱からは、時折血液が、
ぽたぽたと滴り落ちる音がする―――とか。
そういう話は全然ない、まったくない、
超平和、有り得ないほど―――平和・・。
恐怖や死の隣にあるものは残念ながら、
怠惰な日常である。
心霊スポットだってドラマチックな合戦場みたいなことはない、
精神をじわじわと侵蝕して―――ゆく・・。
信心深い人達が言うには、何か嫌な気配がする、
心が重くなるというが、それはがっちりした構造の、
豊かな抽象力の作用である。
霊感がある人にとってはエクトプラズムみたいな嘔吐の現場、
でもそれが本当に怪異の仕業かは分からない、
そもそも幽霊っていうのが元人間の次段階なのか、
進化形態なのか、あるいはそもそも人が霊体なのかも、
本当のところは分からな―――い・・。
というのが、自分の考え方だった。
それだって嫌なものを完全に締め出すことはできない、
それが生きること、慣れ合うことだと思う。
死者への逆らい難い特権的なものを否定するものではないが、
時間と空間の両軸を運ぶ筋のある物語にしているだけだ。
認識というのは預金通帳のようなものだと思う。
そう、気にしない人にとっては何処吹く風だ。
大体、悪霊の巣窟みたいな、悪徳病院ならまだしも
おそらく、ごくごく普通の病院だったはずだし、
何千年前の幽霊や何万年の幽霊は何故いないのか、
という、ごもっともな意見もある。
と―――そう思っていた。
*
同僚達の証言
場所:近所の居酒屋
日時:2024年2月10日 午後8時
参加者:運転手B、C、D(全員匿名希望)
B:「田中の奴、結局見つからないんだな」
C:「山に行くって言ったきり・・・もう1ヶ月だぞ」
D:「あいつも仮眠室使ってたからな。
やっぱり関係あるんじゃないか?」
B:「関係あるって、まさか本気で信じてるのか?
呪いだとか霊だとか」
C:「でも実際、おかしいだろ。何人も死んでるんだぞ。
偶然にしちゃ多すぎる。それに辞める人数多すぎないか」
B:「まあ、お前の気持ちも分かるけど、冷静に言ってさ、
タクシーの離職率は高いからな。客とのトラブル、
精神的なストレス、労働時間、給料だっていいとは言えない。
まあ、そこに拍車をかけてってことなら、
入社金5万もらおうが、辞めるわな(笑)」
C:「俺、一回だけあの部屋使ったことあるんだ。
2年前だけど」
B:「え、マジで? お前、霊感あるって言ってなかったっけ、
何か起きたのか?」
D:「あんまり怖くて言えなかったけど、夢、見た、
・・・すげぇ変な夢。白衣着た医者に追いかけられる夢。
メス持って、俺を解剖しようとするんだ」
C:「それだけか?」
D:「いや・・・起きた時、壁に血の手形がついてた」
(沈黙)
B:「・・・嘘だろ? お前それ、ガチじゃん。
盛ってるって言えよ、盛りそばなんだろ?
やよい食堂なんだろ」
D:「本当だって。昇天ペガサスMIX盛りじゃない。
朝になったら消えてたけど、確実に見た。
俺の手よりずっと小さい手形だった。子供の手みたいな」
C:「子供・・・そういえば、あの病院って小児科もあったんだよな」
B:「やめろよ、そういう話」
D:「でも、田中の言ってたこと、全部嘘だとは思えないんだ。
あいつ、最後の方すげぇ痩せてたし、眼も血走ってた」
C:「俺も聞いたぞ。夜中に電話かかってきて『助けて』って言うんだと。
でも電話に出ると、誰もいない」
B:「それ統合失調症の症状じゃないか?」
D:「だったらいいけどな...」
(長い沈黙)
C:「なあ、もし本当だったら、俺たちも危ないんじゃないか?
同じ建物で働いてるんだし」
B:「馬鹿言うな。科学の時代に呪いだなんて」
D:「でも、科学で説明できないことって、実際あるだろ?」
B:「・・・まあ、用心するに越したことはないか、もう少ししたら辞めよう」
(笑い)
*
しかし、その日は違った。
軽い風邪の症状を感じていた。
額に薄っすらと汗が浮かび、咽喉の奥に乾いた痛みが宿っている。
体温計の液晶に表示された数字は、平熱よりもわずかに高い値を示していた。
鼻腔の奥では粘膜が腫れ上がり、呼吸のたびにかすかな違和感を覚える。
体温は三十七度二分。
この体温でも平熱の人がいるのが人体の不思議だが、
(知らない人もいるわけだが、)
自分にとっては微熱だ。それでも、やってしまったな、と思う。
運転手にとって体調管理は職業上の義務であり、
体調不良での運転は乗客の安全を脅かす重大な問題がある。
こと自分本位な物の見方をするとしても、
体調不良での運転はきつい。
できるなら家に帰りたい、寝ていたい。
でも給料に響く、ならどうするか、だ。
風邪薬の服用について、多くの人は軽く考えがちだが、
実は法律上の問題がある。道路交通法第六十六条では、
「何人も、過労、病気、薬物の影響その他の理由により、
正常な運転ができないおそれがある状態で、
車両等を運転してはならない」と規定されている。
(もちろん守っていない人も多数いるわけだが、)
市販の風邪薬に含まれる抗ヒスタミン剤やカフェインなどの成分は、
眠気や集中力の低下を引き起こす可能性があり、
厳密に言えば薬物運転に該当する恐れがある。
違反した場合、三年以下の懲役又は五十万円以下の罰金が科せられ、
さらに麻薬等運転として二十五点の違反点数が加算され、
即座に免許取り消しとなる。
これは飲酒運転と同等の重い処罰である。
もちろん、実際にはよほど悪質でない限り起訴されることは稀だが、
事故を起こした場合の責任は重大だ。
疫学的データによれば、感冒症状による運転能力の低下は、
血中アルコール濃度〇.〇八パーセントの状態と、
(日本の酒気帯び運転基準値〇.1五mg/L相当)
同程度の危険性を有するとされている。
反応時間の延長、注意力の散漫、判断力の低下が複合的に作用し、
交通事故リスクを二.八倍に増加させる。
そして事故を起こせば運転免許証は没収、
人を死なせれば過失運転致死傷罪の刑罰は、
「七年以下の拘禁刑又は一〇〇万円以下の罰金」とあるわけだが、
―――人殺しだ。
認めるという行為は、中々に難しいことだ。
これは経験則である。
言葉にするのが嫌な行為、罪悪感を感じる行為、
そして、それを正当化する信念があったり、
説明する必要を感じたりする行為も、すべて含めて、
認める、というのだ。
車を運転している限り、道路を走り、
そこに車がいて、人がいるわけである。
確率論的にはいつ、誰が、どんな事故を起こしてもおかしくはない。
自転車が道路に勝手に飛び出してくる、
街燈のない夜の道で突然人が出てくる、
運転しているから分かる、自分だってその一人になるかも知れないことは。
だから危ない道はスピードを落とせる限り落とす、
それでも鉄道事故みたいに歩道橋の上から人が降ってきて、
玉突き事故が起きないなんて誰にも言えない、
「年間○○件の事故が起きている。
だから、今日も誰かが事故に遭うかもしれない」は当然的な見解だ。
いくらか大袈裟な物言いをしているところはあるけれど、
だからアルコールチェッカーもする、シートベルトを締める、
安全確認をする、制限速度を守る、そして安全運転を心がける。
業界内でも、こうした問題は深刻に受け止められている。
蒸しパンに含まれる微量のアルコールが原因で、
アルコール検知器で陽性反応が出てしまうなんて常識だが、
知らない人にとってみれば意外なことだろう。
長距離ドライバーの知人によれば、
知らない人にとってみれば笑い話のようだが、
「痔の痛みで集中できずに事故を起こしそうになった」という話もある、
身体の不調と運転の関係は複雑で深刻な問題だ。
痔は特に長時間座り続ける職業では避けられない職業病の一つで、
多くの運転手が悩まされている。
しかし、恥ずかしさから治療を躊躇する人も多く、
結果的に症状を悪化させてしまうケースが後を絶たない。
その日の自分は仕方ないので風邪薬を飲み、
がぶがぶポカリスウェットをちょっとお腹痛いぐらいまで飲み、
ビタミンCの錠剤をガッと飲み、
首の後ろから肩甲骨の間にある風門のツボと臍あたりをホッカイロで温め、
首にタオルを巻き、
汗を掻くためにもう一枚長袖を着込み、
二時間とりあえず眠ることにする。
それで駄目なら、四時間後。
身体の怠さに導かれるまま、足は自然と階段を上がり、
仮眠室のドアノブに手をかける。
という風に―――という風に・・・・・・。
―――仮眠室へ入ったのだ。
部屋に入ると同時に、蛍光灯のスイッチを押し下げる。
カチッという小さな音とともに、白い光が消失し、
部屋は深い闇に包まれた。西陽が薄いカーテン越しに射し込み、
室内を淡いオレンジ色に染めていた。空気は少し埃っぽく、
長年蓄積された様々な匂いが混じり合っている。
もうそろそろ禁煙にするという噂が、
まことしやかに囁かれている煙草の残り香、
汗の臭い、率直に言うと加齢臭、
(アンモニア系化合物、脂肪酸エステル類、)
それを掻き消す消毒剤のような化学的な匂い、
そして何とも形容しがたい古い建物特有の匂い。
電気を消すと、部屋は急に薄暗くなった。
唯一の光源は窓から漏れる夕陽だけで、
室内の家具が不規則な影を作り出している。
夕陽は何処にいても何か淋しいような優しいような、
綯交ぜにした、複雑な感情を誘発する。
身体の怠さと悪寒による自動服従機械に、
飛行場や、鉄道の駅や、バス・ターミナルのような夜が、
もうすぐ訪れる。
時計の秒針の音が妙に大きく聞こえ、
壁の向こうから時折聞こえる足音や話し声が、
建物全体の生活音として響いている。
二段ベッドの下段に横になると、マットレスが軋んで小さな音を立てた。
枕に頭を乗せると、かすかに前に使った人の整髪料の匂いがした。
(それが嫌ならフェイスタオルをかぶせるか、枕カバーをする、)
スマートフォンの液晶画面を確認し、
未読メールがないことを確かめ、
徐々に意識が薄れていく感覚を覚えた。
まだこの状態が続くようなら、
家に帰るのも考えようとそう思いながら、
―――そう。
――――――そう。
どれくらい時間が経過したかは定かではない。
薬の効果で意識が朦朧とする中、外の廊下から、
パタパタパタという足音が聞こえてきた。
最初は単なる同僚の足音だと思った。
タクシー会社では二十四時間体制で人の出入りがあり、
特に夜間の時間帯は交代要員が頻繁に移動する。
しかし、その足音は普通ではなかった。
まるで裸足で廊下を走っているような、べたべたした音に聞こえる。
革靴やスニーカーの音とは明らかに違う、生々しい足音だ。
しかも、その音は一定のリズムを刻みながら、
廊下を往復している。
「うるさいな」と思いながら寝返りを打つと、
ベッドのスプリングが軋んだ。
同僚の運転手は基本的に常識的な人達で、
仮眠している人がいる時にこれほど騒々しく動き回ることは考えられない。
それに、この時間帯は比較的静かになるはずの時間だ。
足音はますます激しくなり、
今度は複数の人間が走り回っているような音に変わった。
緊急時の避難行動や、何らかの追跡・逃走行動にも思えた。
実際、相撲の稽古でも始まったのかと思うほどの激しさで、
建物の構造を通じて振動が伝わってくる。
廊下を右往左往して、ちっとも去る気配を見せない。
「何かあったのか?」という疑問が頭をよぎり、
もしや火災や地震でもあったのかとも思われたが、
報知器も鳴らず、薬の効果で身体が重く、
起き上がって確認する気力がわかなかった。
―――そう。
――――――そう。
その時、バンバンバンという激しいドアを叩く音が響いた。
それは仮眠室のドアを叩く音だった。
木製のドアが振動し、部屋全体に響く激しい音。
しかし、普通なら「すみません」とか、
「開けてください」といった声がかかるはずなのに、
一切のそういった声は聞こえなかった。
ただひたすら、機械的にドアを叩き続ける音だけが響いている。
破壊の為に突き進む顔無しの軍隊だ。
温厚な自分もさすがに起き上がって文句をつけてやろうと決めたが、
気味の悪さで、肉体から離脱した声になる。
誰だ、何事だ、そう思った、まさに、その時、
その時、ハッと気付いたのだ。
身体が思うように動かな―――い、ということを・・。
風邪薬の副作用なのか、それとも恐怖による身体の硬直なのか、
手足に力が入らない。声を出そうとしても、
咽喉が詰まったような感覚で、かすれた息しか出てこない。
まさにその瞬間、金縛りの症状が始まった。
レム睡眠とノンレム睡眠の境界で起こる一時的な筋肉の弛緩状態。
しかし、その理屈を知っていても、いまそのことを思い出せても、
実際に体験すると恐怖は変わらない。
意識ははっきりしているのに、身体がまったく動かない。
―――そう。
――――――そう。
突然、すべての音が止んだ。足音も、ドアを叩く音も、
一切の物音が消失した。それは不自然なほどの静寂で、
まるで世界から音という概念が消去されたかのようだった。
時計の秒針の音すら聞こえない。
外の交通音も、建物内の生活音も、すべてが消え去っていた。
その静寂の中で、感覚は逆に研ぎ澄まされていった。
額に汗が滲み、その一粒一粒の感触まで感じることができた。
ネガティブな関係や状況をそっと引き寄せて、暗い気持ちになる。
まるで個室便所のなかにあらわれた百足。
濡れた波打ち際の縁のように、額の汗が眼の中へと入る。
心臓の鼓動が異常に大きく聞こえ、
血液が血管を流れる音まで意識できるような状態。
眼球だけがわずかに動き、
目蓋の隙間から室内の様子を観察する。
「動け、動け」と心の中で叫び続けたが、
身体は石のように硬直したまま頑なに命令を拒絶し、
まるで意識だけが肉体から分離してしまったかのような、
奇妙な感覚に支配されていく。
指一本、目蓋一つ動かすことができず、
できることは痙攣りにも似たもどかしい震え。
焦りに似た呼吸は浅く早くなり、過呼吸の症状が始まっている。
時間の感覚が曖昧になる中で、ただ待つしかなかった。
金縛りは通常数分で解けるものだが、
その数分が永遠のように感じられる。
意識だけが異常に鮮明で、恐怖と不安が増幅されていく。
静寂の中で、突然、鼻を突く強烈な臭いが部屋に充満した。
それは消毒薬の臭いだった。
病院特有のフェノール系消毒剤の刺激的な匂いに、
アンモニアのような刺激臭が混じった複雑な臭いだった。
その臭いは徐々に濃くなり、
まるで部屋全体が消毒されているかのような強さになった。
それが何を意味しているかも分からないまま、嫌な予感がする。
どうしてあの時、早退を申し出なかったのだろうと思う。
鼻の奥が痛くなるほどの濃度で、眼からも涙が滲み出してきた。
しかし、身体が動かないため、鼻を覆うことも、
その場から逃れることもできない。
ゆったりと楽に構えて、考える機械に文字を入れるみたいに、
そう、ただ、何の感情もない雑草のように、待ち続ける。
充電しすぎた配電盤のように壊れるしかないとしても、
それが死刑執行令状であろうとも。
何がなんでも寝ようと思ってギューッと眼を瞑る。
いつも思う、こんなこと何度もあったろう、と。
しかし寝よう寝ようと思えば思うほどに寝れなくなり、
それどころか意識はどんどんどんどん覚醒していく。
消毒薬の臭いに続いて、何かが焼けるような臭いがした。
電気製品が過熱した時のような、プラスチックが溶けるような異臭。
それは一瞬で消えたが、鼻の奥に嫌な後味を残した。
ふっ、と―――。
何の前触れもなく、何かが、焼き切れる・・・。
ガチャリという音とともに、ドアが開いた。
しかし、鍵をかけた記憶がない。
仮眠室のドアは内側から施錠できるが、通常は使用しない。
それに、もし鍵が掛かっていたのなら、
外からは開けられないはずだった。
呼吸が激しくなり、掌裏が汗ばむ。
足音が聞こえた。それは先程の裸足の音とは違う、硬い靴底の音だった。
コツコツという革靴の音に混じって、
ペタペタというゴム底の靴音も聞こえる。
明らかに二人の人間が入ってきた。
金縛りで身体は動かないが、聴覚は異常に敏感になっていた。
頬の肉が、ぷるんと、ゼリーみたいに震えた気がした。
二人の足音は部屋の中を移動し、自分のベッドに近づいてくる。
一人は男性のようで、足音が重い。
もう一人は女性のようで、足音が軽やか、しかし規則的だった。
その時、微かに話し声が聞こえた。しかし、言葉は聞き取れない。
まるで水の中で話しているような、くぐもった声。
音としては聞こえるが、意味は理解できない。
それは日本語なのか、それとも別の言語なのかも判然としない。
恐怖の中で薄眼を開けると、視界に二つの人影が入った。
鼓動が不規則なモールス信号を刻む。
一人は白衣を着た男性で、聴診器を首にかけていた。
もう一人は看護師の制服を着た女性で、ナースキャップを被っていた。
しかし、彼等の顔は異常だった。眼が光っているのだ。
それは自然な光ではなく、まるで内側から発光しているような不自然な光。
青白い光が眼窩から漏れ出し、顔全体を不気味に照らし出している。
医師の顔は中年男性のもので、無精髭を生やしていた。
表情は無機質で、まるで感情が欠落しているかのようだった。
看護師の女性は若く見えたが、顔色が異常に白く、
血の気が失せているようだった。
二人とも、見下ろしていた。
しかし、その視線には好奇心も敵意もなく、
ただ昆虫とかモルモットとかを観察しているだけのような冷たさがあり、
まるで解剖台の上の検体を見るような、非人間的な視線で、
生きた心地というのがしない。
―――そう。
――――――そう。
医師が何かを呟いた。今度は少し聞き取れた。
「体温は?」
「三十七度二分です」
看護師が答えた。
しかし、彼等がいつ体温を測ったのか、記憶にない。
医師が枕元に近づき、聴診器を胸に当てた。
聴診器の金属部分は異常に冷たく、
まるで氷を押し当てられたような感覚。
生き延びるチャンスが百に一つぐらいしかないような、
そんな気がした。
しかし、金縛りで身体が動かないため、
その冷たさから逃れることができない。
「心拍数は?」
「百二十です。頻脈ですね」
看護師が機械的に答えた。
確かに心臓は激しく鼓動していたが、それは恐怖によるものだった。
医師が何かを手に持った。それは注射器のようだった。
針先は異常に太く、内容物は透明だった。
手は動かない、平衡と位置の感覚は風前のともしびだ。
それでも、耳は聞くし、真っ先に鼻は吸う。
看護師が腕を掴んだ。その手は異常に冷たく、まるで死人の手。
口腔内では壊死性歯肉炎が急速に進行し、
歯茎から血と膿が噴出する。
やめろおおおおお。
体温がないだけでなく、硬直しているような感触もあった。
医師が注射器を持ち上げ、針先から数滴の液体を滴らせた。
その液体は床に落ちると、ジューという音を立てて煙を上げた。
明らかに通常の薬液ではない。
死にたくないいいいい。
「これで楽になる」
やめろおおおおおおお。
医師がそう言ったような気がしたが、定かではない。
医師の口から、
内臓が生きながら腐り始めているような悪臭がした。
咽喉の奥で蛙のようなものがぐちゃりと潰れる音がした。
胃の中で薬剤が溶け始めたように内臓が焼けるような激痛が走る。
血管を通じて毒素が全身に拡散し、
皮膚の下を這いまわる寄生虫のような感覚が広がっていく。
注射針が雀蜂の威嚇音のように近付く、その瞬間、
脳裏に様々な記憶が蘇生した。子供の頃の病院での注射の恐怖、
手術の記憶、そして死への恐怖。
すべてが混じり合い、意識が混乱し、ぐちゃぐちゃになり、
刺された瞬間の痛覚のあと、意識が遠くなったかと思うと、
いつの間にか、横たわっていた二段ベッドは、
二段ベッドは、
冷たい金属製のストレッチャーに変わっていた。
夢も魂も肉体を包む袋から流れ出してしまったような気がし、
地図の上に定規で線を引くように起承転結が始まる。
キャスターが床を滑る音、ガラガラと響く車輪の音とともに、
身体は部屋から運び出されていく。
疑問が泉のように湧き出し、胃袋の奥から這い上がってくる、
何とも言えない嫌悪感に襲われる。
まるで腹腔内の臓器を一つ一つ丁寧に引き摺り出されるような、
生理的な拒絶反応。待ってくれ、心の奥で叫んだ。
俺は患者ではない。
健康診断でも異常なしの判定を受けたばかり、だ。
骨を砕いてコンクリートに混ぜ込んでしまったように、
声は、届かな、い・・・・・・。
意識を地獄の底へと引きずり込―――む・・。
やめろおおおおお。
天井の蛍光灯が次々と視界を通り過ぎ、
光の帯が網膜に残像を残していく。
廊下の両側には扉が並び、その向こうから漏れ出る微かな光や音が、
まるで別世界への入り口のように見える。
移送の途中で、廊下の窓硝子に映った自分の姿が、
突然視界に飛び込んだ。
自分をおかしく見せる歪んだ鏡、奇妙な絵、傾いた壁、
地軸が傾き、引力の方向が変わったような気がする。
夜の鏡に映るのは、ごく上っ面で、相対的なものの象徴。
しかし、そこに映っていたのは後ろ向きの人影。
首が百八十度回転し、充血した兎のような赤い眼で、
こちらを見つめていて、
心臓が壊れる。
廃病院を徘徊する虚無の眼差し。
気付けば―――気付きたくない・・気付けば、気付けば、
人工的な景色が無限に拡がっている。
ヴァーチャルリアリティの世界のような、
現実感覚、空間配列、建築構造が四方八方にこぼれ出し、
無数の病人達が視界に入る。
おそらく―――おそらくなどない・・。
―――全員が死んでいる。
虚ろな瞳孔を宙に浮かべながら、魑魅魍魎や亡霊ではなく、
黴菌や緑青に覆われた甲虫類、あるいは警戒心の強い野生動物、
そんな生物学的な印象を与える。
その瞬間、声にならない悲鳴が咽喉の奥で詰まり、
気管に内視鏡でも挿入されているような息苦しさが襲い掛かる。
しかし、こんなのは―――こんなのは・・・。
遊園地のお化け屋敷でも許容される程度の演出、
それが何故こうまで恐ろしいのか。
ある種の真実が、消化器官を通って体内に吸収されていく感覚。
冷凍庫で凍結保存された魚のように、表情筋が麻痺し、
感情が氷漬けにされている。
だって―――。
そこに死の恐怖はない―――。
運び込まれた先は、白いタイルで覆われた手術室だった。
天井には巨大な無影灯が設置され、
その周囲には各種の医療機器が配置されている。
生体情報モニター、人工呼吸器、除細動器、
そして用途不明の機械類が所狭しと並んでいる。
心電図モニターのピッピッピッという規則的な音は、
生命活動の機械的監視を象徴し、
人間の生物学的脆弱性を意識化させ―――る・・。
弱々しいもの、淡い存在、消失しつつあるもの、
溜息混じりの生命体。
何百万という飢えた細胞に触れられる、
ぞっとするほど露骨な、医師の作り物めいた微笑。
手術台に移された周囲に、複数の人影が立ち並ぶ。
彼等の顔は手術用マスクで覆われ、眼だけがギラギラと光っている。
ゴム製の手袋をはめた手が、顔の上で何やら作業を始める。
カチャッという音とともに無影灯が点灯し、強烈な光が眼球を直撃する。
無数の光の矢で眼がくらみながら、
手術中に麻酔が切れたみたいな場面。
目蓋を閉じても、光は網膜を通り抜けて脳の奥まで達するかのような強さで、
スプラッター映画―――もういいじゃないか・・・、
どうしてそこまでやるんだ。
医師の手に握られたメスが、光を反射してキラリと光る。
刃先は完璧に研がれ、わずかな曇りもない鏡のような表面を持ち、
そのメスが―――やめてくれ・・そのメスが、
やめろおおおおお。
ゆっくりと自分の顔に近づいてくる。
瞳孔が極限まで収縮し、視界の中心にメスの刃先だけが鮮明に映し出され、
周囲のすべてがぼやけ、世界はそのメスの存在だけに集約されていく。
刃先が瞳に触れる直前、意識は恐怖の頂点に達する。
胃が痙攣し、全身の血管が収縮し、心臓が停止寸前まで追い込まれる。
眼球内部の構造が破壊されていく感覚が伝わってくる。
角膜が裂け、房水が流出し、水晶体が破裂する。
しかし恐ろしいことに―――やめてくれ・・・、
やめろおおおおお。
視力は失われない。メスが眼球を貫通し、後頭部まで達してなお、
すべてを鮮明に見続けることができる。
メドウゥサの首とも、ヨハネの首とも。
手術は眼球だけで終わらない。メスは頭蓋骨を切り開き、
生きたまま脳を摘出していく。
屠所で暴れる豚になることもできない。
大脳皮質、小脳、脳幹、すべてが順番に切り取られていく。
しかし意識だけは最後まで保たれ、
青っぽい宙のうちに地獄絵図は展開され、
自分の脳が解体されていく過程をすべて体験する。
もう力強い感情も、夢さえも、生の根拠さえもなかったのに、
終わらせてはくれな、い・・。
内臓の摘出も同様に行われた。
心臓、肺、肝臓、腎臓、すべてが生きたまま取り出される。
心臓が体外に取り出されてもまだ鼓動を続け、
肺が摘出されても呼吸の苦痛は続く。
痛覚神経だけは最後まで機能し続け、
すべての苦痛を感じ取る。
殺してくれ―――終わらせてくれ・・。
それでも悪夢は終わってくれなかった。
最後に、皮膚がゆっくりと剥がされていく。
生皮剥ぎの刑と同じように、皮膚が一枚一枚丁寧に剥がされる。
皮膚の下の筋肉組織、血管、神経がすべて露出し、
空気に触れるたびに激痛が走る。それでも死ぬことは許されず、
永遠に苦痛を味わい続けることになる。
―――そう。
――――――そう。
バッと眼を見開いた瞬間、
すべての悪夢的な光景が嘘のように消え去った、
砂嵐や鉄砲水が通り過ぎた後のように、
そこは慣れ親しんだ仮眠室の二段ベッドの上。
蛍光灯は消えたまま、窓の外から射し込む街灯の光だけが、
室内をぼんやりと照らしている。
しかし、安堵というのはなかった。
恐怖の記憶だけは鮮明に、克明に、詳細に、
完璧に残されて―――いる・・。
手術室の冷たい空気、消毒薬の匂い、メスの光る刃先。
次々と繰り出された残酷すぎる手術、否―――拷問・・。
それらすべてが、まるで実際に体験したかのような生々しさで、
記憶に刻まれていて、俺は小便を漏らしており、
身体を起こそうとすると、全身が汗でびっしょりと濡れていることに気付く。
シーツには人型の汗染みがくっきりと残り、枕も湿気を含んで重くなっている。
一瞬は出血多量で死ぬんじゃないかと―――信じられないだろ、う・・、
でもそうだった、イカロスの翼の比喩そのままに、
仮眠室の二段ベッドの上という、終わらしてほしい、
殺して欲しいとすら思ったのに、あまりの理不尽さに怒るどころか、
萎縮した欲望の壺の中でねじ曲がったりしている蛇のように、
あとにもさきにも、泣きそうな感情と、
燃え尽きた芯のようなものだけが残った。
感情は回復する兆しを見せず、発狂するのではないかという恐怖が、
洞窟の奥で腹を減らした熊のように息を潜めていた。
スローモーションの映画そのままに、
記憶の一齣一齣に恐怖は縫い付けられていた。
腹部を開腹し、そこに縫いぐるみを押し込むスプラッター映画のように、
恐怖は封印されている。
でも、夢ではない―――夢ではない・・、
―――そう。
――――――そう。
甲殻類の蟹のように這いずって起き上がり、
天井の蛍光灯スイッチに手を伸ばしながら、そう確信した。
電気をつけると、室内の状況が一変していた。
壁面には血文字で『死ね』『殺す』『地獄へ落ちろ』
といった呪詛のの言葉が書き殴られていた。
この血文字は眠っている間に書かれたもので、
血液の凝固状態から判断すると、
書かれてから三十分程度しか経過していない。
それに床面には濡れた足跡が無数についている。
足跡は部屋中を練り歩いた後、自分が寝ていたベッドの周りを、
何周もしているように見えた、たとえそうではなくとも、
眠っている間、何かが自分の周りを歩き回っていた。
冷静だった―――いや、冷静だったわけではない、
すでに気が半ば狂い、放心していたからだ。
異常な観察の現場ではそれ以外にすることがなかった、
記憶する事以外に時間を潰すことはできなかったのだ。
しかし、恐怖はあの地獄の最下層のごとき陥穽を体験してなお、
交点の鍵を発見する。接着される謎の鍵。増設されていく舞台装置。
まだ時空世界の扉が完全に閉じていない―――舞台。
何故なら、ドアが開いている。
そのドアには僅かなへこみ、まるで内側から何かが激しく叩いたような、
痕跡が発見できた。外部からの衝撃だと思っていたものが、
それは内側からの力によるもの・・・・・・。
ハッ、と流れ星のように去来する、
計り知れない感情の分泌液、黙示録的予言。
その瞬間、何かの気配を背後に感じ、振り返った。
見えていなかった、気付いていなかった、今しがたまで自分が、
眠っていた下段のベッドに、
狒々のような醜悪な顔をした白髪の老婆が座っている。
―――いた。
確実に、いた。
電気が消えた。時間感覚が手の隙間から鰻のようにするりと逃げ出し、
逃走を試みるが金縛り状態で、四肢が鉛のように重い。
先程よりもさらに強烈で、まるで全身を見えない鎖で、
縛り付けられたかのような感覚。
指一本動かすことができず、声を出すことも不可能だ。
そしてこれは明らかに現実だ。
ドアが雄叫びを上げるように激しく閉まり、
室内は密閉状態となり、空気が淀み始める。
次いで電話線が垂れ下がったような、耳障りな耳鳴り。
明らかに何かがゆっくりと接近してくる気配。
ズッズッ、すこ、ズッズッ、すこ、
体重を引き摺るような、跛行のような音響。
そして人間の声帯では出せない音域で、
聞く者の精神を破壊する息なのか、声なのか・・・。
腕が伸びてくるのが分かる。
分かった。
経験領域を拡大していく抽象を刺激する沈黙の渦巻きの中で、
悪夢的薄明りの中で、首を鼠捕りの仕掛けのように、
ぐりゅんと回転させて、白髪の老婆―――が、
老婆の顔は腐敗が進行し、頬の肉が垂れ下がって顎の骨が露出し、
眼球は眼窩から飛び出しており、視神経がぶら下がってゆらゆらと揺れ、
鼻の軟骨は溶解してなくなり、鼻腔の奥の頭蓋骨が見え。
口の中には歯がなく、代わりに錆びた釘が生え。
舌は黒く変色して腐敗し、口の中から蛆虫が這い出し。
口が開くたびに蛆虫がぽろぽろと床に落ち、
床を這いまわって足元に向かってくる。
老婆の身体からは、死体特有の腐敗ガスが噴出し、
皮膚の下でガスが溜まり、風船のように膨れ上がった部分が破裂すると、
中から緑色の膿と血液が噴き出す。
向き合った時、背骨が折れる音がメキメキと響く。
首の皮膚が裂け、中から這い出してくるのは数十匹のゴキブリだった。
ゴキブリ達は老婆の体内に巣を作っており、
彼女の肉を食い荒らしながら繁殖を続けているのだ。
、、、 、、、、、、
喋った―――聞こえたのだ、
「助けて、痛いの」
と言った。
口をあんぐりと、
開けたまま―――開けたまま・・。
―――まゆつば。
―――まゆつばを溶解させる塩。
―――かたつむりを溶かす塩。
*
【2階:IT関連会社】
エレベーターの異常停止
証言者:プログラマー 佐藤美香(27歳)
勤務先:2階 株式会社デジタルソリューション
証言日:2024年2月20日
私がこの建物で働き始めたのは2023年4月からです。
最初の数ヶ月は何も気づかなかったんですが、
8月の終わり頃から、エレベーターがおかしくなり始めました。
一番最初に気づいたのは、
エレベーターが勝手に地下に止まることでした。
私は2階で働いてるので、普通は1階のボタンしか押さないんです。
でも、時々地下階のボタンが光って、
エレベーターが地下まで降りていく。
地下のドアが開くと、すごく冷たい空気が流れ込んできます。
8月の暑い時期なのに、息が白くなるくらい冷たくて。
匂いも変なんです。消毒薬みたいな匂いと、
何か甘ったるい腐ったような匂いが混じってる。
でも一番怖いのは、地下のフロアが薄暗いことです。
照明はついてるはずなのに、なぜか暗くて、奥の方が見えない。
そして時々、奥の方で白い影がゆらゆら動いてるのが見えるんです。
最初は清掃の人かなと思ったんですが、動き方が変で。
普通の人間の歩き方じゃないんです。
ふわふわ浮いてるような、足音がしないような。
9月に入ってからは、もっとひどくなりました。
エレベーターに乗ると、押してもいないのに地下のボタンが光る。
そして必ず地下に止まる。
ドアが開いて、誰も乗って来ないのに、
エレベーターの重量が増える。床が少し沈むんです。
一度、勇気を出して地下を覗いてみました。
そしたら、廊下の向こうに白衣を着た人が立ってるのが見えて。
でも顔が見えなくて、頭のところだけ真っ暗で。
その人がゆっくりとこちらに歩いてきたので、慌ててドアを閉めました。
最近は、エレベーターを使うのが怖くて、階段を使ってます。
でも階段も変なんです。下から上がってくる風が冷たくて、
時々誰かの話し声が聞こえる。
「助けて」とか「痛い」とか、すごく弱々しい声で。
同僚に話しても、みんな「気のせいだよ」って言うんですが、
私は確実に体験してます。この建物、何かおかしいです。
【3階:経理事務所】
タクシーの異常な乗客
証言者:経理事務員 田村正夫(45歳)
勤務先:3階 田村経理事務所
証言日:2024年1月15日
うちの事務所は建物の3階にあるんですが、
窓から下のタクシーの駐車場がよく見えるんです。
仕事で疲れた時、よく窓から外を眺めて息抜きしてました。
去年の夏頃から、変なことに気づき始めました。
タクシーの後部座席に、お客さんじゃない人が乗ってるんです。
最初に見た時は、運転手さんが休憩中なのに、
後ろに誰か座ってるなあ、と思ったんです。
でもよく見ると、その人、動かないんです。
人形かなとも思ったんですが、人形にしては妙にリアルで。
それが8月の終わり頃から、頻繁に見るようになりました。
色んなタクシーの後部座席に、白い服を着た人が座ってるんです。
老人もいれば、若い人もいる。
服装で大体分かります。
でもみんな、顔が見えないんです。
髪の毛で隠れてるのか、俯いてるのか。
一番怖かったのは、9月の夜残業してた時のことです。
もう夜の10時過ぎで、駐車場には3台くらいしか、
タクシーが止まってなかった。
その全部に、白い人が乗ってたんです。
しかも、その人達が一斉にこちらを向いたんです。
顔は見えないのに、こちらを見てるのがわかる。
ぞっとして、慌ててブラインドを閉めました。
最近は、昼間でも見るようになりました。
運転手さんがお客さんを乗せて出発した後、後部座席にもう一人、
白い人が座ってるんです。
運転手さんは気付いてないみたいですが。
同業者の友人に話したら、
「疲れてるんじゃないか」って言われました。
でも、私以外にも見てる人がいるはずです。
うちの事務員の山田さんも、
「最近タクシーの乗客、変な人多いですね」って言ってましたから。
ただそれが何なのかまではまだ気付いてみたいですけど。
あと、気になることがもう一つ。
タクシーが帰ってくる時、何故か台数が合わないんです。
朝に5台出たのに、夜に6台帰ってくる。
でも翌朝には、また5台しかない。どういうことなんでしょうか。
*
実を言うとドアのへこみの件で事務員から聞いたのだが、
本当に対岸の火事みたいなことだけど、
初代はそもそも仮眠室を使わせるつもりはなかったらしい。
炎のチャレンジャーという昔のバラエティ番組の名前が不意に思い出される。
それでも冗談半分で入る人がいて辞める人まで現れたらしく、
ごつい南京錠に、針金でガチガチにして、
もう誰も入らせないようにしたらしい。
ただそうすると、初代は三年で胃癌により死亡し、
副社長は交通事故、専務は首吊り自殺、常務は心筋梗塞となって、
二代目の所長が金さえ払えば何でも払ってくれる、
業界でも噂の悪い、でも実力だけは確かな祓い屋に相談したらしい。
さすがの祓い屋も一秒でもいてはいけない場所といったらしいが、
最後には、
「多少の犠牲に眼を瞑れば、守ってやれる」といったのだそうだ。
百数十万の行方がそこへ行っているらしいが、
はたしてその多少の犠牲とは何なのかと思う。
やりすぎコージ―だ。
また、本当にそんな奴の話を鵜呑みにしてよいのかという気もする。
もしかしたら残虐な人体実験が行われていたのかも知れないと思うが、
聞けば聞くほど―――知れば知るほど・・。
一度はあの仮眠室で電線から青い火花が散り、
電気配線が生きた蛇のようにうねり始め、
コンセントからは硫黄の匂いのする黄色い煙が噴出し、
壁の中の電線が焼け焦げる音がパチパチと響いたなんていう、
どんなお化け屋敷のやりすぎのギャグなんだろうみたいなことが、
起こったらしい。
失笑しないか、呆れてこないか、
この異常な電気現象により、電子機器が次々と爆発したらしい。
そしてそれを見ていた人(現副社長、現専務、現常務)が、
みんな揃いも揃って口を噤んでいるらしい。
―――会社って、闇だよなと思う。
だってそんなことよりもっと、
(ねえわかるだろ?)
だってそうじゃないだろうもっと、
(お前だって知ってんだろ?)
想いながら、感じながら、
通路に監視カメラがつけられて、
撤去されるみたいなことがあった。
呼びだされて所長ともども画像を見て、
血の気が引いた。
まあ、いっぱいこの世のものではない、
あらぬものが映っていた。
しかも、一日とか二日とかではない、
偶然の産物、まあ何年もあれば一回ぐらいあるだろう、
とかそういうニュアンスでは断じて、ない。
毎日。
もはや、後戻りできない感じの、毎日。
こんな感じだから、おそらく、あの仮眠室なんかに、
監視カメラを入れたら想像を絶することが、
待っているに違いない。
―――でも、絶対そうしない。
―――だって、それでは、会社が成立しない。
所長からお見舞金と称した口止め料をいただき、
口を噤む、大人の世界ではよくあることだ。
何も知らないというのは、やはり、いいことだと思う。
公衆衛生取締法というやつだ。
動物的本能というのがそれだけ麻痺しているからこそ、
人はこんなにも鈍感に生きていられるのだ。
ずぶずぶのでろでろになりながら、直感を無視した挙げ句、
人が本来のものから遠く離れてゆく社会が出来上がる。
それを、誰も疑わない、と思う。
―――そう。
――――――そう。
*
【4階:デザイン会社】
音響異常と創作への影響
証言者:グラフィックデザイナー 鈴木あかね(31歳)
勤務先:4階 クリエイティブデザイン株式会社
証言日:2024年2月5日
私たちの職場は創作活動が中心なので、
集中力がとても大切なんです。
でも去年の夏頃から、集中を妨げる音が聞こえるようになりました。
最初は工事の音かと思ったんです。
コンコンと壁を叩くような音、ゴトゴトと重いものを引きずるような音。
でも建物の周りを見ても、工事はしてない。
その内、もっと変な音が聞こえるようになりました。
足音なんですが、人間の歩き方じゃないんです。
ペタペタと、まるで裸足で歩いてるような音。
しかも不規則で、時々止まったり、急に速くなったり。
9月に入ってからは、さらにひどくなりました。
夜遅くまで残業してると、下の階から呻き声が聞こえてくるんです。
「うーん、うーん」って、苦しそうな声で。
最初は誰かが具合悪いのかと思って、
下の階に行ってみたんですが、誰もいませんでした。
でも一番困るのは、これらの音が私たちの創作活動に影響することです。
音を聞いてると、なぜか病院とか、手術とか、
そういうイメージが頭に浮かんでくるんです。
デザインの仕事をしてても、気がつくと血の色を多用してたり、
メスとか注射器とかの医療器具を描いてたり。
クライアントから「なんでこんなに怖いデザインなんですか?」
って聞かれることが増えました。
同僚の田中くんは、音楽制作もやってるんですが、
彼も変な影響を受けてます。最近作った曲、全部短調で、
すごく暗くて重い感じなんです。
本人も「なんでこんな曲しか作れないんだろう」って悩んでます。
あと、コンピューターの調子もおかしいです。
画面に時々ノイズが入って、一瞬だけ変な画像が映るんです。
白衣を着た人とか、手術室みたいな場所とか。
すぐに消えるので、同僚に見せることはできないんですが。
最近は、昼間でも音が聞こえるようになりました。
特にお昼休みの時間帯、みんながお弁当を食べてる時に、
下から「ガタガタ」って激しい音が聞こえてくる。
まるで誰かが暴れてるような音です。
この建物、絶対何かあります。でも引っ越すお金もないし、
我慢するしかないんですが、正直限界です。
【5階:法律事務所】
文書の異常と電話の怪
証言者:弁護士 高橋宏一(52歳)
勤務先:5階 高橋法律事務所
証言日:2024年2月28日
私は長年弁護士をやっており、超常現象などは一切信じない性質です。
しかし、この建物で起きている現象については、
合理的な説明がつかず、困惑しています。
最初に異常に気づいたのは、去年の9月です。
医療事故の案件で準備書面を作成していた時、
何故か文書の内容が勝手に変わっていました。
私は「被告病院の過失により」と書いたはずなのに、
保存されたファイルには「患者の霊により」と書かれている。
最初はタイプミスかと思ったのですが、何度修正しても同じことが起きる。
さらに不可解なのは、医療関係の案件の時だけ、
この現象が起きることです。
離婚調停や相続問題の書類では、一切問題ありません。
10月に入ってからは、電話の異常も始まりました。
深夜に事務所の電話が鳴るんです。
出てみると、向こうから微かに声が聞こえる。
「先生、助けてください」「痛いです」「死にたくないです」
といった、患者さんのような声です。
しかし、通話記録を確認しても、その時間帯の着信履歴はありません。
電話会社に問い合わせても、「異常は見つからない」との回答です。
11月のある夜、特に奇怪な体験をしました。
医療過誤の裁判準備で遅くまで残業していた時、
突然電話が鳴りました。
出てみると、聞こえてきたのは手術室のような音でした。
機械の音、医師の指示の声、患者の苦痛の声。
まるで手術が行われているような音響でした。
慌てて電話を切ったのですが、切った後も部屋にその音が響いていました。
12月からは、さらに深刻な問題が発生しています。
私が担当している医療事故の案件で、なぜか敗訴が続いているんです。
証拠も揃っているし、法的根拠も明確なのに、裁判官の心証が悪い。
一番ひどかったのは、先月の案件です。
明らかに病院側の過失なのに、判決文には、
「原告の主張は非現実的であり、採用できない」と書かれていました。
まるで超常現象を主張したかのような扱いです。
そして昨日、決定的な体験をしました。
深夜に事務所で書類を整理していた時、
突然部屋の温度が下がったんです。息が白くなるほど冷たくなって、
そして机の上の書類が勝手に捲れ始めました。
風もないのに、ページが次々と捲れて、
最終的に開かれたのは医療事故の判例集でした。
そのページには、赤いペンで「諦めろ」と書かれていました。
私の筆跡ではありません。
もう限界です。この事務所を移転することを決めました。
しかし、移転先の物件を探していると、
不動産業者から、
「この建物にいた方は、皆さん同じようなことをおっしゃいますね」
と言われました。
つまり、私だけではないということです。
この建物には、何か人間の理解を超えた現象が起きているのかもしれません。
【エレベーター保守会社】
技術者の報告書
日時:2024年1月10日
作成者:エレベーター保守技師 三井
件名:◯◯ビルエレベーター異常動作について
標記建物のエレベーター(昇降機番号:EV-001)について、
利用者からの異常報告が相次いでいるため、緊急点検を実施しました。
報告された異常:
・指定していない階(特に地下階)への自動停止
・重量センサーの誤作動(人が乗っていないのに重量増加)
・内部温度の異常低下
・操作盤ボタンの勝手な点灯
点検結果:
・制御システム:異常なし
・重量センサー:正常作動
・温度調節システム:正常作動
・電気系統:異常なし
・機械系統:異常なし
所見:
技術的には一切の異常は発見されませんでした。
しかし、点検中に以下の現象を確認:
・地下階停止時の庫内温度が、設定温度より5-8度低下
・重量センサーが断続的に70-80kgの重量増加を検知
・地下階のドア開放時、異常な臭気を確認
これらの現象について、技術的な説明は困難です。
建物管理者と協議の上、さらなる詳細調査が必要と思われます。
なお、点検作業員2名が作業中に体調不良を訴え、早退しています。
【清掃会社】
作業員の日報
清掃会社:株式会社クリーンサービス
作業員:山下(夜間清掃担当)
作業期間:2023年8月~12月
8月15日
新しい現場。5階建てのオフィスビル。
1階と地下がタクシー会社、2-5階が各種事務所。
夜間清掃のため、夜10時から作業開始。
特に問題なし。ただし地下の清掃時、異常に冷たい。
エアコンが効きすぎているのかも。
8月22日
地下清掃中、変な匂いがする。消毒薬のような匂いと、
何か腐ったような匂い。清掃用具の洗浄を念入りに行う。
9月5日
エレベーター清掃中、勝手に地下に降りる。
故障かと思ったが、翌日は正常。
9月12日
夜中の2時頃、4階から足音が聞こえる。
残業している人がいるのかと思ったが、電気は消えている。
9月19日
地下清掃中、奥の部屋から音がする。
ガタガタと何かを引きずるような音。鍵がかかっているので確認できず。
9月26日
3階の窓清掃中、下の駐車場のタクシーに人影が見える。
でも運転手は建物内にいるはず。見間違いかも。
10月3日
2階のゴミ箱から血のついたティッシュ。
量が多い。誰か怪我をしたのか?
10月10日
エレベーター内の清掃中、床に水溜まり。
しかし水道管の異常はなし。水は異常に冷たく、触ると指が痺れる。
10月17日
夜中に電話が鳴る。誰も答えないので鳴り続ける。
5階の法律事務所からの音のようだが、電気は消えている。
10月24日
地下で作業中、白い影が通り過ぎる。
追いかけてみたが、誰もいない。
10月31日
4階で清掃中、コンピューターの画面が勝手につく。
画面には白衣を着た人の写真。すぐに消える。
11月7日
全フロアで異常に冷たい。
暖房をつけても温度が上がらない。息が白くなるほど。
11月14日
地下の清掃を拒否。
同僚の佐々木も「あの階は無理」と言っている。
11月21日
会社に地下清掃の免除を申請。
理由は「作業環境の安全性に問題」。
12月1日
この現場からの撤退が決定。
理由は作業員の体調不良多発。
12月15日
最後の作業日。地下には一切立ち入らず。
それでも、奥の方から呻き声が聞こえてくる。
もうこの建物には二度と来たくない。
*
そういえば、あの日のあとに、スマホを確認していたら、
アドレス不明のメールが一通入っていた。
全身に鳥肌が立った。
だれだ、おまえは。
そう書かれていた。こっちが言いたい。
おまえこそ、だれだ。
ちなみに、まだ、タクシー会社を辞めていない。
何処かで重篤な患者が酸素を求めてあえいでいるような、
苦しげな息遣いはする。
闇の中で、何かが近づいてくる気配を感じる。
ズッズッ、すこ、ズッズッ、すこ、という奇妙な音。
気が付くと、電気的な拘束。
身体に高圧電流が流れ、筋肉が痙攣しながら固まっていく。
まるで片足を引きずりながら歩いているような、不規則なリズムの足音。
その音は徐々に近づいてくる。
床板がきしむ音、衣擦れの音、そして重い呼吸音。
酸素濃度は急激に低下し、数十分以内に窒息死するような、空気。
やがて、顔の上に影が差す。暗闇の中でも感じ取れる存在感、体温、
そして独特の匂い。薬品と腐敗が混じり合ったような、
生理的嫌悪感を催す匂い。
腕が伸びてくるのが分かる、関節の音、筋肉の収縮音、
そして皮膚が擦れ合う音。
すべてが異常に鮮明に聞こえ、
まるで自分の身体の一部であるかのような錯覚を覚える。
(所長が亡くなって三代目が就任した、)
首がグリュンと不自然な角度に曲がる音が響いた。
骨が軋む音、筋肉が引き伸ばされる音、そして皮膚が裂ける音。
―――鬼婆、山姥、土蜘蛛の老婆形態、魔女、ヘカテー。
その口から発せられた言葉は、
まるで地の底から響いてくるような低い声だった。
いつ気付いたのだろう、「助けて、痛いの」という声は、
数百人の死者たちの合唱だ、と。
病院で死亡した患者たち全員が、
あるいは江戸時代の大量埋葬地の全員が、
同時に助けを求めて叫んでいる。彼等の声が重なり合い、
一つの巨大な絶望の叫びとなって響いて、
男性、女性、子供、赤ん坊、あらゆる年齢の声が混在し、
しかも全員が死の瞬間の苦痛を味わいながら叫び、
声に込められた苦悩の深さは人間の理解を超えている。
老婆の首がぐるんと回転する時の音は、首の骨が砕ける音。
頸椎が一つずつ折れていく音が、メキメキと不気味に響く。
しかし首が完全に折れても、
頭部は宙に浮いたまま回転を続ける
今度は逃げられるだろうか、耳元に聞こえる。
「助けて、痛いの」
都市の黙示録 かもめ7440 @kamome7440
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