あの日食べたイクラ丼の味をこの子たちはまだ知らない

ムーラン

第1話 イクラ丼は主婦の味方

 仕事から少し遅れて帰宅したその日、玄関を開けた瞬間から時間に追われているのが分かった。


 鞄をリビングに放り投げると同時に一緒に着いて来た子供を洗面台へと誘導する。

 先に手を洗って、台所へ直行する。

 時計を見ると、もう夕飯まで一時間もない。お風呂のお湯を貯めるスイッチを押して、子供には「オヤツ食べててね」とだけ声をかける。


 甘いお菓子を頬張る気配を横目に、私は冷蔵庫と冷凍庫を開けたり閉めたり、バタバタと保育園の準備と夕飯の算段を並行でこなしていく。


「……今日は仕方ない」

心の中でため息をつきながら、冷凍庫の奥に眠っていた“切り札”に手を伸ばした。


 冷凍イクラ。

 透明のパックに収められた赤い粒は、まだ半分凍りつきながらも光を帯びて、ガラス玉のようにきらきらと輝いている。

 ぬるま湯に沈めると、氷の白い膜が少しずつ剥がれ落ちていき、朱色の粒々が息を吹き返すように艶を取り戻す。まるで小さな宝石が水の中で目覚めるようだ。


 その横顔を覗き込む声がする。

「きょーのごはんなにー?」


 能天気なその声に、疲れで張り詰めていた胸の奥がチクリと苛立つ。でも、同時に愛おしさが込み上げてきて、思わず苦笑がこぼれる。

「今日はね、イクラ丼だよー」


 一拍の間をおいて、「やったー!」と小さな叫び声が響いた。廊下をドタバタ駆け回る足音がし、居間から台所へ駆け込んで来た子供が、私の足にまとわりつく。大きな目が期待でいっぱいに見開かれている。


「イクラ見せて! 見せて!」


 オヤツをさっきまで食べていたはずなのに、その欲望は完全にイクラに乗り換えられている。ぬるま湯のボウルを差し出すと、赤い粒々を目にした瞬間、さらにその瞳が光を増した。


「すごい……きらきらしてる!」


 宝石を見つけた探検家みたいに、子供は両手を胸の前で合わせ、目を輝かせている。その姿に思わず肩の力が抜ける。


「はいはい、お風呂上がってからねー。早く脱がないとイクラなくなっちゃうよ」


 我ながら意味の分からない脅し文句を口にしつつ、子供の下着とパジャマを引っ張り出す。


「はーい!!」


 元気よく手を上げたかと思うと、子供は洋服をぽいぽいと脱ぎ捨て始めた。廊下や椅子の背もたれにシャツがひっかかり、ズボンがくしゃくしゃのまま床に落ちる。いつもは「まだ入りたくないー」と駄々をこねるくせに、イクラの一言でこの素直さ。子供の切り替えの速さには呆れるやら感心するやら。


「こら、洋服はちゃんと洗濯機に入れて!」

「あ、忘れてた!」


 素っ裸で、なにも恥じることなくリビングを走り回り、散らかした服を集める姿。無防備すぎて、ほんのり笑ってしまう。「この自由さ、他人にはとても見せられないな」と思いつつも、どこか微笑ましい。


「すぐ行くから待っててねー」

 そう声をかけても返事はなく、すでに洗面所からバシャッと水音が聞こえる。自分で浴槽の蓋を外して、ちゃっかり浸かっているに違いない。少し大きくなったおかげで、こういう場面では本当に助かる。


 とはいえ、まだ完全に安心はできない。もし溺れでもしたら、と思うと慌ただしく自分の服を脱ぎ捨て、後を追った。湯気が立ちこめる浴室に入ると、浴槽の縁に頬を乗せてご満悦な子供の姿があった。


 自分は浸かる間もなく、まずは髪や身体を洗わせる。湯気で頬を赤く染める子供の小さな顔を両手で支えながら、泡立てたシャンプーで頭をこすり、身体を丁寧に流す。お風呂は“くつろぎの時間”というより“作業時間”。けれど、肌に触れながら、ああ大きくなったなあと実感するひとときでもある。


「はい、10数えてあがるよー。数えてー?」

「いーち、にーい、さーん……」


 子供の声に合わせ、わずかな時間だけ肩の力を抜く。熱すぎない湯に身体を委ね、抱き寄せた子供のシャンプーの残り香がふわりと鼻先をくすぐる。その一瞬だけ、忙しさを忘れられる。


「はい、上がりまーす」


 湯船を出ると、タオルで子供も自分も同時に拭き取る。全裸で逃げようとする子供を捕まえて髪を乾かし、伸びてきた前髪を撫でながら「そろそろ切らないとな」と思う。保湿を済ませ、「はい、行ってらっしゃい」と声をかけてリビングへ送り出すと、子供は裸のまま駆けて行った。


 その間に、自分も最低限のスキンケアとドライヤーで身支度を整える。時計を見れば、また分刻みで時間が消えていく。パジャマ姿の子供を確認し、ようやく台所に戻る。


 ここからが本番。夕食準備の続きが待っている。


「アレクサ、YouTubeつけて」


 その一言で、リビングの空気が一変する。

 いつもは「本読んでー」と駄々をこねる子どもも、この時間だけはおとなしくソファに座ってくれる。

 台所に入ってこられて「あれ見て!」「これ見て!」と攻撃されると、ほんの数分も奪われてしまうから、私にとってもこの解禁は必要な作戦だ。


 ボウルの中に入っているイクラを確認する。透明な容器越しに、ひと粒ひと粒が宝石のように輝いている。解凍がちょうどよく進んで、ほんのり冷たさを残したまま艶めき、光を受けて小さな赤いランプが集まったみたいに煌めいている。ぷちり、と弾けるその瞬間を思い浮かべるだけで、口の中に潮の香りが広がる気がした。


 テーブルには、残り物のほうれん草の胡麻和えと白米を盛ったプレート。湯気を立てる味噌汁を別の器に添えて並べる。


「そろそろ席着いてー」


 声をかけた途端、ぱたぱたと駆け寄る小さな足音。いつものぐずりとはまるで別人のように早い。まったく、イクラの時だけは誰よりも素直だ。普段からそのくらいテキパキしてくれたら、と思うけれど、その姿に思わず笑ってしまう。


「わたしがやる! わたしがやる!」


 椅子に座ったまま、瞳をきらきらと輝かせて身を乗り出す。頬もほんのり紅潮していて、待ちきれない様子が全身からあふれている。


「はいはい、ちょっと待ってね」


 シリコンエプロンをかけてあげて、イクラ容器のビニールを丁寧にはがす。内側に貼りついていた粒が光を受けて転がり落ち、まるで小瓶に閉じ込められていた小さな宝石が解き放たれるみたい。ほんのりと塩気を含んだ海の香りがふわりと立ちのぼる。


「はい、かけていいよ」


 渡されたスプーンを両手でしっかりと握りしめ、子どもは真剣な表情でご飯の上にイクラをすくって乗せていく。つぶつぶの赤い粒が白いご飯の上に雨のように降り注ぎ、瞬く間に色鮮やかな絨毯が広がっていく。


 これでイクラ丼の完成だ。


 真っ白なご飯の上で、宝石のようなイクラがつやつやと輝く。透明感のある赤と白のコントラストがまぶしくて、ただそれだけなのにごちそうに見える。ひと口頬張れば、ぷちりと弾けて海の旨みが口いっぱいに広がるのだろう。


「はい、いただきますしてね」


「いただきます!」


 その声は待ちきれなかったように弾んでいた。スプーンを握る小さな手が勢いよくご飯を掬い上げ、口いっぱいに頬張る。もぐもぐ、ぷちぷち、と幸せそうに咀嚼するたびに目を細め、頬が緩んでいく。その姿は何よりもまぶしくて、愛おしい。


「全部、食べたー!」


子どもが椅子から身を乗り出すようにして、空になったプレートを誇らしげに見せ付ける。その声には達成感が満ちていて、胸を張る小さな姿がなんとも可愛らしい。


「はやっ! ほうれん草と味噌汁も食べてね」


 驚き混じりに声をかけると、子どもはにぱっと笑って、「はーい」と元気に返事をする。


 テーブルの上には、ついさっきまで輝いていたイクラと白米の姿はもうない。本当にあっという間だった。白い陶器のプレートに残るのは、わずかな醤油のあとと、スプーンで掬いきれなかった米粒だけ。つややかな赤い粒が消えてしまった皿は、まるで祭りのあとの静けさを思わせた。


 その光景を見つめながら、ふと胸の奥がじんわりと熱くなる。

 ——ああ、この大変な日々は、いったいどれだけ続くのだろうか。


 毎日が慌ただしく、やることばかりで自分の時間なんてほとんどない。ご飯を作って、食べさせて、お風呂に入れて、寝かせて……繰り返しのようでいて、一つとして同じ日はない。


 そして同時に思う。

 ——この愛しい日々は、あとどれだけ続いてくれるのだろうか。


 子どもの無邪気な笑顔や、食べる姿を見ていると、その時間が永遠に続くような錯覚に陥る。けれど、きっと気づけば背丈は伸びて、声も変わり、あっという間にこの小さなスプーンを握る手も大きくなるのだろう。


 その答えは、きっと過ぎ去って振り返る時にしか分からない。だからこそ今を噛みしめるように、私は深呼吸して台所に戻る。


 電子レンジで温めながら、用意していた自分の夕食に取りかかる。子どもの笑い声が背中越しに聞こえる。その響きが、何よりのごちそうのように思えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あの日食べたイクラ丼の味をこの子たちはまだ知らない ムーラン @mooran

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ