第4話 それでも買いました。



買った。


 結局、買った。


 私はその事実を、まだ正しく受け止められていない。


 一億八千万ドル。


 五万トン。


 原子力空母。


 その三つが頭の中で並ぶたび、何かがおかしいと思う。


 いや、全部おかしい。


「ねえ」


「ん?」


「本当に買ったの?」


「買ったよ」


「もう一回聞くけど」


「うん」


「本当に?」


「だから買ったって」


 夫はやけに嬉しそうだった。


 娘も嬉しそうだった。


 私だけが、契約書を見ながら現実から置いていかれている。


「夢のマイホームだな」


「夢から覚めなさい」


「もう契約したから無理」


「そこだけ現実的ね」


 英国から戻って数日。


 夫は《ケンブリッジ》の資料を食卓いっぱいに広げていた。


 これまで家の資料といえば、間取り図や住宅ローンのパンフレットくらいだった。


 ところが今は違う。


 船体図。


 艦内区画図。


 係留予定。


 維持管理。


 保険。


 私は見るだけで頭が痛くなった。


「まず聞くけど」


「何?」


「住所どうするの?」


 夫が止まった。


「住所?」


「そうよ。家なんでしょう?」


「うん」


「じゃあ住所がいるでしょう」


「ケンブリッジ」


「それ名前」


「じゃあ、海」


「範囲が広すぎる!」


 娘が横から笑った。


「北海とか?」


「もっと広げないで」


「港に置くなら港の住所になるんじゃない?」


「たぶんな」


「たぶんで家を買わないで」


 私は紙を一枚取った。


「郵便は?」


「届くだろ」


「どこに」


「ケンブリッジに」


「だから、そのケンブリッジがどこにいるのかって話なの!」


 夫は少し考えたあと、いつもの顔になった。


 嫌な顔だ。


「でも動くからさ」


「何が?」


「家」


「知ってる」


「住所も動くってことで」


「そんなことで済むか!」


 娘が笑いながら言った。


「引っ越ししなくても家ごと引っ越せるじゃん」


「そう!」


「娘に変な価値観を植え付けるな!」


 夫は気にせず続ける。


「海が見たくなったら海」


「最初から海にいるでしょう」


「海外行きたくなったら海外」


「家で行くな」


「便利だろ」


「普通の家は便利さのために国境を越えないのよ」


 私は資料をめくった。


 次に出てきたのは、艦内施設一覧だった。


 見覚えがある。


 スターバックス。


 マクドナルド。


 ミスタードーナツ。


 コンビニ。


 医療区画。


 カレッジ。


 私はそこで止まった。


「学校」


「あるな」


「娘、どうするの?」


「カレッジ」


「勝手に決めるな」


「通学ゼロだぞ」


「そこを最大の利点みたいに言わないで」


 娘が嬉しそうに口を挟む。


「雨の日、楽じゃん」


「そもそも今の学校をどうするの」


「転入?」


「簡単に言わない」


「留学?」


「家の中なのに留学って何」


 夫は腕を組んだ。


「ケンブリッジに住んで、ケンブリッジ・カレッジに通う」


「響きだけは立派ね」


「履歴書にも書ける」


「たぶんあなたが思ってるケンブリッジじゃないからね」


 娘は楽しそうだった。


 私はため息をついた。


「買い物は?」


「艦内」


「病院は?」


「艦内」


「食事は?」


「艦内」


「学校は?」


「艦内」


「何でも艦内で済ませるな!」


 夫は嬉しそうに指を折っていた。


「だから街みたいなもんだって」


「家の話をしてるのよ」


「家の中に街があると思えば」


「思えません」


 私は次の資料へ移った。


 今度は費用。


 見たくなかった。


 でも見なければもっと怖い。


「これ何?」


「維持管理」


「高くない?」


「まあ」


「出た」


「本体価格とは別だから」


「その言葉、もう禁止にしたでしょう」


「でも別だから」


「家庭の財布に会計上も何もないのよ」


 私は金額を見る。


「係留費」


「必要だな」


「保険」


「必要だな」


「整備」


「必要だな」


「管理」


「必要だな」


「これ全部、毎年?」


「まあ」


「あなたの『まあ』、聞くたびに寿命が縮む」


 夫は笑った。


 私は笑えない。


「電気と水道は?」


「そこはほぼ追加ない」


「本当に?」


「艦内設備込み」


「ガスは?」


「それも」


「完全タダ?」


「追加料金は少ない」


「今、完全タダって言いかけたでしょう」


「言ってない」


「顔が言ってた」


 娘が笑っている。


 私はもう一度資料を見る。


「……でも」


「何?」


「本当に生活はできるのね」


「できるよ」


 夫は即答した。


 その即答だけは、なぜか腹が立たなかった。


 私は艦内図を見た。


 食堂。


 居住区。


 浴室。


 厨房。


 医療区画。


 学校。


 店。


 部屋はいくらでもある。


 ありすぎる。


「娘の部屋、どこにするの?」


 私は何気なく言った。


 夫と娘が同時にこちらを見た。


「何よ」


「いや」


「何」


 娘が笑った。


「ママ、住む気になってるじゃん」


「なってません」


「今、私の部屋どこにするって」


「仮に住むならの話!」


「仮に」


「そう」


 夫が艦内図をこちらへ寄せた。


「ここなんかどう?」


「どこ」


「居住区の端。静かそう」


「窓は?」


「あると思う」


「机置ける?」


「余裕」


「収納は?」


「いくらでも」


「じゃあ、そこでもいいんじゃない」


 言ってから止まった。


 夫も止まった。


 娘も止まった。


「……何」


「いや」


「何よ」


 夫が笑いをこらえている。


「もう部屋決めてる」


「決めてない!」


「決めたじゃん」


「違う!」


「じゃあママたちの部屋は?」


「知らない!」


「キッチン近いほうがいい?」


「そのほうが――」


 また止まった。


 娘が吹き出した。


「ママ」


「何」


「完全に住む人の会話してるよ」


「うるさい」


 私は資料を閉じた。


 もう見ない。


 見れば見るほど、生活が具体的になる。


 それが嫌だった。


 いや。


 嫌なはずだった。


 数日後。


 私は《ケンブリッジ》へ運び込む荷物の一覧を作っていた。


 食器。


 タオル。


 洗剤。


 娘の教科書。


 着替え。


 日用品。


 冷蔵庫に入れるもの。


 そこまで書いて、手が止まった。


「……何してるんだろ、私」


 夫が横から覗き込む。


「引っ越し準備」


「違う」


「じゃあ何?」


「一時的な滞在準備」


「何泊?」


「知らない」


「一週間?」


「知らない」


「一か月?」


「知らない!」


 夫は笑っていた。


 私は紙を丸めようとした。


 でもやめた。


 食器はいる。


 タオルもいる。


 洗剤も。


 娘のものも。


 何だかんだ言って、生活するなら必要になる。


 私はもう一度、一覧を開いた。


「牛乳も買わないと」


「あるぞ、艦内の店に」


「営業してるの?」


「たぶん」


「たぶんじゃ困る」


「じゃあ持ってく?」


「そうする」


「パンも?」


「必要」


「コーヒーは?」


「スタバあるでしょう」


 私は止まった。


 夫が笑った。


「使うんだ」


「一回くらい」


「マックもあるぞ」


「いらない」


「ミスド」


「……それは」


「それは?」


「娘が食べるでしょう」


「ママも食べるじゃん」


「黙って」


 また娘が笑った。


 私は腹が立った。


 でも少しだけ、楽しそうな二人を見てしまった。


 何をやっているんだろう。


 普通の家を探していたはずだった。


 庭があって。


 収納があって。


 学校が近くて。


 買い物に困らなくて。


 病院も近い。


 そんな家がよかった。


 そして今。


 学校もある。


 店もある。


 病院もある。


 収納どころか格納庫まである。


 条件だけを並べれば、全部揃っている。


 ただし、五万トン。


 原子力空母。


 しかも動く。


「ねえ」


 私は夫を見た。


「何?」


「これ、本当に家なの?」


 夫は少し考えた。


「うちだろ」


 即答だった。


 私は何も言わなかった。


 その代わり、荷物の一覧へ一つ書き足した。


 ゴミ袋。


 生活するなら、たぶん必要になる。


 書いてから、また嫌になった。


「……なんで私、住む前提になってるの?」


 夫と娘が顔を見合わせた。


 二人とも笑った。


 私は笑わなかった。


 たぶん。


               第4話

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