夜明けの鯨は夢を見ない
綾白
夢幻の詩
夜の底で鯨が眠っていた。
眠ってはいたが、夢は見ていなかった。
星のように瞬く泡の粒がゆるやかに彼のまわりを舞う。
漆黒の海に包まれたその大きな身体は、波の合間を滑るように漂っていた。
水の冷たさも、闇の重さも、鯨にとってはすでに日常だった。
ただ静かに、ただ深く────
それが彼の在り方だった。
ある時から鯨は夢を見なくなった。目を閉じても何も浮かばない。
ただかすかに聞こえるのは、遥か遠くで囁くような息吹の音だけ。
それは夜明けの気配だった。
深海に変化の兆しが現れるとき、まず訪れるのは沈黙の破れ。
見えない光がゆっくりと彼に近づいてくる。
その光は波間から差し込み、そっと鯨の背をなでる。
凍てついた世界の縁が少しずつ柔らかくほどけていく。
────夢はもうどこにもない。
残っているのは過去の残響。思い出すたび胸の奥が痛む。
言葉にできない痛みが波紋のように広がっていく。
けれど、鯨は沈まない。
夜明けがそこにあるからだ。
その光に触れたとき彼は知った。
たとえ夢を失っても──それは終わりではないのだと。
海は呼吸を続けている。
夜の闇は、光の中で少しずつ姿を変えてゆく。
鯨の鼓動が静かに戻ってくる。
その身体を照らすように淡い光の粒が降り注ぐ。
まるで再生の歌のようだった。
音のない海にそれでも確かに──希望の音色が響いていた。
夢を見なくてもいい。
ただ、夜明けの静けさのなかで、新しい波を待つことができるのなら。
鯨は目を閉じてただ浮かんでいた。
光と闇の狭間で、再び泳ぎ出すその時を静かに待ちながら。
水の奥底──記憶の海のさらに深くにそれはあった。
鯨は今も夢を見ない。けれど夢を見ていた頃の音だけは時折波のように押し寄せてくる。
それは鮮やかだった。
子どものように小さかった頃の鯨が群れの中で自由に泳ぎ回っていたこと。
海がまだ柔らかくて星たちがもっと近かったころのこと。
夢の中では鯨たちは言葉を持たなかった。それでも確かに「歌」はあった。
身体の振動が語るもの。潮の流れが伝える感情。夜の静けさが包む安心感。
────なぜ、それを手放してしまったのだろう。
それを思い出そうとするたび、胸の奥に鈍い痛みが走る。
光が何かを壊したのか。
それとも自分が何かを選んだのか。
ぼんやりとした記憶の中に、叫びのような波動が残っている。
仲間の気配が消えた日。耳に満ちた泡のざわめき。
まるで海そのものが泣いていたかのようだった。
鯨は、その日を境に夢を見なくなった。
夢が途切れるというのは、思っていたよりも静かなことだった。
目を閉じても、そこには何も現れなくなる。
ただ眠るだけの時間が増えた。
世界との境界が少しずつ曖昧になり、光も、音も、意味を失っていった。
──それでも残響は残る。
ある潮の匂いに、かつての海を思い出す。
ある星の瞬きに、あの夜の群れの歌が蘇る。
そのたびに鯨の胸には重たい波がひとつ、静かに打ち寄せるのだ。
────もう、夢は見ない。
けれど夢を持っていたことを忘れたわけではない。
今もどこかで、誰かがその歌を覚えている気がする。
あの星の海の底で交わした、言葉にならない約束。
まだ、それが消えていないのなら────
鯨は祈るように瞳を閉じる。
夢を見ない微睡の中で夢の残響に耳を澄ます。
遠い記憶の波の中で何かが微かに──確かに、息づいてた。
その日は、他の日と同じように始まった。
静かで、深く、冷たい。
鯨は目を閉じたまま、ただ波に身を任せていた。
夢を見ることはない。過去も語らない。ただ、在るだけ。
けれど──その日だけは、ほんのわずかに海が呼吸を変えた。
海流がいつもより少しだけ柔らかかった。
塩の香りが昔の記憶をほんのりと呼び覚ました。
そして水の向こうから、かすかな音が届いた。
それは呼び声ではなかった。言葉でも歌でもない。
だが確かに──誰かが「ここにいる」と伝えようとしていた。
鯨の体がわずかに震えた。
反射でも、警戒でもない。
────共鳴だった。
胸の奥に沈んでいた石が少しだけ動いた。
それは痛みでもあり、熱でもあった。
忘れたはずの感覚。もう必要ないと思っていたもの。
ゆっくりと鯨は目を開ける。
まぶたの裏にかすかな光が差していた。
深海の闇をぬうように太陽の気配が降りてくる。
それは夜明けの証。
希望でも終焉でもなく──始まりの
鯨は動いた。
ほんの数メートルだけ海の奥から身体を浮かせる。
それは泳ぐというにはあまりにゆっくりで、意思と呼ぶには儚い衝動だった。
だが、それでも────初めての一歩だった。
眠りの海から目覚めの海へ。夢の残響からまだ見ぬ未来へ。
誰も気づかないような小さな波が、彼の外側へ波紋を広げていく。
鯨は知っている。夢はもう戻らない。
けれど、夢を失った後でも生きることはできる。
生きることで、別の「光」を見つけることがある。
そして今、彼はその光をわずかに追っている。
────自分の意志で。
鯨はゆっくりと浮上していた。
それは意識の海を泳ぐような旅だった。
重く沈んでいた体が光のほうへとわずかに傾くたび、胸の奥に波がひとつ脈打つ。
あれほど遠かった夜明けの気配が、今では近くに感じられた。
それでも鯨はまだ迷っていた。
浮上すること。進むこと。
夢を持たないまま、それでも前に向かうということ。
その先に何があるのか。
希望なのか、それともまた──喪失なのか。
深い海は何も答えてくれない。
ただ音もなく流れ続ける。
────そのときだった。
水の向こうから微かな気配が届いた。
それは波ではなかった。潮流でも地殻の揺れでもない。
まるで誰かが海の中からこちらを見ているような感覚だった。
鯨は動きを止めた。
沈黙のなかに確かにある他者の存在。
声は届かない。姿も見えない。
けれど、それは────
鯨の孤独に小さなひびを入れた。
やがて霧のような光が水中を満たしはじめる。
それは夜明けの残光か、それとも他者の内なる輝きか。
その中心に、影がひとつ静かに浮かんでいた。
影は何も言わなかった。ただそこにいた。
それだけで十分だった。
鯨は過去に別れを告げることを、ほんの少しだけ理解した。
夢を失ったままでも誰かと出会える。
光を知らなくとも互いを感じ取ることができる。
旅はまだ始まったばかり。
けれどそれは、孤独の終わりという名の小さな奇跡だった。
鯨はそのまま、さらに一歩海の奥を進んだ。
夢のない眼差しの中に、ほのかに生まれつつある────新たな物語の始まりを携えて。
鯨は、静かにその影に近づいていた。
恐れも警戒もなかった。
ただ、あまりにも長く孤独だった鯨の鼓動が、ゆるやかに──もうひとつの存在と重なろうとする瞬間だった。
影は、言葉を持たなかった。
それでも、その佇まいには確かな「音」があった。
音と呼ぶにはあまりに静かで、沈黙と呼ぶにはあまりに温かい。
二つの存在は海の中でただ向かい合っていた。
お互いの形が光と闇のあいだで滲んでいく。
どちらが誰で、何者か──その区別さえ意味を失いはじめる。
それはまるで、夢が夢に触れているような感覚だった。
鯨の胸が震えた。どこかで聞いた気がする。
この振動。この気配。
この静けさの奥にある、かつての記憶。
声はない。だが、確かに──何かが通っていた。
語る必要も説明もなかった。ただ、感じるだけで分かるものがあるのだと鯨は知った。
そしてその影は、そっと身を翻し海の上方へと向かった。
まるで、「来るか」と問いかけるように。
鯨は、ひと息。深く海を撫でるように動き────追いかけた。
海が明るくなっていく。まるで夜そのものが朝に溶けていくようだった。
鯨は影とともに海を昇っていた。潮の流れも、深海の圧も、もう彼を押さえつけることはなかった。
上昇するにつれ、かつて夢に見た星の海が視界の向こうに揺れていた。
そこは昔、仲間たちと泳いでいた場所。
光が散り、波が歌い、空と海の境が曖昧だった世界。
けれど鯨は今、その光景を外側から見ているような感覚を覚えた。
────自分はそこにいた。だが、自分はもうその中のひとつではない。
やがて影が消えた。鯨のすぐ傍から音もなく溶けるように。
次の瞬間────、鯨の身体もまた海と空の境界に滲みはじめていた。
そして、鯨は思い出す。かつて夢を見ていたときのことを。
自分が──誰かの祈りだったことを。希望だったことを。
自分という存在はただの命ではなかった。
鯨は知った────
夢を見なかったのではない。自分が夢そのものだったのだと。
誰かが望み、誰かが願い、誰かが信じ、そして誰かが「夢」を見失ったとき────
鯨はその海の中に形を成して現れていた。
────誰かの夢の
光の粒がそっと空に舞い上がる。
鯨の身体がそのひとつひとつに、淡く、儚く、とけていく。
やがて鯨の姿は、海の境から静かに消えていった。
めぐる想いの輪環。
永遠の歌声に還る、その旅路へと────
──── Fin ────
夜明けの鯨は夢を見ない 綾白 @aya-shiro
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