第6話 因果応報と新たな朝

断罪の夜が明けた翌朝、俺と三雲颯太は区役所の戸籍課にいた。

提出された離婚届は不備なく受理され、俺と汐里の婚姻関係は法的に完全に消滅した。手元の住民票から「桐谷汐里」の名が消え去ったのを確認した瞬間、胸の奥につかえていた鉛のような重圧が、ふっと軽くなるのを感じた。


「これで晴れて自由の身だな、蓮」


区役所のロビーで、颯太が穏やかな笑みを浮かべて言った。


「ああ。颯太、本当にありがとう。お前がいなかったら、ここまで迅速に、完璧には進められなかった」

「礼ならすべてが終わってから受けるよ。ここからが本当の制裁の始まりだ。オルタナ・マーケティングの社内調査が本格化する」


颯太の言葉通り、その日の午後から事態は雪崩を打つように動き出した。


俺たちが送付した内部告発状と、確定日付入りの不正経費データ、そして不貞の証拠写真は、オルタナ・マーケティングのコンプライアンス推進室および監査役会に激震を走らせていた。

株式上場を控えた重要な局面において、営業統括部長という要職にある人間が、部下の女性社員と不適切な関係を結び、逢瀬の費用を会社の経費から横領していたという事実は、経営陣にとって絶対に看過できない致命的なスキャンダルだった。


後から颯太の後輩弁護士を通じて聞いた話では、その日の午前十時、陣内恭平は役員プレゼンの成功に鼻を高くして出社した直後、役員室に緊急で呼び出されたという。

役員室には代表取締役社長、専務、常任監査役、そして社内弁護士が待ち構えていた。


テーブルの上に叩きつけられたのは、昨夜俺たちが突きつけたものと全く同じ、伊豆の高級旅館での密会写真と、偽造された領収書の数々だった。


陣内は最初、「これは業務の一環であり、事実無根の怪文書だ」「部下との単なる打ち合わせを悪意を持って歪曲されている」と激昂し、普段の威圧的な態度で押し通そうとしたらしい。

しかし、監査役から汐里の『アウスタ』裏アカウントの投稿データ――『彼からのサプライズプレゼント!』『経費で最高級フレンチ』といった生々しいキャプションと領収書の整合性を一分単位で突きつけられると、一言も反論できなくなった。


さらに、陣内が「大口クライアントの接待」と偽って申請していた複数の案件について、監査役会がクライアント側に極秘で事実確認を行ったところ、「そのような会食の事実は一切ない」という正式な回答がすでに得られていた。


言い逃れの余地を完全に塞がれた陣内は、その場で青ざめ、額を床に擦り付けて「魔が差した」「全額弁済するから社内処分だけは勘弁してほしい」と泣き叫んだという。

だが、上場を控えた企業がそのような重大な横領と背任を許すはずもなかった。


即座に臨時取締役会が招集され、陣内恭平に対する『懲戒解雇』処分が満場一致で決定された。

退職金は当然のように全額不支給。それどころか、過去二年間にわたって不正に請求していた接待交際費、総額六百万円余りの即時全額返還が求められ、返還に応じない場合は業務上横領罪および背任罪で刑事告訴に踏み切る旨の通達書が手渡された。


社内での陣内の失脚劇は、瞬く間に社員たちの知るところとなった。

警備員に両脇を抱えられるようにして私物をダンボールに詰め、逃げるように会社を去っていく元エリート部長の後ろ姿を、かつて彼に媚びへつらっていた部下たちも、憧れの眼差しを向けていた後輩たちも、冷ややかな侮蔑と嘲笑の視線で見送ったという。


そして、その破滅の波は当然、汐里の身にも容赦なく降りかかった。


出社した汐里を待っていたのは、人事部からの呼び出しと、同僚たちの凍りつくような冷視だった。

陣内の懲戒解雇と同時に、社内イントラネットには「重大なコンプライアンス違反による役職者の処分について」という通達が掲載され、具体的な名前こそ伏せられていたものの、相手が汐里であることは社内の誰もが察していた。


昨日まで「大型案件を成功させた期待の星」として持て囃されていた汐里は、一瞬にして「上司に諂い、会社の金を横領して不倫旅行をしていた売女」として社内に完全に居場所を失った。


人事部からは、懲戒免職を避けるための唯一の温情として『即日自主退職』の勧告が突きつけられた。退職届に震える手でサインをした汐里は、同僚たちに挨拶すらさせてもらえず、私物を抱えて通用口から放り出されるようにオフィスを追い出された。


だが、職を失ったことは、彼らにとって地獄の入り口に過ぎなかった。


陣内恭平を待っていたのは、完全な経済的破綻と家庭の喪失だった。

美咲さんへの慰謝料四百万円、俺への慰謝料四百万円、会社への不正経費弁済金六百数十万円。合計で千四百万円を超える巨額の負債が一気にのしかかった。

さらに、幼い娘の養育費として毎月十数万円の支払いが法的に義務付けられ、住んでいた都内の高級タワーマンションは美咲さんの名義で売却処分され、陣内は即座に追い出された。


退職金も出ず、懲戒解雇の傷がついた三十代半ばの男を雇う同業他社など存在するはずもない。

陣内は高級外車も自慢の高級腕時計も二束三文で売り払い、郊外の風呂なしの木造アパートに身を寄せ、日払いの肉体労働と深夜の警備員バイトを掛け持ちして、借金返済と養育費の工面に追われる日々へと転落していった。

かつて「大人の余裕」を気取り、他人の妻を手玉に取っていたエリート部長の面影は、見る影もなく消え失せていた。


一方、汐里もまた、過酷な因果応報の渦に飲み込まれていた。


俺への慰謝料四百万円と、美咲さんへの慰謝料四百万円、計八百万円の支払義務。

無職となり、住む家を失った汐里は、泣きつきながら地方にある実家へと戻らざるを得なかった。

しかし、颯太から送付された詳細な不倫の証拠書類と請求書を目にした汐里の両親は、娘のあまりの破廉恥な愚行に激怒した。


厳格だった汐里の父親は、「丹精込めて育て、大学まで行かせた娘が、人の家庭を壊し、誠実な夫を裏切るような浅ましい女だったとは情けない」「桐谷君にどんな顔をして合わせればいいのか」と汐里を一喝し、勘当寸前の扱いとした。

両親は世間体と親としての責任感から、自宅の土地を担保に入れて八百万円の慰謝料を一括で立て替えて支払ってくれたが、その代償として汐里には厳しい条件が課された。


汐里は実家の片隅の狭い物置部屋に押し込められ、スマートフォンは解約されて連絡手段を制限された。

朝から晩まで地元の食品加工工場で過酷な立ち仕事のパートとして働き、給料のほぼ全額を両親への借金返済として徴収される日々。

煌びやかなオフィスカジュアルも、高級ブランドのバッグも、プラチナのネックレスもすべて売り払われ、作業着と長靴に身を包んで油と魚の匂いにまみれる生活。


かつて『アウスタ』の裏アカウントで『地味な旦那との生活には戻れない』と嘲笑っていた女は、自ら招いた罪によって、かつての平穏な日常よりも遥かに地味で、過酷で、希望のない泥沼の生活へと堕ちていったのだ。


失脚から一ヶ月ほど経ったある日、陣内と汐里の間で最後の破綻劇があったという。

偶然、弁済金の確認のために颯太の事務所に連絡を入れてきた陣内が、電話口で汐里への怨嗟をぶちまけていたらしい。


陣内は「あの女がSNSで調子に乗って写真を上げなければバレなかった」「俺の人生を狂わせた悪魔だ」と汐里を激しく罵り、汐里は汐里で「あなたが強引に誘ってきたから私の人生はめちゃくちゃになった」「金も地位もないただの無能なオッサン」と陣内を罵倒し返したそうだ。

互いの肉体を貪り合い、背徳の快楽に酔いしれていた二人の関係は、金と保身が絡んだ瞬間、醜悪な憎悪をぶつけ合う形で完全に崩壊した。


そんな二人を尻目に、俺の生活は驚くほど穏やかで、前向きな光に満ちていた。


陣内と汐里の両名から、それぞれ四百万円、合計八百万円の慰謝料が、颯太の事務所の信託口座を経由して俺の個人口座へと満額で着金した。

通帳に印字された八桁の数字を見つめても、そこに復讐を遂げた高揚感はなかった。ただ、理不尽に踏みにじられた俺の尊厳に対する、正当な対価としての静かな重みだけがあった。


汐里が出て行ったマンションは即座に解約し、俺は会社の近くにある、陽当たりの良い新築のマンションへと引っ越した。

汐里と過ごした家具や食器、思い出の品はすべて不用品回収業者に引き取ってもらい、部屋には俺が本当に気に入ったシンプルなインテリアだけを揃えた。


ある日の夜、俺のスマートフォンのショートメッセージに、見知らぬ番号から一通の長文が届いた。

実家の固定電話の回線を使って、公衆電話から送られてきた汐里からのメッセージだった。


『蓮、お願いだから話を聞いて。

毎日、工場の暗い部屋で働いていて、蓮のことばかり思い出しています。

朝起きたら温かいご飯を作ってくれていた蓮。私の愚痴を嫌な顔一つせずに聞いてくれた蓮。私の体調を誰よりも心配してくれた蓮。

どれだけ蓮が私を大切にしてくれていたか、失って初めて骨の髄まで分かりました。

私は本当に愚かで、最低なバカでした。

どんなに時間がかかってもいい。一生かけて償うから、どうかもう一度だけ、私を許してやり直してくれませんか。

蓮がいない人生なんて、生きていても何の意味もないの。お願い、返事をください』


画面をスクロールしながら、俺は冷めた瞳でその文字を追った。

失って初めて分かった、か。

あまりにもありきたりで、あまりにも身勝手な戯言だった。


俺が差し出していた誠実さと愛情を、足蹴にして踏みにじったのはお前自身だ。

贅沢と刺激に溺れ、俺を見下していた時には一度も振り返らなかったくせに、すべてを失ってどん底に落ちたからといって、都合よく「安全な居場所」を求めて縋り付いてくる。


「もう遅いんだよ、汐里」


俺は声に出して呟いた。

胸の中には、怒りも、悲しみも、未練も、何一つ残っていなかった。ただ、完全に冷めきった無関心があるだけだった。


俺はメッセージへの返信を一切打つことなく、その番号を着信拒否と受信拒否のリストに追加した。

そして颯太に連絡を入れ、「汐里から接触の試みがあったため、これ以上続くようであれば接近禁止命令およびストーカー規制法に基づく法的措置を取る旨を実家宛てに通告してほしい」と依頼した。


数日後、颯太から「実家の父親から平謝りの連絡があり、娘の行動を厳重に監視し、二度と蓮に接触させないと誓約させた」との報告が入った。

これで、桐谷汐里という人間との繋がりは、名実ともにこの世界から完全に消滅した。


週末の夕暮れ、俺はオフィスの最上階にある展望ラウンジで、颯太と二人でグラスを傾けていた。

眼下に広がる大都会のパノラマには、無数の灯りが宝石のように煌めいている。


「蓮、社内のプロジェクト、リーダーに抜擢されたんだってな。おめでとう」


颯太がビールグラスを掲げて微笑んだ。


「ああ、ありがとう。今回の件で色々吹っ切れてさ、仕事に集中できるようになったのが良かったみたいだ。上司からも新しい大型システムの開発を任せてもらえたよ」

「そうか。本当によかったな。お前のその誠実さと実力は、誰が見ていなくても必ず正当に評価される。……あの二人にくれてやるには、あまりにも勿体ない男だよ、お前は」

「買い被りすぎだよ。でも、颯太のおかげで、俺は自分の人生を取り戻すことができた。本当に感謝してる」


カチン、と澄んだグラスの音が鳴り響き、冷たいビールが喉を潤した。

その味は、かつて汐里の帰りを待ちながら一人で飲んでいた冷え切ったコーヒーとはまるで違う、どこまでも爽快で、生きている実感に満ちた味がした。


窓の外を見上げる。

夜空の向こうから、冷たく澄んだ夜風が吹き抜けていく。


過去の傷跡が完全に消えることはないかもしれない。

だが、裏切りに怯え、嘘に塗れた日々に縛られる夜は、もう二度と訪れない。


俺の足元には、誰にも邪魔されない、新しい未来へと続く道がまっすぐに伸びていた。

俺はグラスを置き、晴れやかな笑みを浮かべて、次の一歩を踏み出すために前を向いた。

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