正しい変化球の投げ方。
奥多摩 柚希
プロローグ
――――お前を、甲子園に連れて行ってやるよ。
六月も終わりのころ。俺は、大田区にある多摩川の河川敷で、中学生活で最後となる夏の都大会の三回戦のマウンドに立っていた。
相手は都内でもそれなりの強さを持っていたが、それでも勝てないほどではない、といったような、それくらいのチーム。一言で言えば、そこそこ。
実力が拮抗しているのは試合前から分かっていたことであった。その上傾向的に投手戦になりやすいこともわかっていたので、少ないチャンスを生かす、というような目標を試合前に立てた。もちろんそれは相手も同じで、現在、最終回である七回の裏、二アウト満塁という、いかにもピンチ、という状況を迎えている。
ふぅ、と一つ息を吐く。
しかしこっちには二点のリードがある。内野は後退守備だし、軟球は飛びにくい性質があるから、内野ゴロで抑えればいい。というか俺が三振に抑えてしまうのが一番手っ取り早い。
なんにせよ、俺は決め球にスライダーを投げると決めていた。ここまで地区大会、都大会は基本これで抑えてきた。今日も奪三振の半分以上はこのスライダーである。
第二試合だからか、もう日は傾いてきている。西日を横目に受けながら、俺は初球を投じる。
右足をプレートにかけ、左足を振り上げる。
相手はこの春から左打席にコンバートしている選手だ。いまだにスイングが不安定である。いや、たぶん素振りは人一倍してきたんだろう。ヘッドスピードは人並みまで速くなっている。が、今日はいずれもセカンドゴロ。ストレートの後のスライダーにタイミングが合わずに引っ掛けたのがありありとわかる。
初球は外角低めにストレート。スパン、と気味のいい破裂音が聞こえる。調子がいい。
次に投じるのは内角高めへの変化球。カーブにはそれほど自信はないが、この打者を打ち取るには十分な変化量があると自負している。
二点のリードがあるのはうちのほうだが、いかんせんランナーの溜め方がいけなかった。四球二つに被安打一。完全にムードはあっちのほうに流れてしまっている。声援もここにきてひときわ大きくなった。
相手は中高一貫校だ。そのため高校生も応援に駆け付けている。相手校の選手も先輩の前で恥ずかしいプレーはできないと意気込んでいるに違いない。応援は高校生らしく野太く、時折俺の心が揺れる。
キャッチャーのサインにうなずく。彼は斎藤というが、彼との付き合いは小学校の低学年からで、キャッチボールならもう阿吽の呼吸だ。俺の得意球も、調子も、すべてわかっている。
俺の狙い通り、インハイに構える斎藤。高めへの変化球は邪道だが、俺はこれで幾度となく勝ってきた。
初夏のグラウンドに、セミが鳴き始めている。
二球目。
ポカン、と、鈍い音。軟式野球は芯を外すとなかなか間抜けな音を出す。一塁線に大きくはみ出るファウル。完全に振り急いでいる。初球のストレートが功を奏したようで、タイミングが合っていない。
満塁のランナーがいるが、七回ツーアウトツーストライクまで来ている。あと一球だ。
これに勝つと、次は第一シードの蒲田中と当たることになる。あそこは打撃力が強いので、今日の倍以上のピッチングをしなければならない。
セミの鳴き声が一瞬やむ。セミは一週間ほど地上で鳴いたら地に還るらしい。はかない。
なるほど、次は一球外にはずすのか。悪くない。カウントを急いではいけない。ストレートを見せ球として使って、スライダーで決められれば、これこそ勝利の方程式。あとは代入するだけだ。
三球目を投じる。外角へ。
パケン、と、また芯の外れた音がした。ボール球に手を出してしまったようだ。打者は顔をしかめる。ぼてぼてのゴロが俺の前に転がってくる。結果オーライだ。
歓声が一転、ため息に変わる。
なぜかわからないが、今回はダッシュをせず、待って取ることにした。打ち取った余裕か、はたまたこの大声援から早く逃れたかったのか。わからないが、このとき、一瞬の慢心があったのには間違いがない。
マウンドはほかのポジションと違って、盛り上がっている。ましてやピッチャーマウンドの投手板に関しては飛び出ている。
だから。
「羽村! イレギュラーするぞ!」
「え?」
とっさに気づいてしまった。
尋常じゃない横回転が、ボールにかかっていた。
グラウンドの土を蹴り、白球は大きく右へ。
瞬間の出来事だった。
しかし、伊達に六年間も野球を続けてはいない。体勢は崩れてもグラブを瞬時に動かし、何とか捕球。
刹那の安心感。落ち着いて一塁に送球すれば、これでベスト一六。大会前の目標に到達することになる。
初夏の風が、冷たく吹いた。
人差し指に絡まった白球は、無情にも一塁手のはるか足元へ。
満塁のランナーはそれぞれ次の塁を蹴っていく。
一人、二人とホームに帰る。三人目もホームに突っ込む。
大きくそれた送球を、視線だけで追う。
一塁手がボールに追いつく。三年間、彼が鍛えた右肩で、バックホーム。
しかし、時すでに遅し。
齋藤の腕はすでに挙げられている。送球を止めたのだ。
その斎藤の裏、ベースカバーの俺の目の前を。
サヨナラのランナーは滑り込んだ。
球場に響く勝利を喜ぶ歓声と、喜びのままホームに集まる相手ナインの姿が、もうもうと立ち込める砂煙の中で立ち尽くす俺の五感を突き刺した。
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