第21話:ふたりの台所、ふたりの海

その日は、朝から陽射しがやわらかかった。

 カーテン越しに差し込む光は、春の匂いをふわりと部屋中に運んでいた。


 病院のベッドで陽菜は静かに目を覚まし、隣の椅子でうたた寝している葵を見つめていた。


 変わらない寝顔。どこか頼りなく、でも優しい眉の形。

 あの頃、初めて話しかけられた階段の上を、ふと思い出していた。


 小さな咳をすると、葵がぱちりと目を開ける。


「……起こしちゃった?」


「ん……ううん、起きる時間だった」


 葵は眠そうにまばたきをしながら、ベッドに近づいて陽菜の髪を優しく撫でた。


「ねえ、今日は……お願いがあるの」


「うん。何でも言って」


 陽菜は、少しはにかみながら言った。

「料理、したい……ふたりで」


 病院に相談し、数時間だけ外出の許可をもらったふたりは、

 午後の陽射しに包まれながら、葵の家のキッチンに立っていた。


 エプロンを着けた陽菜は、病気とは思えないほど嬉しそうだった。

 けれど、さすがに立ちっぱなしはできないので、キッチンチェアに座りながら、包丁を持つ。


「今日はオムライス……頑張る!」


 陽菜の気合いに、葵は思わず笑ってしまった。


「陽菜、包丁は任せて。卵は任せてほしいんだけど」


「え~、なんで? 葵って、卵めっちゃ下手そうなんだけど」


「失礼な!」


 ふたりの笑い声が、狭い台所にやさしく響いた。

 コンロの火が点き、卵を焼く音、バターが溶ける香り。

 フライパンをふる音と、タマネギを刻む音が重なって、まるでレストランのキッチンのようだった。


 陽菜は、じっと卵が焼けていく様子を見つめながら、ぽつりと言った。

「ねえ……こういうの、ずっと続けばいいのにね」


 葵は黙ってうなずいた。

「……うん。ほんとに」


 できあがったオムライスは、少しいびつだけど、ちゃんと美味しそうだった。

 ケチャップでお互いの名前を書き合って、写真を撮って。


「いただきます!」

 ふたりの声が揃ったとき、まるで新婚夫婦のようだと、陽菜がふいに笑いだした。


「やだ、なんか変な感じ……でも、幸せだなあ」


「俺も⋯⋯じゃなかった、僕も、同じ気持ち」


「よし、減点ね」


「えっ」


 ふたりで笑い合いながら食べたその味は、きっと一生忘れられない味になった。


 午後。

 陽菜は。

 「もうひとつ、行きたいところがある」

 と言った。


 病院から借りた移動用の小型酸素ボンベを持って、向かったのは、海だった。


 春の海。

 観光地ではない、誰もいない、静かな浜辺。

 どこまでも透明で、穏やかだった。


 陽菜は、葵に手を引かれながら、ゆっくりと砂浜に降りる。


「わあ……すごい。海、やっぱり……大きいね」


 陽菜の髪が風になびく。

 肺に負担をかけないように息を浅く吸いながら、それでも彼女は顔を上げて海を見ていた。


「……小さい頃さ、よく家族で来たんだよ。お弁当持って、貝拾って……」


「……そうなんだ」


「でもね、今日の海が一番好きかも」


「どうして?」


「だって、隣に葵がいるから」


 葵は何も言えなかった。

 胸の奥が熱くなって、声が出なかった。

 陽菜はそのまま、砂浜に座りこむ。葵も隣に腰を下ろす。

 波の音だけが、ふたりを包んでいた。


 しばらく黙っていた陽菜が、ふとつぶやいた。

「わたしさ、死ぬの、怖くないって初めは言ったけど……」


 葵は、静かに彼女を見た。


 「本当は、怖いよ。でも、それよりもっと怖いのは……忘れられること」


「忘れないよ」


「うん……でも、時間ってさ、すごくて。葵も、きっと、私のことをだんだん思い出さなくなる」


「陽菜」


 葵は、彼女の手を握った。

「思い出が、薄れてもいい。けど、心は薄れない。君が生きた証は、僕の中にずっと残り続けるから」


 陽菜の目に、再び涙が浮かんだ。

「……ずるいな、葵って」


「そう?」


「うん……でも、好き」


 そして、陽菜は空を見上げた。


「ねえ、あの雲、ちょっとハートに見えない?」


「ほんとだ」


「……私達の天気も味方してるね」


 夕陽が落ちて、空が茜色に染まっていく。


 陽菜の肩に、そっと毛布をかけながら、葵は言った。


「今日の夢、また叶ったね」


「うん……ありがと」


「次は、どこに行こうか?」


 陽菜は少し考えたあと、笑って言った。


「秘密。楽しみにしてて」


「……わかった。任せる」


 海風が、ふたりの髪をそっと揺らしていた。

 静かな春の海は、まだ少し冷たくて。

 でも、それ以上に、ふたりの距離は、あたたかかった。

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