六章 選択の果て(2)

   ◇



 空を閉ざす雲のうえで、月が赤星を喰らう。


 喰らわれた赤星は一度死を迎え、新たに蘇る。天上で生が死に転じ、再び生に流転するまでのひとときは、地上のあまねく生命にとってもひとつの節目であり、転換の期でもあると聞く。

 扉を叩く音が響く。窓の外の闇は未だ深く見えるが、数刻もすれば空が白み始める頃合いだ。

 卓上の本をそっと閉じ、ハフリは傷んだ天井を仰いだ。まぶたを閉じて、顔を手で覆い、冷えた手のひらの重みをそのまま胸まで落としていく。

 小屋の本は昨夜ですべて目を通し終えたものの、眠ることなどできず、めぼしい本を読み返していたところだった。けれど、ここで足掻くことには今、区切りをつけなければいけない。

 再度、同じ調子で扉が無機質な音を響かせた。

 立ち上がろうとすると、軽い目眩に襲われよろめく。神木の生気を分け与えられてもなお、身体の衰弱は止まらない。激しい発作こそ起きないが常に熱っぽく、発作の間隔は日に日に狭まっていた。

 けれどまだ、立つことができる。歩くことができる。考えることもぜんぶ、できる。


 ハフリはわらった。

 だいじょうぶだ。いきている。いきて、ゆける。


 扉を押し開くと、夜明け前の暗闇を背負ってイグサが立っていた。ハフリより頭一つ分小柄な老婆は、物言わずこちらを見つめた。虎目石色の瞳はソラトのそれとよく似ていて、平静を装いながらも彼よりさらに頑なな色をしている。

 かける言葉に窮していると、


「これに着替えなさい」


 差し出されたのは真新しい純白の衣だった。やわらかな光沢を宿す布地でつくられたそれは、受け取ると羽のように軽い。か細い繊維が指先のささくれにひっかかり、慌てて持ち直した。

 かすれた声で「急がずとも良い」と付け足したイグサに頭を下げ、小屋のなかに戻る。卓上に衣を置き、着ていた衣の胸紐を解いてゆく。熱があるせいか寒さはあまり感じない。

 脱いだ衣をたたんで、まっさらな衣に袖を通す。帯を結んで襟元を正す。汚れひとつないまばゆいばかりの白色はどこか浮世離れしていて、うつくしくもどこかおそろしく、思わず身体が震えた。

 おのれを鼓舞するように、纏った布の向こう側、鎖に連なる方位磁針が胸元に収まっていることを確認する。目を伏せて息をひとつつく。だいじょうぶ、と小さくつぶやけば、自分の言葉が耳から内側に染みこんで、心臓と金色の方位磁針へ収束した。

 まぶたを持ち上げる。

 しばし考え込んだあと、ハフリは結んだままであった三つ編みをほどいた。なぜと問われれば自分でもわからないけれど、そうするべきであるような気がしたのだった。

 くせのついた髪を手櫛で軽くととのえると、最後に葉を繋いでつくった小袋を手に取って屈みこむ。


「フゥ」


 寝床で身じろぐ空色の小鳥の名を呼ぶ。フゥは途端に起きあがると、つぶらな瞳をこちらに向けた。


「いっしょに行ってくれる?」


 問えば、風の音色のこたえがある。差しのべた手のひらに乗った小鳥を小袋におさめると、ハフリは扉の金具に手をかけた。




 夜更けと夜明けのあわい。山烏の民が寝静まり、村からすべての音が消える、一日のなかでもほんのわずかな時間。身に纏った白い衣が深い闇のなかで淡く浮き上がり、ほどいた髪がひろがって、凍む風にたなびいた。

 小屋の外に出て真っ先に目についたのはティエンの姿だった。空から落ちてきた星のごとく燦々と輝く金色の翼と体躯に、思わず息を飲む。

 ティエンの傍らには、漆黒の衣を身に纏ったソラトが、イグサと並んで待っていた。

 こちらを見やったソラトが、ハフリの髪型のせいか衣のせいか、わずかに驚いた様子を見せる。神木の下で会ったきり、ソラトとは顔も合わせず話もできていない。イグサはもちろん、スオウやツムギにこれからのことを勘づかれるわけにはいかなかったからだ。

 数日ぶりに顔を見ただけで、状況も忘れて嬉しくなってしまう。

 ふたりに歩み寄ると、ソラトがおもむろに盃を差し出した。


「これを」


 受け取ると、盃を満たす液体からすえたような臭いが立ちのぼる。お世辞にも良い香りとは言い難い。これはなにと問おうとする前に「馬乳酒」と短くこたえがあった。

 馬乳酒。男たちが夕餉で呑んでいるところは目にしたことがあるが、口にしたことはない。そもそもハフリは酒の類いを呑んだことがない。

 不安はあったが、これも儀式の一部なのだろう。ならば従わなければいけないと腹をくくり、盃に口をつけ、一気に飲み干す。

 動物の乳とは思えない強い酸味と、喉が燃えるような感覚に思わず咽せそうになったが堪える。身体がさらに火照りを増す。

 ソラトがハフリから盃を取り上げ、イグサに手渡した。


「おばばさま、行ってくる」


 ああ、とうなずいたイグサの表情は見えない。

 ソラトは何気ない動作でハフリの手をとり、ティエンの方へと導いた。あまりにも自然に手を握られたものだから、一瞬頭が真っ白になる。

 たいてい手に触れようとするのはハフリの方からで、こんな風に、まるで守られるみたいに手を繋がれたことは、なかった気がした。

 嬉しいのに少し怖くて、思わず立ち止まる。


「ハフリ?」


 ソラトが小声で呼ぶ。

 なんでもないと、わずかに首を振ってみせた。

 手をほどいてティエンに騎乗し、おそるおそるソラトの腰に腕を回して抱きつく。

 ソラトのへそのあたりで組んだ手に、ソラトの手のひらがそっと触れた。覚えのある感覚に安堵する。森を出たときに、外の世界に怯えるばかりのハフリを励ましてくれたときと同じだった。

 ティエンが大きな金色の翼を一振りすると、風が生まれる。獣の巨躯が地上を離れる。ハフリは肩越しにイグサを盗み見た。

 大人なのに、ハフリよりずっと歳を重ねた人であるのに、その目は泣きだしそうなこどものようで、


「イグサさま!」


 声をかけずには、いられなかった。


「いってきます」


 イグサが弾かれたようにこちらに歩み寄ろうとしたが、同時にティエンの蹄が力強く宙を蹴る。イグサの姿はまたたく間に遠ざかり、彼女が口を開いて紡いだ言葉は、わからないままだった。


「よけいなこと、言ったかな」


 ソラトがなにも言わないのが気にかかり、尋ねる。


「いや」


 背中越しの返答は簡潔だった。


「かえるんだから、『いってきます』でいい」

「そっか」


 ほっと息をついた。

 まだ夜の帳は落ちている。彼方に火蜥蜴の山を含めた山々の稜線がぼんやりと浮かび上がっているが、ハフリたちの目的地はそちらではない。

 進行方向には大きな影が聳え立っている。龍の山。輪郭しか見えないせいか、巨大な生き物が目の前に居るようにも見えて、身体が震えた。

 過敏になっている。こわいのだ、ほんとうは。これから何が起こるのか、こわくてこわくてたまらない。


「怖い?」


 ふいに問われ、


「こわいよ」


 けれど、迷いなく。


「でも、だいじょうぶ。ソラトがいるから」


 ふ、と笑う気配がした。


「じゃあ、あのときみたいにティエンに急降下させなくてもいいな」


 思い返せば、ティエンに騎乗するのは二度目だ。交わす会話がまるで一度目――森を出たときの繰り返しのようで、けれども違いがこそばゆく、ハフリも思わず笑みをこぼした。

 夜の闇を駆け抜けるティエンは、遠目からみれば流星のようかもしれない。

 風にあいされる獣。

 翼獣は、乗っていてもあまり揺れを感じない。しなやかに空を蹴ったあと、翼をひとふりして勢いをつけて、そのまましばらく滑空している。ひと二人を乗せる巨躯が落下することなく宙を駆けるというのは、思えば不思議なことであった。

 背中から伝わるソラトの体温と心臓の鼓動が心地よい。火照った身体も相まって、そんな場合ではないのにうつらうつらしてしまう。扉を叩かれるまではあんなに目が冴えていて、本を読み返していたのに。安心するような場面でも、ないのに。

 背筋にわずかに走った悪寒は、嫌な予感は、気のせいだろうか。


「ソラト」


 不安を拭えない。過敏になりすぎだろうか。恐れ過ぎなのだろうか。でもその恐れは、山の頂で起こることに対してではなくて、


「このまま一緒に、行くんだよね……?」

「ティエン」


 ハフリの言葉を遮るように、ソラトが獣の名を呼ばう。高度が、下がる。地上に向かってゆく。


「ソラト」


 思考がぼんやりとしていく。抗い難い眠気に、心は混乱し恐慌する。身体が動かない。

 喉の奥にすえた味が残っている――馬乳酒。ハフリだけが呑んだあれは。


「ソラ、ト」


 ティエンが着陸する。ソラトが先に降り、自由のきかないハフリの身体を抱き上げた。ここがどこかはわからない。ただ、山の頂ではないことは確かだった。

 岩陰とおぼしき場所に降ろされると、身体から力が抜けて横たわってしまう。ソラトが龍の山の影を背負ってハフリを見つめている。ソラトの漆黒の衣が闇に融ける。闇がソラトをからめとっていく。


「どこいくの」


 全身全霊の力で咄嗟に掴んだソラトの指先は、あたたかい。

 彼の手が冷たくないことを、本来なら喜ぶべきことなのに、


「ソラト」


 声が震えた。だってソラトは、ハフリをここに置いていこうとしている。ひとりで、いこうとしている。


「わたし、なにか、まちがえた……?」

「間違ってない」


 視線がかちあう。ソラトの表情は穏やかで、けれども寂しげだった。


「俺が悪い。ごめん。やっぱり連れてけない」

「どう、して?」


 ソラトは困ったように笑うだけで、何もこたえてはくれない。赤子をあやすようにハフリの頭をなでて。ふいに、ほどかれた髪に指をすべらせる。


「さっきの馬乳酒には、眠り薬が入ってる。身体に害があるものではないから。寒いと思うけど、ここで待ってて」


 誰を、と返す前に返ってきた言葉に、


「スオウとツムギが、追ってくると思う」


 ハフリは絶望し、同時に糸が切れるように意識が途絶え、目の前が真っ暗になった。


 ――こんなこと、のぞんでない。




   ◇




 薄らと白み始めた空が、山の輪郭を浮き彫りにする。比例して、聳え立つ山はいっそう陰影の濃さを増していった。薄らと灰がかった空の白と、すべてを飲み込む山の黒。二色に分たれゆく世界を目の当たりにして、知らず、ソラトは唾を嚥下した。

 ティエンの手綱を繰り山の頂を見据えながらも、後ろ髪を引かれている自覚はある。

 ハフリの体調が芳しくないことは知っている。もし、悪化してしまったら。あるいは、獣に襲われたら。狩人に、捕まってしまったら。自分が選んだ「最善」は、襤褸ぼろ切れのように穴だらけだ。だから不安が次々に浮かび上がって、消えてくれない。

 それでも、追ってくる存在を信じられるから、山の頂きに向かうことができる。

 山烏の民の朝は早く、スオウらも今頃は起きているはず。ハフリが小屋に居ないことに気づけば、チカラを使って探索し、追ってくるだろう。早く見つけてくれ、と乞うように思う。


(俺じゃなくてもいい)


 ぽつりと、思う。


(だから、俺は俺の役目を果たす)


 詭弁だ。わかっている。おのれの本来の役目は、ハフリを火蜥蜴の山の火口に突き落とすことだったのだから。

 今しようとしていることはただの自己満足。しかも、先の見通しも立てられない愚行だ。わかっている。わかっているのに、止められない。

 こんなことははじめて――否、二度目だった。

 一度目は、歌鳥の民の暮らす森で、ハフリに手を差し伸べたあのとき。雨を喚ぶ人びとを探す道すがらで出会ったに過ぎない少女を、捜索を打ち切り村に引き返す悪手を打ってまでも村に連れて帰る選択をした。

 うつむいてばかりの彼女をみて、森から連れ出したいと思った。

 あのとき、自分のことを村長の孫でも身体の弱い弟を持つ兄でもなく、ただの「自分」だと実感できて、心底安堵したのを思い出す。


 背負ったものの重さを、ひととき忘れることができた。投げ出したかったわけではないけれど、重く巨大なものにのみこまれるか、潰されるかの瀬戸際だったときに、すくわれた思いだった。

 生贄のことをイグサに告げられたときは、なにも考えられずに再度村を出た。南西の砂漠に迫ったものの、暑さに弱っていくティエンに無理を強いることはできず、引き返さざるを得なかった。

 そもそも、砂漠に近づけばティエンが参ることなどわかりきっていたのだから、自分はただ逃げたかっただけなのだ。逃げて逃げて、最後、草原に立ち尽くし、砂煙にけぶる地平線を見つめて汗を拭い、ただ静かに「しかたない」と思った。

 予言なのだから、しかたない。それで村が救われるのなら、しかたない。だから自分はなにも悪くない、と。


(俺は、そういうやつだ)


 彼女から向けられる信頼や期待を、裏切ることしかできなかった。


(だけど、)


 手綱を引いて降下の合図を送る。ティエンは巨躯に似合わぬ軽やかな動作で着陸した。

 龍の山の頂。ソラトも足を踏み入れたことのない、龍の荒御霊が封じられた場所。祠とおぼしき小さな建物を中心に、円を描いて地面が剥き出しになっている。そこには樹も、枯れ草すらも生えていない。不自然で、異様な光景だった。

 ティエンから降りて、社から離れた樹の影に待機するよう命じる。

 歩み寄ったそこには、鈍色の祠があった。

 石でも樹でもない。恐らくは金属でつくられた、ソラトの身の丈ほどの建物だった。表面はひどくなめらかで、風雨にさらされてきたはずなのに、欠けも歪みも見当たらない。継ぎ目らしきものすらほとんどなく、まるで大きな金属の塊をくり抜いて作ったかのようだった。


 祠、と呼ばれてはいる。


 けれどそこには、祈りを受け止めるものの気配がなかった。供物を置く場所も、飾りも、神に捧げるための文様もない。かわりに、文様にも文字にも見える細い溝が、等間隔に刻まれている。


 これは良くないものだと、本能が訴える。


 火蜥蜴の山から降る灰に抱く嫌悪によく似ていた。生きるものに馴染まない、毒になるものである、と。何も知らないのに、直感する。

 それでもここで臆するわけにはいかず、玉を封ずる扉と思われる場所に手を伸ばす。

 指先が触れると、低く唸るような震えが手のひらに伝わった。まるで、閉ざされた内側で何かが眠らず動き続けているかのようだった。

 耳障りな音を立て、あっけないほどに簡単に開いた扉。その奥にあったのは、光る玉だった。

 光る玉、としか言いようがない。

 透明な玉のなかに、さらに透明な管らしきものが幾重にも張り巡らされている。その管の中を、青白い光が駆け巡っていた。

 光は炎のように揺らめくのではない。水のように流れるのでもない。一定の速さで走り、曲がり、分かれ、また合わさる。まるで見えない命令に従っているかのようだった。

 虫の翅音に似た、高く細かい音が耳をつく。音は途切れることなく、同じ高さで鳴り続けていた。生きものの息遣いではない。風鳴りでもない。けれど確かに、何かが動いている。

 玉の背面で何かが胎動しているような、気味の悪さがあった。

 手を伸ばすことを躊躇いそうになる。けれど、


(俺はもう)


 歯を食いしばり、得体の知れない恐怖を抑えつける。


(後悔したくない)


 ハフリと出会ったことも、彼女を村に連れ帰ってきたことも、すべてイグサの『予言』の上の出来事にすぎなかったのかもしれない。

 けれど、その予言に乗っかったままでいることができなかった。「しかたない」と思えなかった。

 だから最後まで、足掻く。絶対に諦めず、逃げない。

 そうすることを、他ならぬ自分自身で選んだ。

 片手で玉を掴み、腕を振りかぶる。


 そして、



   ◇



 フゥのさえずりに、意識がうつつに引き戻される。

 軋む身体に鞭をうち、ハフリは身を起こした。腕を突っ張って上体を支えながら、辺りを見渡す。抗い難い眠気は去っていたが、身体が未だ重く、頭が働かない。

 地を這うように風が吹き、朽ちかけの葉たちがざわついている。空気が重い。それなのに、くちびるの合間から入り込んだ外気は思いのほかなめらかだった。

 つんとした青臭さが、鼻の奥をつく。

 この地では味わったことのない、けれどよく知る気配に、ハフリは身を震わせた。悪寒が走り、肌が粟立つ。弾かれるように頭上を仰いだ、そのとき。

 空から山の頂へと、一直線に閃光が走った。

 闇を割る、鮮烈な白光。たまらずまぶたを閉ざしたものの、地を穿つ刃光は、まなうらに焼き付き目の奥を刺し貫いた。

 なにひとつ考える隙を与えぬまま、轟音が耳を劈く。

 地鳴り。突風。暴風。

 悲鳴をあげることすらも許されず、山の方角から奔流のごとく押し寄せる風に攫われぬよう、身を丸めフゥを胸にかき抱き地面にしがみつく。

 あおいにおいが濃さを増す。空気がむわりと湿りけを帯びる。吹き荒れる風に逆らい、やっとのことで顔をあげると、夜闇よりも深く黒い雲が、山頂から広がるようにして渦巻いていた。

 狩人が現れたときとも、天馬とも違う風。

 けれど、この土地で出会った三つ目の圧倒的な風が連れてくるものが何なのか、ハフリにはわかってしまった。わかってしまったけれど、信じたくはなかった。


 ぽつ、と。


 頬のうえに落下してきたそれを、ハフリは指先で拭った。それは、水であった。まごうことなく、雨粒であった。風はわずかに和らいだものの、雨はみるまに激しさを増してゆく。


 ――何もせずに、雨が降るわけがない。


「ソラ、ト」


 たちまちに衣が水を吸って重みを増し、身体にまとわりつく。ほどいた髪が頬に首にへばりついた。

 どうにか立ち上がり、おぼつかない足取りで、ハフリは歩を進めた。そうせずにはいられなかった。

 稲妻は狙い済ましたように山の頂を貫いた。ソラトになにも起きていないはずがない。


(わたしは、どこでまちがえたの。どうすれば、よかったの)


 喉が潰れる。顔がひしゃげる。踏み出した足が石の上ですべって、ハフリは膝から転倒した。フゥの無事を確認し息をつくも、雨の冷たさと膝の痛みと身体の怠さとがごちゃまぜになって喉元まで込み上げる。

 それでも、


(いかなきゃ)


 立ち止まるわけにはいかなかった。まだ、終わっていない。地面に爪を立て、腕に力をこめた。

 けれど、身体は鉛のように重くて、言うことをきいてくれない。ひとりではどうしようもできない。はやく行かなければいけないのに。

 おねがいだれか、と。

 誰にも聴こえないと知りながらも、言葉がこぼれて地面に落ちる。


「……たすけて」

「ハフリ!」


 名前を呼ばれた気がした。勢いよく誰かが地面に降り立って、こちらに駆け寄ってくる。力強く抱きしめられて、視界にはいった群青の髪に、ハフリは喉を詰まらせた。


「ツムギ、さん」

「無事で良かった」


 雨音に蹄の音が掻き消されていたのだろう。少し離れたところには二頭の馬――ウバタマとホムラが控えていた。スオウがホムラから降りて、こちらに向かってくる。


「スオウがチカラを使って探してくれたの。見つけられて良かった」

「良かったとも言っとれん。なにがあった。ソラトは、どこにおんの」


 濡れそぼる髪を鬱陶しげにかきあげるスオウの表情は険しい。


「ソラトは頂上にいる。早く、いかないと」


 山の頂にソラトが向かい、今雨が降っている。その理由を察したのか、ツムギは青ざめ、スオウは小さく舌打ちを漏らした。


「馬ではこれ以上登れん。足でいくにもこの雨じゃ厳しい――」


 弾かれるようにスオウが天を仰ぐ。つられて顔を上げれば、雨のなかで星がひとつ瞬いた。

 あれは、


「ティエン!」


 脇目もふらずこちらに向かってくる翼獣に、ハフリは膝の痛みも忘れて転がるように駆け寄った。

 荒々しい足取りで着地したティエンの様子は尋常ではない。金色の体毛は泥に塗れ、翼には小枝を巻き込み、前肢には細かい裂傷が見受けられる。

 けれどそれらに構う様子も見せずに、ティエンはハフリの衣を嘴で挟んで強く引いた。早く乗れと、瞳が訴えている。

 けれどティエンには、二人しか乗ることができない。

 ティエンと目を合わせ、ハフリは硬直する。自分がいってどうにかなるのか、そもそも役に立つのか、二人が行った方が良いのではないか、と。


「ツムギさん、スオウ」


 二人を振り向く。「行かなければ」「行きたい」と思いながらも、よぎった不安がそうさせた。


「ハフリちゃんと、ツムギで行き」


 スオウが迷うことなく告げ、「早く」とツムギの背を押した。


「早く、行け」


 急き立てるスオウがゆっくりと膝を折る。抑えているつもりなのだろうが、呼吸音がおかしい。

 発作だ、とハフリは息を飲む。

 チカラを使った、代償。

 ツムギが瞠目する。


「どうしたの」


「目ェ使いすぎただけ。すぐ治る。付いてけ。オレのことはいいから」


 スオウは、切れ切れに言葉を発するのも辛そうだった。水たまりに崩れ落ちそうなスオウに駆け寄り、ツムギが眉をつり上げた。


「ばか言わないで」

「状況見ろ」

「状況が見えてないのはどっち? ティエンは怪我をしてる。あれじゃふたりも乗せていけない」


 ツムギが一度、目を伏せる。一呼吸置いたあと、彼女がハフリの方に向けたまなざしは静かに澄み渡っていて。ひとつの覚悟を決めたのがわかった。


「ごめん、ハフリ。あたしはいけない」

「オレは置いてけって」

「置いていけるわけないでしょ!」


 張りつめた覚悟の裏で、感情が渦巻いている。スオウを睨む紺碧の瞳は決壊を堪えるように潤んでいた。

 スオウが身体から力を抜いて、頭を下げた。


「……ごめん、ハフリちゃん」

「大丈夫だよ」


 ティエンに騎乗する。ソラトのまねごとのように手綱を手に持ち、フゥを小袋にきちんと納めると「お願いね」とティエンの首筋をひとなでした。

 体調は、良くない。

 どうなるかもわからない。

 けれど、


「いってきます」


 ツムギが強くうなずく。スオウが顔を歪めながら、言葉を紡いだ。


「励ましになるか、わからんけど。オレがこうなるってことは、たぶん、間違ってない」


 スオウとツムギの声が、ぴたりと重なった。


「ここで、待ってる」



   ◇



 地に伏せ雨に打たれながら、ソラトは浅い呼吸を繰り返す。

 何が起こったのか頭が追いついていない。玉を割った瞬間膨張し、爆音とともに文字通り弾けとんだのは、玉が収められていた金属の祠だった。

 咄嗟に腕で顔を庇ったものの、身体は爆風でふっ飛ばされ、木の幹に強く叩きつけられた。多少骨が傷んでいる気がするが、それだけならまだいい。運が悪かったのは、弾けとんだ金属の破片が、右足の太ももに突き刺さっていたことだ。それも相当、深く。

 身体を貫く激痛は炎で身を焼かれるかのよう。そのくせ右足の感覚は失せている。身体を侵す異物を取り除きたい衝動に駆られながらも、抜けば出血が増えることはわかっていたので耐えるしかない。

 止めどなく流れる血液と、芯から凍えていく身体に、まずいなとだけ思った。震える指先でどうにか帯を解き、足の根元を縛り付ける。力が入っているのかも、そもそもやり方が正しいのかもわからない。

 身を横たえ丸めたまま、半開きだったくちびるに飛び込んできた泥を力なく吐き出す。口のなかがざらざらとしていて気持ちが悪い。打ち付ける雨が鬱陶しい。世界が回る。視界が霞む。

 熱さと寒さがぐっちゃぐちゃに入り交じり、頭の隅だけがいやに冴えている。自分の身体を一歩後ろから見ているような感覚に抗おうと、手足の先を意味もなく動かした。


 右足は、動かない。


 この雨では少し離れてしまえば姿が見えない。果たしてティエンは無事だろうか。祠から離しておいたのは正解だったけれど、無傷だとは思えない。取り返しのつかない怪我をしていなければいいが。


(ハフリは、スオウたちと会えたかな)


 こんな雨に長時間晒されていたらと思うと気が気ではない。脳裏には、別れ際の表情が灼き付いている。

 翠の瞳を不安げに揺らして、こちらに問いかけた声は震えていた。


 ――わたし、なにか、まちがえた……?


 間違ってない。

 間違いにはさせない。

 だから、ここでくたばるわけにはいかない。


(足くらいどうなったっていい。帰ることができれば)


 別れ際、指先を縋るように掴んだ、ひどく冷えきったちいさな手を思い出す。あんなちいさな手の持ち主に、一体何度救われたかわからない。

 ひとつひとつのことに、あんなにもやわらかく笑って、つたない笛の音に泣いて、何度振り払おうと手を握り、「ここにきて良かった」と口にした。

 これ以上彼女を裏切りたくない。償いきれなくても、せめて悲しませることのない結末に、持っていく。

 ふと、胸元にいつもあったものがないことに気づく。気力を振り絞ってあたりを見回すと、やや離れた場所に引きちぎれた鎖とともに横たわっていた。肌身離さず首から下げていた大切なものだ。失うわけにはいかない。

 腕の力だけで地面を這い、手を伸ばす。指先に引っ掛けた鎖をたぐりよせることかなわずに、ソラトの視界は暗転した。

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