第1話
子供の頃から何度利用したかわからない懐かしい駅の改札を、
駅から一歩、外へと踏み出すと、懐かしい町の空気が浄信を包んだ。改札を抜けるとすぐ正面には、タクシーとバスの乗降場のあるロータリー。右手には、東京のベッドタウンとして機能する小都市の規模に見合った大きさの4階建ての駅ビル。その周囲にも、いくつかのテナントが入った商業ビルが建ち並ぶ。
そして、左手には、昭和の時代から変わらない、アーケードに覆われた商店街が続く。もちろん、そこに並ぶ店は変わったのだろうけれど。浄信は、商店街へと歩を進めた。
ただでさえ、渋谷や新宿といった都会に比べたら人口密度の低い街ではあった。平日の昼下がりの商店街は、ゆったりと買い物を楽しむ高齢者の姿がちらほら見えるだけで、のんびりとした雰囲気が漂っている。
商店街を抜け、大通りから道をいくつか折れると、いつの間にか空気が変わる。それは、浄信だけが感じるものなのか。自分でもよくわからない。
商店街が住宅街に変わり、住宅もいつしかまばらになって来る。そして、最後の曲がり角を折れると、突然目の前に、緑に包まれた小高い山と遥か天空まで続くかと感じられる石段が出現するのである。
石段の周囲には、赤、紫、薄紅、白など色とりどりの牡丹が植えられていて、一段歩むごとに、ふくよかな優しい香りが鼻孔をくすぐった。ちょうど今の季節は、春牡丹を鑑賞するのにギリギリセーフといったところだ。休日ともなれば、県外からも牡丹を目当てに訪れる参拝者もまだ多い頃だろう。
石段を数段上ったところで、浄信は腰まで届く長いまっすぐな黒髪をひとつに束ねた。上から下まで全身黒ずくめの服装は、照りつける陽差しを容赦なく吸収し続ける。
まだ5月とはいえ、重い荷物を肩に背負って、急な石段を上ると、さすがに少し汗ばんでくる。
「ふう……」
ひとつ、溜息をつき、額の汗を手の甲で拭った。しかし、溜息をついたとて、石段を上らなければ何ら物事は進展しない。
なぜなら、今里帰りしようとしている浄信の実家は、この石段の上。
ようやく楼門が目の前に大きく見えて来たところで、楼門の脇にある潜り戸が開いた。
「お帰りなさいませ、
竹箒を持った男は浄信の姿を認めると破顔し、声をかけた。
「お元気でしたか、
「ただいま、清水」
竹帚を楼門に立てかけて、そのまま石段を走り降りてくる清水は、この前帰省した時よりも、生え際が少し後退したようにも見える。
「掃除はいいの?」
「大丈夫でございますよ。そんなことよりも、若の重そうな荷物をお持ちいたしましょう」
言いながら、笑顔で駆け寄ってくる。浄信が幼い頃から、夫婦で寺の雑役を勤めてくれている清水は、もう既に初老の域にあるが、毎日通いでこの石段を上り下りしているせいか、息をまったく乱すことなく、浄信のもとまでやって来た。
「相変わらず亡くなられた奥様によく似て、お美しくていらっしゃる。若が
忙しい父、早逝した母に変わって、幼い頃から浄信の遊び相手でもあった清水の言葉に他意がないことは、浄信もよくわかっている。
しかし、ギタリストとしてステージに立ったときのことを思い出すと素直に笑うことはできなかった。客席を埋め尽くす女たちは、Keiがまだギターを奏でる前に「キャー」と嬌声を上げる。そんなに声を上げ続けていて、音楽が聞こえているのだろうかと考えてしまうほど、彼女たちは声が涸れるほど叫び続けるのだ。
もちろん、本来なら「キレイ」「美しい」と外見を誉められるのは喜ぶべきことなのであろう。しかし、あまりにもそれが頻繁に続くと、なんだか自分の中身をまったく見てもらえていないようで、自分の作り奏でる音楽をまったく聴いてもらえていないような気がして、悔しくもなる。贅沢な悩みなのだろうなとは自分でもわかってはいるのだけれど。
他人相手ならいくらでも、今、心に浮かんだ不快な思いを閉じ込め、ごまかすことはできたはずだ。しかし、親同然に育ててくれた清水相手には、さすがに上手く笑顔を作ることができない。いや、他人なら騙されても清水が見抜いてしまうといったところだろうか。
「いやいや、口が過ぎましたな。年寄りはこれだから困る」
やはり、そんな浄信の表情の微妙な変化を察してか、清水は自らの額をピシャリと叩きながら、さりげなく自分から話題を変えた。
「若御前、大学でのお勉強はいかがですか?」
清水は言いながら、浄信の手からギターケースと着替えなどが詰まったバッグを軽々と受け取る。
これも、実は浄信にとって、あまり嬉しくない話題だ。
「う……ん、まあ、ぼちぼち……ね」
「ゼミでは、仏教民俗学を専攻されていらっしゃるそうで。では、卒論もそういったテーマで書かれるんですか?」
「うん、まあ、そうだね。とりあえず、そのための史料を見たくて、帰省して来たんだ……」
「さすが、若。勉強熱心でらっしゃいますね」
明徳寺には、国宝や重文指定を受けた貴重な史料や経典も多く収蔵されている。以前から、常に20人は下らぬ役僧が勤め、総本山にも負けず劣らずの規模を誇る寺ではあったが、近年ではそれらの史料をもとに子弟教育にも力を入れる学問寺としての性格も強めている。一日写経など、修行の体験をしていく一般の参拝者も近頃は増えているようだ。
楼門を潜ると、風雅な灯籠が吊された
「お帰りなさいませ、若御前さま」
と、丁重に挨拶をした。会釈だけして行く僧侶は、おそらく他の寺からやって来た学僧といったところか。
平日とはいえ、一般参拝者とも何人かすれ違った。法衣を身につけていないのに
「お帰りなさいませ、若御院さま」
と挨拶をしてくる人たちは、この寺の熱心な檀家衆である。
登廊を登り終えるまでには、先ほどまで肩に提げていたギターケース以上の重みが、浄信の肩にのしかかっている。平安時代から続く、この古刹の跡継ぎであるという逃れようのない重圧だ。
登廊を抜けると、幼い頃から見慣れた、広大な境内が目の前に広がった。
よく、テレビや雑誌で、「東京ドーム○個分の広さです」という表現を耳にしたり目にしたりするが、東京ドームに行ったことのない子供時代にはその広さがいまいちピンと来なかった。
幼なじみで親友である
浄信がギターを手にしたのは、親友である康彦の影響も大きい。ヴィジュアル系バンドの頂点に君臨するKreuz《クロイツ》のアルバムを貸してくれたのも康彦だった。中学の頃、お互いの部屋で一緒に勉強するときには、受験勉強そっちのけでKreuz《クロイツ》のアルバムを聴き、受験直前だと言うのに東京ドームまでライヴを見に行ったこともある。
その時に初めて気付いた。
明徳寺が、東京ドームそのものをすっぽりと軽々包んでしまうだけの境内を持っているということを。水道橋の駅から、東京ドームのゲートまでの道のりが、ちょうど明徳寺の石段の一番下から登廊を抜ける辺りまでの距離とほぼ同じぐらいではないかと感じられた。なんとなく、ウチは他とは違うのかもしれない、と遅ればせながら気付いた瞬間だった。
境内の一番奥には、小高い山の断崖絶壁に引っかかるようにして舞台造の本堂が南向きに建てられ、そのすぐ前面には本堂の秘仏を拝むための
三重塔を遠くに見ながら、途中から右手の東参道へと折れて、清水に導かれるまま、奥の
庫裏の土間でブーツの紐をゆるめていたところに、マナーモードにしていたスマートフォンがブルブルとふるえて着信を告げた。
ディスプレイを見ると、“KaTTsu《カッツ》”こと
清水は気を利かせたのか、庫裏の奥へと先に上がって行く。
「もしも~し、
ステージの上では
「ようこそ、我が愛しき
なんてことを言いながらオーディエンスを魅了している、魔界から響くかのごとき低音とはうって変わった明るい声が浄信の耳元で響く。
「ん、実家」
「あのさぁ、俺らのメジャー一発目のイヴェント、決まりそう! 音楽誌の『ViSUAL SHOCK』のイヴェントでさ、若手の、ネオ・ヴィばっかり集めたイヴェントあるじゃない。あれのVol.4にウチら出られそう。彪の康彦が声かけてくれてさ」
「あ、やべっ、ごめん。ちょっと、今その話はできないや」
「あ、そっかそっか、実家だとやばいんだったっけ、ごめん。じゃあさ、タイミング見てかけなおしてよ」
「ん……、ホント、ごめん」
浄信たちのBallも、所属プロダクションとレコード会社が決まってからは、来年の春のメジャー・デビューに向けて着々と動き出している。
本来なら嬉しいはずの話だが、浄信の実家での立場を考えると悩ましい話題であった。
電話が終わったタイミングを見計らったように、清水が玄関へと戻って来た。
「若御前、御住職はただいま檀家の方とお話し中のようです。いかがされますか?」
この、自然と憂鬱になる気持ちを、振り払いたい。
「あのさ、荷物、俺の部屋に入れておいてくれないかな。俺、このまま蔵へ行くよ」
「さすが、若。勉強熱心でいらっしゃいますね」
「いや……」
明徳寺には宝蔵があり、寺に伝えられる平安期からの様々な史料を、参拝者に向けて公開している。その宝蔵の奥には、春と秋、年二回の特別展の際にしか展示しない貴重な宝物の数々、たくさんの経典や史料、仏像も収蔵されていた。確かに、その史料を読みに来たのも帰省の理由のひとつだ。
浄信は、宝蔵に収められた美しい絵巻や穏やかな仏の顔を眺めていると、訳もなく心が落ち着くのである。だから、父に叱られたり、学校でイヤなことがあったりすると、そんなイラついた気持ちを落ち着けるため、蔵に向かった。
今回も……。
蔵の中で、いろいろと熟考したいことがある。
浄信は、脱ぎかけたブーツにもう一度足に引っかけ、蔵へと向かった。
ホトケさまに誓って! 中臣悠月 @yukkie86
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