4章 熱狂と波紋
第1話
公開から二週間。映画『怪人二十面相』の勢いは、誰の予想をも超えていた。
封切り直後の週末興行収入は初動7億円。大作とは言えない規模の映画で堅実を超えた好調な出足――それが製作委員会の共通認識だった。
しかし、翌週にかけて数字は伸びた。SNS上での口コミ、特に若年層の投稿が爆発的に拡散したのだ。
「#三浦なお 小林少年」「#早乙女真 怪盗の涙」
ハッシュタグが連日トレンド上位に入り、TikTokでは主題歌のサビと共に劇中のワンシーンを真似る“探偵ポーズチャレンジ”まで生まれた。
その波はやがて映画館の動員数を押し上げ、封切りから10日目の時点で累計興行収入はすでに25億円を突破していた。
都内・丸の内ピカデリー。
如月昴は、上映終了後のロビーで足を止めた。
客席からあふれ出す観客たちは、誰もが高揚した表情でスマートフォンを手にしている。年配客も多いが、やはり目立つのは制服姿の高校生や若い女性客だ。
上映後の余韻が、まるで祭りのように熱を帯びていた。
――三浦なおの小林少年が、観客の心を捉えている。
そのことを、昴は確信していた。
「……本当に、すごいことになってきたな」
つぶやいた声は、歓声にかき消された。
昴はボディガードとして、公開後もなおの周囲を警護していた。
主演交代という波乱を乗り越えて完成した作品が、今や国民的な注目を集めつつある――その事実が、昴の胸に静かな誇りを灯していた。
製作委員会は、週明けの緊急会議を開いた。
都内の高層ビルにある会議室。長机を囲むプロデューサー陣と配給会社「アストレイ・ピクチャーズ」、広告代理店、そして監督の姿があった。
テーブル中央には最新の興行データが映し出されている。
「二週目の土日で興収12億。累計50億。観客動員は300万人を突破しました」
集計担当の報告に、室内の空気がざわつく。
「伸び率が異常だ……」
「口コミ系の伸び方だな。客層が広がっている」
「中高生、それに女性層。SNSで“泣けるミステリー”ってタグが付いてる」
監督・城田は、腕を組んで無言のまま資料を見つめていた。
彼の目に宿るのは驚きよりも、安堵に近い光だった。
「……本当に、続けてよかった」
小さくつぶやいた声は、隣にいた主演の佐倉陽介の耳にも届いた。
佐倉は冷静な表情でうなずいた。
「作品そのものの力ですよ。誰のスキャンダルでも、映画の真実は消せない」
あの説得会議の日から、まだ一ヶ月も経っていない。
制作側は主演交代の混乱で一度は暗礁に乗り上げたが、キャストとスタッフの総意で再出発を決めた。
あの決断が、今こうして結果に結びつきつつある。
城田監督は、配給担当者に顔を向けた。
「IMAX館を増やせませんか?」
「はい、検討中です。アルトシネマさんからもリクエストが来ています。地方館のリクエストも殺到中です」
「週末には上映回数を倍増させよう」
議論は熱を帯び、会議室の空気が急速に高揚していく。
ある出資社の代表が言った。
「このペースなら、『風の彼方の約束』を超えるかもしれません」
「まさか、そんな――」
「いや、可能性はある。口コミの勢いは『黎明の剣』級だ。上映回数さえ確保できれば……」
夢物語のような数字が飛び交う中、佐倉だけは一歩引いた目でそれを見つめていた。
彼は浮かれた雰囲気の中で、ひとり冷静にメモを取りながら考える。
――このブームが長く続くほど、なおへの重圧も増していく。
彼女はいま、単なる子役や新人女優の枠を超えようとしている。三浦なお――まだ中学生の少女が抜擢された。それが今、奇跡のキャスティングと呼ばれている。
昴はその日の夜、なおのマネージャーと共に控室の前で立ち話をしていた。
「明日の朝、情報番組の収録が増えました」
「またか……」
「出演は控えめにしても、映像だけは使われるようです。映画の“新しいヒーロー像”として」
昴はうなずき、深く息を吐いた。
なお本人は、まだ状況を完全には理解していないように見える。
だが、彼女の演技に心を奪われた観客たちの感想を読むたびに、昴の胸は熱くなる。
――これは、ただのヒットじゃない。彼女の存在が、時代の空気を変えている。
翌朝。芸能ニュースは一斉に報じた。
> 『怪人二十面相』興収50億円突破!
> 公開からわずか13日で達成、観客動員350万人。
> SNSで「令和の小林少年」「探偵映画の再来」など称賛の声。
記事を読んだ昴は、スマホを静かに閉じた。
警護スケジュールの再調整をしながら、ふと窓の外に目をやる。秋晴れの東京の空が、やけに眩しく感じられた。
――守るべきものが、また大きくなっていく。
劇場の前には、公開三週目にもかかわらず長蛇の列ができている。
制服姿の少女たちがパンフレットを抱え、満席の札を見上げて歓声を上げた。
その喧騒を遠くから見つめながら、昴は胸の奥で静かに思う。
この映画の奇跡は、まだ始まったばかりだ。
だが、奇跡の光には必ず影が伴う――。
その予感を、昴はかすかに感じていた。
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