第三稿 メガネ信仰
ペラペラと紙をめくる音だけが静かな部室に響いていた。
僕はその音を聞きながら、固い表情で目の前の雪月を見つめていた。何かを読んでいる時の静かな雪月は、一枚の絵画のようだ。写真集を作ったら、きっと百万部突破も夢ではないだろう。
今は、僕がさっき書き上げた短編小説を雪月に読んでもらっているところだ。雪月はパソコン越しよりも紙で読みたい派らしく、時間がある時はできるだけプリントアウトして渡すようにしている。雪月は紙を捲る感覚が好きらしい。僕にはよく分からないが。
しばらくすると、最後の一枚を読み終えた雪月が顔を上げて一つため息を吐いた。
「ふう」
「いかがでしたか、先生?」
「んー」
雪月が何か考えながら持っていた紙束をトントンと机の上で揃えた。
「結構面白かったよ」
「本当ですか!? 具体的にはどういったところが良かった?」
「水着の描写がエロくて良かったね」
「エロ……? 男キャラしか水着になってなかったはずなんだけど……」
「そこがいいんだよ」
雪月は揃えた紙束をパンチで穴を開けてファイルへ綴じた。彼女はなぜか僕が書いた小説を毎回ファイルに綴じて短編集を作っている。データがあるからそんなことしなくてもいいのに。
「他には?」
「オチがちょっと弱かったけど、途中の空気感を表す表現とかがカマンベールチーズみたいにまったりしていて好きだった」
「うーん? その表現はよく分からんが、今回ちょっと文体の感じを変えてみたんだよね。それが良かったのかな?」
「まあそんな感じ」
雪月はファイルを戸棚に入れた後、冷めてしまった湯呑みのお茶を一口飲んだ。
「でも、ちょっと思ったんだけどさ」
「何でしょう?」
「コンの小説の主人公ってさ、メガネかけてる割合高すぎじゃない?」
「え、そうだよ。主人公には毎回メガネをかけさせてるよ」
「何で?」
「メガネをかけてないと、何だか気が乗らないから」
静かな部室が一段と静かになったと錯覚するような沈黙が降りてきた。
「気が乗らない……?」
「そう」
「知的な感じにしたかった、とかじゃなくて?」
「そう、100%僕の趣味だよ」
もう一度沈黙が部室を支配した。少し開けた窓から遠くの校庭で練習している運動部員の掛け声が聞こえてきた。
「じゃあ、メガネをかけてない主人公を書くとどうなるの?」
「それはだな……そうだ、実際に読んでもらった方が早いだろう」
僕はノートパソコンを操作して「没」と書かれたフォルダの中にあるファイルのひとつを開いた。
「この作品の主人公は裸眼だよ」
ノートパソコンの画面を雪月の方へと向けた。雪月が映し出された文章を黙読する。
「……なんか主人公の存在がうっすいね」
「だろう? なぜか裸眼の主人公にすると、無味無臭の主人公が出来上がってしまうんだ」
「作家としては致命的なんじゃないの?」
「やっぱりそう思う?」
雪月がノートパソコンをこちらに返してくる。僕はメガネ専門の作家として生きていくしかないのかもしれない。
「何というか、つまり、コンってメガネが好きなの?」
僕はそのセリフを聞くと、シャツのボタンを一つはずし、目を瞑って一つ大きな深呼吸をした。
「長くなるぞ」
「え? いや、そんなつもりじゃなかったんだけど……」
「あれは小学校に入学してすぐくらいだっただろうか」
「めちゃくちゃ長くなる導入だこれ……」
「その時に見たメガネが工芸品と言えるくらい精緻で美しい作品だったんだ。それを見て、僕のメガネに対する価値観が大きく変わったんだよ」
「思ったより短そうで良かった」
僕は呼吸を整え、目を閉じてゆっくりと過去の記憶を手繰った。
「艶やかなリム、艶かしいつるの曲線美、鼻を優しく包み込んでくれそうなブリッジ、挙げだしたらキリがないが、とにかく僕はそれを見て興奮したことを覚えているよ」
「変態……」
「は? そんな低俗な感情と一緒にしないでもらいたい。僕のこのメガネに対する愛は、摩周湖の水よりも純粋なのだよ」
「…………」
僕の熱い思いが届いたのか、雪月は腕を組んで黙りこんだ。ちょっと熱くなり過ぎてしまったかな? 僕はコーヒーを一口飲んで気持ちを落ち着けた。
「じゃあさ」
「まだ何かあるのかね」
「コンはメガネにかけたいの?」
部室に深い沈黙が降りる。ゴゴゴと音が聞こえる気がするほど重くるしい空気だ。
「お、お前……そんな下劣なこと考えるわけないだろう?」
「間違えた。メガネはかけないの?」
「絶対わざと言い間違えただろ!?」
雪月は悪びれもせずに舌をベーっと出してこっちを見ている。
少し助詞を変えただけで、酷く低俗な言葉になってしまう日本語って本当に難しい。
「僕は視力に問題は無いからな。メガネをかける必要は無いんだ」
「伊達メガネは否定派なの?」
「いや、そんなことはない。たとえ伊達でもメガネは等しく美しいものだよ」
「なんか気持ち悪いなあ」
「レンズに度があろうがなかろうが、メガネの美しさに変わりは無いってことさ」
メガネを区別することなんて、僕にはとてもできない。
「それだけ好きなら、自分でもかけてみようって思わないの?」
「好きだからこそ、安易にメガネをかけることに抵抗を覚えるんだよ」
「メガネを神聖視しすぎじゃない?」
こいつ何を言っているんだ? メガネは神聖なものだろう。
「だから、僕は誰もいないところでこっそりかけて楽しんでいるんだ」
「やっぱり気持ち悪い……」
「分からんかー、このダイヤモンドのように硬く美しい愛が」
「なんかイライラしてきた」
雪月にはメガネの良さがわからないようだ。仕方ないなあ。
「じゃあ雪月にはこっそり僕のメガネ姿を見せてあげようか」
「メガネ持ってきてるの?」
「当たり前だろう? メガネには常に僕のそばにいて欲しいからな」
「愛が重いなあ」
僕は鞄からメガネケースを一つ取り出した。ケースの蓋を丁寧に開けて、中のメガネを調度品のように慎重に取り出す。そしてメガネの閉じているつるを女性を扱うように優しく開き、自分の顔にそっとかけた。
「どうだ?」
「何でちょっと見下したようなポーズなの?」
「違うよ、このポーズが一番メガネが美しく見えるんだ」
「全然分からない……」
「よく見てよ! メガネのレンズに光が綺麗に反射して、メガネ全体のフォルムがくっきりと浮かび上がるだろう?」
「全然……解らない……」
「えー」
雪月は何か得体の知れない物でも見ているかのような眼差しで僕を見ている。おかしいなあ。
「じゃあ、私がメガネをかけたらどうかな?」
「雪月が? うーん」
雪月にメガネか。どうだろうなあ。
「似合うとは思うけど……一応かけてみるか?」
「いいよ」
僕は鞄から別のメガネケースを取り出した。
「雪月ならこっちのメガネの方が良さそうだ」
「ちょっと待って、何個メガネ持ってきてるの?」
「そりゃあ僕の心が満ちる程の数さ」
「鞄の中を見るのが怖い……」
僕はメガネケースからメガネを取り出して、雪月の顔にそっとかけた。
「……どう?」
「うーむ」
確かにメガネをかけた雪月は美しかった。でも、やはり違うと僕は感じた。
「やっぱりダメだな」
「似合ってない?」
「いや、似合ってはいるよ。でも、メガネがぼやけて見えるんだ」
「メガネが曇ってるの?」
「そうじゃない。雪月の顔が良すぎるんだ」
「え? そ、そう?」
雪月が少し照れた様子でメガネに触れた。
「そう。だからメガネをかけても、メガネが前に来ないんだ。ただ雪月が綺麗なだけなんだよ」
「な、なんか、その、褒めてるの?」
「いや、とても残念だ」
「何だか複雑な気分になるなあ……」
僕はメガネを雪月から受け取ると、メガネ拭きで一通り吹いてからメガネケースへと仕舞った。お疲れ様。
「そんなにメガネが好きなら、やっぱりコンはメガネをかけてる女の子が好みなの?」
「いや、女の子の魅力にメガネは関係ないよ」
「そうなの?」
「強いて言うなら、メガネにかけられている人間が好み……かな」
「ど、どういうこと?」
なんだか雪月が引き気味になっている。なぜだろう?
「例えばそうだな……その人が話しているのに、さもメガネが喋っている感覚に陥るような、そんな人間だ」
「なんか怖い……」
「メガネとコミュニケーションをとっているような思いをさせてくれる、そんな人間を僕は追い求めているのかもしれない……」
「何言ってるのか全く分からない……」
雪月はゲンナリとした表情で自分の鞄を肩にかけた。
「はあ。今後はもうコンにメガネの話はしないようにするよ」
雪月はそう言うと、すたすたと部室から出て行ってしまった。
「何だよもう、相変わらず急に帰るな雪月は!」
僕も急いでノートパソコンを片付けると、鞄を持って雪月の後を追った。
僕のメガネへの想いは雪月には読み解けなかったようだ。また今度ゆっくり話をしてやるか。
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