第2話「盛りそば」


 一階の食堂では、実に不可思議な光景が繰り広げられていた。

 俺と妹とお袋、そして「加納先輩」とやらが、同じ食卓を囲んでいるのだ。俺以外の三人は、互いに互いの存在を、何の疑問も無く受け入れている。俺はというと、三人の様子、特に「加納」とか呼ばれた女を、しげしげと観察しながら、ブリの竜田揚げを食っていた。おかげで味の方はまるで脳に伝わって行かなかった。

 問題の女は、さっきは仏頂面ばかりしていたが、食事を始めたらガラリと変貌した。水を得た魚のように、輝くような表情で、何を食っても美味しい美味しいと連発してお袋を喜ばせた。女子としては食べっぷりも見事なもので、白米は三杯もおかわりした。俺もそこそこ食うほうだが、きっと俺と同じくらいは食ったはずだ。

 しかし、食事の作法は綺麗だ。俺は論外だが、香澄のほうが余程行儀が悪い。育ちがいい奴なんだろうか? それ以前に、そもそもこいつは、今までどこに住んでいた何者なのかが、大問題なのだが……

 流石に、頭の混乱が頂点に達してきた。俺は早々に飯を食い終え、自分の部屋に上がることにした。独りになって、この異常な状況について分析しようと思ったのだ。

 すると、階段を昇っていく途中で、食堂での会話が俺の耳に伝わってきた。

「あ、おばさま。私、手伝います」

「あら~いつもありがとうね。本当にサエちゃんはいい子ね~『宗司の彼女』にしとくなんて、本当に勿体無いわよ」

「そんなことないですよ。当たり前のことですから」

「そうだよ。加納先輩、お兄ちゃんの替わりに家族になってくれればいいのに~」

 と……そんな内容。


 ……………………


 「サエちゃん」……だと?

 「俺の彼女」……だと?


 なぜだか、これについては、叫ぶことが出来なかった。背筋を起点にして、鳥肌がさざ波のように全身に伝播していった。

 なぜ「サエちゃん」なのだ……? なぜ「俺の彼女」なのだ……?

 なぜ……? 一体、なぜ……?

 部屋に戻った俺は、部屋の中央に置かれた万年コタツの中にもぐりこんだ。四月上旬の函館はまだ寒い。桜のつぼみがほころぶのはもう少し先で、コタツも絶賛稼働中なのだ。腹も膨れた上に、思考回路が麻痺して放心状態になった俺は、コタツの温かさも手伝って、急激に睡魔に襲われていった。

 しかし、眠りに落ちようというその瞬間、部屋のドアがガチャリと開いた。「サエちゃん」とやらが涼しい顔をして戻ってきた。

「それじゃ、おやすみなさい。宗司君」

 そう言いながら、平然と俺が座るコタツを通過し、例のドアを開け、離れに入ろうとする。

 その瞬間に、俺の意識は突然に覚醒する。

「ちょ……ちょっと待て。いや……ちょっと待ってくれ、待ってくださいって!」

「サエちゃん」は、向こう側の部屋に半分足を踏み入れた姿勢で、立ち止まった。

「ん?……何?」

 俺の動揺など露知らず、「サエちゃん」は相変わらず平然としている。

「お前、誰だよ」

「『誰』って?」

「『誰って』って…… だって俺、お前なんか知らねえぞ!」

「え?……『知らねえ』って? どういうこと?」

 ここで、女の表情はにわかに曇った。これは逆に予想外だった。

「だって、お前なんか今日始めて見たぞ。なのに何で、香澄もお袋もお前の事知ってんだ。何でお前は、香澄やお袋や俺のことを、昔から知ってるような態度なんだよ! それに、そのドア何だよ。向こうに張り付いてる『離れ』は何なんだよ! 何もかも訳わかんねえだろ!」

「宗司君……あなた、私のこと……『自分の彼女』のことが判らないっていうの?」

「ああ、判らねえよ! これっぽっちも判らねえよ!」

 すると「サエ」は、突然両手の平を俺に向けて差し出した。まるで、「ちょっと待って」と言わんばかりに。

「ちょ……ちょっと待って……少し時間をちょうだい。考えさせて!」

 そういうと、腕組みをして眉をひそめ、なにやら思索を始めたようだった。まあ、待てと言われれば、待たざるを得ないだろう。この、謎だらけの状況では、相手の出方が判らない限り、俺としては一歩も前に進めないのだ。

「どういうことなの……」

 しばらくして、「サエ」はそんな独り言をもらした。続いて「そうなると……」とか「つまり……」とか、色々とつぶやいているうちに、五分ほどが経過した。

そして、いきなり俺の方に向き直ると、

「宗司君。私ね、『あなたの彼女』なのよ。今は、とりあえずそういうことなんだと納得して、それに従ってくれない?」

 などと、訳の判らないことを言った。

「納得できるわけねえだろ!」

「ううん……そうね~そうだわ。じゃあ、これは『ごっこ遊び』みたいなものだと思って欲しいの。そういう『設定』なんだと思って、演じて欲しいんだけど……」

「設定? ごっこ遊び? それじゃ、香澄やお袋もそういうつもりだったってことか?」

「んん~と……そういうことであるような無いような感じで~……凄く説明はしにくいのよ。でも、宗司君。そういうことにしてくれないかな~そうしたほうがいいのよ。お願いなんだけど」

「んんんんんん~~……???」

 俺は力の限り、苦虫をつぶしたような表情のままで固まってしまった。「してくれないかな」、と言われても、どうにも理性が納得しないのだ……

「だめかな~……」

 そういいながら、少し首を傾げて、うらめしそうな、おねだりをするような表情になった。

 こいつ……こんな顔も出来るのか……

 俺は、こう見えて情にもろい。白状するのは恥ずかしいが、えらく涙もろくもある。子猫が捨てられている光景なんかを見たら、居ても立ってもいられなくなるタイプだ。そう……こういう、捨てられた子猫のような顔をされるのが、一番弱いのだ……

「そうだ。私からお願いする以上は、出来る範囲でお礼もするわ。それが筋だし、論理と言うものだもの」

 お礼……だと? 「出来る範囲で」というが、それが具体的に「何を」「どこまで」なのかは不明だ。健康な男子高校生としては、同年代の女子が言う「お礼」と言う言葉には、なんとも甘美な響きも感じざるを得ない。しかし、そんなあられもない妄想を排除して、現実的に、今自分が必要としていることを思い返してみると……

「ええと……そうだな。春休みの宿題で、判らない場所が大量にあったっけ。それ、解けるもんなら解いて欲しいんだけどな」

「宿題? どんなの? 見せてみて」

「数学だよ。今出す。まあ、立ったまんまじゃなんだから、そこに座れよ」

「サエ」は俺に言われた通り、素直に座布団に座ってコタツの中に足を入れた。

「うわあ! あったかい! これ、気持ちいいわね!」

 ……ん? こいつ、コタツに入ったこと無いのか?……と思いながら、俺は数学の宿題プリントを取り出した。コタツの上に散らばった、バンプラ制作用の工具類を脇にどけて、プリントを「サエ」が見えるように差し出した。

 それに一通り目を通すと、「サエ」はボソリと言った。

「え? 何これ……? これでいいの?」

「あ……ああ。それでいいんだけど」

「じゃあ、清書はあなたがしてね。私の筆跡じゃまずいだろうから」

 プリントには、学校一人気が無い教師、数学の武馬の奴が作った難問奇問が、三角関数を中心に、ごっちゃりと並んでいるのだ。数学が得意なアキヤですら判らない問題なのだから、常識的にはそう簡単に解けるはずがなかろう……と思っていたら、「サエ」はシャーペンを手に取るや、スラスラと解答を書き始めたのだ。

 俺はあっけに取られた。凄いスピードだ。問題を考えている時間は殆どゼロ。それこそ解答集からそのまま写しているような時間で、全ての問題の答が、プリントの余白に書き込まれてしまった。

「これでいいの?」

「ええと……答が合ってるかどうかは、俺にはわからねえ訳で……」

「合ってるわよ」

 「サエ」はよどみなく、自信たっぷりに即答した。ここまで言うからには、きっと合ってる……のか?

 なんだか、見慣れない記号が一杯書いてあるけど……

 一体……なんなんだ、こいつは……

「じゃあ宗司君。これで『設定』は受け入れてくれるの?」

 そうだった! そう言えば、そういう話になってたんだ……

「ええと……そうだな。とりあえず、そういうことにしておかないとまずいよな。こうして宿題を解いてもらった以上、それが『筋』ってもんだしな……」

 そこまで聞くと、「サエ」はぱっと表情を明るくして、コタツから立ち上がった。

「ありがと。じゃあ、私は、部屋に帰るわね。お休み」

「あ……ま……待て! もう一つ、知りたいことがある!」

 俺は、咄嗟に腰を浮かせて、そいつを呼び止めた。最も基本的で、俺にとっては重要な情報が、まだ欠けているのだ。

「ん……なあに?」

「お前の名前、教えてくれよ。名前すら知らないんじゃ、これから呼びようが無いだろ。ちょうど紙とシャーペンがあるから、漢字でフルネーム書いてくれ」

「そっかー……、そういう言い方するってことは、本当に、私の事知らなかったのね……」

 と言いながら、さらさらと漢字を書き始めたのだが……その字がとんでもなく下手くそなので驚いた。さっきの数学の解答の文字とは似ても似つかない悪筆だ。しかも、「書き順」は滅茶苦茶。まるで、外国人が見よう見真似で模写したような漢字だった。

 幸い、書き終わった漢字は一応読めるし、読み間違えようの無い、オーソドックスなものだった。しかし、問題はそれじゃない。


「加納冴子」


「ええと……かのう……さえこ?……でいいのか?」

「そうよ。私は、加納冴子。あなたの彼女よ。そういうことになってるの。よろしくね、宗司君、今度こそお休みなさい」


 ガチャリ……


 呆然としている俺を尻目に、気がついたら「カノウサエコ」はドアの向こうに消えてしまっていた。


 加納冴子……


 冴子……


 サエコ……?


 サエコ……サエコ……?


 サエコっていうのか……何で、サエコなんだ?

 何で「俺の彼女が冴子」なんだ? 違う……俺の彼女は……

 キリシマサエ……桐嶋紗枝なのに……


☆             ☆


桑城宗司(ええと、一応テストで送ってみるけど、ちゃんと届いてる? ……って、届いてないなら返信もできねえか……ハハ……)


桐嶋紗枝(届いたよ~ 男子からメッセージ貰うって初めてだから、ドキドキしたよ~)


 それは、俺が告白して、紗枝がそれを受けてくれて……その日のうちに、初めて俺たちが交わしたメッセージの文面。


 これから先の人生で何があったとしても、これだけは決して忘れない……


 それは、初めて俺に彼女が出来たって実感が沸いた瞬間だった……


 あの半年前の日以来、今日に至るまで、俺の彼女は断じて桐嶋紗枝なのだ……


 紗枝一人だけのはずなのに……


 ………………


 ………………



 そんな、朝霧のように取り止めのない想いを、突然断ち切るように、ポカリと意識が表層に浮かび上がった。


 やがて、「パチパチパチ……」と、聞き慣れない音が、頭の中に入り込んで来た。



 これは……?


 俺にしては実に珍しく、目覚ましをセットした時刻より前に、目が覚めたのだろうか……


 なにやら、布団の周囲でうごめいてる人間がいる……?

 覚醒しきらない頭に鞭を打ち、重たい瞼をむりやりにこじ開けて、顔を右側へ捻った。布団のすぐ傍で、パジャマ姿のあいつ……「加納冴子」が畳の上にあぐらで座り込んでいた。背中を丸め、床に置いた妙な道具でパチパチと音を立てて、何かの作業をしている。


 そうだ……こいつ……今俺の部屋の隣には、こんな奴が住んでるんだっけ……


 俺は、温かい布団からの誘惑をやっとのことで断ち切り、ゆっくりと上半身を起こした。

「あ、お早う、宗司君」

 さらによく見ると、冴子が床に置いて指で弾いているのは、「ソロバン」のようなものだった。いや、どう見ても外見はソロバンなのだが……

「ええと……お前、こんな朝早くから何やってんだ」

「ああ、これね。気にしないでいいわよ」

「気にしないでって、気になるだろ。なんだよ、その道具。何の作業やってんだよ」

「んん~……っとね。説明はしにくいんだけど……『プログラムそろばん』よ」

 よく見ると、左手の指でコマを弾くと、それとは関係無いたくさんのコマが、連動してパチパチパチパチ同時に動いている。これの音で目が覚めたのか? そして、それを見ながら、なにやら分けの判らない記号や矢印や数字を、右手で持った鉛筆で白紙に書き込んでいる。

 気にしないでって言われても……気になりすぎる……

 その時、枕の傍の目覚ましがプルルプルルと耳障りな音を奏で始めた。俺は、即座にアラームをオフにする。

「丁度起床時間になったみたいね。じゃ下に降りましょうか、宗司君。私もお腹空いちゃったわ」

 と、冴子はやけに爽やかな笑みを俺に見せて立ち上がると、リズミカルな音を立てて、階段を降りて行ってしまった。

 俺もノロノロと立ち上がって、冴子の後に続いて一階に降りると、食堂では既に、食卓の上に朝食が並んでいた。香澄はいつも通りに固焼きの目玉焼きを箸で切っている所だった。こいつは、毎日毎日飽きもせずに、目玉焼きの半分をしょう油で、残り半分はソースで食べることにしているのだ。

 俺たちが席に着くと、しばらく遅れて親父がキッチンに入って来た。手で持ったざるには、茹で上がったばかりの蕎麦が入っている。親父は、その日に売る分しか蕎麦を打たないから、蕎麦が無くなった時点で閉店にするのだが、こうして売れ残りの蕎麦が出ることもしばしばあるのだ。

「なんだよ……また、蕎麦かよ……」

 俺は、一応悪態をついておいた。

「馬鹿野郎! 気にいらねえなら、おめえは食うな!」

 親父の反応も含めて、このやりとりは我が家の「規定」だ。別に喧嘩をしているわけではない。残り物の蕎麦を家で食べる時は、親父と俺はこういうやり取りをするものと「決まっている」のだ。

 そう言えば、俺は親父と冴子が顔を合わせる所は初めて見るのだった。

 一体、親父はどういう反応をするのだろうかと考えると、緊張せずにはいられなかった。

「お早うございます。おじさま」

「よう! お早うサエちゃん。昨日は蕎麦が余ったから、今朝はサエちゃんの好きな蕎麦を茹でたぜ。打ちたてでなくて悪いけどなあ」

「うわあ! モーリ・ソーバね! 嬉しい!」

 ん……? 「モーリ・ソーバ」……?

 ていうか……やっぱり、親父と冴子もツーカーの仲になってるのか?

 これも「設定」……なのか?

 まあ……いいけど……

 俺は、蕎麦つゆにワサビとネギを全てぶちこんでかき混ぜた。さっさと平らげてしまおうと思ったので、箸で大量の蕎麦をつかむと、一気に器に放り込んだ。

 蕎麦屋に生まれた悲しさで、食卓に出てくるものは、年がら年中蕎麦だらけ。俺にとっちゃ、蕎麦なんてものは、ガキの頃から食い続けてきた、嬉しくもなんとも無い食い物だ。

 ん……?

 見ると、俺の正面に座っている冴子は、目の前に盛られた蕎麦を凝視し、箸を持ったまま硬直している。何やら、「期待と感動に打ち震えている」といった表情だ。

 こいつ……そんなに蕎麦が好きなのか?

「なんて、綺麗なおソーバなの! つやつやしてるわ!」

 などと、いかにも嬉しそうに叫ぶと、いきなり食卓塩のビンを手に取り、ぱらぱらと蕎麦の山の端のほうに振りかけた。何だ何だ? 蕎麦に塩? こいつ、蕎麦の食い方も知らねえのか? ていうか「ソーバ」って何だよ……

 冴子は、ほんの少しの蕎麦を箸でつまむと、スルスルと口にすすった。その最初の一口を租借するにつれて、輝かんばかりの表情になった。そして、いきなり……

 バンッ!

 机を左手のひらで叩いた。

「素晴らしいわっ!」

 突然の冴子の奇行に、俺は軽く肝をつぶした。しかし、お袋も香澄も親父も平然としているようだった。

「なんて、豊かな香りなの!」

 バンバンッ!

 また、机を叩いた。

「鼻腔に抜けるソーバの香り! 口に広がるソーバの甘み! これぞ『テウチ』の真髄だわ!」

 俺はこの発言に、極めて個人的、感情的な反発を覚えた。

 確かに、肉なら何でも好きなので、鴨南蛮なら歓迎する。天ぷらも好物だから、天ぷら蕎麦も許せる。しかし、盛り蕎麦なんて物は、食事代をけちりたい貧乏人が頼む、貧相な食い物に過ぎない。俺は、断じて言ってやった。十六年間蕎麦を食わせられ続けてきた自分の人生に対する怨念も多少こめて。

「はあ? なんだって? こんなの何の変哲も無い蕎麦じゃねえか。別に大したもんじゃねえよ」

「ちょっと、宗司君。それ間違ってるわ。おじさまの仕事の素晴らしさが判らないなんてあなた、明確に、大きく間違ってるわ!」

 バンバンバンッ!

 今度は連続して、しかも激しく机を叩いた。一体、何を熱くなってやがるこいつ……

 俺も、むきになってそれに反論しようとしたのだが……

 ドンッ!

 今度は、親父が物凄い勢いで、机を拳で叩いた。骨まで響いてくるような、ひときわでかい音がした。

「そうだ! サエちゃんは判ってくれてるんだよおお!! 俺の仕事を! 宗司、お前が間違ってる! お前の人生は十六年間間違ってんだよお!」

「宗司君、あなたは判ってる? モーリ・ソーバは人類が生み出した、至高の料理、食べ物の到達点の一つだってことを!」

 さらに訳の分からないことを言い出した。流石にこんな極論には反論したくなった。ていうか、「モーリ・ソーバ」って……

「はあ……盛り蕎麦が至高? 何でだよ?」

「だって、おソーバをモーリ以上に美味しく食べる方法がある? それ以上足すことや引くことができる?」

 バンバンバンバンバンッ!

「どんな具を足しても、何をどう工夫しても、よく出来た手打ちソーバには『改悪』にしかならないじゃない? ワサービや薬味を入れるのすら、おいしいおソーバにとっては勿体無いのよ! 香りと甘みを味わうためにも、半分はお塩だけをかけて食べなければならないわ。だから、モーリ・ソーバは究極の完成度を誇る料理なのよおお!」

 バンバンバンバンバンバンバンバンバンバンッ!!!!!!

「そうだああああ!!! サエちゃんはそこが判ってるんだよおお!!! 蕎麦つゆに、ワサビとネギをかき混ぜて食べちまうお前の人生は間違ってる! 断じて十六年間間違い続けてるんだよお! 少しはサエちゃんのことを見習ったらどうだああ!」

 ドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドンドン!!!!!!

 冴子に触発されて、今度は親父も机を叩き割りそうな勢いで、拳を連打した。

 二人の異様な剣幕に馬鹿負けして、俺は何も反論する気がなくなってしまった。

 ええと……そういうもん……なんだろうか???

「サエちゃんはなあ……こんなちっちゃい……幼稚園に行ってた頃からそう言ってくれてたよなあ……」

 親父が遠い目をして、そんなことを言い始めた。


 はあっ……???


 幼稚園の頃からって……そういう「設定」になってるのかよ?

「思えば、俺が自分の仕事に自信を持てなくなってた頃……サエちゃんの言葉に励まされて……俺は立ち直ったんだよ。蕎麦屋としてやっていく勇気が出たんだ。ありがとな~サエちゃん……」

「そんな……私は、正直な感想言っただけですから」

 見ると、親父は目に涙を浮かべてマジ泣きしている! うわ……キモッ! 俺に似て涙もろいのは知ってるけど……泣かなくてもいいだろうが!

 しかし、「幼稚園の頃から」って……俺は想像してみる……

 幼稚園児が、盛り蕎麦に塩を振って食べながら、机をバンバンバンと手の平で叩きながら、「モーリ・ソーバは、じんるいが生みだした、し高の食べものなのよおおお!!!」とかなんとか叫んでいる図を……

 嫌だ……

 いくらなんでも、そんな幼稚園児は嫌過ぎるだろ……

 その時、俺は気がついた。

 ひょっとしたら……ひょっとしなくても……この女……冴子って奴は「ものすごく変わっている」のではないかと……


☆               ☆


 そんなこんなで、俺達が登校する時間になった。ヤマ高の制服に身を包んだ俺と冴子は、香澄よりも少し遅れて玄関を出た。

 普段なら、即座に駅に向かって歩いて行くのだが、今日に限っては家の外で一旦立ち止まり、「蕎麦処 玄助」つまりは、我が家の外観を、あらためて見てみた。

 錯覚でも何でもなく、俺の部屋の隣に、冴子の住む「離れ」が、紛れも無く張り付いている。ありえるはずの無い怪異が、目の前に動かしがたく存在している。

これも「設定」なのだろうか……

 いや、現に物質として存在している以上、こればかりは「解釈」の問題では説明がつかないわけで……

 市電「堀河町」駅までの道を、いつも通り俺は歩いて行った。後ろから冴子の足音も俺の足音に重なって、同じテンポで続いてくる。

「ねえ、宗司君」

 突然、冴子が後ろから声をかけた。

「何だ?」

「私達、手をつないで歩いた方がいいと思うんだけど」

「な……何いい??」

 いきなり、とんでもない発言が奇襲して来た。

 もしも、物を食べている最中だったら、俺は確実に吹いていただろう。

「な、何でだよ!」

「だって、私達恋人だから……その方がいいと思うの」

「まま、まずいだろそれは。学校に行く途中で!」

「そういうものなの?」

 冴子はまるでピンと来ていないようだ。少なくともうちの学校は、例え「出来ている」間柄であっても、学校の行き帰りで手をつないで歩けるような校風では無いのだ。

「ああ、そうだ」

「じゃあ、腕を組むのは?」

「……それもまずい!」

「でも、恋人同士ならそれらしくしたほうがいいと思うの。そういう『設定』に従うんでしょ?」

「恋人らしく……ねえ……」

「じゃあ、二人並んでもっと近づいて歩いたほうが、自然じゃないかと思うんだけど。それもまずいの?」

「いや……それは、問題ないし、むしろ自然かもしれないけど……」

 すると、後ろから冴子がズイズイと早足で追いかけてきて、俺の真横に並んだ。

 腕と腕が触れるか触れないかという、かなりきわどい距離感だ。心拍数が急激に上昇した。白状すると、俺はこういったことに全く免疫が無い。紗枝とは、付き合い始めてから、この町で一緒に暮らした時間が四日間しかないから、手を握るのはもちろん、初デートすらしていないのだ。こんなに女子と近づいて歩くなんてことは、香澄やサトミ相手では考えられない事態だ。

「こんなもんでいいかしら? 問題ある?」

 対するに、冴子のほうは、まるっきり平常心を保っているようだが……

「んんん……まあ、問題っていうか……」

 顔を横に向けると、冴子の顔が間近にあった。慌てて前に向き直る。きっと、普段よりも少しだけ近づくだけでも「体感距離」は大幅に詰まるのだ。

 心拍数は、否が応でも上昇する一方だ。

「これはまあ……いいってことにするけど、それとは別の問題が……」

「ん? なあに?」

「俺のこと、『宗司君』って呼ぶの、何とかならねえか?」

「それ、問題あるの?」

「いや……何ていうか、どうも、落ち着かないっていうか。『桑城君』とか呼ばれるほうが、通りがいいんじゃないかって思って」

「でも、『彼女』なら『宗司君』と呼ぶのが相応しいんじゃいかと思ったのよ。論理として」

「うううん……まあ、そうなんだろうけど」

 アキヤを始め男子達は、俺のことを「桑城」と呼ぶ。女子達は「桑城君」だ。紗枝もそうだった。唯一サトミは「宗司」だが、ガキの頃からの知り合いであるあいつは例外だ。

 俺のことを「宗司君」と呼んでいいのは、世界中で紗枝ただ一人だけなのだ。これについては、妙なこだわりを持っている。

 しかし、人が俺のことをどう呼ぶかは自由であることもまた確かだ。しかも、俺はこいつが彼女であるという「設定」を受け入れているわけでもあるし……

「で……宗司君は私のことを、どう呼ぶことにするの?」

 と、言われて初めて気がついた。確かに、それは大問題だが……

「ええと……そうだな……『加納』でいいんじゃね?」

「え? それは、良くないと思うわ」

「ん? 別に問題ないだろ」

「おじさまやおばさまのように、『サエちゃん』って呼んだらいいんじゃないかと思うんだけど」

「駄目だ! それは駄目だ!」

「じゃあ『サエ』は?」

「駄目だ! それこそもっと駄目だ!」

 思わず、激しい口調になってしまった。俺の語気に気圧されたのか、流石の冴子も口をつぐんだ。

「まあ、お前が俺のことを『宗司君』と呼ぶのは認める。だから、俺がお前を『加納』と呼ぶのも認めろ。交換条件として、筋が通ってるだろ?」

「そうね……まあ、仕方ないわね」

 冴子の声には、大いに不満が混ざっているようだった。

 そんなやり取りをしながら歩いいていると、前方から「堀河町」駅が近づいて来た。ちょうど、信号の向こうの交差点をカーブして来る路面電車の正面が見えてきたところだった。


☆             ☆


 駅に止まった車両には、下品な広告がべたべたと全面にペイントされていた。いくら何でも垢抜けないにも程がある。路面電車は函館の「顔」なのだから、この外見はどうにかならないものかと、いつも思ってしまうのだが……

 車両はいつものように満員だった。俺達二人が乗客の隙間にねじり込むように乗り込むと、即座に背後から聞きなれた声が飛んできた。

「宗司、おはよ!」

 これはサトミだ……俺の心臓は縮み上がった。

 そうだ、忘れてた。登校すれば、否応なしに慣れ親しんだ同級生達と顔を合わせることになるのだ。

 て言うか、まるで疑問も持たずに俺達は同じ車両に乗ってしまったけど、冴子は……「ヤマ高の生徒ということになっている」……のか? サトミやアキヤにとって、この「設定」はどうなってるんだ……? と、思っていたら、

「加納さんもお早う!」

 即座にそんな言葉が続いた。俺は思わず振り返り、吊革につかまっているサトミを見やった。

「相変わらず、仲いいわね!」

 サトミは、それが全く当たり前のことのように、恋人として並んで立っている俺達を見ている。

「おはよう、松村さん」

 それに呼応して、冴子もごくごく自然に挨拶を返した。

「松村さん」って……こいつ、サトミの名前を既に知ってるのか……

 半ば予想はしていたものの、やはり「こういうことになっている」とは……

 こうして結果を目の当たりにしてしまうと、またもや俺の頭は混乱してくる。

 これは、一体何なのだ……

 と、しばらく考えた所で、一つの「重大問題」が俺の頭に浮上した。

 そうなのだ……「この要素」を忘れていたなんて……俺はどうかしている……つまり、


 一体「この設定」において、「俺の彼女である桐嶋紗枝の存在」はどういうことになっているのか?


 ……ということだ。

 市電は「魚市場通」を通過した所だった。

 結果を知るのは、あまりに恐ろしくもあった。しかし、この件を放置しておくわけにはいかない……

 俺は、恐る恐るサトミに小声で尋ねてみた。

「あのさあ、サトミ」

「え? 何よ? あらたまって」

「桐嶋って……どうしてるかな……」

「え?……桐嶋……?」

 サトミは、明らかに怪訝な表情に変わった。

「き、桐嶋紗枝だよ……」

「……ええと、ああ! 去年イギリスに行った桐嶋さんのこと? 何で?」

「いや……どうしてるかなって思って」

「え~……あたしが知るはず無いよ~。何、あんた桐嶋さんと知り合いだったの? それとも気になってたの? 何それ~浮気~?」

 サトミは、今度は急に真剣な顔になり、冴子に聞き取られないように、声を潜めた。

 俺の背中に、チリチリと冷たい冷気が走る。

 待て……ひょっとして……?

 桐嶋紗枝の「存在」自体はいるらしい。しかし、今の口ぶりでは、サトミは紗枝のことを俺の知り合いだとすら思っていないようだ。

「い……いや、別にそんなんじゃねえよ!」

「そうなの? 急に変な事言うのね~」

 その表情には、相変わらず微塵も曇りが見えなかった。まあ、サトミがそういう認識なのはいい。

 問題は紗枝自身だ……

 まさか、あいつ本人も俺と面識がないって「設定」に……従ってるとでも言うのか???

 おい……待て……そりゃ冗談じゃねえだろ!

 いや……しかし、確かめる方法はあるのだ……

 簡単だ……

 言うまでも無く、その方法は「携帯」だ。

 あいつにメッセージを送ればいいんだ。

 それで、簡単に答は出る……出るはずだが……

 しかし……

 恐る恐る、右手を制服のポケットの中に滑り込ませる。

 気がつけば、スマホを握ったまま、俺の手は小刻みに震えていた。

 車両が次の駅に停車しても、その次の駅に停車しても、ついに俺はスマホをポケットから抜き出すことが出来なかった。


☆             ☆


桑城宗司(思ったんだ。これから桐嶋のこと、なんて呼べばいいんだろうなって。桐嶋のまんまじゃおかしいんじゃないかって思ってさ)


桐嶋紗枝(え~? 別に、桑城君の思った通りに呼んでくれていいよ。別にそんなこと意識する必要ないし。だから、今まで通り桐嶋でも、紗枝でもいいよ)


桑城宗司(うわあ~「紗枝」か~「紗枝」は照れる~それやばい、ハードルたけえよ~)


桐嶋紗枝(それじゃ、あたしも桑城君のこと宗司君って呼んでいいかな)


桑城宗司(ぐはあ! 別に呼んでもいいけど、それも照れるな~宗司君か~それじゃ、まるで彼氏じゃねえか。あ……一応、彼氏なんだよな)


 この時のやり取りも決して忘れない。


 かけがいのない俺の思い出の一つ……付き合い始めた次の日のメッセージだ。


 俺が冴子との名前の呼び方にこだわるのは、このせいだ。


 俺を「宗司君」と呼んでいいのは紗枝だけだし、俺が名前で呼ぶ女子も「紗枝」だけなんだ……


☆              ☆


 俺達を乗せた車両は、やがて終点の一つ手前「青柳町」に着いた。俺達ヤマ高生は、ほぼ全員がここで降りるのだ。

 駅を降りると、すぐ近くに「函館公園」の入り口がある。ここを通過して、函館山登山道を登った先に、俺が通う「函館山高校」があるのだ。俺達は、函館公園内にある小さな遊園地を通り過ぎると、大噴水広場に出た。

 噴水の向こう側に、白い衣服に身を包んだ人達が集会を開いているのが見えた。円陣を組んで座禅を組み、何やら瞑想をしている。例の「祠堂会」の信者共だ。

 まさか、こんな所まで現れるとは……本当に目障りな連中だ。

「宗司君。余り見ない方がいいわ」

 突然、俺の横で歩いていた冴子が、顔を前に向けたままで言った。その意外な言葉に当惑しつつ、俺は冴子の顔を見た。

「ん? 何でだよ」

「とにかく見ない方がいいの。気にしちゃ駄目」

 冴子は、これまでに見せたことも無い、やけに真剣な表情をしていた。理由を問いただしても、答えてくれそうな雰囲気では無いので、とりあえず、それ以上は追及しないことにした。俺としても、キモイ新興宗教の連中なんかに興味があるわけではないし。

 俺達三人は、旧函館博物館の横を通ってから西出口を出ると、函館山下山道に出た。ここを登っていくと、ヤマ高があるわけだ。

 あるわけなんだが……

 …………………………

 実は、今朝は家を出る時に、「一つの誓い」を立てていた。

 冴子と一緒に学校に行ったなら、数々の「馬鹿げた出来事」が待ち受けていることだろう。しかし、それに対して、いちいち過剰反応をしていたら心臓が持たない。どんな事が起こっても平常心を保とう。少なくとも「何だ、こりゃああああ!!!!」と、大声を上げることは控えようと……

 しかし、その時「目の前に現れた光景」には流石に度肝を抜かれた。

 いつもは、徒歩で昇っていかなくてはならない坂の一番下に、何と「ロープウェイの発着所」が出来ているのだ!

 そう、押しも押されぬ、正真正銘のロープウェイが、忽然と出現していたのだ。

 正に今、発着所から一台のゴンドラが、するするとケーブルにぶら下がって進んでいく所だったのだ。

(な、何だ、こりゃあああああああああ!!!!!!!!!)

 と叫びたいのを、やっとのことで抑え込んだ。


 い……い……いつのまに、こんなものが……


 函館山には、頂上の展望台に登る有名なロープウェイが元々ある。それとは別に、何故か二つ目のロープウェイが、いつの間にやら出来上がっているのだ。

 俺は、努めてその存在を無視して、徒歩で坂を歩いていくことにした。

 こんな馬鹿げた物の存在を、認めるわけにはいかないのだ。

 しかしサトミは、そんな俺の気持ちなどどこ吹く風で、当たり前のようにロープウェイの駅の方へ向かっていった。

「あれえ? 宗司。乗らないの?」

「え?……ああ、俺は脚を鍛えるからな。坂を昇るぜ」

「ふうん、えらいね。それこそ陸上部の鏡って奴だね」

 などと、呑気に笑顔を作って見せる。俺は、それには答えずに、ずんずんと坂を昇っていった。当然、冴子もそのまま俺に並んでひっついて来る。

「乗らなくて良かったの? 面白そうじゃない。景色も良さそうだし」

 冴子もごく真顔で、呑気な事を言ってのける。

「そ……そういう問題じゃねえだろ。そもそも、何でこんな所に……って? アキヤ?」

 見上げると、後ろから俺を追い越して昇っていくゴンドラの窓に、アキヤの姿が見える。俺の姿を見つけて、手を振っているのだ。

 頭が痛くなってきた……

 おい……お前まで、何の疑問もなくこの馬鹿げた「設定」を受け入れてるのかよ……ひょっとして、このロープウェイは「ヤマ高生専用」???? 流石にそんな馬鹿な話は……

 しかし、考えて見れば、俺の部屋の隣にだって、突然「離れ」が出現しているのだ。頑張って一万歩ゆずれば、突然ロープウェイが発生していている怪異だって、何とか納得してやってもいい。学校は坂の上にあるから、ロープウェイがあるのは合理的だとも言えるし……

 しかし……そこまでの出来事は、所詮「前フリ」に過ぎなかったのだ。真の驚愕は、ヤマ高の校門をくぐり、校舎の全貌があらわになった時に訪れた。

 俺は、思わず声を上げた……

「ちょっ……!!!!!!!」

 その後に

(な、何だ、そりゃああああああああああああああ!!!!!!!!!)

 という叫び声を、今度こそ上げそうになった。

 ロープウェイのゴンドラが伝っていくケーブルの先、すなわち終着点は……

 ヤマ高の北校舎四階の左から三番目の教室……

 そう……俺のクラスである「二年C組」の教室だったのだ!

 校舎の側面に張り付くように、発着場が出来上がっている。すなわち、これは、「ヤマ高生専用」どころか、「俺のクラス専用のロープウェイ」なのだ!

 俺はその場で立ち尽くし、持っていたカバンを落としてしまった。ドサッという音が、随分遠くから聞こえたようだった。

「宗司君、あなたが感じてることは良く判るわ」

 冴子は俺の真横で、依然涼しい顔のまま立っていて、特に驚いてはいないようだ。むしろ、

「確かに、このロープウェイの造りは合理的でも理論的でもないわね。でも、気にしないほうがいいわ」

 と、至極ほがらかな笑顔を作ってみせた。

「行きましょ。立ち止まってると遅刻するわよ」

 確かに、ぐずぐずしていても仕方が無い。俺は何が起こっても、いちいち驚かないと決めているのだ。

 謎のロープウェイのことは、努めて無視しながら歩き続けると、やがて校舎中央の玄関ホールに入った。

 いつも通りに俺の場所である「十二番」の下駄箱を開けた。横をちらと見ると、冴子も俺と同じ2Cの下駄箱を開けている。こいつ……俺と同じクラスという「設定」になってるのか……

 冴子は、一足先に上履きを履くと、さっさと左の廊下へ向かって歩き始めた。北校舎には西と東、両端に階段があるのだ。

 その時だ。

 何故か、俺の身体は片脚を一歩踏み出したまま、ぴたりと硬直してしまった。

「ちょっと待て。加納、そっちは駄目だ」

「え? なんで?」

 冴子はきょとんとして振り返った。

「何で……って……」

 俺は、自分で言ったにもかかわらず、それきり後の言葉が見つからず、喉が詰まってしまった。

 替わりに、俺は心の中で、その同じ言葉を反芻した。


(何で……なんだろう……?)


 俺達のクラスは四階の左から三番目にある。当たり前だが、一番近道で到達するには、西側の階段を昇るのが理に叶っている。

 しかし、どういうわけだか、強烈に「そっちの方は駄目だ」と思ってしまったのだ。

「い、いや……何でもだ……理由なんて気にするな。とにかくあっちの階段を昇ろう!」

「遠回りになるけど、いいの?」

「ああ、いいんだ!」

「ふーん……まあ、私は別にいいけど……」

 東側の階段を目指して、長い廊下を歩いているうちに、ジワジワと心拍数が上がってきた。それは、坂道を登ってきたせいでは決して無かった。

 気がつくと、俺は何故だか、ポケットに右手を突っ込み、スマホを固く握り締めていた。


☆       ☆


 幸いにして、2年C組の教室に辿り着くまでには、これと言った怪現象は起こらなかった。

 俺は冴子とともに共に教室に入った。途端に女子の何人かが、彼女を見つけるなり、

「お早う、サエ!」

 と、声をかけた。冴子も「お早う」と笑顔で応える。俺も、友人の何人かと挨拶を交わした。

 俺の席は、一番窓際の列の後ろから二番目にある。その椅子を引いて腰を下ろすと、机の横についているフックにカバンをかけた。

 ふと、机の天板の右上を見た。

 俺が昨日HRの時間に描いた、バンテルの落書きが確かに残っている。やはり、俺は今「現実」に生きているのだという実感をようやく得られた。こうして、きちんと「変わっていない物」だってあるのだ。

 アキヤやサトミは既に教室に着いており、友人達とだべっていた。

 教室内部にも、異変は見当たらなかった。教壇の真横にでかでかと出現している、ロープウェイ乗り場へ続く、馬鹿げたドア以外には……

 冴子は、俺の一つ前の席に何食わぬ顔でテクテクと近づいてくると、椅子を引いて座った。

 こいつ……この席だったのか……

 待てよ……昨日までは、確かここは、後藤とかいう女子が座っていたはずじゃ? 机が一つ増えて、席順も一部入れ替わっているってこと……なのか?

 冴子は、隣の席に座っている男子、仲本に「お早う」と声をかける。スマホを手に持って画面をスクロールしていた仲本も、横を向いて「あ、お早う」と、通り一遍の返事をした。

 時間が経つにつれて、奇妙な感覚がいや増していった。

 どいつもこいつも、冴子がこのクラスに登校してきて、ここに座っていることに、何の疑問も持っていない。誰もが、自然に振舞っている。

 ひょっとして「間違っているのは、この世界で俺だけでは無いのか」……という考えが、否応なしに浮かび上がった。冴子は、ずっとこの学校の生徒だったし、みんなとも友人であり続けていたし、俺の彼女だった。そして、紗枝と俺は何の面識も無かったんじゃないかと……そんな錯覚にとらわれて、怖気が走った。

 しかし、そんな俺の考えは、まもなく見事に消し飛んでしまうことになる。

 一時間目の授業は数学だった。担当は例の悪名高き「武馬」だ。こいつが嫌われている理由は、数えていったら切りが無い。とにかく、性格が悪いのだ。全てにおいてひねくれているし、天邪鬼。数学が苦手な生徒ほど馬鹿にした態度で扱うし、自作のプリントで容赦なく難問奇問を繰り出してくる。武馬は「タケバ」と読むのだが、俺達は、悪意をこめて「タケウマ」と呼んでいる。

 やがて、始業チャイムのグリーンスリーブスのメロディが、校内に鳴り響いた。ほぼ同時に、教室の前の扉がガラリと開く。そして、問題の「タケウマ」が入ってきた……

 ガコッ……

 ガコッ……

 ガコッ……

 という、硬い物で床を叩くような、奇妙な音。

 ん……何だ? この音は……足音か?

 よそ見をしていた俺は、ふと違和感を覚え、教壇の方を見る。

 しかし、俺は自分が見ている物を、すぐには理解できなかった。

 そう……タケウマは文字通り、「竹馬に乗って」教室に入ってきたのだ!

「ちょっ……ちょっと待てええ!!!!!タケウマ……お前ええええ!!!!」

 この様子を、一人きりでVTRで見たのなら、確実に俺はそう叫んでいただろう。実際、寸での所で、俺はその声を飲み込んだのだ。

 しかし、俺の驚愕をよそに、タケウマは平然と

「おはよおおう! しょくん~……それじゃ授業を始めるぞお~!」

 という、いつも通りの薄ら寒い挨拶をした。

 タケウマの不人気ぶりに、さらに拍車をかけている大きな要素は、奴が授業中に連発する親父ギャグの数々だ。それも、「今日は暖かいなあ……こんな暖かい日、あったかいな!」レベルの、糞面白くも無い「ド親父ギャグ」なのだ。

 しかし、今! タケウマは、自らの肉体に鞭を打って、親父ギャグを体現しているのだ!

「武馬だから、竹馬に乗る!」

 この、美しいほどにひねりが無い、ストレートど真ん中の親父ギャグはどうだ!

 今までは嫌いだったが、その心意気見直したぜ! タケウマ! 熱い……! 熱いぜタケウマ!

 しかも、このタケウマ……竹馬に乗ってくるのは教壇に着くまでなのかと思ったら、そんなヌルい奴ではなかった。奴の決意は俺の想像を遥かに越えていたのだ。

 タケウマは、あろうことか「竹馬に乗ったままで」数学の授業を始めたのだ!  板書する際も、テキストを開く時も、教卓や黒板を使って巧みに竹馬を支えて、あくまでも竹馬に乗った状態を貫き通すのだ。見るからに、めっちゃくちゃ難しそうだ。しかし、奴は意地でも竹馬から降りようとしない。

 熱過ぎる! あくまでも熱いぜタケウマ!


 ……………………


 何て事、言うか! 言ってたまるか!

 こんな馬鹿げたことは、意地でも認めねえぞ!

 それにしても、何だって竹馬……????

 不気味とすら思えるのは、教室内の誰一人だって、奴の行動を異常と思っていないことだ。

 これすらも「設定」だというのか?

 ひょっとして、タケウマはずっと昔、入学当初から、このスタイルを貫き通しているとでも? ことによったら、家に居る時も、食事をする時も、風呂で体を洗う時も、トイレで大便をする時ですら、意地でも竹馬から降りない……そんな生活を幼少の頃から続けているとか……

 俺は、タケウマの寝室を想像してみる……

 パジャマを着て、竹馬に乗ったまま、グラグラと揺れながらも、巧みにバランスを取りながらグースカ眠っている姿を……

 嫌過ぎる……いくらなんでもそんな「竹馬人生」は嫌過ぎるぞ……

 そんな事を考えている間にも、タケウマはカツカツと音を立てて板書をしている。春休みの宿題の、特に難問と思われる問題の解法だ。

 ふと前を見ると、冴子は何やら盛んにシャーペンを動かしているようだ。ノートを覗き込むと、例の意味不明な記号や、数字の羅列をびっしりと書いている。俺には理解できないが、少なくとも、数学の授業に関係ない事は判る。これは、タケウマに見つかったらまずいんじゃないかと思っていたのだが……

「おい、ちょっとそこの~……何やってるうう!」

 タケウマが冴子に気がついたようだ。

 やっぱり……こりゃめんどくさいことに……

「ええと……お前は……?」

 と言って、座席表を覗き込んだ。

「あ……ああ……そうか、加納か」

 タケウマの言葉の隙間には、不自然なタイムラグがあった。

 俺は、それに、僅かな引っ掛かりを覚えた。

「お前、この次の問題、前に出て黒板で解いて見ろ!」

「はい」

 しかし、その小さな違和感は、続く二人のやりとりによって、かき消されてしまった。

 冴子は、即座に椅子から立ち上がり、スタスタと教壇に向かっていくと、

「すみません。問題を持ってきていないんです。どんな問題ですか。」

と言った。

「ああ、じゃあこっちの問題でいい。解けるだろう? 授業も聞かずに、関係ないことやってる位だからな~」

 と、憎たらしい笑みを浮かべて、別の問題を出した。どうせ、とびっきりの難問を出して、それを解けないと見るや、嫌味を言うつもりなんだろう。

 俺の周りから、ひそひそと声が聞こえてくる。

「お、おい……タケウマの奴、どうしたんだよ……」

「自爆じゃねえか……加納に当てるなんて……」

 そんな内容だ。

 案の定、問題を見るや、冴子はものすごい勢いで、黒板に数式を書き込んでいった。その時俺は始めて気がついた。問題は同じ三角関数のはずなのに、タケウマがそれまでに書いた物とは解答が全く違っているのだ。考えて見れば、三角関数とは「サイン」とか「コサイン」とかのはずだ。しかし、そういった記号が全く使われておらず、見たこともない記号や訳の判らない難解な式がずらずらと書かれていくのだ。

 タケウマの様子が明らかにおかしい。狼狽している。

「あ~あ。だから言わんこっちゃないのに……」

 ……なんて声がまた小さく聞こえてくる。

 冴子は、答を書き終わったらしく、

「ええと、これで合ってると思いますけど……」

 と、タケウマの方を見て言った。

「ええと……そうだな……これは……」

「テイラー級数で展開してみましたけど、問題ありますか?」

「ああ……いいみたいだな……よ、よく出来てるじゃないか……そ、それじゃ……下がっていいぞ……」

 タケウマは、顔面蒼白だ。握っている竹馬までブルブルと震えている。きっと自慢の難問を解かれてプライドをずたずたにされたんだろう。

 俺には良く判らないが、きっと冴子が書いたのは、高校の範囲を遥かに越えていて、教師の免状を持っている程度の知識では、到底歯が立たない解法なのだ。今更ながら、驚いた。一体こいつは……冴子は何者なのだろう……これはもう、優秀とか頭がいいとかいった言葉で表現できるレベルでは無い。

 まてよ……そうか……

 俺は、先ほど覚えた「引っ掛かり」の事を思い出し、ようやくその正体を理解した。

 さっき、タケウマは冴子の顔を見て、咄嗟に名前が出てこなかったのだ。しかもあれは、名前を覚えていないとか、忘れていた時の表情ではなかった。むしろ、「あれ……こんな奴この学校にいたっけ?」というニュアンスが入っていたのだ。一方、周りの生徒たちは、冴子のとんでもない数学能力の事まで、とっくに知っているようだった。むしろ、タケウマがそれを知らないことを不思議がっていた。

 これは、一体どういうことなのだ……

 タケウマはもしや、「俺と同じ」なのか?

 冴子の存在を初めとする、この「奇妙な設定」の内容を、完全には受け入れていないということなのか? 本人は何の疑問もなく「竹馬人生」をエンジョイしているくせに。

 その時、またもや、「あの気持ち悪さ」が俺の身体を襲ってきた。

 周りを取り囲む、全ての物から奇妙な「違和感」がジワジワと伝わってくる。特に手で直接物を触った時に、それを強く感じるのだ。

 試しに、俺は右の手の平で、机の天板をゆっくりとさすってみた。すると……

なんだ、これは……?

 ジワジワと「何か」が机の内部から、手の平へと「伝わってくる」ような気がする。

 やっぱり、そうだ……

 「これ」は一体、何なのだろう……

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