第42話暗き深海の底で揺蕩う
≪光希視点≫
どれほどの時間眠っていたのだろう。ゆりかごに揺られる赤子のように、恐怖も怒りもなく、ただ海に漂っていた。それに不快感があるわけでもなく、懐かしさすら感じる
しかし、僕が受け入れることはなかった。それを阻むものがいたからだ。
「おっ、起きたか兄弟!!」
一筋の光すらも届かぬ暗闇にそぐわぬ声が頭上から降ってくる。その声はこの陰鬱な海の底には似合わないものだった。
『鏡幻、お前はどうしてここにいるんだ?』
その言葉を口にしようとしても、声が出ない。もう一回声を出そうとしても、そもそも口が動いている間隔すらない。
「お前、今とんでもないことになってるの、分かるかぁ?」
その声は鮮明に聞こえるのに、目に映るのは冷たい暗闇だけだ。
声は最初こそ愉快に弾んでいたが、やがて氷の刃へと変わっていた。彼がどんな状態なのかを僕は声のみに頼らざるを得ないのに、その平坦さがとても恐ろしい。
「ハハッ、そうだった。……そんな状態じゃ、声なんか出せるわけないわな。」
再び声を出そうとする前にパチンと何かが爆ぜる音がした。その瞬間、今まで感じていた浮遊感が霧散する。息をする感覚を取り戻すのと引き換えに肺へ水の入るような感覚が僕の意識をより鮮明にさせるのだ。
「ゲホ、……ホッ。ハァ……アァ。……いき、てる?」
「なんだよ、兄弟。生者のまま、ここに連れてこられたのか。つくづく悪運の強いやつだなぁ。あぁ、無理に息をしようとするな。時間はたっぷりあるから焦らなくていい。」
「ヒュー、ゴホッ、ゴホッ。……ハー、ハー。……僕、今どうなっているんだ?」
声の主を探して周りを見渡しても、僕の目には漆黒のみしかとらえることができない。どうやらまだ視覚は失ったままのようだ。
ただ、咳き込む僕の背中を優しくさする何者かがいることだけははっきりと認識できる。その手に人間らしいぬくもりを感じることはできない。恐らく声を聴く限り、鏡幻のものなのだろう。
「やーっと、落ち着いたみたいだな。ちゃんと
人間に戻れた?――それって、さっきまでの僕が別のナニカになっていたということか?
さっきまでの自分の様子を思い返すと、彼の言っていることは間違いじゃないことが嫌でも理解できる。ましてや、彼が僕をもとに戻さなかったら――
きっと僕は、僕でなくなっていたのだろう。あの広大な海を揺蕩っていた時、完全に飲まれかけていた。彼が来なかったらと考えると、それだけで血の気が引くようだった。
「鏡幻、ここは一体どこなんだ?そして、お前はどうしてここにいる。」
目の前にいる彼はただ曖昧に笑うだけで何も答えない。あの、陽気で余計なこともぺらぺらと喋る彼が、だ。やはり、目の前にいる彼は今までそばに居た彼とは違う気がする。
それならば、いったい彼は誰なんだ?もし、別人ならば目的はなんだ?
「はぁ、仕方ないな。……ついてこい。……こんな所じゃ、ろくに話なんかできない。なぁに、そんな風に見つめないでくれよ。気まずくなるだろ。」
ため息を吐きながら彼が手を振ると、体が宙にふわりと浮いた。そして、そのまま彼は僕を浮いた風船の紐をつかむようにどこかに連れていく。
その間は僕も彼も、一言も発しなかった。発する気にもなれなかったのだ。
「ここら辺がいいか。……おっと、下ろすのすっかり忘れていたぜ。」
「え、……あ、ちょっと待て。…………?砂かこれ。」
彼が再び手を叩くと今度は重力に従って下に落下する。体を叩きつけるような強い衝撃が来るのかと思ったが、実際に感じたのは砂のざらつきだった。
「ここは、言うなれば深淵だ。世界という概念の暗い、暗い海の底。深淵の中でも、ここは海岸に近い場所だ。だからと言って、浅瀬であるここも打ち寄せる波がすべてを飲み込むような深さだ。落っこちないように気を付けろよ。」
彼は先ほどよりもさらに冷たく低い声で語る。自分に言い聞かせるように、僕の脳裏に刻ませるように。淡々としながらも、言葉を選んで喋っている。
「深淵か。確かにここの雰囲気はそれにふさわしい。すべてを吞み込む深い海。……だけど、それはただの例えではないのだろう。」
僕は鏡幻がどこから来たのかを知らない。彼はそれについて頑なに話そうとしなかったし、自分の名前があるのかすら告げなかった。
そんな彼が懐かし気でかつ苦々しく眼前に広がる広大な大海原を眺めるのは、きっとここに並々ならぬ感情があるからに違いない。それは、彼がここにゆかりのあるということだ。
「お前は、曲野がどのようにできて、なぜ存在するのかを知っているか?」
曲野の起源。それは技術が発展し、多くの事象の解明が行われている現代でも解明されていない題材の一つ。それを一学生たる僕が知っていると本気で思っているのか。
それとも、また別の意図があるのか?でも、それは一体何のために。
「まぁ、知らないだろうな。俺だって、
彼の足は慣れているかのように闇の中を進み始める。僕をどこかへ連れていこうとしているのか、僕の手を取って歩き出す。何かを決めたように強く握られた手は僕を離す気などさらさらないようだ。
「深淵に来た普通の生命体は徐々に自我が自壊する。さっき、お前がなっていた状態のことだ。」
彼は手元に小さな炎を灯し、あたりを照らし始めた。小さな炎だがその光は明るく、遮蔽物もないからだろうかかなり遠い場所まで見えるようになる。
彼の言葉を聞きながら、僕は思わず拳を握りしめていた。理解が追いつかない。それでも、彼の視線だけは背筋を冷やすほど真剣だった。
「こうすれば、見えるだろう?さっきまでお前、ああなっていたんだぜ。」
ここが余りにも静かな場所だから何もないと思っていた。でも、実際はそうじゃないらしい。
足元には辛うじて何かの形を保った生物らしきものが落ちていた。触れてみようとしても、手はすり抜ける。それは、海の方へ向かっているようだった。
さらに遠くを見つめると、足元のものよりは人型を辛うじて保っている何かがいた。それも海の方へ体が崩れようとも進んでいる。まるで、死体が無理に体を動かして歩いているみたいに。
それに対して、なぜか吐き気が込み上げる。あぁ、あれはクルイモノに近いのだ。通常のものというよりも異常種に。
「そして、完全に自壊し終わると、残留思念になり果てる。つまり、本来はここに来た時点で人生はジ・エンドだ。恐らく、カイエンの野郎はお前が死んでいると思っているぜ。まぁ、こちらとしてはその方が好都合だがな。」
彼は海の方へ向かう者たちに憐みの視線を向ける。その目には一種の羨望が宿っていた。
鏡幻は彼らになにを重ねているか、僕には理解の糸口すらみえない。
「曲野と現実の間で起こっていることはこれを縮小化させたやつだ。クルイモノはさっきの海へ向かうやつらが変に自我を残した奴なのだろう。」
彼の言葉は僕に訴えかけているようでいて、結局何一つ掴めなかった。さっきから彼は僕の言葉を待っているようだ。
「お前、随分とここに詳しいよな。……もしかして、ここがお前の故郷なのか」
彼は足を止めてこちらに振り替える。その顔には今日のところ見られていない満面の笑みが浮かんでいる。悪戯が成功した子供のような無邪気な顔だ。
「正解だ。……半分だけど、今のところはそれで十分だ。」
彼はその笑みをさらに深めながら、小躍りするように前へ進んでいる。この暗い海には似合わない軽快さで。
「さぁ、答え合わせまであと少しだ。付いて来てくれ。」
そう笑う彼は、今にも消えゆきそうな儚さを持っていた。
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