追いつめられて……

 私は、このとき韓信と直接会って話をした。その際に感じたことは冒頭に述べた通りである。しかしあえて付け加えよう。彼は誇り高き男であり、それでいて常に冷静な判断力を持った男であった、と。

 彼は、状況に押しつぶされて錯乱したのではない。むしろ彼の行動は非常に理路整然としていた。当時韓信の意中を知る者は陳豨しか存在しなかったが、陳豨は韓信を尊敬していたがために計画に参加したのではなく、それが充分に成功の可能性を秘めていたがために、そうしたのだ。あのとき韓信が相談を持ちかけたのが陳豨ではなく私であったなら……私は彼の計画に賛同していたかもしれない。



 一


 韓信は生かされたが、雒陽から関中の櫟陽(れきよう)(当時の首都)に居宅を移され、無為な日々を送らされている。身分は列侯なので封邑からの租税が入り、暮らしに不自由はないが、目的を喪失した感は否めない。

 能力を持て余す日々が続き、自然に気持ちも荒んでくる。彼は、病を称して謁見の場に出ず、皇帝の行幸にも一切随行しようとしなかった。

 かいがいしく名誉を回復しようと活動することは、気が進まない。謁見の場で下げたくもない頭を下げ続け、折りたくもない膝を折り続けることには、嫌気がさした。本当に心の底から自分が尊敬する相手であったらそうしたかもしれないが、残念ながらもはやこのときの劉邦は、韓信の尊敬の対象ではなかった。

 好きでもない男に頭を下げることは「媚びる」ことであり、権力を前にして節を曲げることを意味する。


 彼に同情的な者の中には、助言をしてくれる者もいる。

「悔い改めて、皇帝に対する忠節を示すことだ。一から出発する気持ちで……」

 心配して言ってくれていることはわかる。しかし、いったい何を悔い改めるというのか。改めるのは皇帝の方だろう。そう思ったとしても無理はない。彼はなにも罪らしき罪は犯していないのだ。

 態度が悪いと言われればそれまでだが、劉邦の子飼の将軍たちの中には、彼より功績を鼻にかけて恩賞を強要する輩は多い。彼らに比べれば、韓信は謙虚だと評されてもよいくらいであった。


 ――周勃や灌嬰などと、この私が同じ身分とは……。

 かつては彼らを配下に従えて戦った韓信である。彼らには恨みこそないが、自分の方が優れていると考えるのは自然であった。

 しかし、嘆いていても始まらない。「悔い改める」という表現は気に入らないが、再び世に出るためには、これまでの功績をすべて水に流し、一から再出発する覚悟が必要だ、と思わざるを得ない彼であった。


 ある日韓信は、樊噲の邸宅を訪問した。皇帝に昔から忠実だった臣下の心境がどのようなものであるか、確かめようとしたのである。

 韓信自身が初心に帰るためであった。


 このとき樊噲は韓信が来訪したと聞くと、みずから門から玄関までを掃き清め、跪いて頭を地に付けて迎えた。そして韓信を大王と呼び、自分のことを臣(わたくし・しもべを意味する一人称)と呼んだという。

「大王さまには、わざわざ臣の家に足を運んでいただき……」


 朴訥な男であり、決して卑屈な男でもなかった樊噲の平身低頭ぶり。これには訪問した韓信の方が驚かされた。

「樊将軍。もうその呼び方で私のことを呼ぶな。私はすでに王ではない」

「承知しておりますが……少なくとも私の中ではあなた様ほど王にふさわしい方はおりませぬ」

「なにを言う。君と私とでは、身分の違いはない。私は……淮陰侯だ。君だって舞陽侯だろう」


 樊噲は劉邦が陳で韓信を捕らえた際、それに協力したことを評価され、列侯の地位を得たのである。

「……聞けば、会議の席で君は私を捕らえることに賛成したそうではないか。のみならず陳での会同の席にも君はいた。捕らえられ、惨めな姿をさらした私を君は弁護しようともしなかったではないか。その君が……私を呼ぶにあたって尊称を使うのはおかしい。そう思わないか?」

 韓信の物言いもややねじくれ気味である。


「お怒りはごもっともでございます。しかし臣には大王を妬む気持ちなどなく、今でも尊敬する気持ちに変わりありません。……ですが臣はやはり皇帝の臣下なのでございます。会議の席で大王を捕らえることに賛成したのも、皇帝がそれを望んでいると察したからです。臣はあの方のやることには逆らえないのです」

「……それだ」

 韓信は樊噲の言葉に「我が意を得たり」とでも言いたそうな反応をした。


「君や夏侯嬰の皇帝に対する臣従のあり方は、尋常じゃない。私には理解できないのだ。どうしてそのように皇帝に尽くそうとするのか?」

「さて……どうしてと言われても困りますな。強いて言えば……そう、お互いに愛し合う男女が不貞を働かないのに似ている、とでも申しましょうか。恋人のようなものです。世の中には美女は多い……しかし恋人のいる男は、それに見向きもせず、自分の愛する女性だけを追い求める……もちろん、例外はありますが」

「ふうむ……わかるような気はする……しかし、たったそれだけのことなのか? 私はかつて……君が皇帝を救おうと我が身を顧みず突進する姿を見た。覚えているだろう、鴻門での一連の出来事だ。私は君のあの姿を見て、皇帝はよほどの方なのだろうと想像したのだ。だから私は漢に属することにした……。だが君の今の話を聞いていると……少し落胆したような気になる。君たちの関係にはもっと高尚な理由があるはずだと思っていたのだ」

「臣どもはあの方を担ぎ上げることに、その後の運命を賭けたのです。確かに……皇帝より人格的にも能力的にもまさった人物は多い。大王、あなたもそのお一人です。しかしそれをわかっていて臣が節を変えないのは……過去の自分の判断が正しかったと信じているからです。確かに気持ちが揺らぐことはありますが……」

「つまりは、間違いを認めたくない、ということか? 結局はそれだけのことなのか」

「しかし、人臣たる者のとるべき態度は、それに尽きるのではないのでしょうか」

「…………」

「どうかなさいましたか」

「……君がうらやましい。私は……そこまで他人に尽くそうという気持ちになれぬ。皇帝は私のことを、忠誠心が足りぬといって時に叱責する。いったいどうしたら君のように振る舞えるのか……」

「大王には難しいかもしれませんな。あなたは才能も人格も皇帝より……いや、はっきりと口に出しては言えませんが……。しかし、大王はその割によく我慢して皇帝に尽くしていると思います」


 結局要領を得ずに樊噲宅をあとにした韓信は、その帰り道に誰に向かってというわけでもなく呟いた。

「人臣として覚悟が足りぬ、ということか……。よりによって忠節の関係は恋人同士のようなものだ、とは! そんなものは……ただの感情に過ぎぬ」


 ――忠節において私が樊噲に及ばぬはずだ……私は皇帝を愛してなどいない!


「……恋人同士に義や仁の論理があるはずもない。樊噲はただ婦人のように皇帝を愛しただけだ。その樊噲と私が今や同じ身分だという……とんだお笑いぐさではないか!」


 二


 韓信が捕らえられて淮陰侯に格下げされた後まもなく、皇帝は新たな人事を発表した。楚・斉に新たに劉姓の王を配置したほかに、韓王信を太原に国替えさせたのである。

 わざわざそのような人事を行ったのは、この時期北方の異民族である匈奴がたびたび中原に進出してくるからであった。皇帝は韓王信を北方の都市である太原に配置し、匈奴への備えとしたのである。

 この事実は、建国当時の漢王朝が内外に多くの問題を抱えていたことをよく示している。


 この人事を発表した直後、韓信は皇帝と直接会話をする機会を得ている。なにかと理由を付けて参内しない韓信であったが、宮殿に出入りする機会がまったく無かったわけではなかったらしい。

 皇帝は韓信が宮殿内にいることを聞きつけると、即座に呼びつけて雑談の相手をさせた。

「病気だと聞いていたが……顔色は悪くないように見える。さては信、お前の病気は仮病であろう」


 からかうように言う皇帝を前に、韓信は真剣な表情で答えた。

「頭が重いのです。近ごろはよく眠れず……朝も爽快に感じることがありません。気持ちが落ち込み、何をするにも集中できないのです。確かに体力的には問題ないようなのですが、どうも心に病原を宿しているように思えます」

「邸宅にこもってばかりいるからだ。外に出て、人と交流しろ。たまに朕と行幸を共にするのも、よい気分転換になるだろう」

「どうもそのような気になれません。ここにいると常に誰かに見張られているような気がして……陛下、私を領地の淮陰に行かせてはもらえないでしょうか」

「……確かにお前は見張られている。否定はせぬさ……しかし、不自由をさせた覚えはないぞ。領地に行くことは許さぬ」


 意固地になって否定した皇帝だったが、ここで韓信は現実的な問題を提示してみせた。

「どうも租税が領地から報告されている額と合わないようでして……足りないのです。私としては現地に赴いて実情を確かめたく思うのですが……」

 緊急を要しているわけではなかったが、事実であった。どこかで不正が行われている可能性が高いと知りながら、ここまで韓信はそれを詳しく調査する気にもなれず、放置したままにしていたのである。

 その言のとおり、何をするにも集中できなかったからであろう。しかし、皇帝はこの申し出も拒否した。

「……わざわざお前が行くべき問題でもあるまい。しかるべき者に調査を命じ、不正があったら処置すればよい。官吏とはそのためにいるのであり、王侯とは彼らに命じるために存在するのだ。繰り返すが、お前が行くべき問題ではない」

「…………」

「不服か」

「はい。……ここにいてもやることがないものですから。陛下の臣下として働く機会を与えられないのでしたら、自国に戻って自分の問題を解決したいと思ったのですが……」

「お前はすでに大功をたてたのだから、偉そうにしてふんぞり返っていればよいのだ。お前の手を借りねばならぬような問題は、今のところない。本当に病気なのであれば、今が良い機会だから養生に専念せよ」

「……本当に問題はないと……? 聞くところによると、匈奴の現在の首領はなかなかに有能な人物だと。陛下は韓王信をこれに当たらせましたが……」

「奴はお前ほどではないが、軍事の才はある。しかし荷が重いと言いたいのか」

「韓王信は戦いにおいては粘り強く、一時の激情に駆られて死を選ぶような男ではありませんが、とても匈奴の冒頓単于(ぼくとつぜんう)(当時の匈奴族の首領の名)にはかないますまい。冒頓は、かつて月氏と争い、楼煩を滅ぼした恐るべき男です。私が行って軍を指揮するより他に方法はありません」


 韓王信はかつて劉邦が滎陽を放棄した際、周苛とともに滎陽に残って項羽の猛攻に耐え続けたが、落城後周苛は煮殺され、彼は捕虜となった。

 しかし彼は折りをみて脱出し、ふたたび漢に帰属したのである。

 韓信が彼のことを粘り強いと評したのはこのことであった。しかし、当然蛮族と対峙するには生き残る能力があるだけでは駄目で、軍を率いて勝利に結びつける能力がなければ、あてにすることは出来ない。


「かつて秦の蒙恬将軍は匈奴に睨みをきかし、その進出を封じてきた。信、お前はその蒙恬の役目を担おうというのか。聞くが……その役目はお前でなければ駄目なのか。他の将軍では……」

「項王ならば、その鋭い気迫で匈奴を封じることが可能でしょう。彼の気迫は彼を取巻く兵にも伝染する……彼に率いられることによって、兵たちは強くなった気持ちになるのです。かつての楚が戦場で恐れられた所以が、そこにあります」

「しかし項羽は既に死んでいる。仮に生きていたとしてもあの男がわしの為に働くはずがない」

「では、章邯などはどうでしょう。章邯は単なる地方の徴税官に過ぎない男でしたが、ひとたび将軍の座を得ると、瞬く間に烏合の衆だった秦軍を再編成し、当代最強の軍を作り上げました。なぜか。統率力に優れていたからです。彼にかかっては、罪を犯した囚人も一人前の兵士と仕立て上げられる」

「死人ばかりを例に挙げるな。それほど漢は人材が払底しているというのか。生きている人物を挙げろ。もちろん、お前以外にだ」


「……では、私は陳豨を推薦いたします」

「ふむ。なぜだ」

「陳豨の軍事的な指導力や統率力については……実はよく知りません。しかし、私にはわかるのです。戦場で力を発揮する者と、そうでない者との区別は、ここ数年の経験で感覚的にわかるのです。彼なら、兵たちの能力を存分に引き出し、匈奴と対等にわたり合える程度に戦えるでしょう」

 ここで韓信は「勝てる」とは言わなかった。彼のこれまでの論理では、生者のうちで匈奴に勝てるのは自分だけなのである。他者に勝たれてしまっては、論理が崩壊する。


「他でもない、お前が言うのだから間違いないのだろう。しかし、当面は韓王信をあたらせてからだ。それで駄目ならば陳豨を遣わそう。やはり勝てねば、わしが行く。親征するのだ」

「陛下が……?」


 韓信はこのとき表情を崩した。幸いにして悟られることはなかったが、実はこのとき彼は失笑をこらえたのであった。

「わしが自ら率いれば、兵たちの意気は上がり、敗れることもあるまい。問題はわしの指揮官としての能力だが……信、お前はどう思う?」


 韓信はこの問いに断言するように答えた。

「失礼ながら陛下の指揮官としての能力は、せいぜい十万人の兵を統率するくらいのものに過ぎません」

「嫌なほどはっきり言いよる……気に入らぬ。そういうお前はどうなのだ?」

「私などは……兵が多ければ多いほど統率できましょう」


 皇帝はこれを聞き、笑い出した。

「おかしなことを言う。兵が多ければ多いほど力を発揮するお前が、わしに捕らえられたのはなぜだ」

「……さあ、ひと言で説明するのは難しい問題です。強いて言えば、陛下は兵を指揮することよりも、将軍を指揮することがうまかった、ということでしょう」


 善ク將ヲ將ス、……この韓信の発言は、劉邦の特徴をよく示した言葉として後世にまで伝わっている。

「まさに天授の才能、とでも言えましょうか」

 そう付け加えた韓信の態度は、一見追従を示したかのようにも見える。しかし、実は彼の言いたいことは逆であった。前線で兵を指揮する能力がないのだから、邪魔にならぬよう後方に留まっていろ、暗にそう言いたかったのである。


 つまり彼は皇帝を賞したのではなく、嫌みを言ったのだった。


 三


 国情は混迷を極め、匈奴にまつわる劉邦の施策はことごとく裏目に出た。


 まず第一に、匈奴と戦端を発した韓王信が冒頓単于率いる軍に包囲された後、降伏して寝返ってしまう。

 韓王信は匈奴の将軍となったのだった。これが紀元前二〇一年秋のことである。

 年が明けた冬に劉邦はこれを鎮めようと親征し、逆に匈奴に包囲された。包囲はまる一週間続いたが、漢の朝廷が冒頓単于の妻に大量の贈り物を送った結果、劉邦はようやく解放され、講和が成ったという。

 この救出策は陳平の案によるものであった。しかし漢が冒頓単于の妻に何をどのように送ったのかは当時から機密扱いになっており、現代に至るまで明らかにされていない。


 韓王信が期待どおりの働きをしなかったこと、劉邦の親征が失敗に終わったこと、これらはすべて韓信が予期していたことである。

 ――言わぬことではない。皇帝はなぜ私の言うことを信じなかったのか……。

 しかし、依然として韓信にお呼びはかからない。皇帝は匈奴との国境に近い代の地を樊噲に平定させると、その地に自分の兄の劉仲を王として置いた。そして同時に鉅鹿の太守として陳豨を任命したのである。


 ――陳豨はともかく、劉仲など……ただの農民に過ぎぬ。単に自分の兄だからといって王位に就けるとは……皇帝は、国を私物化している。

 一族を高位に置き、それを世襲させることは、叛逆行為を抑制する効果がある。それはわかる。

 しかし、ただ血をわけた兄弟だからといって国家の建設になんの功績もない男を王としてたてることは、皇帝が公私混同しているかのように思えるのだった。


 後の話になるが、代王劉仲は匈奴を恐れて国を捨て、雒陽に逃げ込んだ。彼の代王としての地位は取りあげられ、以後は郃陽侯(ごうようこう)にされたという。能力も胆力もない男に王座を与えるあたり、やはり劉邦のなかに公私混同があったことは否めないであろう。


 韓信の劉邦に対する不信は、決定的になった。そればかりか、このままでは国が滅ぶ、匈奴に国を乗っ取られる、そのような危機感まで持つようになった。

 確かにすべてではないが、少なくとも半分は自分の努力によって成り立った国なのである。それを過信だとして非難できる者は、いないだろう。


 ――人に任せてなどおけぬ。私が先頭に立って国を守るべきではないのか。

 だがそれを皇帝は許そうとしない。


 ――そもそも皇帝がわざわざ親征したのは、それに成功することによって自分の権力を増強したいという欲望に過ぎなかった。人の能力を見る目だけが取り柄だった皇帝が……肝心のその目が眩んでいるというべきだろう。

 皇帝は自己神格化の意識のあまり、自分自身の能力を的確に判断することも忘れ、結果的に国を弱めていた。


 ――かつて蘭は、私に皇帝の誤った行動を正すべき存在となれ、と言い残した。……いま、皇帝は施策を誤っている。しかし王位を失い、力を削がれた今の私に皇帝の間違いを正すことができようか?


 韓信は悩んだ。しかし当然のことながら、容易に答えが見つかるものでもない。

 ――まずは削がれた力を取り戻さねば、どうにもならぬ。どうにかして自らの発言力を強化しないことには……やはりここは、私が皇帝の蒙を啓かねばならぬ。

 韓信は、ついに決断した。それは、国を私物化するほどの権力を皇帝に与えないために、誰かがしなければならない決断であった。

 しかし、その決断を行動に移す資格を持つ者が、やはり建国の元勲たる韓信だけであったことは悲しい現実であったといえよう。


 紀元前二〇〇年二月、漢は長楽宮の完成を機に、首都機能を櫟陽から長安へ移動した。

 韓信もこれにあわせて長安へ移住し、相変わらず監視の目の中で暮らし続けている。しかしそんな中、一人の男の訪問を機に、彼の叛逆の日々は始まっていったのであった。


 四


 長安に居を移す煩雑な作業も一段落し、しばしの休息をとる。

 淮陰から上がってくる租税の額が合わないという問題は未だ解決していない。まだ深刻な事態とはなっていないとはいっても、いずれは原因を追及しなければならなかった。

 しかし、それはすべて終わってからだ。今、自分が優先すべきは正しき戦略を練ること。それに尽きる。


 居室でひとり考え込む韓信のもとへ、家令が来客の旨を告げた。

「淮陰侯……鉅鹿の太守さまがお見えになってございます」

「うむ。通してくれ」


 現れたのは、いよいよ任地に旅立つことになり、暇乞いの挨拶に訪れた陳豨であった。

「来たか。よく来てくれた」


 韓信はそう言って立ち上がると、近侍の者を遠ざけ、陳豨の手を取るようにして庭へ連れ出した。

「ここの庭は広大で、散策するにはちょうど良い。独り者の私には広すぎるくらいだ」

「大王……いえ、淮陰侯。あなたの庭は天下でしょう。これでも物足りないぐらいではありませんか?」

 陳豨の態度は特に韓信に対して媚を売ったようなものではない。

 この時代の武人にとって韓信はやはり尊敬に値する人物であり、陳豨はそれを素直に言葉に表しただけであった。


 しかし、韓信はその言葉を否定した。

「いや……私はいくつもの国を滅ぼし、何人もの武将を討ち続けて現在に至っているわけだが……実は私自身、一国を束ねる王となりたいと望んだことはなかった。戦乱の世が終わった暁には……静かな暮らしを求め、誰からも忘れ去られて過ごしたいと望んでいた。しかし、不思議なものだな。今の私は王座を追われ、監視の目はあるものの何不自由なく暮らしている。それがたまらなく嫌で仕方ないのだ」

「国家の大役を担いたいと……? 働き足りないということですか?」

「いや、少し違う……。私はただ、戦いたいだけなのかもしれない」

「…………」


「先に君は、この王朝は駄目だ、と言ったな。今でもその意見に変わりはないか?」

「無論です。それどころか不満は日増しに大きくなってきております。かつて項王は項姓を持つ者ばかりを優遇し、親族以外には冷たいと評されましたが……今の皇帝の施策はそれとなんら変わるところがありません。諸国には劉姓を持つ者ばかりが王として立ち、異姓の者はないがしろにされつつあります。座視すべき事態ではありません」

「うむ……よく言った。ついては相談がある。君を信頼して、ぜひ頼みたいことがあるのだが」

「なんなりとご命令ください」


「君の任地の鉅鹿という土地は、伝統的に多くの精鋭を生むところだ。近年では項羽と章邯が激突した土地であり、これに勝利した項羽が覇王として名を轟かすきっかけになった場所だ。したがってことを起こすには極めて縁起のいい土地だと言える」

 陳豨はこのとき韓信がなにを言おうとしているのかを、理解した。

「では、ついに……」

「ああ。君は幸いなことに陛下の信頼が厚い。君の行動に多少疑わしいところがあったとしても、陛下は心を動かさないだろう。つまり、下準備に十分な時間がとれる、ということだ」

「はい」

「二度三度、君の忠誠が疑われる事実が発覚するようになると、陛下はようやく重い腰を上げることになる。あの方は、極端な方だ。いざ君を討つことを決めると、部下に命じることなく自分で軍を率いて行動するだろう。私が見る限り、近ごろはその傾向が強いようだ。以前にもまして気が短くなっておられるのだろう。あるいはお年を召したからかもしれない」

「そこを返り討ちにするのですな。入念な準備をしたうえで……」

「……まあ、それができれば最善だが……。持ちこたえてくれさえすれば、それでよいと私は思っている。私の狙いは、陛下に首都を留守にしてもらうことだ」

「ほう……」


「陛下が留守になれば、宮殿には私の敵になるような者などいない。そこで私は兵を集め、長楽宮を襲撃し、呂后と太子を虜(とりこ)にしようと思う」

「……殺すのですか?」

「いや。彼らはあくまでも陛下を私の前に引き出す餌だ。つまり、彼らを人質にとり、陛下と戦うことを……私は望んでいるのだ」


「……謹んで仰せのとおりにいたしましょう。しかし……危険ではないですか? いや、私ではなく淮陰侯が、です」

「以前に人から聞いたことがある。人は大事なものを守ろうとするからこそ戦うのだと。そして、世に戦いが尽きることはないのはそれが理由だと。確かに危険なことではあるが……ここまでしなければ、陛下は私と戦ってはくださらぬだろう」


 五


 かつて経験した幾多の戦いの中で、彼は多くを失ってきた。

 かわりに得たものといえば、王侯としての名誉であったり、封地であったりした。

 しかし自分がそれを欲していたかどうかは、どうもよくわからない。


 振り返って考えてみると、自分は乱世に生きる武人としては、よくやってきたと思う。

 失った者のために流す涙は最小限にとどめ、悲しみを感じながらもそれに打ち負かされず、忘却することはできなくとも、悲しみの経験を自分の中で消化し、あらたな行動を起こす糧としてきた。


 栽荘先生が死んだあの日、自分は戦いに身を投じることを決意した。

 生まれ育った淮陰の危機を救い、母の墓に別れを告げた。

 あれからもう十年の月日が経とうとしている。


 カムジンを殺し、酈生に死なれ、蒯通には見捨てられた。

 蘭は自分を守って命を散らした。

 鐘離眛は自らの血を自分に浴びせた。

 どれも悔恨を伴う忘れられない出来事である。


 だが、彼らを思い出して再び涙することは、韓信にはなかった。確かに彼は溢れるほどの感情の量を持ち合わせていなかったのかもしれず、実際に喜怒哀楽を表情に出すことは少なかった。

 彼自身それを自覚し、あるいは自分は酷薄な男なのではないかと何度も自問を繰り返してきた。


 しかし、いつも答えは見つからなかった。戦った結果、彼らを失ったことを思えば、自分は戦わないほうがよかったとも思える。

 だが戦わなければ彼らとの友誼や信頼、愛情は育まれることがなかっただろう。

 そう考えて自分を慰めるのが常であった。


 ――あろうことか、自分はまた戦おうとしている。もはや自分以外に守るべきものはないというのに。


 すでに決断したはずなのに、心が揺らぐ。常に自分の決意が完全に正しいと信じられる者は少ないが、このときの彼もその一人であったのだ。


 陳豨と話し合った日の夜、また韓信は蘭の夢を見た。


 夢の中の自分は、うるわしき蘭を前にして意外にも毒づいた。

「君が姿を見せるたびに私が喜ぶと思ってもらっては困る。私は……いい加減君を忘れたいのだ。何度も顔を見せて、私を苦しめてくれるな」


 しかし蘭は姿を消さないばかりか、表情さえも変えようとしない。

 生前から特徴的であった大きいが切れ長の目は、穏やかに微笑をたたえている。

 あまり厚みはないが柔らかそうな唇も、微笑をたたえていた。


 その唇は開くことがなかったが、韓信の耳には、確かに彼女の声が聞こえた。

「なんのために戦うのです」


 それは韓信が現実の世界で思い続けた疑問であった。常に考えているからこそ、夢の中にまで疑問は持ち込まれる。

 現実の韓信は眠っているはずだが、意識の中で反発した。

 しかし、夢の中の自分はその問いに対していとも簡単に返答してみせた。

「独裁を許さぬためだ」


 ――そうだ。そのとおりだ。

 眠っている韓信の自意識がそれに同調を示す。

「私が漢に求めているのは、ただ単に戦乱がないというだけの国ではない。私が求めているのは絶対的な正しさだ! 権威を恐れるあまり正しいことも言えず、誤った支配に口を閉ざしながら、悶々と日々を暮らさねばならない国ではない。しかし、それを得るためには戦わねばならないのだ。苦しむのも覚悟の上だ」

 夢の中の自分は現実の自分よりも饒舌であった。

「私は、尊敬されなくても構わない。しかし、人に蔑まれるのは嫌だ。誰も私のことを見向きもせずとも構わない。しかし、後ろ指を指されるような存在に成り下がるのは嫌だ。功名を得ず、成り上がらなくても構わない。しかし、何もせずに落ちぶれるのは嫌だ。戦って負けるのは構わない。だが戦わずに臆病者呼ばわりされるのは嫌なのだ」


 夢の中の蘭はこの言葉を聞いても表情を変えなかった。相変わらず穏やかに微笑み、背筋を伸ばして立っている。なんとなく眩しく思えた。

 心なしか金色の後光が射しているようにも思える。

 天女のような姿。

 光は次第に強くなっていき、夢の中の自分は、その眩しさに目を背けた。


「では将軍は、自分が正しいという確信がおありなのですか」

 それも現実の世界で韓信が不安を感じ続けていたことであった。

 結局は自分の価値観のために他者を巻き込み、犠牲にしようとする自分。

 そんな自分の生き方に嫌悪感を抱きながらも、他に進むべき道を見つけられないでいる自分。


「君は、私に嫌みを言うためにわざわざ夢の中にまで現れたというのか!」

 眩しさに耐えながら、再び蘭を見据えた。

 すると目の前の蘭の姿は、また裸身であった。

 金色の光が一糸もまとわぬ蘭の姿を照らし、夢の中の自分は思わず目を細めた。

 そしてそのまま蘭に近寄り、その輝く肢体に手を触れようとした。


 すると金色の光は突如として消え失せ、辺りは薄暗いもやに包まれた。

 そして夢の中の自分は、なぜか蘭の股の下を這いつくばってくぐろうとしていたのである。


 ――なにがどうなっているんだ?

 意識の中で韓信は自問した。

 それが通じたのか、夢の中の自分は慌てた様子で振り向き、後方の蘭の姿を仰ぎ見ていた。


 しかし、振り向いた直後に見えたのは武具をつけ、剣を右手に持った武者であり、明らかに蘭ではなかった。


「眛!」

 そこにいたのは首から血を吹きながらたたずむ鍾離眛であった。

「眛! 眛!」

 夢の中の韓信は、しきりに眛に呼びかけた。

 しかし、反応はない。


 しばらくして鐘離眛の首が音もたてずに落ちたところで、韓信は目を覚ました。




 

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