クラスで一番の落ちこぼれ、青木《あおき》玲《れい》が偶然見つけた謎の箱。クラス全員を異世界へと巻き込み、魔王討伐の運命を背負わせた――だがしかし

@valensyh

第1話 退屈な日常の終わり

◇◆◇


大学の講義は、いつだって退屈だ。

特に、必修単位のためだけに履修した経済学入門なんて、眠気覚ましのための苦行でしかない。


俺、青木あおきれいは、そんなありふれた日常を過ごす、どこにでもいる平凡な大学生。

……いや、平凡以下か。成績は常に低空飛行。クラスでは『最も愚かな大学生』なんて不名誉なレッテルを貼られている、いわゆる落ちこぼれだ。


友人と呼べるような相手もいない。いつも教室の隅で、過ぎ去っていく時間をただ眺めているだけ。


そんな灰色の毎日だった。

あの日、あの瞬間までは。


講義が終わった後の、誰もが帰り支度を始める喧騒の中。

俺は偶然、教室の片隅に落ちていた古びた木箱を見つけた。

黒檀のように黒く、奇妙な銀色の文様がびっしりと刻まれた、明らかにこの場所には不釣り合いな代物。


好奇心に負けてそれに触れた瞬間――世界は、閃光に塗り潰された。


クラスメイトたちの悲鳴が遠のいていく。

浮遊感と、全身を引っ張られるような奇妙な感覚。


そして次に目を開けた時、俺たちを待っていたのは、見慣れた教室ではなく――荘厳な石造りの広間と、『勇者様』と俺たちを呼ぶ、見知らぬ人々だった。


剣と魔法が支配する世界、《アルカディア》。

世界を脅かす魔王まおうの討伐。

そのために、俺たちクラス一同は『勇者』として召喚されたのだと。


……ああ、なんて陳腐なテンプレだろう。

だが、これは紛れもない現実。


そして、そんな絶望的な状況の中でさえ、俺は――またしても、落ちこぼれだった。


◆ フラッシュバック


「――以上が、ケインズ経済学における有効需要の原理である。来週の講義までに、各自レポートをまとめて提出するように。解散」


 老教授の抑揚のない声が、広い講義室に響き渡る。

 その言葉を合図に、死んだように静まり返っていた空気が一気に活気づいた。教科書を閉じる音、椅子を引く音、友人との雑談。それらが混ざり合った喧騒は、俺、青木あおきれいにとって、ただの不快なノイズでしかない。


「あー、やっと終わった! 腹減ったな、昼飯行こうぜ!」

「いいね! 駅前の新しいラーメン屋、もう行った?」

「あ、それ気になってた!」


 前方で聞こえてくるのは、クラスの中心グループの会話。

 その中心にいるのは、いつだって武田たけだ海斗かいとだ。

 バスケ部のエースで、成績も優秀。爽やかなルックスも相まって、男女問わず人気がある。まさに、物語の主人公みたいな男。


「武田くん、今日の講義も分かりやすかったよ。ノート、後で見せてもらってもいいかな?」

白峰しらみねさんか。もちろんいいよ。いつでも声かけて」


 武田に話しかけているのは、白峰しらみねゆき

 学内でも有名な美少女で、成績は常にトップクラス。誰にでも分け隔てなく優しい、まさに聖女せいじょのような存在だ。俺のような底辺の学生からすれば、眩しすぎて直視できない。


 彼らは、光。

 そして俺は、その光が作り出す隅っこの影。

 住む世界が違う。交わることなんて、未来永劫ありえない。


「……帰るか」


 誰に言うでもなく呟き、重い腰を上げる。

 今日もまた、誰とも言葉を交わすことなく一日が終わる。そんな予感だけが、腹の底に澱のように溜まっていた。


 ガタンッ!


 席を立とうとした瞬間、机の端に置いていたシャープペンシルが床に落ちた。カラカラと乾いた音を立てて、後方の誰も使っていない座席の下へと転がっていく。


「……最悪だ」


 舌打ちしながら、俺は仕方なくそれを拾いに向かった。

 埃っぽい床に膝をつき、暗い座席の下を覗き込む。


 あった。シャープペンシルはすぐに見つかった。

 だが、そのすぐ隣に、見慣れない『何か』があることに気づく。


「……箱?」


 それは、一辺が三十センチほどの、黒い木箱だった。

 大学の備品だとは到底思えない。表面は滑らかに磨き上げられており、光を鈍く反射している。側面には、蔦が絡み合うような、あるいは古代文字のような、複雑な銀色の文様がびっしりと刻まれていた。

 まるで、ファンタジー映画に出てくる宝箱のようだ。


「なんだこれ……忘れ物か?」


 だとしても、こんなものが忘れ物として放置されているのは不自然すぎる。

 誰かの悪趣味ないたずらか?


 好奇心が、警戒心を上回った。

 俺は無意識のうちに、その箱へと手を伸ばしていた。


「お、何してんだ青木。そんなとこで土下座して、教授に単位くださいってお願いでもしてんのか?」


 背後からかけられた声に、心臓が跳ねた。

 振り返ると、ニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべた須藤すどう健二けんじが立っていた。

 成績はそこそこいいが、他人を小馬鹿にすることで自分の優位性を保とうとする、あまり関わりたくないタイプの人間だ。


「……別に。物を落としただけだ」

「へぇ? 物ねぇ……」


 須藤の視線が、俺の手元にある箱に注がれる。

 彼の声が少し大きかったせいで、まだ教室に残っていた数人の視線までこちらに集まってしまった。その中には、武田や白峰の姿も見える。


「なんだ、その箱? お前の?」

 武田が、純粋な好奇心といった表情で近づいてくる。

「いや、俺のじゃ……」


 まずい。

 目立ちたくない。関わらないでほしい。

 俺の心の叫びなど、彼らには届くはずもない。


 焦りからか、俺は無意識に箱を強く握りしめていた。

 その瞬間だった。


 ――カチリ。


 小さな、だがやけに明瞭な音が響いた。

 まるで、錠前が外れたような音。

 同時に、箱に刻まれた銀色の文様が、淡い光を放ち始めた。


「うおっ、なんだこれ!?」

「光ってる……!?」


 須藤や武田が驚きの声を上げる。

 光は徐々に強さを増し、文様の隙間から漏れ出すように、教室全体へと広がっていく。


「まずい、離れろ!」


 武田が叫ぶが、もう遅い。

 俺の手の中の箱から放たれた光は、一瞬で視界を真っ白に染め上げた。


 耳鳴りと、強烈な浮遊感。

 ジェットコースターが頂点から急降下する時のような、内臓が持ち上がる不快な感覚。

 クラスメイトたちの悲鳴が、まるで水の中にいるかのようにくぐもって聞こえる。


 意識が、急速に遠のいていく。


 ……これが、俺の退屈な日常が終わった、その瞬間の出来事だった。


          ◇


「……ん……」


 最初に感じたのは、硬い石の感触と、ひんやりとした空気だった。

 ゆっくりと瞼を開ける。

 視界に飛び込んできたのは、見慣れた講義室の天井ではなく、巨大なシャンデリアが吊るされた、途方もなく高いドーム状の天井だった。


「……どこだ、ここ……?」


 身体を起こすと、周囲の状況がより鮮明に目に映る。

 床には巨大な魔法陣のようなものが描かれ、淡い光を放っている。壁には美しいステンドグラスが嵌め込まれ、そこから差し込む光が幻想的な模様を床に落としていた。

 まるで、中世ヨーロッパの城か、大聖堂のような場所だ。


「みんな……!」


 誰かの声で我に返り、周囲を見渡す。

 そこには、俺と同じ講義を受けていたはずのクラスメイト、約三十名が皆、同じように呆然と座り込んでいた。

 武田も、白峰も、須藤もいる。全員、何が起こったのか理解できずに混乱している様子だった。


「ようこそ、異世界いせかいより来たりし勇者ゆうしゃ様方」


 凛とした、鈴を転がすような声が広間に響いた。

 声のした方を見ると、一段高くなった玉座のような場所に、数人の人物が立っているのが見えた。

 中央には、豪華なドレスを纏った、銀髪の美しい少女。その隣には、威厳のある王様然とした中年男性。そして、彼らの周りを固めるのは、きらびやかな鎧に身を包んだ騎士たち。


 ……だめだ。情報量が多すぎて、脳の処理が追いつかない。

 異世界? 勇者?

 まさか、ラノベや漫画で使い古された、あの『異世界召喚』ってやつか?


「我が名はアレイナ・フォン・アルカディア。このアルカディア王国の王女を務めております」


 銀髪の少女――アレイナが、優雅に一礼する。


「皆様をこの世界にお呼びしたのは、他ならぬ私達です。どうか、我々の身勝手をお許しください。ですが、この世界は今、魔王まおうと呼ばれる邪悪な存在によって、滅亡の危機に瀕しているのです」


 アレイナ王女の話を要約すると、こうだ。

 この世界には魔王がいて、その力は強大で、人類だけでは到底太刀打ちできない。そこで、古来より伝わる秘術を使い、異世界から聖なる力を持った『勇者』を召喚した。それが、俺たちなのだと。


「どうか、魔王を打ち倒し、この世界をお救いください!」


 悲痛な叫びと共に、王女は深く頭を下げた。

 あまりに突飛な話に、クラスメイトたちはざわめき立つ。


「なんだよそれ! ふざけんな!」

「帰せ! 日本に帰せよ!」

「魔王なんて、俺たちに関係ないだろ!」


 当然の反応だ。昨日まで平和な日本で生きていた大学生に、いきなり異世界を救えと言われても、到底受け入れられるはずがない。


「もちろんです」

 王女は、静かに顔を上げた。

「皆様には、そのための力をお与えします。皆様の脳内に直接、神からの恩恵である『ステータス』が与えられているはずです。心の中で『ステータスオープン』と念じてみてください」


 ステータス。

 またしても、ゲームのような単語が出てきた。

 半信半疑のまま、俺は言われた通りに心の中で念じてみる。


(ステータスオープン)


 すると、目の前に半透明のウィンドウが浮かび上がった。テレビゲームのステータス画面そっくりだ。


 ※ ※ ※


 名前: アオキ・レイ

 職業: ???

 レベル: 1

 HP: 10/10

 MP: 5/5

 筋力: 3

 耐久: 2

 敏捷: 4

 魔力: 1

 ユニークスキル: ???

 スキル: ???


 ※ ※ ※


「……は?」


 思わず、間抜けな声が漏れた。

 職業、ユニークスキル、スキル。

 俺のステータスの重要な部分が、すべて『???』で表示されている。

 数値も、ひどい。まるで、ゲーム開始時の最弱キャラだ。


 その時、周囲から歓声が上がり始めた。


「すげぇ! 俺、『剣聖けんせい』だって!」

「私は『大魔導師だいまどうし』! なんかすごい魔法がいっぱい書いてある!」

「武田! お前はどうなんだ!?」


 皆の視線が、武田に集まる。

 彼は少し驚いたような顔をしながらも、すぐに自信に満ちた笑みを浮かべた。


「……職業は、『勇者ゆうしゃ』だ」


 その一言で、広間の空気が変わった。

 『勇者』。

 この状況において、その言葉が持つ意味はあまりにも大きい。

 彼こそが、この召喚の中心。この物語の、本当の主人公なのだと、誰もが確信した。


「すごいわ、私、『聖女せいじょ』って……回復魔法が使えるみたい」

 白峰が、控えめにそう言う。

 勇者と聖女。完璧な組み合わせだ。


「ちっ……俺は『賢者けんじゃ』か。まあ、悪くはねえな」

 須藤が、不満そうに、だがどこか得意げに呟く。


 剣聖、大魔導師、勇者、聖女、賢者……。

 誰もが、強力で、分かりやすい職業を授かっている。

 それに比べて、俺はなんだ?

 『???』? 鑑定不能かんていふのうとでも言いたいのか?


「おお……! 勇者様と聖女様が我々の元に!」

 王や騎士たちが、感極まったように声を上げる。

 彼らの目は、武田と白峰に釘付けだ。他のクラスメイトたちも、羨望と尊敬の眼差しを二人に送っている。


 誰も、俺のことなど見ていない。

 いや、一人だけ。

 鑑定役と思われるローブの老人が、訝しげな顔で俺のステータスを覗き込み、小さく首を傾げたのが見えた。


 ……ああ、そうか。

 結局、俺はどこへ行っても同じなんだ。


 日本にいた時も、クラスの落ちこぼれだった。

 そして、異世界ここに来ても、やっぱり落ちこぼれ。

 ステータスという絶対的な指標で、俺は再び『最底辺』の烙印を押された。


 絶望が、冷たい霧のように心を覆っていく。

 クラスメイトたちは、これから勇者である武田を中心に団結し、魔王討伐という途方もない目標に向かって進んでいくのだろう。


 その中で、役立たずの俺は、どうなる?

 邪魔者扱いされ、見捨てられるのが関の山だ。


 灰色の日常から抜け出した先に待っていたのは、さらに残酷で、救いのない現実だった。

 唇を噛み締めると、鉄の味がした。


 ――だがしかし。


 心の奥底で、何かが小さく、だが確かに、燻ぶっていた。

 本当に、このままで終わるのか?

 この理不尽を、ただ黙って受け入れるだけなのか?


 答えは、まだ見つからない。

 ただ、俺の異世界での物語は、こうして最悪の形で幕を開けたのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クラスで一番の落ちこぼれ、青木《あおき》玲《れい》が偶然見つけた謎の箱。クラス全員を異世界へと巻き込み、魔王討伐の運命を背負わせた――だがしかし @valensyh

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る