第十一話 雨に沈む
翌日、窓の外では昨日から降り出した雨が勢いを増し、今も窓を叩いていた。
昨日再び目を覚ましたのは夜になってからで、この安いアパートで夜中に片付けなんてしようものなら苦情がきてしまうだろうと、そのまま横になっていた。まどろんでは起きるのを繰り返すうちに朝になっていて、テレビをつけてみれば今日は一日中雨が降るとの予報が流れていた。
トウカは、隣町から毎日自転車に乗って公園まで来ている。歩くには少しばかり遠い距離だ。しかし傘をさしながら自転車を運転するというのは難しい、というか違法である。ここまで土砂降りだと、合羽を着てくるのも大変だろう。
連絡手段がないため確認はできないが、今日は待ち合わせることはできないと判断して、有史は指定ゴミ袋を取り出す。とりあえず、片付けをしてしまおう。
集中して掃除をしているうちに、昼になっていた。時計を見た途端鳴りだす都合のいい腹を押さえて、そういえば昨日からまともに食べていなかったことを思い出す。
とくに生きる気力がなくても、幻を見るほどに狂っていても、自分の体はしぶとく生きようとしているらしい。
冷蔵庫の中に酒しかないことは、一昨日の晩から知っていたことだった。
「……コンビニにでも行くか」
アスファルトが白くなるほどに強く地面を打つ大粒の雨と、太陽を隙間なく覆い隠す厚い雲に溜息をついて、有史は玄関のドアを開けた。
コンビニから帰る途中、いっそう激しく傘を叩く雨音に、まるでそれ以外に音が存在しないかのような錯覚を覚える。雨の日というのは絶えず雨音が聞こえているのに、どこか静寂を感じさせるのだ。視界の悪さが、それを助長させていた。
雨粒のひとつひとつに吸い込まれた音はどこへ流れていくのだろうかと、有史は想像する。側溝に向かわなかった雨は、道路に薄い膜を張るように流れていく。いま歩く道から右に逸れると公園があって――
そうして、思い浮かべてしまった。この静寂の雨のなか、ひとり公園で寂しく待っている女の子の姿を。
「腹、減ってるんだけどな……」
一度気になったら、そのまま帰ることができなくなってしまった。有史の足は自ずと公園へ向けられる。
雨水のあとをついていくように、十字路を右に曲がる。そのまま真っ直ぐ歩いた、その先。
そして、見つけてしまった。
傘をささず、合羽を着ることもなく、この土砂降りのなかでずぶ濡れになりながらベンチに座っている、ひとりの女の子を。
思わず、有史は立ち尽くしてしまう。するとトウカは有史の姿に気付いたようで、ゆっくりとこちらを向き、やがて目が合った。
「……ユウシさん、おそいよー」
いつもと変わらない、トウカの笑顔だった。
ああ。連絡が取れないのなら、確認だけでいいから来るべきだったのだ。
有史は何も言うことができないまま、トウカの傍へと歩み寄る。そして今更意味がないと知りながら、自分が使っていた傘をトウカの頭上へと移動させた。
「あはは、傘はもう意味がないかなー」
「知ってる。ごめん」
「なんで謝るの?」
「……ずっと待ってたのか」
「ユウシさん来るとは思ってなかったよ、だから来てくれて嬉しいなぁ」
「そうか……ごめん」
「もう、ユウシさん変なのー」
「……そうだな」
頭から伝って腕を流れていく雨で傘のグリップが滑りそうになり、握る手に力を込める。
今さらトウカに傘をさしても遅いのも、ただ自分が雨に濡れていくだけなのも、分かっていたけれど。
それでもこの笑顔に降り注ぐ雨が、少しでも減ればいい。そうしてしばらくの間、有史はトウカに傘をさし続けていた。
雨の中待たせていた罪悪感があったとはいえ、先程までの自分は頭がおかしかったのではないか。数十分後、有史は頭を抱えていた。
これはとても大事なことなので何度でも言うが、自分は少女趣味と言われる類の人間ではない。しかし。
「万が一、第三者にこの状況を知られるとな。俺の身が危ないんだよ」
見慣れたワンルーム。日常の風景。紛れもなく有史が借りているアパートの一室である。
隅に置かれた小さなテーブルの前には来客用の座布団が置かれ、そこに行儀よく座っているのは他でもない、トウカだった。
「だいじょうぶ。少ししたら帰るから」
トウカはなにも問題などないというような顔で、有史が渡したホットミルクに手をつけた。
「いや、少しじゃなくて。それ飲んで服が乾いたらすぐに帰ってくれるとありがたい」
「じゃあゆっくり飲もうっと」
「……」
幼い少女を保護者の許可なく自室にあげる。世間からみたら、立派な犯罪である。
どうかしていた。罪悪感などあの公園のごみ箱にでも捨てて、あのまま帰すべきだったのだ。
そうはいっても連れてきてしまったものはどうしようもなく、ひとまずトウカには浴室を使わせて適当な服を貸し、今は衣類を乾燥機にかけている。トウカが住んでいる施設にばれては困るので帰りはまた雨に濡れてもらうことになるが、何もしないよりはいいだろう。体が冷えてしまう時間は極力減らしておきたかった。
窓越しでもはっきりと聞こえる雨音が室内を満たし、そこに時折、トウカがホットミルクを飲む音が混ざる。有史はテーブルを設置したところとは反対の壁に背中を預けて座り、しばらく目を閉じていた。
その間、この部屋を流れる時間はとても穏やかなものに思えた。
――目の前の現実を受け入れろ。そう自分の心が訴えている。
有史はゆっくりと目を開けた。幻もなにもないのは、彼女がいるから。ならば自分は、目を逸らしてはいけないのだ。
いつも通りのようなやりとり。しかし、決定的に違うもの。
「トウカ。今日、なんで来たんだ?」
「んー?」
先ほど公園で見せたときのトウカはいつも通りの笑顔であったように思えたが、それは気のせいだったのだろうか。
いや。あの状況でいつも通りの笑顔を見せることを疑うべきなのだ。
今のトウカは手元のマグカップを見つめている。彼女は誰かと話すとき、相手の目を見て話すことができる子だ。ストラップやイルカなど何かに夢中でない限り、マグカップを見つめたまま返事をするなんてことはありえない。
しかし、今それを問いただしてしまうと、きっと彼女はなにも話してはくれないだろう。
「俺が公園に行くとは思わなかったと言っていたな。それなのに、なんで待っていたんだ」口にしたのは、素直な疑問だった。「雨は昨日から降っていたんだ。自転車で傘をさせないとしても、なんで
急いでいた、なんてこともないだろう。自分が来ないと分かっていたのなら、尚更である。
「……朝おきて、雨を見てたらね」トウカが小さな声で話し出す。「なんだか、こわくなっちゃって」
「水が好きなのに?」
「うん。だから、いつもは雨も好きなんだよ。でも今日は、なぜかこわくて」
トウカの視線は、やはり手元のマグカップに固定されたままだ。
「それでね、あの公園にいけば、こわいのなくなるかなって……なんとなく、そう思って」
ぽつぽつと、雫が落ちた。それは、マグカップを持つ小さな手に落ちては跳ねる。
まるで、部屋の中で小さな雨が降っているようだった。
「ごめんなさい……ユウシさん、迷惑だったよね」
「……トウカ」
「毎日わがまま言って、昨日と今日はわたしのわがまま聞かずに済むはずだったのに、ごめんなさ……」
「トウカ」
少し強く名前を呼ばれて肩を跳ねさせたトウカは、大きな目を見開きながらもようやく有史を見る。有史は目が合ったことに安堵しながら立ち上がり、約三歩分の距離を残してもう一度腰をおろした。
「迷惑だったら、俺はとっくにそう言ってるよ」
嘘を言ったつもりはなかった。困ったとか面倒だと思うことはあっても、迷惑だと思ったことはないはずだ。そんな自分の目を見たトウカはしばらくの間、迷うように目を泳がせてから、再び目を合わせて恐る恐る口を開いた。
「……ユウシさん。わたしの話をしても、いい?」
「ああ」
トウカの手の中にあるホットミルクには、うっすらと膜が張っていた。
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