第3話 黒魔術

「ルナ王女、どうされたのですか? その症状は⋯⋯」

 冷静を装いながらも、エリシアの心臓は激しく脈打っていた。


 あまりにも、自分が十年間苦しめられた皮膚病とそっくりだったからだ。


 赤黒く腫れ上がった肌、隆起した血管、そして痛々しく歪んだ表情。

 全てが、自分の記憶と重なる。


「いいから、黙って治しなさいよ!」

 尊大な口調だが、声の端に隠しきれない焦りが混じる。

 そのすべてが、エリシアを一つの答えへ導いた。


 ーー黒魔術の代償。


 脳裏に蘇るのは、十年前の光景。

 パトリスと仲睦まじくしていた自分を、十歳の王女がじっと睨んでいた姿。

 嫉妬、憎悪、そして幼いがゆえの歪んだ執着。


「私には、どうすることもできませんわ。その姿は黒魔術の代償ではありませんか?」

 エリシアが静かに告げると、ルナの瞳が一瞬、揺らぎ露骨に目を逸らした。


 皮膚の腫れと歪みに隠れても、目の奥の痛みと絶望が光を反射している。


「エリシア、大人気ないことを言うな。幼い子にヤキモチを妬かせた君も悪いんだぞ」

 パトリスの声に眉がひそむ。

 その瞬間、胸の奥で嫌な笑いが込み上げた。


(私ばかりが、悪いの?)


「では、禁じられた黒魔術を使った王女は?」

「⋯⋯」


 エリシアは押し黙るパトリスとルナに言葉を選ぶように、一語一語を重く落とした。


「王女が禁断の黒魔術を聖女に使ったことを、公表してください。それで私の気持ちがおさまるかは、分かりませんが」

「な、何言ってるの!? そんなこと、できるわけないでしょう!」

 ルナの声が裏返る。


 ルナ王女の手は微かに震え、赤黒い皮膚の下で脈打つ血管が浮き上がる。


「でしたら、王女様はそのままの姿で生きてください。心の醜さが表に現れたその姿のままで」

 冷めた声で、言い切ったエリシアの頬に鈍い音と共に激痛が走った。


 ――パシン。


 パトリスは慌てて手を引っ込める。


「手を出したことは謝る。でも、君が僕の愛する妹に対して、そんな酷いことを言ったのは許せない。聖女なのに優しい心を失ったのか?」

 吐き捨てるような責めるようなパトリスの声が響いた。


 神殿の空気が一瞬、氷のように張り詰めた。


 埃の匂い、ろうそくのわずかな煙、冷たい石床の感触。

 全てが怒りと絶望の間で揺れる三者の存在を際立たせる。


 ルナの目震え、痛みと恐怖に塗りつぶされている。


 エリシアはどこにもぶつけられない怒りを抑えるように黙った。


「エリシア、君は魔獣に毒されたんじゃないのか? 君は心優しい女なはずだ。聖女の力はそんな女に渡される。聖女なのに慈悲の心がないのか」

 パトリスの言葉が、神殿の静けさを切り裂く。


「聖女、なのに?」

 その一言が、エリシアの中で封印されていた記憶の扉を押し開いた。


 クルーシー侯爵家の薔薇園。


 春の日差しが柔らかく降り注ぎ、花の香りが風に乗って漂っていた。

 遊びに来た小さなルナは無邪気に笑い、まるで世界が自分のために輝いているかのように手を伸ばした。


 その手は、一本の棘に触れ彼女の指を切った。


 泣き出した王女に、エリシアは無意識に手を伸ばす。

 その指に触れた途端、傷はふっと消え、血も跡形もなく消え去った。


(見間違いかと思っていたけれど)


 胸の奥で、感覚がはっきりと蘇る。


「ルナ王女殿下は、私が聖女だと知りながら黒魔術を?」

 ゆっくりと、問いかける。


「⋯⋯」


 その沈黙が、すべてを物語っていた。

(そうか。私、十年前から聖女だったのね)


 聖女の力は黒魔術に封じられていただけ。

 思考が鮮明に、そして鋭く、胸を切るように巡る。


 成長と共に、その力は呪いを打ち破り、闇は術者のもとへ返ったのだ。


 聖女が現れれば、国は繁栄する。


 その地位は、国王でさえ敬わなければならない絶対的なものとも言われる。

(なのにノイダン王家はそれを蔑ろにして、全てを隠していた)


「ノイダン王家は私を散々、蔑ろにし、蔑み、困ったら助けてくれって事ですか?」


「エリシア、それが聖女というものだろう。聖女は人の間違いも慈しむものだ」


 パトリスの悪びれない返しに、怒りが心の奥底から静かに燃え上がる。


 静寂に満ちた神殿の石壁が、その熱を吸い込むように冷たく響く。

 エリシアは静かに震えを抑えるように拳を握った。


 長年封じられてきた聖女の力と、真実を知った覚悟が、深く落ち着いた決意を形作っていた。エリシアは、乾いた笑いを漏らした。


「ははっ」


 そして、はっきりと言い放つ。

「こんな腐った王家に嫁がなくて、本当に幸運でしたわ」


 パトリスを一瞥し、視線をルナに移すと静かに残酷に続けた。

「パトリス王太子も相当腐っていると思っていましたけれど、ルナ王女。貴方は、獣以下です。一生、その醜さのまま生きてください」


 聖女の決定は絶対だ。

 特にこの神殿ではエリシアが残ると言えば、王宮に引っ張っていくことは王族でもできなかった。


 聖女が現れたのは、実に二百年ぶりのことだった。


 そもそも過去三人の聖女はレイディン帝国で誕生していて、ノイダン王国は聖女の誕生に慣れていない。


 神殿はその事実に浮き足立ち、レイディン帝国にあるような「聖女殿」を建設するらしい。

 そのため、聖女であるエリシアは、ひとまず神殿に隣接する修道院で過ごすことになった。


 白い石造りの修道院は静かで、回廊を吹き抜ける風がかすかに祈りの香を運んでくる。

 鐘の音は規則正しく、ここが俗世から切り離された場所であることを強く主張していた。


「エリシア様、お久しぶりです」

 不意にかけられた声に、エリシアは足を止める。


 振り返った先にいたのは、かつて自分を慕ってくれていた少女。いや、今はもう立派な年若い女性だった。


 赤い髪は肩口で無造作に結ばれ、好奇心に満ちたエメラルド色の瞳が懐かしさを湛えてこちらを見つめている。


「アイリス嬢?」

 エリシアは思わず目を見開いた。


「はい! 覚えていてくださったんですね」

「もちろんよ。でも、どうしてあなたがここに?」


 修道女の衣に身を包んだ彼女の姿が、どうしても現実と結びつかない。

 アイリスは一瞬だけ視線を泳がせ、それから苦笑した。


「実は予定通り、初恋のリオネル様と結婚できたのですが」

「ええ」

「浮気がバレて、離縁されてしまって。修道院送りです」

「浮気?」


 エリシアは、思わず声を失った。

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