第23話 逃げ場のない憂鬱(Season3)

あの日からそれは続いていた――「宮の森」という聞き慣れない地名が、美波の耳の奥にこびりついたままだった。春彦が「まだ決まっていないから」と曖昧に言葉を濁してから、一週間が過ぎようとしている。二人の時間は止まったまま、壁のカレンダーだけが静かに進んでいた。カウンターに立つ美波は、いつものように豆を挽き、丁寧にお湯を注ぐ。けれど、立ちのぼる湯気の向こうで、気づけば視線はオークの椅子へ向けられていた。カラン、と音が鳴るたび、風の気配にまで顔を向けてしまう。二日前に彼に送った他愛のないメッセージ。スマートフォンの画面を点灯させては、返信のない画面を確認する。何も変わっていないことだけを確かめては、また画面を閉じる。その果てしない繰り返し。画面の冷たい光だけが、美波の不安を静かに煽っていた。白いコーヒーカップが伏せられたまま、時間だけが過ぎていく。救いを求めるように立つこのカウンターも、今の美波にとっては逃げ場のない憂鬱だった。その深い静寂を破るように東京の母親から短いメッセージが届く。「おじいちゃんの具合が、あまりよくないの。戻ってこれる?」美波は薄暗い店内で、しばらく立ち尽くした。やがて小さく息を吐くと、カウンターの引き出しから白い厚紙を取り出し、ペンを走らせる――「臨時休業のお知らせ」丁寧で、どこか寂しげな文字で一週間の不在を書き記した。美波はそのまま身支度を整えると、店の灯りをそっと落とす。暗がりの中でぽつんと佇むオークの椅子に「……行ってきます」とだけ、静かに呟き、美波は扉をゆっくりと閉じた。カラン。その音はいつもより弱く、路地裏の静寂に溶けていった。美波はスマートフォンを握りしめたまま、画面を開くこともなく足早に駅へと向かった。――その頃。春彦は会社の白い蛍光灯の下で、膨大な資料に追われていた。営業所の再編。そして、彼に打診されている北海道「宮の森」への転勤の話。この一週間、彼を取り巻く時間は、濁流のように過ぎていった。手元の書類を整理していると、ふとした瞬間に、決まって彼女の顔が浮かぶ。春彦は彼女が無理に笑って「にんじんと、ピーマンも」と言った、あの震える声を何度も思い出していた。彼女の手の震えも、その目に宿っていた寂しさも分かっている。けれど、メールの返信を打ちかけては指が止まる。――まだ何も決まっていない。春彦は、心の中で自分にそう言い訳をしながら、打ちかけた文字をすべて消した。「明日、店に行くよ」送信されなかった文字が、静かに画面から消えていく。窓の外では、夕闇に浮かぶ雲が、ちぎれるようにゆっくりと離れていった――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る