唯一の男妃は後宮を暴く ―誓珠と帝の執着―

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話 入内

一 入城の朝


 その朝、帝都は異様な静けさに包まれていた。

 春の曇り空は低く垂れ込め、城門前に集まった群衆は、口を噤んだまま青年の一行を見送っている。


 凌――貧民街の小さな学舎で筆と算盤を武器に生きてきた青年は、今や「唯一の妃」となるため、禁中の城門へと足を踏み入れようとしていた。


 女児が激減して久しい帝国は、ついに「男妃制度」を導入した。

 その最初の人柱として選ばれたのが、自分である。


 門前に控えるのは、礼服をまとった内侍や女官。だが彼らの視線は冷ややかで、祝意よりも嘲笑に近いものが混じっていた。


(やはり、こうなるか……)


 凌は薄く笑みを浮かべた。

 生まれは貧しく、着ている衣も借り物に過ぎない。

 それでも彼には誇りがあった。飢饉の村で算術を用い、穀物の分配を改善して数百人の命を救った。あの小論文は地方官の目に留まり、いつしか都へも噂が届いた。


 だが、この場では功績よりも血筋がものを言う。

 後宮の奥に待つのは、血統と格式で塗り固められた迷宮。


 凌の背後で、役人が巻物を広げた。


「学士・凌。これより帝に仕え、“唯一の妃”の位を授かるべし」


 ざわめきが走る。群衆の中からは「男に妃が務まるのか」「帝国の威信はどうなる」と囁きが漏れる。


 凌は俯かず、まっすぐに前を見た。

 そこに待つのは、黄金の階段の上、群臣を従えた一人の男――帝国の主、皇帝・景焔であった。


二 帝の眼


 景焔は二十代半ば。

 濃い黒髪を後ろで結い、緋色の外套を肩にかけていた。

 彼が視線を動かすだけで、重臣たちの呼吸が止まる。


 だが、その鋭さの中に、凌は奇妙な色を見た。

 獲物を狙う猛禽の眼差しでありながら、どこか深い疲れが滲んでいたのだ。


「これが……“唯一の妃”か」


 景焔は声を上げる。

 広間に響く低い声音は、威圧とともに妙な安堵を含んでいた。


 凌が跪こうとすると、景焔は一歩進み出てその腕を掴み、ぐいと立たせた。


「群臣よ、聞け。今日よりこの凌を、我が唯一の妃とする」


 その宣言に、広間はざわついた。

 太后系の貴族が顔を紅潮させ、「国家の威信を損なう!」と叫ぶ。

 しかし景焔は一顧だにせず、凌の手を強く握りしめた。


 掌の熱は、不思議と震えていた。

 凌は一瞬、彼が孤独な人間であることを悟った。


三 初夜の拒絶


 その夜。

 後宮の一角に与えられた清麗な寝殿に、凌は一人腰を下ろしていた。


 外から聞こえるのは楽の音。だが、祝宴というより監視の響きに近い。

 今宵は“婚礼の床入り”。

 形式とはいえ、帝と交わることが求められている。


 凌は胸の奥で固く決意した。


(私は政の駒であっても、飾り物ではない。心を捨てることはできない)


 障子が静かに開く。

 緋衣を脱ぎ、白衣だけを纏った景焔が入ってきた。

 彼の歩みは威厳に満ちていたが、眼差しは穏やかだった。


「恐れているのか」


「……恐れてはいません。ただ、私は心を……」


 凌の言葉を遮るように、景焔は近づき、そっと頬に触れた。


「今日、おまえを守る誓いを立てるのは俺の側だ」


 そう言って差し出されたのは、一つの頸飾。

 半透明の玉が淡く光り、内部には千年を超えて沈んだ銀砂が舞っていた。


「誓珠……」


 凌は息を呑む。

 古い王朝で、帝と后の契りを証する宝。

 失われたはずのそれが、なぜ今ここに。


 景焔は凌の首に誓珠を掛け、静かに言った。


「おまえを席としてではなく、人として迎える。その証だ」


 凌の胸の奥で、何かが震えた。


四 暗闘の火種


 その夜更け、寝殿の外では、重臣たちが密談を交わしていた。


「唯一の妃など笑止千万。太后さまも黙っておらぬ」

「だが誓珠が……あれが出てきたのでは」

「ならば余計に危うい。千年前の“誓い”を蘇らせるなど、帝は何を考えている」


 影が灯籠に揺れ、密やかな火種が広がっていく。


 凌は布団に横たわりながら、そのざわめきを夢うつつに聞いていた。

 誓珠の冷たい重みが喉元で光り、未来を暗示しているかのようだった。


(この宝が、後宮の暗闘を呼ぶ。私が選ばれた意味は……これから始まるのだ)


 月明かりの中、凌の瞳は静かに燃えていた。


五 後宮の回廊


 翌朝、凌は女官長・蘭秀の案内で後宮を歩いた。

 石畳の回廊は陽光を反射して白く眩しい。

 豪奢な楼閣と池が広がり、蓮の花が咲き誇っていたが、その美しさの奥に潜む冷たい規律を凌は敏感に感じ取っていた。


「こちらが御台所。妃殿下の御膳はここから整えられます」


 蘭秀の声は丁寧だが、笑みは冷ややかだった。

 昨日の宣言をまだ受け入れきれないのだろう。


 凌は頷きながら、膳棚に並ぶ食材に目を走らせた。

 米の俵に貼られた札が微妙に新旧入り混じっている。

 同じ年の収穫物のはずが、半月前の納入札と昨夜の新札が同列にあるのは妙だ。


(回されるべき順番が崩れている……誰かが意図的に混ぜている)


 凌は心の中で印をつけた。


六 最初の違和感


 続いて医局へ案内された。

 白衣を纏った侍医たちが薬棚を整理している。

 壁には銀の匙が何本も掛けられていた。毒見用だ。


 凌は一歩近づき、匙の表面を指先で撫でた。

 かすかに黒ずんだ痕が残っている。

 だが毒ならばもっと濃く変色しているはず。


「……これでは遅効性の毒は判別できませんね」


 思わず口をついた言葉に、医官たちが一斉に顔を上げた。

 蘭秀の眉がわずかに吊り上がる。


「学士殿は、医の心得もおありで?」


「算術はあらゆるものに通じます。数日の差で効果が現れる毒なら、匙は役に立たない。水量と時間を測る仕組みが必要です」


 凌の指摘に、侍医の一人が「なるほど……」と呟いた。

 蘭秀は沈黙したが、その瞳の奥にわずかな評価が宿ったのを凌は見逃さなかった。


七 太后の影


 回廊を抜けると、黒衣の宦官が待っていた。

 彼は低く告げた。


「太后さまがお呼びだ」


 蘭秀が一瞬ためらい、しかし従うように頷く。


 太后の私室は重厚な香の匂いで満ちていた。

 金糸で織られた帳の向こうに、厳しい眼差しの女帝が座している。


「男妃など、悪ふざけにすぎぬ」


 太后の声は冷たく、鋭い。

 凌は跪き、静かに答えた。


「陛下が望まれるのは、血筋ではなく、国を支える者。私がその器に足るかは、行いでご覧いただくしかありません」


 沈黙。

 やがて太后は机上の祈祷札を手に取り、無造作に火鉢に投げ入れた。

 燃え上がる火の中に記された名を、凌は一瞬見た。


 ——〈岳祢〉。


(陰陽師の名か……?)


 太后はそれ以上何も言わず、退出を命じた。

 背に感じる視線は重く、凌の背筋に冷たいものが走った。


八 誓珠の重み


 夜。凌は寝殿に戻り、誓珠を掌に乗せた。

 淡い光が鼓動に合わせて瞬いている。


(これは装飾ではない……契約だ。だが誰との、どんな契約なのか)


 胸に疑念を抱きつつも、凌は誓珠を外さなかった。

 むしろそれは、彼が後宮で生き残る唯一の盾であるように思えた。


 障子の向こうから、景焔の声が響いた。


「今日、誰に会った」


「太后さまに」


 しばし沈黙が続き、やがて景焔が低く笑う。


「おまえを迎えると決めた時から、戦は始まっている」


 その言葉に、凌は静かに頷いた。


(ならば、私は逃げない。数字と記録で、この迷宮を解いてみせる)


九 白粉の盃


 翌日、後宮の庭で小規模な宴が催された。名目は「唯一妃お披露目」。だが実際は、各派の“目利き”が凌の品定めをする場に他ならない。


 朱塗りの卓上に並ぶ盃、琥珀の酒。凌は一歩引いて立ち、景焔の座の斜め後ろ――扇骨の陰になる位置を選んだ。風向き、光の角度、見える範囲と死角。算術の癖が、空間すら計算にかける。


 秦琴の音がふいに途切れ、翠の袖がひるがえる。氷砂糖に擬装された白粉が、ひとひら、ひとひらと舞って――帝の盃へ。


(落下角、送風、袖の振幅――偶然にしては出来過ぎだ)


 凌は卓に指を打ち、朱の箸をすばやく滑らせた。盃の縁に触れる直前で粉をはたき落とす。景焔が目を細める。周囲の空気が、ほんの一度だけ遅れて震えた。


 白粉は卓上で甘く溶けた。香は砂糖、味は砂糖、だが舌の奥に微かな痺れが残る種類がある。遅効、そのうえ“温酒で促進”。銀の匙では測れない。


「誰の仕込みだ」


 景焔の声は低い。音色だけで、刺し手の背筋が凍る。


「――御前で騒ぎにすると、次の矢が早まります。廊下に抜ける導線を閉じてください。あと、女官の袖口の糸――色替えを指示できる者は限られます」


 凌は囁いた。景焔はうなずき、軽く指を弾く。親衛が廊を塞ぎ、御簾の影に眠っていた刃が目覚める。


 すぐに若党が押さえつけられた。だが凌は違和感を覚える。仕草が粗い。視線の泳ぎ方が“覚悟を知らない”。――本物は別にいる。


「白粉は囮です。狙いは、盃の“温度”で毒見の段取りを崩すこと。毒は別経路」


 凌は酒注の順番表をめくった。筆致の違う二本の線、墨の濃淡、書かれた時刻の差。温酒用の火鉢を運ぶ係が一人、予定から消えている。


 女官長・蘭秀が、扇の影から横目で凌を見る。その目に、わずかな賞賛と――試すような翳り。


「温酒を控えよ。冷のまま、誓珠で測る」


 景焔の言に、ざわめきが走った。誓珠の小さな玉が、凌の喉元でひらりと揺れる。古儀では、誓珠を酒に翳せば“誓いを違えた者の用意した杯”は濁る――根拠薄弱な伝承だ。が、伝承も道具になる。


 景焔は凌から誓珠を借り受け、盃をひとつずつ翳した。濁らない。濁らない――そして、三つ目で玉が淡く曇った。


 曇りを見たのは、凌と景焔と、女官長だけ。景焔が盃を伏せると、静寂は何も起こらなかったように続く。宴はそのまま解散となり、風の音だけが庭を洗った。


 去り際、蘭秀が囁く。


「……『井戸』を見てください。御台所のではなく、古井戸を」


 味方の言葉か、罠か。凌は短く会釈し、視線だけで返した。


十 古井戸の結び目


 後宮の北端、苔むした古井戸。縄は新しい。桶の外側に、紙垂の名残。祭祀の痕跡が生々しい。


 井戸の縁に膝をつき、凌は結び目をほどいた。縄の末端――“結びの回数”が均一ではない。三度、四度、三度。均し目の狂いは、測るための暗号にも、願掛けの癖にもなる。


(“誠実な供物”の復活儀。誰が許可した? 祭祀局の決裁がいるはずだ)


 桶を引き上げる。水面に油のような薄い膜――香。沈香は太后の好む香だ。だが香りを“移す”ことは容易い。香は匂いで、匂いは証拠にはならない。


 井戸の石垣、刻印。職人の印――銀工組合。なぜ井戸に銀の印。補修を請け負ったか、あるいは“水”の通り道を知る者が、銀工にいる。


 凌は古井戸の周囲を歩き、雨水の流路を図にした。微かな傾斜、暗渠の口、御台所との高低差。数字は嘘をつかない。嘘をつくのは、数字を持たない言葉だ。


 井戸の影に、人の気配。


「妃殿下、夜分にお一人で」


 闇から現れたのは侍従の燕青。昨日、太后の私室へ向かう道で視線を交わした、あの無表情な青年だ。刃物を扱う気配を隠しきれない指の筋肉、歩幅の乱れなさ――武。


「一人ではありません。――誓珠があります」


 凌は軽口で応じ、燕青の瞳の微細な揺れを見た。冗談が通じる相手は、多くない。揺れが一瞬だけ温かくなる。


「古井戸は、祭祀局の許可で“清め”が復活しました。太后さまの御名で」


「太后さまの……」


 凌は短く息を呑む。太后は誓珠を嫌い、唯一妃を否定する。にもかかわらず、古儀の清めを許した? 矛盾は、真意を隠すための幕か、あるいは――


「――“同じ香り”を違う器に焚けば、誰の香りでしょう」


 凌が問うと、燕青は「香は風に乗る」とだけ返し、暗闇に消えた。答えではない。けれど、充分だった。


(香を移す者。銀工の刻印。古井戸の水位。御台所の札の入れ替え。温酒の火鉢。……“流れ”を掴め)


十一 帳簿という鏡


 夜半、凌は内庫の帳簿に向かった。書字台の上、纏められた木簡。納入日、数量、印章。書き手ごとに“数字の癖”がある。四の字が開き気味、九の尾が長い。癖は印影より正直だ。


 半月前に納入された米俵の数が、同じ日付で二種の筆致。しかも、後から書き足した列のインクが薄い。灯の油の質が変わった夜に書かれた。つまり、深夜の追記。


 追記の担当者――夜番の書記官。宰相家の出。宰相家は“複妃制復活”を提案した派だ。


 凌は墨の乾き具合を指で測り、追記の列に薄く爪痕をつけた。証拠は焼かれる。ならば“焼いた跡”が証拠になるように、予め“欠け”を作る。欠けは戦の矢の先――小さくても、決定の重心をずらす。


(数字は鏡だ。見たい者には映らず、見たくない者にだけ映る)


 帳簿を閉じると、鳥の声。夜を割る短い鳴き声は、親衛の合図だ。何かが動く。


十二 夜の矢


 寝所の障子が、風もないのに鳴った。次いで、鋭い金属音。燕青の刃が何かを弾いた音だ。凌が起き上がると、景焔が既にそこにいた。白衣の上に外套だけを羽織り、裸足。帝であるより先に、人が凌を庇っている姿。


「外へ」


 景焔が抱き上げる。拒む暇はなかった。誓珠がふたたび喉元で鳴り、矢が柱に突き刺さる音が遅れて届く。矢羽に付いた黒い粉末――これは、白粉ではない。矢自体が“香”を運ぶ。香は風に乗り、追っ手の位置も味方の位置も露見させる。


 庭に転がると同時、親衛が灯りを落とした。闇は敵にも味方にも等しく落ちる。だが凌には“闇の形”が見える。庭石、池、廊の角度――算盤の盤に光点を置くように、頭の中で配置が浮かび上がる。


 燕青の影が一筋、走る。低い呻き、倒れる影。二の矢は来ない。狙いは一度で仕留めること。外せば、次は“混乱”。――その混乱の最中に、帳簿か、井戸か、あるいは人が燃える。


「陛下、灯りを一点に集めてください。犯人は“香の風道”を読むはずです。灯りを別方向に流せば、風も騙せる」


 景焔は即座に指示を飛ばした。灯は南へ、親衛は北へ。風道が二重三重に乱れ、香の筋が千切れる。


 やがて、燕青が濡れた刃を携えて戻った。血は最小限。狙撃点は房の屋根。矢筒は空。矢羽の加工は銀工の手。刺客の胸元から、紙片。


 ――〈帳〉。


 字は一字だけ。だが、充分だ。狙いは“人”ではなく、“帳簿”。凌の“鏡”を割るための矢。


十三 帝と学士の対話


 寝殿に戻ると、景焔は乱れた衣を整えもせず、床几に座った。凌は一歩離れて立つ。鼓動は速いが、指先は静かだった。


「……おまえは、なぜ逃げなかった」


「逃げる場ではありませんでした。逃げれば混乱を増幅させる。混乱は、彼らの武器です」


 景焔は薄く笑い、掌を見た。矢を弾いたときに裂けたのだろう、血が滲む。


「我は、誰も信じぬ」


 唐突に漏れた言葉に、凌はわずかに目を見開く。


「信じれば、殺される」と景焔。「太后も、宰相も、軍も、礼も。皆、我の座を支えるふりをしながら、別の椅子を探している。……だが、おまえは違う」


「私は“椅子”ではありません。椅子を固定する“規格”――制度にしたい」


 景焔はしばし黙り、やがて微笑とともに視線を上げた。揺るぎのない目。今宵初めて、威圧でも疲労でもない、清澄な光。


「おまえの判断だけは疑わない」


 凌は喉の誓珠に触れた。冷たい。だが熱もある。玉は、二人の呼吸でかすかに曇っては晴れた。


「――婚礼は、先に“公”を。私の心は、その後で」


 凌の言葉に、景焔は頷く。


「二段階にしよう。公開の簡略儀を先に。抑止の儀は外へ、誓いの儀は内へ」


 同じ図面が、同じ紙の上に描かれた音がした。


十四 女官長の扇


 翌朝、女官長・蘭秀が文を差し出した。祭祀局の許可書だ。“古井戸の清め”は確かに太后の名で発せられている。印は本物。だが印影の縁にごく僅かな“銀粉”。銀で縁取った硯を使うのは、宮外の文工だけ――つまり、印押しの場所が宮中でない。


「太后さまは、意図的に“香の流布”を許したのですね」


 凌が言うと、蘭秀は扇を打ち鳴らした。


「太后さまは、御自分を憎ませる術をよくご存知だ。憎まれれば、帝は強く見える。……後宮は、勝ち負けだけでは回りません」


 蘭秀の目の奥に、疲れと誇りが交錯する。凌は「助言、感謝します」と頭を下げ、御台所へ向かった。


十五 台所の数式


 御台所の札は、依然として入れ替わり続けていた。凌は棚を全部出させ、床に俵札を並べる。搬入順、客数、余り、再利用、破棄――流量を方程式に落とし、異常箇所を赤く塗る。


 異常は、“お茶”。たった一種類の蒸し茶だけ、消費と補充が一致しない。毒は“王の盃”だけでなく、“唯一妃の喉”にも向けられている。遅効の痺れ――声を奪えば“妃”の説得力は折れる。数字が、敵の企みの線を描いた。


「茶は、沸かす水を換えて。“古井戸”ではなく、南の雨水甕で」


 凌の指示に、女料理頭が頷く。彼女は既に凌の“味方”になっていた。昨日、厨房の若い子の火傷に、凌が塩と冷水の順を指示したからだ。恩は、政治より早く人を動かす。


十六 宰相家の影


 夜。内庫の外廊で、凌は宰相家の文官とすれ違った。文官は深夜にもかかわらず香を焚き染めた衣を纏い、筆巻を抱えている。脇の縫い目――銀糸の補修。銀工組合の印。


「夜更けに、帳簿の香を変えに?」


 凌が笑うと、文官はわずかに足を止めた。挑発に乗るほど浅くはない。だが恐れは、香よりも濃く匂う。彼は無言で通り過ぎた。


 廊の陰から燕青が出てくる。


「尻尾、見えましたね」


「尻尾は見せるためのものです。切り落としやすいように」


 凌は答え、祭祀局へ向かう角を曲がった。その先に、白い気配。――太后。


十七 太后の香


 沈香が、薄く空気を染めていた。太后は一人、灯の少ない回廊に立っている。侍女もいない。


「古井戸の清めは、あなたの御名で」


 凌が言うと、太后は扇を閉じた。


「香りは、誤解されるためにある。誤解は、国を守る盾にもなる。……帝(むすこ)は孤独だ。孤独は、剣を鋭くする」


 太后の瞳に、遠いものが宿る。凌は言葉を選んだ。


「孤独を鋭くするのは、剣の仕事。政の仕事は、鈍いものを“規格”で動かすことです。私は、そのためにここにいる」


 太后は微かに笑った。それは敵意でも侮蔑でもない、ほんの束の間、母の笑みだった。


「ならば、勝ちなさい。勝つことだけが、愛ではないが――勝てない愛は、すぐ折れる」


 扇が開き、沈香が揺れた。太后は宵闇に消えた。残るのは香と、足音と、言葉の棘。


十八 二段階の婚礼(予告)


 凌は寝殿で巻紙を広げた。公開の簡略儀――“誓珠の掛け替え”。民の前で、帝が妃の誓珠を自らの頸に掛け、妃は帝の誓珠を受ける。儀式の意味は簡単だ。“守りの責務を分有する”。政治的抑止力は高い。


 第二の密儀――“血誓”。血を一滴ずつ誓珠に落とし、互いの鼓動に合わせて名を呼ぶ。古儀の復元。これは“私”の儀。二段構えで、内外を固める。


 景焔に草案を見せると、彼は一読ののち、筆を取った。


「書き換えるところはない」


 即答。迷いのない文字が、草案の末尾に重なる。“帝、許す”。


 凌は息を吐いた。長い夜だった。だが夜が明ければ、広場で風が鳴る。人々のざわめき、太鼓、鼓動。誓珠は光り、香は風に散り、敵は次の矢を番える。勝ち負けでは動かない後宮を――動かしてみせる。


十九 微睡(まどろ)みと決意


 薄明。凌は短い睡りから目を覚ました。天蓋に射し込む淡い光。誓珠は胸の上に冷たく、重い。重みが心地よい。責務は、重いほど落ち着く。落ち着きがないのは、責務が軽いからだ。


 戸に控えていた燕青が、湯を運んだ。


「妃殿下」


「燕青。……あなたは、どちらの人ですか」


 唐突な問いに、燕青は瞬きしたあと、わずかに首を傾げた。


「いまは、あなたの人です」


 凌は笑った。答えに嘘は混じっている。だが、それでいい。“いま”を積み重ねるしかない。


「あなたの剣が、できれば、できるだけ、抜かれずに済むように。私は数字を研ぎます」


「なら、私は鞘を磨きます」


 馬鹿げたやりとりだ。けれど、こういう小さな冗談が、朝を明るいものにする。


二十 広場へ


 城下の広場は人波で埋まっていた。誓珠の公開掛け替えは、千年ぶりだという。歴史は物語を好み、物語は人を呼ぶ。


 景焔は玉階の上に立ち、民のざわめきを掌で静めた。


「我が唯一の妃――凌」


 凌が進み出る。群衆の視線は温度の違う無数の矢だ。軽い矢、重い矢、嫉妬の矢、期待の矢。刺さらないのは、誓珠のせいだけではない。歩幅を整え、膝を伸ばし、息を一定に。心拍は、数字で手懐けられる。


 景焔は自らの誓珠を外した。凌の誓珠と入れ替える。銀砂が光を抱く。民が息を呑む。


「今日より、守りの誓いは、二つでひとつ」


 短い言葉が、風に乗る。凌は深くうなずき、民の方を向いた。女児が母の腕から手を伸ばす。老人が目を細める。商人が算盤を止める。物語は、政治になる。


 ――そして。


 玉階の最上段。御簾の陰、白い袖がふわりと動いた。女官長・蘭秀。彼女の扇の骨が、ひとつ、欠けている。欠けた骨は、昨夜、凌が帳簿に刻んだ“欠け”と似ていた。


 扇がひらき、風が生まれ――矢は来ない。代わりに、香が来た。見えない香の矢。凌は微笑み、片手を上げる。燕青が動き、親衛が囲い、香は風に散った。香は証拠にならない。だから証拠に“変換”しておいた。昨夜、銀粉の印の縁に爪痕を残したように、今朝、香炉の底に“新貨の微細刻印”を忍ばせた。香を焚けば、底に微細な刻印が映る。映れば、それは“記録”になる。


 景焔が、民の前で笑った。


「――続きは、内で」


 儀は粛々と終わる。拍手。風の音。遠く、太鼓。


 凌は胸の誓珠に触れた。冷たく、確かだ。これで、後戻りはできない。もとより、後ろに道はない。あるのは、前だけ。前と、わずかに斜め。斜めは、敵の重心を崩す角度だ。


 唯一妃の政は、始まったばかり。

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