第十話 八度目
西門の橋から戻ると、俺はそのまま王宮へ向かうことにした。
エレノアは止めなかった。ただ、馬車を降りる前に、膝の上へ置いていた命令書の写しを俺へ渡した。
「何を言われたとしても、先に剣を抜かないで」
「王宮へは持ち込めない」
「そういう意味ではないわ」
分かっていると答えると、彼女はようやく紙から手を離した。
内宮の門で剣を預ける。鞘ごと近衛へ渡した瞬間、三年後の記憶が蘇り、指が柄から離れなくなった。あの日もここで武器を手放し、そのまま妻子と中庭へ入った。近衛が怪訝そうにこちらを見るまで握り続けていたことに気づき、ゆっくり手を開く。
今日は殺されに来たのではない。そう自分へ言い聞かせながら、兄の執務室へ向かった。
兄は父王が使っていた小書斎に一人でいた。大きな地図を卓へ広げ、王国内の街道や砦へ色の違う駒を置いている。予定にない訪問だったが、俺の顔を見ると人払いを命じ、扉が閉じるのを待って口を開いた。
「西門の橋へ行ったそうだな」
「もう耳へ入りましたか」
「王弟夫妻が身分を隠したつもりでも、工事現場などに赴けば、自然とな。エレノアまで連れて、何を調べていた?」
俺は返事の代わりに命令書の写しを卓へ置き、第三橋脚の北側が割れていると、なぜ事前に知っていたのか尋ねた。兄は紙へ目を落としたものの、表情を変えない。
「古い橋だ。壊れる前に調べさせただけだ」
「点検の報告が出るより先に、壊れる場所まで指定しています。普通の調査ではありません」
「勘が当たったのかもしれない」
「ロナルド・ベインも、勘ですか」
兄の目が、ようやく紙から俺へ移った。
「会ったこともない大隊長を、戴冠の翌日に名指しして王宮守備隊へ移した。兄上の勘は、三年後の人事まで当てるのですか」
しばらく、どちらも何も言わなかった。兄は否定も怒りもせず、俺がどこまで知っているのか測るように見ている。その沈黙を破るため、白い孔雀は父王の代から購入が決まっていたと告げると、今度こそ本当に意味が分からない顔をした。
「孔雀が、何だ」
その反応を見て、腹を決めた。
「三年後の秋、兄上は白い孔雀を見せると言って、俺たちを南の内庭へ入れます。そこには弓兵が並んでいた」
さきほどまで動かなかった兄の表情から、わずかに血の気が引いた。
「何の話だ」
「俺はそこで死んだ。エレノアも、レオもです。兄上が手を下ろし、兵に射たせた」
兄は嘘だと笑わず、夢だとも言わなかった。卓上の駒へ置いていた指を離し、俺の言葉を一つずつ確かめるように見つめてくる。
「いつだ」
「王暦四百二十四年十月十四日」
「レオは、何歳だった」
「六歳です」
兄の視線が一度だけ落ちた。
「三人とも、死んだのか」
「俺の身体を貫いた矢が、二人にも届いた」
言葉にした途端、喉の奥に血の味が戻った。卓へ両手をつき、逃げることを許さない距離まで兄へ顔を近づける。
「俺が何をした。エレノアとレオまで、なぜ殺した」
「……俺でない」
「兄上も覚えているのでしょう。何も、知らないふりをするな」
「ふりではない。お前が見た俺は、この俺がこれから三年を生きた先にいる。俺はまだ、その三年を経験していない」
「それなら、これから殺すとでも言うのですか」
兄はすぐには答えなかった。やがて低い声で、少なくとも三人を一緒に殺した記憶はない、とだけ言った。
一緒に、という言い方が引っかかった。俺だけなら殺したことがあるのかと問い返したが、兄は答えず、窓辺まで歩いていく。外では、父王の喪を示す黒い旗がまだ王宮の塔に掲げられていた。
「兄上は、最後まで何も言わなかった」
背中へ向かって告げた。
「俺たちが動かなくなるのを見て、笑っていた」
兄の肩が、わずかに強張った。
「笑って、いたのか」
「何がおかしかった」
答えはない。その代わり、兄は窓の外を見たまま、西門の橋では十一人が死んだのだと話し始めた。
「七月四日の朝、穀物を積んだ荷車が二台と、兵を乗せた輸送車が橋へ入ったところで第三橋脚が崩れた。川へ落ちた者のうち、三人は最後まで見つからなかった」
俺が覚えている事故と、人数も状況も一致していた。
「なぜ知っている」
「見たからだ」
「いつ」
そこで兄は振り返り、ためらうことなく答えた。
「一度目に」
一度目。その言葉が何を意味するのか、すぐには理解できなかった。
「一度目……?」
「そうだ。一度目に見た光景だった」
繰り返す言葉に、ようやく何を言われたのか理解が追い付いた。
そしてやっと、今まで別々に見えていた兄の言動が、一つの線で繋がった。
「二度目からは、戴冠の翌日に橋を閉じている。ロナルドを東へ出さないのも同じだ。あの男が東部で何をするか、俺は知っている」
「やはり兄上も、死んだあと、この時代で目を覚ましたのですね」
兄は少し考えるように間を置いた。
「戻った、と俺も最初は思った」
妙な言い方だったが、今はそこへ立ち止まれない。いつから、どこまで知っているのかと重ねて尋ねると、兄は逆に、死んで過去の自分として目を覚ましたのは初めてかと聞いてきた。
俺が頷くと、兄はどこか遠いものを見るように目を細めた。
「なら、お前が知らないのも無理はない」
「どういう意味です?」
兄はすぐには答えなかった。口にすれば元へ戻せない事実を、最後に確かめているような沈黙だった。
「俺は七度、この国が滅びるのを見た。七度死に、そのたび父上の葬儀を終えたばかりの自分として目を覚ました」
静かな声には、誇りも希望も残っていなかった。
「だから、俺にとっては今が八度目だ」
それ以上、兄は何も言わなかった。
七度、何を見たのか。
そして、その七度を覚えた兄が、俺の知る三年後に、なぜあの庭を選んだのか。
聞かなければならないことは増えたのに、兄は再び窓の外へ目を戻した。
俺は、まだ剣のない腰へ手がいくのに気づき、指を開いた。
今日は殺されに来たのではない。
目の前の兄が知っているのは、七度の滅亡までだ。
俺だけが、その兄のまだ知らない八度目の三年後を知っている。
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