病白と友

紙の妖精さん

病白の友

学校のプールの水は、昼下がりの光を受けて銀色に揺れていた。

リンは泳げないのに、友達に誘われて深いコースに足を踏み入れてしまう。

水の中で、足は床に届かず、手をばたつかせても水面が遠い。


息が詰まり、胸がひりつくように痛む。

口に水が入る。咳き込みながら顔を上げようとするが、水は冷たく重く、体は言うことを聞かない。

周りの声が歪んで届く――笑い声も、呼びかけも、誰かの手が伸びてくる感覚も、全部遠くで水が揺れるように消えていく。


体が水底に引かれる感覚と、手足のもどかしい動き。

そして、視界がぼやけ、意識が遠くへ飛んでいく――気づけば、世界は真っ白になった。


水が重くのしかかる。足は底に届かず、手をばたつかせても水面は遠い。

息が詰まり、口に水が入るたび、意識は少しずつ遠くへ引かれる。


その瞬間、目の奥に色と光の断片が浮かぶ――

夏の海、家族とバカンスで乗ったヨットの白い帆。

青い空と深い海の境界、風に揺れる自分の髪と笑う友達の顔。

広くて、澄んでいて、怖くない場所。泳げないのに、なぜか海は好きだった。


水に沈む体は重く、呼吸は途切れ途切れ。

「なんでこんなに好きなのに、泳げないんだろう」

心の奥でつぶやく声と、フラッシュバックの光景が交錯する。


意識がさらに遠のき、世界は水と光と青で溶けていく――


水の中で青と光の断片が揺れる――次の瞬間、強い手が肩を掴んだ感覚。


「大丈夫か!」

聞き覚えのある声が遠くで響く。水面に顔を出すと、ライフガードの腕が自分を支えていた。

口の中の水を吐き出しながら、リンは咳き込み、冷たい空気を肺に取り込む。


腕に力が入らず、体はまだふわふわと浮いている感覚。

水の外の世界は強い光に満ち、周りで叫ぶ友達や教師の顔がぼんやりと見えた。


「もう大丈夫、しっかりつかまって!」

別の手が腰に回され、やっとプールサイドへ引き上げられる。


冷たいタオルに包まれ、震える体を抱きしめながら、リンは心の中で静かに思った。

――泳げないのに、どうして海や空がこんなに好きなんだろう。



気がつくと、白い天井が目に入った。

腕には点滴のチューブがつながれていて、微かに冷たい。誰もいない病室には、静かな機械の音だけが響いていた。

「……私、プールで、もしかして……溺れたの?」

かすかに思い出す水の冷たさと、沈む感覚。まだ胸がぎゅっとする。


枕元には、小さな紙袋とメモが置かれていた。

『菓子パンです。食べてください』

チューブを気にしながら、リンはパンを手に取る。

「……点滴、外してくれないかな。針、ちょっと痛い」

ぼんやりとつぶやきながら、パンをかじる。甘さと温さ。


その間、家族は病院のスタッフと泊まるか帰るかの話し合いをしていた。

二時間ほど前に、「もう泊まらなくても大丈夫」という結論で、家族は帰宅。


そして三時間後、リンは病院で退院の準備を整え、少し不安げに病室の窓の外を眺めていた。

ちょうどそのタイミングで、車のエンジン音が遠くから聞こえた。

「ヘレン……」

大学生の友人、ヘレン・ルー・ブラックが迎えに来てくれたのだ。


病院の駐車場。ライトに照らされたアスファルトが、湿った夜の空気に反射して光っていた。

ヘレンの車は黒いセダンで、助手席のドアが静かに開く。

「リン、乗って」

ヘレンは微笑みながら手を差し伸べる。リンは小さくうなずき、足を乗せてシートに収まった。


ドアが閉まると、外の病院の明かりが後ろに流れる。

エンジンの振動が、胸にじんわり伝わる。

「あの……泳げないのに、なんで海が好きなんだろうね」

リンは小さな声でつぶやく。

「そうね、でもそれがリンらしいところでしょ」

ヘレンはラジオのスイッチを入れ、静かな音楽が車内に流れる。


ヘレンの車は病院の駐車場を出ると、夜の街路を静かに進んだ。

窓の外は街灯の光にぼんやり照らされ、黒い影が揺れる。

リンは助手席に座り、まだ手に少し震えが残る。


「……、変な感じ。まだ水の中にいるみたい」

リンはつぶやく。頭の中には、プールの冷たい水と、バカンスでヨットに乗った青い海の光景が交錯する。


ヘレンはハンドルを握りながら、にっこり笑う。

「そうね。でも、私はリンとこうして一緒にいるから大丈夫」


短い沈黙のあと、リンは口を開く。

「死っていうのは、理想の世界に到達することだと思ってた」


「うん」

「だけど、気がついたらベッドの上……」

「地球に帰還、おめでとう」


「それ、皮肉ですか」

「まあ、そうとも言うかな」


「私が死んだと思ったでしょ」

「そういう風には聞かされてなかったけど、もしそうだったとしても、私はあなたの友達であることには変わりないから」


リンはふっと笑った。



しばらく沈黙が続いた。

車内は静かで、外の夜風が少し染みるように感じられ、なんとなく空気が冷たい。

リンは窓の外をぼんやり眺めながら、言葉を探していた。


「ガソリン、ちょっと足りないからスタンド寄るけど、いいかな?」

ヘレンがナビを操作しながら声をかける。

リンは小さくうなずいた。


ヘレンがナビでガソリンスタンドを見つけると、すぐにスタートを押した。

車はナビの指示通りに曲がり、夜道を滑るように進む。

遠くに赤や白の光が見えてきて、やがてスタンドの明かりが車の前に広がった。


隣にはコンビニの明るい灯りもある。

昼間なら気にならない光景も、夜の静かな街から飛び込むと、二人は少しだけ気後れしてしまった。

「……停めるの?」

リンが小声でつぶやく。

「ここでいいみたい」

ヘレンはにっこり笑うが、二人の間にはまだ沈黙の余韻が残っていた。


車を停めると、スタンドの明かりが夜の闇を切り取るように周囲を照らした。



ヘレンが車にガソリンを入れている間、リンはコンビニの中へ入った。

雑誌コーナーに足を止め、ファッション雑誌をペラペラとめくる。

ページをめくる指先に、何気ない日常の感触が戻ってくるようで……。


しばらくしてヘレンが給油を終え、コンビニに入ってきた。

「リン、何か買う?」

「うーん、じゃあ……」


二人はそれぞれ選び始める。

リンはポテトチップス、ポップコーン、グミを手に取り、飲み物はレモンティーとコーラ。

ヘレンはコンビニのバリスタマシンで、少し贅沢なプレミアムコーヒーを買う。


お菓子の袋やカップの手触りが、痛い。


ガソリンスタンドを離れて、車は10分ほど走った。

夜道の街灯が途切れ、暗く広がる空の下、やがて大きな公園が見えてきた。

リンの家はこの公園の近くにあり、彼女は助手席からそっとつぶやく。

「ここでお菓子食べたいな」


ヘレンはにっこり笑い、駐車場の切符を買うと、広々とした公園の駐車場に車を滑り込ませた。

ライトに照らされる舗装の広がりは、どこまでも静かで、夜の風が少しひんやりと肌を撫でる。


「ここで小休憩しよう」

車内に置かれたお菓子を手に、リンはほっと息をついた。

夜の静寂。広い駐車場に車を止めると、リンは助手席からバッグを開き、お菓子の袋を取り出した。

「ちょっとだけ……」

ポテトチップスをつまみ、グミをひとつ口に入れる。レモンティーを一口。

夜の空気はひんやり冷たい


ヘレンは自分のコーヒーを手に、静かに笑った。

「こうして二人で夜に車の中でお菓子食べるなんて、ちょっと不思議な感じね」

「うん……」

リンの声は少し震えていたが、目は柔らかく外の暗闇を眺めている。


しばらくの沈黙のあと、リンが小さくつぶやいた。

「ねえ、ヘレン……」

「ん?」

「私は…海や青い空が好きなんだ」

ヘレンは静かにうなずく。

「広い場所が好きなんだよね。でも、私にはこの世界は狭すぎる。特に学校とか……」

「わかる」


リンはポテトチップスをもう一口かじり、微かに笑った。



そして再び、リンの声が小さく重く響いた。

「自分の人生、終わらないかな」


ヘレンは沈黙する。


「多分……それは全てなんだと思う」

「うん」


「どこかの駅のコンコースから飛び降りて終わり。それが私の終わりなんだと思う。死んで終わり」

「うん」


「虚しいのは、いつまで」

「さあ?」


「自分の人生を閉じることは、自分が動かなければ閉じない」

「それはわからない」

「?」

「人生とは?」

「死ぬまでが自分の人生なのだと思う」

「それは違うかな」

「なぜ?」


ヘレンはコーヒーを手に、窓の外の夜の闇を見つめた。

「例えば、リンが死んだとしても、私たちは生きている。あなたの親も、友達も。そしてその中で、あなたが生きている、私たちの記憶の中で生き続ける。記憶を消さない限り、ある意味死なないとも言える」


リンは少し驚き、目をそらす。

「……」


「そして、あなたの死はあなただけの死ではなく、周りの人間の中での死でもある」

ヘレンの声は静かで、でも確かな温度があった。


リンはグミを口に入れながら、ぽつりとつぶやく。

「死への願望の成就が私の幸せなの…そのはず……」


ヘレンは窓の外を見つめながら、低く言った。

「その幸せが、私やみんなの幸せとは限らない」


沈黙の中、リンは小さく息をつき、レモンティーを傾ける。


「……ヘレン、ありがとう」

「良き」


リンはうなずき、微かに笑った。

夜の広い駐車場に停まったまま、暗さの中に明かりが柔らかく広がっていた。



リンはポテトチップスをつまみ、グミを口に入れ、レモンティーをゆっくりと飲む。

夜の空気に包まれながら、手元のお菓子と温かい飲み物。


「ちょっと外で吸ってくるね」

ヘレンがそう言い、車のドアを開けて夜の冷たい空気に足を踏み出す。

タバコを取り出す音が、静かな駐車場にわずかに響く。


リンは車の中にひとり残され、窓越しにヘレンの姿を見つめる。

外の暗さと広さが、心の中にぽつりと空いた空間と重なる。

静けさの中で、リンはしばらく何も言わず、ただお菓子をかじりながら、深呼吸をした。


リンは車の中で、お菓子を手に取りながらヘレンを見た。

タバコを吸うヘレンの姿は、夜の光に照らされて大人っぽく見える。

自分はお菓子をむしゃむしゃ食べているだけで……なんだか、ちょっと子供っぽく感じた。


リンはお菓子をしまい、車からそっと降りた。

「ねえ、私も……」

ヘレンはタバコをくゆらせながら、夜の空をぼんやり見つめている。


「私も吸いたい」

ヘレンはさっとポケットからタバコを一本差し出す。


リンはタバコをくわえてみる。

「あれ……火は?」

「ダメー」

ヘレンは笑いながら首を振る。


リンはタバコを口にくわえたまま、ちょっと大人ぶったポーズで立っている。


ヘレンは微笑みながら、タバコを口にくわえたリンを見つめた。

「そのポーズ、なんか可愛いけど……火がないと意味ない」

リンは少し照れたように笑う。

「そっか……大人ぶろうと思ったのに」

「大丈夫、十分大人っぽく見えるよ」とヘレンは肩をすくめる。


二人は思わず笑い合った。

夜の静けさの中で、笑い声は小さく響く。


リンはタバコをヘレンに返し、再び車に戻る。

ヘレンも外の空気を吸い終え、車に戻ってドアを閉めると、夜の駐車場は再び二人だけの世界になった。


「家に帰ろ」

「うん」

リンはシートに腰を下ろし、窓の外の夜景を見つめる。

お菓子の甘さと夜の冷たさが混ざり合った時間。ヘレンがエンジンをかけ、車は再び夜の道へと走り出した。

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