第25話 side祐二

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 菊地の父親だろう男が病室に入り、どれだけ時間が過ぎただろうか。祐二は苛々しながら男が出てくるのを待っていた。

 

 じっと閉じられたドアを睨みつけていると、内側からドアが開き、男が出てきた。年は四十代半ばといったところか、やはりその顔は郁也にどことなく似ている。


「真生ちゃんが、『今日はごめんなさい』と言っていたよ。彼女は暫く眠り続けるから、今日はもう帰りなさい」

 

 穏やかな口調で話す男の言葉には、反発するのを許さない強さがあった。男の言うことを聞く必要も義理もありはしない。しかし、ここは素直に引くことを選ぶべきか。祐二にとって一番気がかりなのは、真生のことだ。


「……さっきの薬は睡眠薬か?」


「そうだよ。あの子には痛み止めはもうあまり効かないから、睡眠薬を使って痛みが治まるまで眠らせているんだ」


「それじゃあ、睡眠薬を使うとその後どのくらい眠るんだ?」


「そうだね、だいたい二時間前後は眠り続ける。だけど、真生ちゃんはできるだけ睡眠薬は使わないようにしているんだよ」


「なんで?」


「使えばその間は眠り続けないといけないし、そんなに薬に頼っていたら、彼女の体力が落ちてしまう。なにより自由に動ける時間が確実に減るからね」


「それじゃあ、あいつは毎回あんな苦しみを限界まで一人で耐えているのか?」


 真っ青な顔で、苦しそうに頭を押さえて蹲った真生の姿が脳裏を過る。一年前に自分の病気を知ったと彼女は言っていたはずだ。そんなに前から誰にも気づかれないように、笑って隠していたということか。


 苦しい時に苦しいと言わない彼女の強さが、今の祐二には切ない。真生がもっと自分本位であってくれたならと思う。


「残念だけど、手術を受けるまではそれで耐えてもらうしかない。今より強い薬を使えば、その時は楽になれるだろうけど、その分副作用も強くなってしまうんだ」


「……あいつは治るんだよな?」


 意識しないで零れた言葉は、そのまま祐二の不安を表していた。


「僕はあの子が赤ん坊の頃から知っているから、実の娘同然なんだ。だからね、あの子を死なせたくないと思っているよ」

 

 男は医師の顔ではなく親の顔をしてそう答えると、足早に病室の前を去っていく。絶対に助けると、気休めでも口にしなかったのは、助けたいという気持ちが男にもあるからだろう。


 どんなに手術の成功率が高くても、絶対の保証はこの世界のどこにもありはしない。信じる覚悟をしたつもりだった。しかし蝋燭の火が風に揺れるように、祐二の心も不安という風に簡単に揺れてしまった。


 そんな自分を情けなく思いながら、祐二は弱気な自分を振り払う。そして、病室の扉に手の平で触れながら中にいる彼女を想った。


 ──お前が頑張るなら、オレも同じように信じる努力をする。真生の隣に立つのに恥ずかしくない奴になってみせるから──……。


 祐二は拳を握ると、廊下を歩き出した。





 自宅に帰った祐二はソファアに深く腰がけて、テーブルの上に置かれたスマホを見ていた。息を吸い、深く吐いて、ようやくそれを手に取る。スマホを最初に買った時でも、こんなに扱いを躊躇いはしなかったはずだ。


「くそっ、らしくねぇよな。くだくだ悩むのは止めだ」


 祐二は頭を掻き毟って大きくため息を吐くと、一度も自分からはしたことのない相手へ電話をかけた。耳の奥で単調なコール音が繰り返される。しかし五回を過ぎて相手が出ない。もう一度時間を置いてかけ直そうかと思い直した頃、プツリとその音が止んだ。


【もしもし?】


「…………オレ」


 なんて言えばいいのかわからずに、とりあえず口を開くとそんな言葉が出た。自分で電話しておいてこの切り出し方はまずいだろうと思ったが、どうしようもない。


【祐二、だな?】


 相手の声は驚いたと言わんばかりにあからさまに上擦っていて、祐二は見えない相手に複雑な気分になる。


「あんたは相手の表示も見ないで電話に出てるのか?」


【ちゃんと見てるさ。それでも信じられなかったんだ。お前から電話してくるなんて、ずっとなかったからな】


「……そうかよ」


【どうしたんだ? 何かあったのか?】


どう切り出そうかと悩む。


【……深刻なことか?】


「──直接、親父達と会って話をしたいって言ったら、できるか?」


【あぁ、もちろんだとも! 場所は何処だ? 今からか?】


「今からって、いいのかよ?」


 相手が興奮を抑えようとしているのが伝わってきて、祐二は苦笑した。ずっと話し合いの場を求めていたのは父なのだ。この機会を逃してなるものかとでも思っているのだろう。


【問題ないぞ。どこで会う?】


「そっちがいいなら、近くまで行く」


 向こうの家に行くことも、自宅に招くことにもまだ抵抗があって、家と自宅の中間くらいにある喫茶店で待ち合わせをする。


【母さんと一緒に待ってるからな】


「……あぁ、わかった」


 祐二はそう答えると、電話を切った。





 待ち合わせをした喫茶店の前でバイクを止めて、祐二は店に入った。周囲を流し見ると、もうすでに両親は来ていたようだ。入口から奥にある窓側の席に座って祐二を待っている。


 離れているのに、ぴんと伸ばされている背筋には、祐二に対する緊張が感じられた。こっちも身構える気持ちがないわけではない。しかし普通の親子とはあまりにも違う関係が物哀しさを誘った。


 少し近づくと、両親と目が合う。祐二は黙って向かいに座った。二人がもうコーヒーを飲んでいるのを見て、ウェイターに自分の分を注文する。三人の間に沈黙が流れ、祐二は迷いながら口を開く。


「……三年ぶりだな」


 久しぶりに会った両親は、三年会っていなかっただけなのに老けこんで見えた。皺の増えた顔に時間が確実に流れていたことを知る。


「祐二……よかった、元気そうで……」


「しばらく見ないうちに男前になったな」


 母は目頭にハンカチを当ててすすり泣きながら、ぎこちなく小さな笑みを浮かべた。

 父はそんな母を気にかける様子を見せると、感慨深そうに祐二の顔を見つめる。


 祐二は両親を目の前にしながら、冷静でいられる自分に驚いていた。もっと複雑な気持ちになるだろうと思っていたのに、意外なほど心は落ち着いている。


「やっぱり兄貴に似てるか?」


「兄弟だもの……お兄ちゃんと違うところももちろんあるけど、似ている部分もたくさんあるわ」


「そうだな。お前もオレ達の子なんだから、似てて当然だ」


 父に言われた言葉に胸が熱くなる。両親の子供と認識されているのは兄だけな気がしていた。失った子に思いを寄せるのは親なら当然だ。しかし、自分たちの悲しみに囚われていた両親は、祐二の抱える苦しみを想像することがなかったのだ。


 そう考えていると、父が祐二に向かって深く頭を下げた。


「祐二、あの時は本当にすまなかった。ずっと謝らなければいけないと思っていたんだ。父さん達は親としてお前を守らなければいけない立場にありながら、逃げてしまっていた」


「ごめんなさい、祐二。貴方が出て行ってからずっと後悔していたのよ。あの時言ってしまった言葉を何度も何度も謝ろうと思った。だけど、祐二が出て行ってしまうまでお母さんは謝る勇気がなかったの」


 両親の謝罪の言葉に、祐二は喉の奥から込み上げる熱を殺すことができなかった。真生と出会ってから、こんな気持ちに何度駆られたことだろう。十八にもなって、子供のように泣き出したい衝動に駆られることがあるなんて、思いもしなかった。


 しかし、ここで泣くなんてみっともない真似を自分に許すほど、祐二のプライドは低くない。冷静に振舞いながら、今度は自分が素直な気持ちを打ち明ける。今を逃せば、一生言えないだろう言葉を。


「あの時は、親父達を許せないと思った。この先も許すつもりはなかった。けど、オレも自分の気持ちばかりで、お袋達の気持ちをちゃんとわかってなかったんだと思う。それに気づいたから、今は別に恨んでねぇし、憎くも思ってねぇよ」


 口に出すのは母の言うとおり、たしかに勇気が必要だった。けれど、自分にも非がある時に、それを認めない方がよほど格好悪い。


「オレを気づかせてくれた奴がいるんだ。そいつは重い病気で、手術しないと助からないんだ。けど、手術を受ければ全部の記憶を失っちまう」


「大切な人なのか?」 


「あぁ。オレはあいつが、真生のことが大事だ。病気のことも知らないで、オレはあいつを山ほど傷つけてきた。普通の奴なら、想うのを止めるだろうっていうくらいにな。なのに、あいつは全部許してオレの傍にいてくれたんだ」


 普通なら自分の好きな相手を両親に教えるなど、気恥しくて絶対に避けて通るはずだ。けれど、祐二からすれば、自分が真生にしてきたことを思えば、そんな甘い気持ちよりも、自分に対する苦さのほうが増さってしまう。言わなければいけない言葉はこの先にある。だから、祐二は逃げずに両親を見つめた。


「あいつが記憶を失うと知った時は、気が変になりそうなくらい悩んだ。どうすりゃあいいのかわかんねぇし、その現実から逃げ出したくもなった。その時にようやく、お袋達もこんな風に苦しかったんだろうって、わかったんだよ」


 祐二は二人に向かって頭を下げた。


「オレも悪かった。親父が何度も話す場を設けようとしたのに、辛く当たっちまった。お袋にも連絡せずに心配かけた。家に行くのはまだ無理だけど、これからはオレからも歩み寄る努力をする」

 

 三年前の溝を、ここで全部埋めることなど無理だろう。しかし歩み寄ろうとしてくれた両親に、少しずつ応えていくことならできるはずだ。


「ありがとう、祐二」


「家族なんだ。ゆっくりやっていこう」

 

 父の言葉に、深く頷いて返す。それは祐二の時間が動き出した瞬間だった。

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