鱖魚群その三 土産合戦

 朝食を終えたばかりだというのに、今にも水仙を口に入れそうな雰囲気を醸し出している恵姫。まさか本当に食べる気ではなかろうと思いつつも、一応注意を与える磯島です。


「一口だけなら大丈夫、などとお考えになっているのではないでしょうね。それほどお腹が空いているのなら、お茶でも持って来させましょうか」

「そのような心配は無用じゃ。いつ水仙を食べようとしたのか、それを考えておるのじゃ。どうしても思い出せぬ」


 いくら食いしん坊の恵姫でも毒草と言われれば口にする気は起きません。よだれが垂れるのは意思とは関係ないので仕方がないのです。


「ああ、そう言われれば幼い頃の話でしたね。まだ姫様の母上様がご存命でしたから。奥方様は水仙の花がお好きでいらして、城の中庭に植えられていたのです。そんな冬のある日、毘沙姫様がお城へお見えになりましてね」

「毘沙が来たとな……」


 その名が出た途端、嫌な予感がし始めた恵姫。食い物と毘沙姫の組み合わせほど危険なものはありません。


「はい。これ以降は私が直接見たわけではなく、たまたま庭に居合わせた女中から聞いた話なのですが、毘沙姫様は庭に咲いている水仙を見るなり、『ほう、水仙か。これは結構美味いんだぞ』と仰られて食べ始めたそうなのです。まだ幼かった恵姫様も勿論口に入れて食べ始めました。慌てて女中が止めに入ったのですが、暴れる、噛みつく、蹴る、殴るの大暴れ。傍に居た毘沙姫様もどうして女中が止めに入るのか訳が分からず、結局、水仙の毒が体に回って大人しくなるまで、恵姫様は総勢三名の女中と二名の番方に怪我を負わせて乱暴狼藉の限りを尽くしたのです。この一件を比寿家では『水仙御乱心の乱』と呼び、以後、中庭に水仙が植えられる事は一度もなかったのでございます」

「そ、そのような事があったのか」


 全く記憶になかった恵姫。幼い頃にそんな酷い目に遭っているのなら、普通は水仙が大嫌いな娘に育つはずです。にもかかわらず江戸では水仙を食べようとしたのですから、恵姫の性格も相当大雑把と言えます。


「この水仙は寛右様のお屋敷に咲いているもの。冬は花の種類も少なくなりますので、わざわざいただいてきたのです。花が咲いていれば恵姫様が勘違いされる心配はありませんからね」


 つまり花が咲いていなければ今でも勘違いするので、城の庭には植えられないと磯島は言いたいのでしょう。さすがの恵姫も少々恥ずかしくなってしまいました。


「しかし毘沙の悪食にも困ったものじゃのう。これほど毒見の役に不向きな者は居らぬであろうな」

「逆に毘沙姫様を敵対する当主の毒見役にすれば、容易く毒殺する事ができましょう」

「なるほど。要は使い方次第というわけか、ふっふっふ」


 短所を長所に変えるのが策略の妙というもの。意味もなくほくそ笑む恵姫を気味悪そうに眺めながら磯島は催促します。


「さあ、無駄話はこれくらいにして花を生けてくださいませ」

「んっ、ああ、そうじゃったな。うりゃ!」


 手に持った水仙をそのまま花瓶に突き挿す恵姫。


「できたぞ」


 情緒も趣もない花の姿にため息をつく磯島。気の乗らない事は適当に済ませようという気質は以前と全く変わりません。磯島が小言を付け足そうとしたその時、


「恵姫様、お帰りなさいませ」


 縁側の障子の向こうから明るい声が聞こえてきました。ちょうど花を生け終わったばかりの恵姫。すぐさま立ち上がって障子を開けます。


「おう、鷹之丞ではないか。久しぶりじゃのう」


 縁側の傍に立っていたのは間渡矢襲撃の一件以来会わず仕舞になっていた鷹之丞でした。以前と同じく明るく溌溂とした顔をしていますが、左頬の傷跡が痛々しく見えます。


「雁四郎から聞きました。江戸でのお役目は無事果たされたとか。まずは祝着至極に存じ上げます」

「お主も元気そうではないか。怪我はもう良いのか。」

「傷は多かったのですがどれも浅いものばかり。毎日湯に浸かっておりましたらすぐに治りました。そうそう恵姫様に土産がございます。伊瀬榊原の湯で買い求めました七栗ななくり煎餅、ご賞味ください」


 鷹之丞は厳左の計らいで、傷の治療と慰労を兼ねて湯治に行っていたのです。この煎餅はあくまでも長らくお役目を休ませてもらった城の者たちへの礼の品であって、同じく城から離れていた恵姫には渡す必要もないのですが、そこは気遣いの鷹之丞。後で土産の事を聞き付けた恵姫から文句を言われないようにと先手を打ったのです。


「煎餅か。さっそく今日の八つ時にでも食うとするか。ああ、そうじゃ。わらわも土産があるのじゃ。ちょっと待っておれ」


 恵姫は縁側を離れると、昨日から座敷の隅に置きっ放しになっている江戸から持ち帰った荷物の山を漁り始めました。


「はてさて、どこに仕舞ったかのう……おお、これじゃ」


 再び縁側に戻って来た恵姫の手にあるのは鳩笛です。


「鳥好きのお主にはぴったりであろう。体を張ってわらわを守ってくれた礼がしたくてな。わざわざ江戸の笛職人に頼んで作ってもらったのじゃ。受け取るがよいぞ」


 などと言っている恵姫ですが、銭の無い江戸屋敷でそんな贅沢ができるはずがありません。本当は姫屋敷へ行った時に、禄姫の物入れを漁っていたら偶然見つけ、どうしても欲しいと我儘を言ってもらってきたのです。

 もらってきたのは良いのですが、筝も三味線も神懸かり的に不器用な恵姫。鳩笛すらも満足に吹く事ができません。


「やはり遊ぶのは鯛車に限る」


 と、すぐに飽きてしまい、それ以降は荷物箱の中にぶち込んだままになっていたのでした。


「江戸の鳩笛でございますか。間渡矢では滅多に手に入らぬ物。ありがとうございます。鷹之丞、大切に吹かせていただきます」


 まさに知らぬが仏。鷹之丞は来た時よりも更に顔を輝かせて表御殿へ帰っていきました。


「姫様、煎餅を食べるのは後にして、そろそろ生花の続きをお願い致します」


 先ほどから苦々しい顔で成り行きを見ていた磯島が催促です。こっそり煎餅を一枚だけ取り出そうとしていた恵姫は、慌てて座布団の上に座り直すと水仙を手に取りました。が、


「恵姫様、お帰りなさいませ」


 またも縁側の障子の向こうから明るい声が聞こえてきました。手に持った水仙をそのまま別の花瓶に突き挿すと、縁側へ走る恵姫。


「おう、亀之助ではないか。久しぶりじゃのう」


 鷹之丞同様、間渡矢襲撃の一件以来会わず仕舞になっていた亀之助です。こちらも元気そうです。

「昨日帰って来られたと伺い、非番ではありながら馳せ参じた次第です。無事に間渡矢へ戻られて祝着至極に存じ上げます」


「うむ、お主の足はどうじゃ。骨が折れたと聞いておったが」

「毎日魚の骨を食しておりましたら知らぬ間に治っておりました。骨を治すには骨を食うのが一番ですな。それから、これは拙者が養生している時に作った温め道具、快気祝い代わりにお受け取り下さい」


 亀之助が差し出したのは手の平に乗る大きさの四角い箱。周りを布で覆われています。恵姫が受け取るとじんわりとした温もりが伝わってきました。


「ほう、風を起こす仕掛けの次は体を温める仕掛けか。温石おんじゃくに似ているようじゃが」


 温石とは囲炉裏で石を温め布に包んだもので、寒さを凌ぐ道具として昔から使われているものです。亀之助は首を横に振ると、得意気な顔をして説明を始めました。


「温石は最初熱くても次第にぬるくなり、適温で使える時はさほど長くありません。拙者が考案致しましたのは忍具の胴火を真似て作った物。金物の箱の中に木炭の粉末と灰を混ぜて入れ、それを燃やしているのです。灰を混ぜる事によって木炭はゆるゆると燃え続け、丁度よい塩梅の温もりが持続するのです」


 足の怪我が治るまでお役は免除され、馬屋横の修理場に籠もりっ切りだった亀之助。実は密かにこんな物を作っていたのでした。その飽く事無き創作魂に改めて感心する恵姫ではありました。

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