兄王はなぜ、俺を妻子ごと殺したのか――死んだ王弟は三年前に戻る
sisisi
第一話 兄王は笑っていた
兄から届いた手紙には、政治の話は一行もなかった。
『たまには三人で顔を見せろ。レオも大きくなっただろう。昼食を用意させる』
それだけだった。
国王から王弟へ送られる書状としては、あまりにも簡素だ。しかし、俺と兄の間では昔からこうだった。
エドワード・ヘイルがエルデン王国の国王となってから三年。互いに忙しくなり、昔ほど頻繁には会えなくなった。それでも兄は兄で、俺は弟だった。だから俺は、何の疑いもなく妻と息子を連れて王宮へ向かった。
「伯父上のお城には、白い孔雀がいるんでしょう?」
馬車の中で、レオが朝から何度目か分からない質問をした。
「いるらしいな。しかしお会いしたら、まず陛下とお呼びするのだぞ」
「はい、父上」
屈託のない笑顔を向ける息子は、まだ六歳になったばかりだ。王宮へ行くことよりも、その孔雀を見ることのほうが楽しみらしい。
「父上は見たことがないの?」
「俺が城にいた頃にはいなかった」
「じゃあ、僕が先に見つけます」
「何に勝とうとしているの」
隣でエレノアが笑った。俺もつられて笑う。
それだけのことだった。何でもない一日だった。
王宮に着くと、いつものように内宮へ入る門で剣を預けた。国王の私的な居住区へ帯剣して入ることは、王弟であっても許されない。俺は腰から剣を外し、顔なじみの近衛騎士へ渡した。
今になって思えば。あのときが最後だった。俺の手から武器がなくなった瞬間だった。
兄は昼食の間、終始機嫌がよかった。王冠も着けず、豪奢な正装でもない。濃紺の上着を着ただけの姿で、昔と変わらず俺の向かいへ座っていた。
「レオ。野菜も食べろ」
「食べています」
「肉の下へ隠しただけだろう」
レオがぎくりとした。兄が声を上げて笑った。
「アーサー、お前も昔それをやった」
「覚えていない」
「嘘をつけ。最後には俺の皿へ豆を全部移した」
「兄上が食べてくれたからでしょう」
「俺はお前の残飯係ではない」
エレノアまで笑っている。
国王と王弟。そう呼べば、ずいぶん大層な兄弟に聞こえる。けれど俺たちは昔からこうだった。兄は俺より四つ年上で、幼い頃から何でも俺より先にできた。剣だけは十六の頃に追い越した。それを兄は悔しがるどころか、誰より喜んだ。
俺が初めて軍を率いたときも。国境で勝利して帰ったときも。兄は俺の肩を叩き、「さすが俺の弟だ」と笑った。
その兄が、三年前に王になった。俺は兄の王位を疑ったことなど一度もない。兄より国王に相応しい人間を、俺は知らなかった。
食事が終わる頃、兄が席を立った。
「少しだけ仕事が入った」
「国王陛下はお忙しいことで」
「嫌味か?」
「事実です」
「十分ほどで戻る。先に南の内庭へ行っていろ。白孔雀も今日はあそこへ放してある」
レオが椅子から飛び降りそうになり、エレノアに肩を押さえられた。兄はそんな甥を見て笑った。
「走るなよ。転ぶぞ」
「はい、伯父上」
「いい返事だ」
兄の手が、レオの頭を撫でる。大きな掌だった。優しい手だった。
その光景を、俺は死ぬまで忘れられなかった。
南の内庭は、王族以外ほとんど入ることのない小さな庭だ。四方を白い石造りの回廊に囲まれ、中央には古い噴水がある。秋薔薇が咲いていた。風は穏やかで、空も青かった。
……だが、孔雀は見当たらなかった。
「おかしいよ、孔雀がいない?」
「あらあら、どうしたのかしらね」
その直後だった。
背後で、重い音がした。振り返ると、俺たちが入ってきた扉が閉じていた。それだけなら、おかしくはない。内庭の扉は風で閉まることもある。だが、閂の落ちる音まで聞こえた。
「……アーサー?」
エレノアの声が低くなる。俺は答えるよりも上を見る。
回廊の上に、人影があった。一人。二人。三人。違う。十人。二十人。さらにその向こうにもいる。全員が弓を持っている兵士だった。弦にはすでに矢が掛かっていた。
身体が先に動いた。
「エレノア。レオを」
俺は二人の前へ出る。腰へ手を伸ばして、何もないことを思い出した。剣は門で預けていたのだ。
「父上?」
「後ろへ行け」
「でも――」
「行け!」
自分でも驚くほど大きな声が出た。レオが怯え、エレノアが息子を抱き寄せる。
そこで、回廊の奥から兄が現れた。エドワード、俺の兄、エルデン王国国王。さきほどまで同じ卓で食事をしていた男が、二階の回廊から、静かに俺たちを見下ろしている。
「……兄上」
返事はない。
「これは何です!」
兄は何も言わなかった。俺は周囲を見る。弓兵。閉ざされた扉。武器のない俺。妻。息子。理解できない。何一つ理解できない。
「兄上!」
もう一度叫んだ。エドワードは黙っていた。何も言わず、いつもの笑顔もそこにはない。
そして、右手が上がった。
俺の背筋を、今まで戦場ですら感じたことのない恐怖が走った。
「兄上!」
手が下がる。弦の鳴る音が、庭いっぱいに重なった。
最初の矢が左肩へ入った。身体が後ろへ持っていかれる。続いて脇腹。右腕。痛みを感じるより早く、俺は振り返った。
「伏せろ!」
エレノアを突き飛ばすように地面へ倒す。その腕の中へレオを押し込む。俺自身も二人の上へ覆いかぶさった。
背中へ衝撃。ひとつ。二つ。三つ。数える意味など、すぐになくなった。矢が降り続ける。身体の中で何かが裂ける。息ができない。口の中に鉄の味が広がった。
それでも俺は腕を広げた。少しでも大きく。少しでも二人を隠せるように。
「やめろ!」
叫んだつもりだった。声になったのか分からない。
「兄上! やめろ!」
矢は止まらない。一本が背中から深く入った。それまでとは違った。身体を貫いた感触があった。
そして。俺の下で、エレノアが小さく息を呑んだ。
「……え」
頭が真っ白になった。
「エレノア?」
返事がない。腕の下にいるレオが泣いていた。
「父上……痛い……」
その声に、心臓を掴まれた。
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのか分からない。
「父上がいる。大丈夫だ」
さらに矢が降る。肩に。背に。脚に。そしてまた一本、俺の身体を貫いた。下でレオの身体が跳ねた。
「レオ?」
「……とう、うえ」
「レオ」
返事がない。
「レオ!」
動くな。動けば二人が晒される。それが分かっている。だから俺は、息子の顔を見ることさえできない。腕の中に小さな身体がある。ついさっきまで肉を頬張り、伯父に野菜を食べろと叱られていた身体。それがもう、動かなかった。
「……アーサー」
かすかな声がした。エレノア。
「ここにいる」
俺は言った。
「俺がいる」
震える指が、俺の服を掴んだ。
「レオは……?」
答えられなかった。妻の指が強くなる。一瞬だけ。それから。力が抜けた。
「エレノア?」
返事はなかった。
「エレノア」
矢の音が遠くなる。いつ止んだのか分からなかった。庭が静かだった。俺の下には妻と息子がいる。二人とも動かない。
守ったつもりだった。自分の身体なら盾になると思った。何十本でも受ければいいと思った。違った。俺の身体を貫けば、その先には二人がいた。
「……なぜだ」
血が喉へ上がる。それでも腕に力を入れた。もう守るものなど残っていないのに、身体を退けることができなかった。
「なぜだ……兄上」
顔を上げる。視界が赤く滲んでいる。回廊に兄がいた。同じ場所。同じ顔。俺が幼い頃から見てきた兄。俺の結婚を誰より喜び、レオが生まれたときには、自分の子供でもないのに泣いた男。
その兄が俺を見ている。妻を。息子を。
そして。
兄は笑っていた。
ほんのわずかに。安堵したように。笑っていた。
――なぜ。
それが、最後だった。
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