裁縫室の戸口をくぐると、姉さんたちは皆そろって、仮の寝床の支度をしていた。わたしたちがいつも使っている部屋にいくには、使者の方々をお泊めしている部屋のそばを通らなくてはならないので、予備の敷布や毛布や枕を、あらかじめ運びこんでいたのだった。

「ずっと見かけないと思ったら、また本なんか読んでたの?」

 そういったのは、二番目の姉――三月ほど前にそれまで長く一番年上だったイラバが嫁いだことで、二番目に年かさになった、カナイだった。その声には嘲笑のひびきがあって、いつもだったらかちんときているところだったけれど、わたしはこのとき、半ばうわの空だった。「ええ、そうなの。つい夢中になってしまって」

「本なんて、何が面白いの」

 信じられないというふうに、カナイはいった。「まあ、あんたは導師のお気に入りだから、点数稼ぎをするのもわかるけれど」

 姉がそういう底意地の悪い口をきくのは、いまに限ったことではなかった。それにまともに反論することは、とっくの昔に諦めていた。本の中に記されているものごと、たとえば古い時代の人々の暮らしや、これまで作物を改良してきた一々の工夫、物語の中の神々や乙女たちのようす、そうしたものがどれほど面白いかということを、わたしがいくら言葉を尽くして語っても、姉の心にはそれらの事は、ちっとも響かないらしかった。

「どんな本を読んでいたの?」

 とりなすようにそういったのは、三番目の姉だった。

「すごく、古いお話。わたしたちの祖先が、この里へ移り住んできたときの。姉さんは聞いたことがある?」

 姉はあいまいに首を傾げた。

「さあ、あったかもしれないわね」

 わたしは落胆した。母さんはしばらく忙しいし、姉さんたちが知っていれば、記憶の中の母さんの話や、書物のなかの物語と比べられるかと思っていたのだ。というのも、わたしの記憶のほうが、母さんの話と違ってしまっているかもしれなかったので。なにせわたしは幼い頃、とても夢見がちな子どもで、ときには聴いたお話の続きを、勝手に自分で作ってしまったりしていた。

「さあ、そろそろ寝ましょう。もう遅いわ」

 一番上の姉さんがいうと、下の姉さんたちもその言葉に従って、それぞれの寝床にもぐりこんだ。

 明かりが吹き消された。かすかなヒカリゴケの明かりだけが残る室内で、眼を閉じずに、ぼんやりと天井を見上げていた。

 ――いい声だな。

 使者はたしかにそういった。そのときの声が、きゅうに耳の奥に蘇って、わたしは暗闇の中で、ひとり赤面した。

 いい声ですって! 姉たちを起こして、話して聞かせたいくらいだった。けれどじっとこらえて、わたしは毛布のうえから自分の胸を押さえた。心臓の音があまりにうるさくて、姉たちに聞こえるのではないかと、心配になった。

 だけど、本当かしら。そう思ったとたん、浮かれていた気分が急速に沈んでいった。今まで声を人にほめられたことなんて、あっただろうか。姉さんたちは三人とも(嫁いだイラバもあわせれば、四人とも)、とても美しい声をしている。母さんや、ほかの姉さんの母さんたちだってそうだ。けれどわたし一人は、昔からちょっと低くてかすれた、あまり可愛らしいとはいえない声をしているような気がして、わたしはそのことをひそかに気にしていた。

 声の美しいのは、裁縫がじょうずなのと同じくらい、女にとっては素晴らしいことだと、誰だってそう思っている。そしてそのどちらも、わたしには持ち合わせがない。読み書きならばわたしが一番だなんて、そんなふうに強がってみせても、ちっとも気にしないでいられたわけではなかった。

 いい声だといったあの言葉は、もしかしてただのお世辞だったのだろうか。ひとたびそう疑ってしまうと、もうそうとしか思えなくなった。

 だけど、火の国の女の人たちは、わたしたちと声の感じが違うかもしれない。その思いつきに、わたしは縋った。

 目の見え方が違うというくらいなら、耳の聞こえ方だって、ずいぶん違うのかもしれない。そんなふうに、わたしは自分を慰めた。わたしたちにとってはそれほど良い声ではなくても、使者様の耳には、きれいな声に聞こえたのかもしれない。

 けれど、その考えがただの慰めだということは、自分でよくわかっていた。

 使者さまは、ほかにどんなお話をされていたかしら。

 落胆から自分の考えを逸らそうとして、わたしは記憶をたぐった。私たちの目が、暗いところでは青く光ると、使者はいった。たしかに人の目は、暗闇のなかではかすかに光るけれど、火の国のひとたちは違うのだろうか。

 彼らの瞳は、どんなふうだろう。わたしたちとそんなに違うのだろうか、形は、色は?

 ああ! たったひとこと、訊いてみればよかったのだ。あなたの瞳は何色をしているのって。いまさらのように気づいて、わたしは自分のうかつさを悔いた。

 明日、訊いてみようか。ああ、でも、それこそはしたないと思われるだろうか。

 それより、使者さまはほんとうに明日、勉強室までやってこられるのだろうか。急に不安になって、わたしは胸をぎゅっとおさえた。誰にも見つからず、じょうずに広間を抜けだしてこられるだろうか?

 もう眠らなければと思うほど、目はますます冴えて、わたしはじっと天井に目を凝らしていた。ヒカリゴケの明かりにも、時間によってわずかに強弱がある。夜にはいくらか暗くなって、よくよく目を凝らさなければ、部屋の中の様子はわからない。

 姉さんたちの寝息を数えながら、ようやくうつらうつらしては何度も目が覚めて、そうこうしているうちに、やがて遠くから、夜明けの鐘が響いてきた。

 はれぼったい目をこすりながら、寝床から這い出すと、姉さんたちの誰かが明かりを灯した。

「あーあ、たいくつねえ!」

 食事の支度をしながら、カナイが叫んだ。三日間ものあいだ、外に出ることも許されないというのは、たしかに姉さんの性分には合わないだろう。

 カナイは裁縫がじょうずだけれど、けして好きではないのだ。いつだって、とてもつまらなさそうに針を使っている。それでも、その手は魔法のように針をあやつって、あっというまに布地にきれいな刺繍を縫いつけてゆく。それなのに裁縫が好きじゃないなんて、わたしには不思議でしかたなかった。あれくらい上手にできれば、わたしだって裁縫が好きになっただろう。

 母さんが夜のうちに持ってきてくれた食べ物は、まだたくさん残っていた。四人でそれを等分して、いつもよりゆったりとした朝食が始まった。

 この三日間、洗濯は母さんたちがかわってくれるし、菜園の世話も、ほかの子たちに頼んである。閉じこもらなくてはいけないのは、このお邸の娘たち、わたしたち四人だけなのだ。あとの子たちはこのお邸に近寄らないようにして、ふつうに過ごしている。

 姉たちはそれぞれ、いまやっている手仕事の相談などをしながら、ゆっくり食事を味わっていた。けれどわたしはひとり、いそいで口の中に食べ物を詰め込むと、さっさと立ち上がった。

「勉強室にいるわ」

 そう声をかけると、姉さんたちの間からため息と、からかうような笑い声がそれぞれに上がった。

 カナイの意地の悪い視線を横顔に感じたけれど、わたしは気にせず、くるりと背を向けて部屋を出た。あきれられはしても、誰も止めないとわかっていた。



 廊下を小走りに駆け抜けると、わたしは勉強室の前で足を止めた。そうしてひとつ、息を吸い込んだ。

「どなたか、いらっしゃいますか」

 返事がないのを確かめて、念のためもう一度、声をかけた。返事がないと思えば、中にいるひとが本を読むのに夢中になっていて、気づかなかったということもある。何年も前に、それで一度、恥ずかしい思いをしたことがあった。

 前の日は、今の時期ならばまさか誰もいないだろうと思っていたので、声さえかけずに入ったけれど、本当ならそれはとても無作法なことだ。まして、先にあの方がいらしているかもしれないのに、同じことをする度胸はなかった。

 手燭に気をつけながら戸口の布をくぐり、静まり返った勉強室に入った。

 書き物机の上に手燭を置くと、ごとりと重い音がした。石の机は、何百年もここで使われ続けているうちに磨り減って、天板がまっすぐではなくなっている。手を放しても手燭が傾かないことを確認して、わたしは奥の書棚に向かった。

 本に読みふける気にはなれなかったのだけれど、もし誰かが様子を見にやってくることがあれば、そのときに何もせずにぼんやりしているというのも、言い訳に困るような気がした。

 この日も涼しく、前日のように霞が出てはいなかったけれど、人のいない部屋の空気は、ひんやりしていた。適当に選んだ古い書物を持って、わたしは机についた。そうしていっとき、表紙を開いたり、また閉じたりしていた。

 けれど使者は、なかなかやってこなかった。わたしはやがて、自分を落ち着かせようと、本のページをめくりはじめた。そうしていっときの間、ちっとも頭に入ってこない文面を流し見ていた。

 途中、はっとして手を止めたのは、火の国という文言が目に飛び込んできたからだった。

 ――火ノ国ヨリ来タル使者、数ハ七、何レモ天ヲ突ク偉丈夫ニテ、頭髪マタ眼ハ黒色、膚モ暗キ色ヲシテ、古ノ作法ニテ祝詞ヲ述ベ……

 とても背が高い人たちなのだわ。そう思うと、なんだか妙にそわそわした。昨日の使者も、ここに書かれているような姿をしているのだろうか。それともこの記録のときにいらしたのが、たまたまそういう方々だったのだろうか。

 これは何年前の記録だろう。文体の古めかしさからして、二百年か三百年前、あるいはもっとだろうか。代々の導師が残しておられる正式の記録ならば、冒頭に必ず日付が記されているのだけれど、この書物はどうやら誰かの私記、ちょっとした覚え書きをまとめたもののようだった。

 なかなか見つからない日付をさがすことを諦めて、もとのページに戻った。続きには、そのときの里の状況が記されていた。

 ――其ノ節、草苗ノ病アリ、麦実ラズ、餓エニ因リテ死スル者数拾余ノ折、使者ノ下サレシ麦、乾酪ナル食物、干シタル果実等、数多ニテ、長、跪キテ謝意ヲ述ベ……

 ぎくりとして、わたしは文字をなぞる手を止めた。

 とても、偉い方々なのだわ……。ようやくそうした実感がわいてきた。昨日の自分の物言いを思うと、冷や汗が出るようだった。長がひざまずいて礼を述べるような方々なのだ。導師よりも、長よりも、もっと偉いひとたち。

 そのときト・ウイラのほうから足音が近づいてきて、わたしはびくりと肩を竦めた。

「中にいるか?」

 前の日に聴いたのと同じ、やわらかな声だった。今度はト・ウイラのほうから、見当をつけてやってきたらしかった。もしかすると、誰かにヤァタ・ウイラの意味を教わったのかもしれない。

 あれほど使者の訪れを望んでいたにもかかわらず、わたしは戸口に駆け寄るのをためらった。ひと呼吸、いや、ふた呼吸だろうか。声も出せずに息を呑んでいると、ふたたび声がした。「――まだ、来ていないか」

 呪縛を解かれたように、わたしは立ち上がった。

「使者さま」

 どうにか振り絞った声は、自分でわかるくらい、震えていた。

「なんだ、いたのか。……どうかしたのか」

 使者の声は訝しげで、そこには怒っているような気配はなかったけれど、それでもわたしは肩を縮めた。

「その、わたし、昨日は失礼な口を……」

 いいかけた言葉が途中で細って、消えた。布越しに、使者が笑う気配がしたのだった。

「なんだ、今日はずいぶんとしおらしい声を出す」

 からかうようなその声は、優しかった。「気にすることはない。どうせ、ほかに誰が聞いているわけでもないのだから」

 そう悪戯っぽく笑う声に、心臓が撥ねた。ああ、秘密という言葉は、どうしてあんなにどうしようもなく魅力的に響くのだろう?

「だけど――」

 まだためらうわたしを制するように、使者はいった。

「それに、俺も、お前の話に興味がある」

 はっとして、わたしは顔をあげた。使者の気配は、たしかに生身の人のそれとして、布一枚隔てた向こうにあって、わたしの言葉を待っていた。

 もう、無理に振り絞らなくても声は出た。

「ほんとう?」

「そんな嘘をついてどうする」

 使者の声は、まだ可笑しそうに笑っていた。

 ようやく胸のつかえがとれると、訊きたいことが、いっぺんに体の底からあふれてきた。けれど、その勢いがあまりに強すぎて、わたしはかえって言葉を詰まらせた。

 やがて使者のほうから、何気ないふうに口を開いた。

「先ほど、お前たちの畑を見せてもらった。土の畑と、水耕池のほうと。なかなか美しいものだな。水がいいのか、土がいいのか……。あのようなわずかな陽射しで、よくあれほどの作物が作れるものだ」

「わずか?」

 素っ頓狂な声が出て、わたしはとっさに自分の口を押さえた。大声を出したら、姉さんたちに聞こえるかもしれなかった。

 わたしが驚いたことに、使者は戸惑ったようだった。

 男の人たちが世話する畑を、わたしは見たことがないけれど、女たちの管理する菜園と、それほどつくりは違わないと聞いていた。

 菜園には毎日きまった時間、目の眩むようなまばゆい光が降り注ぐ。光輝の神の恩恵だというその白い光は、作物が育つには不可欠のものではあるけれど、同時に、恐ろしいものでもある。眩しすぎるのだ。不用意に昼間の光を見つめすぎて、失明してしまったという人さえいる。

 それを、わずかな光だなんて。驚きの波が弱まると、持ち前の好奇心が、胸に突き上げてきた。

「火の国は、昼間の畑よりももっと明るいのね?」

 使者は、あっさりと頷いた。

「地上では、むしろ陽の光は強すぎて、水を干上がらせ、草木を枯らせてしまうのだ。といって、陽がなければそもそも作物は育たない。水さえもっとあればと、いつも思う」

「水……」

 わたしが呆然と呟くと、使者は苦笑まじりに続けた。

「地上にここのような、豊かな水があれば。あるいはここにもっと明るい陽射しが入れば、どれほど豊かな実りが望めるだろうかと思う。ままならぬものだ」

 ため息のようなその言葉は、わたしに、一冊の書物を思い起こさせた。古くから続く、作物についての綿密な記録、そこに記された、途方もないような工夫の積み重ねを。

 わたしは記憶を手繰りながら、そのことを使者に話した。魚の脂を利用して作る肥料。いくつもある畑の、光の射す具合に応じた作物の選択。同時に近くに植えるものの組み合わせ。ひとつの作物を収穫したあとは、続けて同じものを作らないこと。そのうえで一年を通して実りの偏らぬよう、細かく計算して作られた暦。あるいは間引きの時期や病害への対処……。数え上げればきりのないような、そうしたさまざまの手順を、いまある形に整えるまでに、どれほどの苦労と積み重ねがあったかということ。

 豊穣の神は、ただ恩恵を伏して待ち、己の知恵を尽くそうとしないものには、けして加護を与えてはくださらないと、その記録の序文には、記されている。そうしたことを話すうちに、使者が小さく唸った。

「たいしたものだ。そうしたことを、すべて書物で学んだのか」

 その声の、感心したような調子のなかに、子どもにしてはというような含みを感じて、わたしはちょっとむくれた。

「あなたが思っているほど、わたし、小さな子どもじゃないわ」

 その抗議に対して帰ってきたのは、笑いぶくみの謝罪だった。「これは失礼した」

 それがいかにも子どもをなだめる調子だったので、わたしはますます拗ねて、自分のくつのつま先を握りしめた。そうしてから気づいたのだけれど、わたしのほうから使者の影がうっすらと見える以上に、机上に置いた手燭のあかりは、わたしの影を垂れ布へと投げかけているのに違いなかった。

 気づいてみれば、座り込んで身を乗り出している自分の格好は、話をせがむ小さい子どもそのままだった。きゅうに頬が熱くなった。きちんと座りなおして姿勢を正すと、布越しに、またかすかな含み笑いが届いた。

「このような場所に、ずいぶん多くの人が暮らしていられるものだと、不思議に思ってはいたのだが」

 感心したように、使者はいった。わたしははっとして顔を上げた。

「けれど、人の数は……」

 いいかけて、わたしは口ごもった。その先を口に出すことが、恐ろしかったのだ。それは、これまで誰にもいったことのない話だった。

「どうした?」

 わたしはためらい、けれど、結局はそれを口にした。

「人の数は、少しずつ減っているの」

 そのことを、このときまで誰にも話したことはなかった。導師にさえも。訊いてはならないことではないかと、そういう気がしたので。だからなるべく、意識に上らせないようにつとめていた。

 だけど、わたしはずっと、怖かったのだ。誰かに不安を打ち明けたかった。口に出して、ようやくわたしはそのことがわかった。

 その怯えは、声にもにじんでいたのだろう。使者はなだめるような声でいった。「どれくらい減っているのか、わかるか」

「三百年前には千二百あまりの人がいたと、記録には残っているわ。それが少しずつ減っていって、いまでは、もうじき千を割る」

 ほかの誰も、そのことを憂いているような素振りがないことが、わたしには怖かった。どうして誰もそのことに気づかないのかと、そう思ったこともあったけれど、目に見えてどんどん人が死んでいるというわけではなく、それは長年にわたるゆっくりとした変化だったから、普通にしていれば、気づかなくても無理のないことなのかもしれなかった。

 けれど、このままずっと人が減り続けていったら? 百年後はまだ大丈夫かもしれない。でも、五百年、千年が経てば?

 抱え込んでいた不安を吐き出して、わたしはようやく口をつぐんだ。使者は、いっとき沈黙したあとに、ようやくいった。

「そうしたことを、誰に教わった?」

 誰からも、とわたしは答えた。わたしは何年も前から、導師が記録をつけたり、写本を作ったりされるのを手伝っていた。そうした中で、あるときそのことに気づいた。それから古い記録を辿っていった……。

 なかなか返事がかえってこないので、わたしはますます不安になって、自分の服の裾をきつく握りしめた。やはり、口に出してはいけないことだったのだろうか。それとも、使者が気を悪くされるようなことを、なにかいってしまったのだろうか。

 やがて使者は、半ばひとりごとのように呟いた。

「智というのは、こうしたものなのか」

 その声は、何かに驚いているようだった。その反応をどう受け取ったらよいのかわからなくて、わたしは戸惑った。どうやら自分が褒められているらしいということにも、すぐには気づけなかった。

「十年後にオアシスの水が枯れることをおそれる者は、いくらでもいる。だが、男たちのうちでどれほどが、千年先の部族の行く末に、思いをめぐらせることができるだろう?」

 その声は、どこか熱を孕んでいた。

「それにしても、たいしたものだ。ファナ・イビタルならば、そうした記録の管理は通常、部族の中でも特に選ばれた男たちが任されるものだが」

 わたしはそのあたりでようやく自分が褒められていることに気づいたけれど、喜ぶよりもむしろ、うろたえた。やはり、自分のようなものがこうしたことを口にするのは、分をわきまえないことなのだ。それだけがはっきりとわかった。

 すっかり黙り込んでしまったわたしに、ようやく気づいたのだろう。こちらの様子をうかがうように、使者の影が揺れた。

「どうした?」

「わたしは何も、そんな……」

 その声は、よほど萎縮していたのだろう。使者はふっと、我にかえったようだった。

「いや、驚かせてすまなかった。何も咎めてはいないのだ。ただ、そうだな。もしお前が……」

 いいかけて、使者は口をつぐんだ。「いや……、なんでもない」

 使者はあのとき、なにをいいかけたのだろう。わたしは語られなかった言葉の先を、想像した。もしわたしが、男だったなら? それとも……

 もしわたしが、火の国の人間だったなら?

 なぜ自分が、そんなことを思いついたのか、自分でもわからなかった。けれど、その思いつきは、思いがけないほどの強さでわたしの胸を掴んで、激しく揺すぶった。

 もしも。

 それはひどく荒唐無稽な空想だった。もしも自分が神様だったならと、幼い子どもが思い描くのと、なんら変わらない。その上、そう――とても不遜な考えでもあった。

 けれど、子どもが夢想することを、誰に止められるだろう? わたしはその頃、まだ幼かったのだ。少なくとも、子ども扱いをされてむっとするくらいには。

 わたしの内心の葛藤には気づかないようすで、使者は感慨深げに続けた。

「ファナ・イビタルの族長の邸にも、書庫はあり、教師はいる。その門戸はつねに開かれている。学ぼうと思えばその機会はあったのに、俺はそうしたことに、ほとんど興味をもとうとしなかった」

 使者はそういって、ため息をついた。わたしは我にかえって、使者の言葉に耳を傾けた。

「そうだな。お前の年の頃には、ただ剣の腕を磨くことばかりを考えていたように思う。そのほかに学ぶことといえば、迷わず砂漠を渡るための知恵くらいで……」

 つい可笑しくなって、わたしはくすりと笑った。「きのうはお邸の中で、迷っていらしたのに?」

 考えてみれば、それこそ不敬も甚だしい言い分だったのだけれど、使者はちょっと苦笑しただけで、怒りはしなかった。

「このような暗さではな。星さえ読むことができたならば、砂漠のどこであっても、迷いはしない」

「星? いま星と仰った?」

 驚いたわたしは、とっさに身を乗り出して、廊下と部屋とを隔てる布を掴んだ。その剣幕に驚いたのか、使者がのけぞるような気配があった。「どうかしたのか」

「星を、知っているの?」

 わたしの声は、よほど興奮していたのだろう。使者は面食らったようだった。けれどわたしの頭の中は驚きでいっぱいで、恥じる余裕もなかった。

「知っているも何も……ああ、そうか。星を、見たことがないか」

 言葉を切って、使者はなぜだか、答えをためらったようだった。けれど少しの沈黙のあとに、返事があった。「ああ。よく知っている」

「教えて。それは、火の国にあるものなの?」

 そうだ、と使者はいった。

「どう説明したものか……。星というのは、天に輝くしるべなのだ。夜ごとに遥か高い空にあらわれる、小さな光の粒だ」

 使者はまたそこで言葉を切って、少し考えるようだった。待ちかねてわたしが身を乗り出していると、かすかに笑うような気配があった。けれど今度は、むくれるような余裕はなかった。

「夜になると、数え切れないほどたくさんの星が、空いっぱいに輝きだす。それが時のたつにつれて、ゆっくりと頭上を巡ってゆく。ひとつひとつはとても小さいが、ほかの何よりもたしかな輝きだ。砂漠を旅するものを、つねに導いてくれる」

 その光景を、わたしは頭のなかに思い描こうとしたけれど、それは成功したとはいいがたかった。

「天井に光るしるしが描かれているの? ト・ウイラの壁に、二本の線が刻まれているみたいに?」

 答えに迷うように、使者がかすかに首をかしげるのが、うっすらと布にうつる影と、空気の動く気配でわかった。「まあ、そのようなものだ。星は、ひとが作ったものではないが」

 驚いて、わたしは目を丸くした。「では、誰が作ったの?」

「さて。色々な話がある」

 使者はまた少し考えてから、ゆっくりと、いくつかの物語を語りだした。

 ――砂漠で迷って死んだ男がいた。干からびたその遺骸を見たひとりの賢者が、死したる旅人を哀れんで、その手にしていた杖を掲げると、それが空高くへまっすぐにのぼり、煌々と輝くみちしるべとなって、以来、砂漠を渡るものを末永くたすけるようになった。

 ――あるオアシスにひとりの鍛冶師がいた。男は妻を大変に愛し、仲睦まじく暮らしていたのだが、その腕があまりにすばらしかったために、あるとき神々の目に留まり、星を鍛える者として天に召し上げられてしまった。男の妻はひどく嘆いて泣き暮らし、夜毎に神々を呪った。天高くからそのようすを見ていた夫は、一夜にひとつの星を地上へと流し、妻への慰めとした。

 ――銀を巧みに磨いてうつくしく輝かせる、とびきりのわざを持った細工師がいた。それを知ったずる賢い商人が、細工師をだましてその粒を安くで買いたたいた。商人は粒を持ってほかの人々のところへ行き、高く売りつけようとした。これは地上に落ちた星であり、手にすれば願いが叶うと、そんなふうに騙って。最初の客を騙そうとしたその夜、たくさんあった銀の粒はすべて、音もなくひとりでに商人の手を離れて、そのまま天高く上っていった。呆然と見上げる商人の前で、それらはほんものの星になってしまった。

 どれも、聴いたことのない話ばかりだった。わたしは息をつめて使者の話に聞き入った。途中、何度もこの話を書き留めることが許されるなら、誰かに話して聞かせることができるのならと考えた。

 星というものは、小さな光の粒なのだと、使者は教えてくれたけれど、その色やあかるさは、ひとつひとつ違っているらしかった。

 話を聞きながら、わたしはたくさんの光の粒が頭上に輝いているところを、なんとか想像しようとしてみた。けれど、それらの印象はいつのまにか、見慣れたヒカリゴケの明かりと、重なってしまうのだった。

 星はゆっくり動いているというけれど、いったいどうやって動くのだろう。星というのは、生きているのだろうか。

 けれどそうたずねる前に、影が揺れて、衣擦れの音がした。

「もう行ってしまうの?」

「ああ、そろそろ戻らねば。来年の荷のことも、導師殿と、もう少し打ち合わせねばならないのでな」

「明日もお話しできる?」

 使者は、少し困ったようだった。「いや。明日は、出立の支度で忙しい」

「そう……」

 肩を落として、わたしは唇を噛んだ。引き止めたかった。もっと色んな話を聴きたかった。けれどそれが、ひどくわがままなことだというのは、自分でもわかっていた。

 わたしはじっと、垂れ布越しにかすかにうつる影を見つめていた。引きとめるまいと口をつぐむのでせいいっぱいで、旅の無事を祈る言葉どころか、話を聞かせてくださったことへの礼さえ、口にできなかった。

 やがて、影がゆれた。

「それでは、達者でな」

 使者は今度こそ、立ち去るようだった。その足音に縋るように、わたしは声を上げていた。

「お名前を、教えてくださる?」

 足音が止んだ。

 ほんのわずかなためらいのあとに、使者は名乗った。「ヨブ。ファナ・イビタルの、ヨブ・イ・ヤシャルだ」

 ――ヨブ。その名をけして忘れないように、わたしは口のなかで繰り返した。どこに書きとめるわけにもいかないと、重々承知していたので。

「――知恵の女神の娘よ、お前の名はなんというのだ」

 その大それた呼びかけを、畏れ多いと感じるだけの気持ちの余裕さえなかった。わたしは慌てて名乗った。「トゥイヤ」

「いい名前だ」

 使者は、微笑んだようだった。顔を見たわけではないけれど、その言葉に、やわらかな笑みの気配が滲んでいた。

「お前の名もまた、星にちなんでいるようだ」

 わたしはひどく驚いた。トゥイヤというのは、はるか昔、空に星がまだなかったころの世に、いちばん最初に輝くようになった星なのだ。ヨブはそう説明してくれた。

 まだわたしが驚きから醒めないでいるうちに、ヨブはいった。「エルトーハ・ファティスのトゥイヤ。また会おう。来年の、サフィドラの月に」



 使者の足音が遠ざかり、すっかり聞こえなくなってしまうと、彼がそこにいたという痕跡は、やはり何も残ってはいなかった。

 ヨブ・イ・ヤシャル。聞きなれない響きの名前の気配だけが、古い書物のにおいと混じって、部屋の中に、まだ漂っているような気がした。

 話していた時間は、どれほどのものだっただろうか、あっという間に過ぎたようにも思えたし、百年も話しこんでいたようにも感じられた。

 トゥイヤ。使者がわたしの名を呼んだ、その抑揚が、耳に残っていた。彼が口にすると、ほんのすこし響きが変わって、まるで別の人間の名前のように感じられた。

 来年のサフィドラの月に。

 夢から醒めたように、わたしは目を瞬いた。長い時間おなじ姿勢で座り続けていたために、体はすっかりこわばっていたけれど、手のひらは火照って熱かった。

 ふらつく足取りで書き物机にもどると、短くなった灯心が、音を立てて炎を揺らした。

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