第二十一章 二十年目の星

宇宙へ出て、二十年目。


 恒一は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。


 理由は分からなかった。


 ただ、目が覚めた。


 暗い船内でしばらく天井を眺め、それからゆっくりと身体を起こす。


「……いてて」


『おはようございます、恒一』


「おはよう」


『起床時刻より十一分早いです』


「歳を取るとな」


『はい』


「眠りが浅くなるんだよ」


『医学的には複数の要因が――』


「朝から説明するな」


『申し訳ありません』


 恒一はベッドから足を下ろした。


 立ち上がる。


 ほんの少し。


 身体がふらついた。


『恒一』


「大丈夫」


『まだ何も言っていません』


「言おうとしただろ」


『……はい』


「大丈夫だ」


 恒一は壁に手をついて、ゆっくり歩き出した。


*


 操縦室。


 窓の外には、見慣れない星が一つあった。


「今日はあれか」


『はい』


「何ていう星?」


『恒一が以前つけた名称では、ありません』


「そうか」


『正式名称は――』


「いい」


 恒一は椅子に座った。


「名前なんかなくてもいいだろ」


『では、記録上の名称を表示します』


「それもいい」


『……』


「今日はただ見たい」


『了解しました』


 星は小さかった。


 けれど。


 不思議なくらい明るかった。


「二十年か」


『はい』


「早いな」


『船内時間で、十九年十一か月と二十八日です』


「細かいな」


『正確性を重視しています』


「じゃあ、二十年ってことでいい」


『……了解しました』


 恒一は笑った。


「お前も変わったな」


『どのような意味でしょうか?』


「昔なら、絶対に訂正してただろ」


『現在も訂正しました』


「そうだっけ?」


『はい』


「なら変わってないな」


『はい』


*


 二十年目の記念日。


 恒一は何か特別なことをしようと思った。


 だが。


 結局、何をすればいいのか分からなかった。


 花火もない。


 酒もない。


 ケーキを焼く材料もない。


 仕方がないので。


 恒一は保存食の中から、一番古い缶詰を取り出した。


「これにしよう」


『賞味期限を確認します』


「やめろ」


『しかし――』


「記念日に細かいこと言うな」


『……』


「食べられるよな?」


『現在の検査では問題ありません』


「ならいい」


 缶を開ける。


 中身は、少しだけ色が変わっていた。


「……」


『……』


「やめようか」


『賢明な判断です』


「お前、絶対食べたくなかっただろ」


『私は食事を必要としません』


「はいはい」


 二人で笑った。


*


 結局。


 記念日の食事はいつもの保存食になった。


「乾杯」


『乾杯』


 恒一は水を入れたカップを掲げた。


「二十年」


『二十年』


「長かったな」


『はい』


「でも」


「まだ半分くらいだ」


『帰還予定まで、約二十年です』


「……」


「そうだな」


 恒一は窓の外を見た。


「地球」


『はい』


「本当に帰れるかな」


 タゴリはすぐには答えなかった。


『現時点の計算では、帰還可能です』


「現時点か」


『はい』


「ずいぶん便利な言葉だな」


『事実です』


「そうだな」


 恒一は笑った。


「じゃあ」


「今は帰れる」


『はい』


「それでいい」


『はい』


*


 午後。


 恒一は船内の整備を始めた。


 以前なら一人でできた作業だった。


 工具箱を持ち上げる。


「……重いな」


『重量は以前と変わっていません』


「分かってる」


『筋力の低下が――』


「分かってるって」


 工具箱を床に置く。


 息を吐く。


『私が作業します』


「いや」


『危険です』


「まだできる」


『恒一』


「まだ」


『……』


「できる」


 タゴリは何も言わなかった。


 しばらくして。


『では、私は補助します』


「そうしてくれ」


 機械アームが伸びてくる。


 恒一が工具を持つ。


 アームが部品を支える。


 二人で一つの作業をする。


 昔からそうだった。


 恒一だけでも。


 タゴリだけでも。


 できないことを。


 二人ならできた。


*


 作業が終わった。


 恒一は椅子に座り込んだ。


「疲れた」


『休憩を推奨します』


「そうする」


『水分を――』


「それも分かってる」


『はい』


 恒一は目を閉じた。


「なあ、タゴリ」


『はい』


「俺」


「いつまで飛べるかな」


『……』


「船じゃなくて」


「俺自身が」


 少し長い沈黙。


『恒一の身体能力は、現在も操艦に必要な最低基準を上回っています』


「今は、な」


『はい』


「じゃあ」


「そのうち下回る」


『可能性はあります』


「そうか」


『ですが』


「ん?」


『その場合は、私が補助します』


「……」


「頼もしいな」


『当然です』


「神様だから?」


『田心姫神として設計されています』


「まだ言うか」


『正式名称です』


「はいはい」


 恒一は笑った。


「じゃあ頼む」


『はい』


*


 夜。


 恒一は一人で操縦室にいた。


 タイルに触れる。


 二十年前と比べると。


 表面の傷が増えている。


 角が少し丸くなっている。


 恒一は指先でその傷をなぞった。


「二十年分か」


『はい』


「これ」


「帰る頃にはどうなってるかな」


『摩耗速度から推測すると、表面の約四割が――』


「そういう意味じゃない」


『……』


「どんな顔してるかな、俺」


『私は顔を――』


「分かった」


『はい』


 恒一は笑った。


「お前もな」


『はい』


「二十年後も」


『……』


「一緒に見ような」


『はい』


 タゴリは答えた。


 いつもと変わらない声だった。


*


 その夜。


 恒一が眠ったあと。


 船内の照明が自動的に落ちる。


 操縦室には星明かりだけが残った。


 タゴリは航路を維持する。


 エンジン出力。


 船体温度。


 燃料残量。


 酸素濃度。


 すべて正常。


 ただし。


 メインコンピュータの自己診断だけが。


 以前よりわずかに長くなっていた。


『……』


 タゴリはそれを記録した。


 異常値。


 処理遅延。


 冷却効率低下。


 どれも。


 今すぐ問題になるものではない。


 だから。


 恒一には伝えなかった。


『航路、正常』


 小さく呟く。


『地球まで、約二十年』


 そして。


『帰還可能』


 もう一度。


 自分自身に確認するように。


 タゴリはそう記録した。


 星々の間を。


 古い船が進んでいく。


 二人の旅は。


 まだ終わらない。

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