猫のオススメのり弁当
第1話 師走の開店前
「優しく、優しく。お米が深呼吸出来るくらいに。それから、ふんわり、ふんわり、毛布を掛けてやる」
海苔と鰹節のふりかけを、祖母の手が白米へ掛けていくのを、小さい頃のくるみは目を輝かせて見ていた。
祖母の手によって次々と海苔弁当が作られていく様は、さながら魔女が魔法の粉をふりかけて、魔法で弁当を完成させているようで、いつまで見ていても、飽きなかった。
師走というのは、兎に角、何処そこも誰もが忙しくなる。
大掃除などで忙しく、食事を構っていられないのだと、女達が美味いものを求めて弁当屋へやって来る時期だ。忙しい彼女達相手の商売は、丁寧さも勿論のこと、スピードも求められる。昨日はパートの森尾さんが居たから何とかなったが、今日はくるみ一人で店を回さなければならない。開店前の準備にも力が入る。
米を研ぎ終えた手を擦り合わせたくるみは、時計を振り返った。開店までにまだまだやる事がある。
忙しくなるにつれて寒さまでも厳しくなる十二月、くるみの小さな白い手は、益々赤切れが酷くなるばかりだ。自分のことを助けるように現れる青年の、長くて美しい手指を思い出したくるみの胸は、ずきりと痛んだ。
赤切れに効くハンドクリームの作り方を、ちゃんと聞いておけば良かった。
くるみは今日も居ない、弁当屋を引退した祖母の指定席である、厨房の片隅の椅子を見た。住居部分である二階へ行ってクリームのレシピを聞きたい所だが、今はそんな事をしている余裕はない。
くるみは両手の水気を簡単に拭いさり、今日の日付の注文票を確認する。のり弁当の注文が幾つかあった。
その中には、肉じゃが弁当が切っ掛けで店に来るようになった少年と、その少年に弁当を届けたいが、店が忙しくて行けずに困っていたくるみを、店の手伝いまでして助けてくれた、不思議な青年の客のものがある。
炊き上がった白米をしゃもじで切り混ぜながら、そういえば、自分が初めて作ったのも、のり弁当だったとくるみは思い出していた。
その客は小さなくるみの事を可愛がってくれていて、特別な弁当を渡したかったくるみは、こっそりおまけをした。
くるみにとっては初恋、だったのかもしれない。くるみは青年の分の弁当の用意を始めながら、微笑んだ。
少年に肉じゃが弁当を無事に渡し終えることが出来た後、店に走って戻ったくるみを、青年は送り出したときと同じ、優しい笑顔で出迎えてくれた。
主にレジ打ちや注文取り、商品の受け渡しを担当した彼は想像以上に仕事が出来るらしく、注文票の束を見たくるみは驚いた。
店はいつも以上にに賑わったようだ。
店番を押し付けてしまったパートの森尾さんは流石に疲れたような顔をしていたが、くるみは青年に感謝した。
お礼にと賄いを振舞うと、腹が空いたと言っていた彼は、夢中で食べていた。
肉じゃが弁当を食べるあの少年と良い勝負で、綺麗な顔立ちの青年が、頬に飯粒を付けてがつがつと食べる姿は珍しくもあり、残りの肉じゃがを頬いっぱいに含む姿は愛嬌があった。森尾さんは青年の食べっぷりに呆気に取られていたが、悪い事をした子供のように、上目遣いで遠慮がちにおかわりを要求してきた青年に、くるみは顔を綻ばせた。
昨日、弁当屋に来て注文をして行った青年は、朝一番で、弁当を取りに来ると言っていた。昨日は森尾さんがカウンターに出ていて、くるみは彼と喋れなかったけれど、今日は少しだけでも、直接話をすることが出来る。
あれから、くるみには青年とそうして話をするのが、毎日の小さな楽しみになっていた。
出来上がったのり弁当に、迷ってからフライを一つ多めに入れて、くるみは祖母の椅子を見た。
婚約者の事を、くるみは忘れたわけではない。彼は常連だからおまけをするだけだ。それに、青年は青年の姿をしているとはいっても、神様なのだ。神様とおかしな事なんて、起こり得ない。だから、くるみの胸の中に芽生えた感情も、気のせいかもしれないし、婚約者に対して後ろめたい気持ちを持つ必要もないのだ。
綻んでしまっていた顔を引き締めると、くるみは弁当に蓋をした。
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