第41話 見張り

 初雪は、ひと晩で三寸積もった。

 戸を開けると、庭の敷石が消えていた。柱の根元と軒の下にだけ昨日の土が残り、その先は、踏み出す足をためらわせるほど平らに白い。裏山では下の段の墓が丸く覆われ、上の段は、斜面を渡る一枚の雪に沈んでいた。

 当帰(とうき)は、その前に林の際へ移していた。

 楊文(ヤン・ウェン)の挿した杭を阿淵(アユエン)が見つけ、沈曉(シェン・シャオ)に確かめてから、周りの草を払った。掘り上げるのには三日かかった。阿禾(アフー)も小鵲(シャオチュエ)も手伝い、一度ずつ根を切ったあとは、土を落とすたびにこちらを見た。

 植え直した畝には、楊文が藁を厚く掛けた。

 少し退けた方がよいと言うと、掛けすぎで枯れるなら来年は薄くする、と返ってきた。それでも翌朝には、株の真上だけ藁が軽くなり、抜いた分が畝の裾へ寄せられていた。


 初雪の日、子供たちは仕事をしなかった。

 楊文が今日はいいと言うと、四人は庭へ駆け、両腕で雪を掻き集めた。何かを積み上げようとしていたものが崩れ、そこから雪玉が飛び始める。阿淵だけが少し離れたところで丸め、手を出す小鵲へ一つずつ渡していた。

 沈曉は堂の縁に立っていた。隣へ来た楊文も腕を組み、雪玉の行く先を目で追う。

「毎年やるんだ、あれ。初雪の日だけな。師匠がそうしてた」

 飛んできた一つが柱に当たり、砕けた雪が沈曉の膝へ散った。

 小鵲が走ってきて謝るので、当たっておりません、と答えて袖で払った。小鵲はほっと息をつき、庭へ戻ってゆく。

 袍(ほう)には、溶けた雪の跡が残った。

 楊文の目がそこへ下り、何も言わずに、口元だけが緩んだ。


 秋の終わりから進めていた冬支度も、雪の日を挟んで十日ばかりで済んだ。

 薪を積み、雪落としの長い棒を用意し、風の入る戸を張り直す。増えた人数に合わせて夜具も出した。楊文は去年の薪の量を指で示し、それに半分ほど足すよう阿柏(アボー)へ言った。積み終わった薪は、軒の低いところまで届いた。

 沈曉は薬を作った。

 咳や腹下しの包み、霜焼けに塗るもの、それから切り傷の薬。四人が刃物や木を扱うので、切り傷の分は作るそばから減り、堂の隅では毎日、薬研(やげん)が鳴るようになった。

 三日目、阿禾が隣へ座り込んだ。

「手伝えますか」

「押す力が要ります。同じ強さで、同じところを」

 柄を譲ると、十を数えるうちに片側へ力が寄った。沈曉は薬研を止め、溝の両側から少しずつ粉を取って、阿禾の掌へ置いた。

 片方にはまだ粗い粒がある。

「難しいです。先生も、最初は下手でしたか」

 先生、と呼んだ顔を見てから、沈曉は答えた。

「下手でした」

 阿禾が笑い、もう一度柄へ手を掛けた。今度は押すたびに自分の肩を見ている。沈曉はその手の外側へ指を添え、傾くところだけを戻した。


 近場の観へ出した三通に、まだ返事はなかった。

 一通は、届けられずに戻ってきた。

「宛先の観に、人がいなかったそうです」

 阿柏が差し出した紙は、折り目のところが擦れて白くなっていた。

「閉まっていたのか」

「いえ。門は開いていたと。人だけが、いなかったと」

「墓は」

「そこまでは、聞いておりません。聞くべきでしたか」

 楊文は紙を受け取り、元の折り目に沿って畳んだ。

「今度から、聞け。閉まってたか、人がいなかったか、墓はどうか。三つだ」

「三つ」

「覚えとけ」

 阿柏はその場で二度繰り返し、二度目には順を違えずに言えた。

 翌日、楊文は薪をいつもの倍割った。斧が止まると、山の向こうから、少し遅れた音が返ってきた。


 雪の夜、沈曉が見張りに立った。

 筵(むしろ)に重ねた夜具は湿り、座ったところから重みを持って沈む。吐く息が顔の前を白く曇らせ、その向こうにある墓の形は、雪が降り込むほど淡くなっていった。

 上ってきた足跡も、四半刻もすれば浅くなる。

 沈曉は灯りを岩陰へ寄せ、林の暗い縁を見ていた。

 指先を袖へ入れ、一本ずつ曲げた。

 符を出す指だけは包まずにいたので、温まる前にまた冷える。膝の上で指を伸ばしていると、下の道から、雪を踏む音が近づいた。

 楊文が火鉢を運んできた。

「代わりに来たわけじゃねえ」

 持ち手に布を巻き、筵の脇の平石へ下ろすと、灰の下に細い赤が見えた。

「寒すぎる。一人でいい夜じゃねえ」

「見張りは、一人で足ります」

「足りるかどうかの話はしてねえ」

「では、何の話でございましょう」

「炭がもったいねえって話だ。一つの火鉢に、一人しか当たらねえのは無駄だろ」

 沈曉は夜具の端を寄せた。

 楊文が腰を下ろすと、筵の下で雪が潰れた。右手をつくところで一度動きが緩み、膝を折り直してから、その腕を火へ差し出した。

 二人分の息が、炭の上で白く交わった。


 しばらく喋らずにいた。

 山のどこかで枝の雪が落ちるたび、楊文も沈曉も顔を上げた。落ちたあとには葉の擦れる音が続き、それもやむと、炭の小さく崩れる音が近くに戻る。

 沈曉は靴の中で足の指を動かした。

 火に向けた掌へようやく熱が届いても、踵(かかと)の冷えは、筵の下から上がってきたままだった。

「あんた、寒いの平気なのか」

「平気ではありません。慣れています」

「違うのか、それ」

「違います。平気な者は、寒いと思いません。慣れた者は、寒いと思いながら座っていられます」

「屁理屈だな」

「理屈です」

「同じだろ」

「違います」

 沈曉は火へ目を戻した。

「……理屈でございます」

「今、言い直しただろ」

「……言い直しました」

 楊文は少し笑い、灰を寄せた。

 露わになった炭に赤みが広がると、二人とも、それへ指を近づけた。


 楊文の掌には、厚くなったところが幾つもあった。

 指の付け根は硬く盛り上がり、親指の腹には細い裂け目が走る。火に向けた皮膚は赤く、その凹凸へ光が溜まっていた。

「あんたの手、変わらねえな」

 楊文が言った。

「初めて会った時と、同じ手だ。俺の手はこの一年でこんなに硬くなったのに、あんたのは変わらねえ」

 自分の掌を上へ返し、左の指で押す。

「ここ、去年の秋に鍬(くわ)でやった。皮が厚くなって、今は感じねえ。ここは板張りの時だ。ここは、まあ、剣だな」


「手ってのは、記録だ。何をやったかが、そのまま残る」

 沈曉も掌を返した。

 同じ火が当たっているのに、こちらには指の影ばかりが長く落ちる。かつては剣で皮が擦れても、次の朝にはどこを傷めたか分からなくなっていた。いまは肩の擦れが何日も残る。北へ来る途中、荷紐を当てぬようにした場所は、まだ衣の下にあった。

「剣は、あまり使いませんので」

「そういうことじゃねえよ、たぶん」

 楊文はそれ以上言わず、開いていた掌を火の上へ戻した。

 沈曉も手を戻す。指を少し広げると、隣の大きな手の影が、その間へ入った。


 懐へ手を入れた拍子に、布包みが指へ触れた。

 上ってくる間に潰していなかったか、沈曉は取り出して膝で開いた。古銭を収めた折り目の脇に、桃の花びらが一枚あった。

 去年、別れた道で拾ったものだった。

 いまは薄茶色になり、端がわずかに反っている。灯りへ寄せると、脈の細い筋だけが布の上へ影を落とした。沈曉は花びらに触れず、その下の布を指先で平らにした。

「それ、あの時のか」

「はい」

「捨てりゃいいのに。もう花じゃねえだろ、それ」

「花ではございません」

 銭を別の折り目へ戻し、花びらを折らぬよう、布をゆっくり重ねた。

「ですが、まだ、形はございます」

 楊文は包みが閉じるまで見ていた。

 それから炭を一つ足し、火箸の先で灰を均した。


「阿禾のことを、伺ってもよろしいですか」

 沈曉が言うと、楊文は火箸を持ったまま頷いた。

「兄が、兵に取られたと」

「去年の春だ。村から七人行って、誰も戻ってきてねえそうだ」

「便りも、ございませんか」

「ない。あいつは、忙しいから書けねえんだって言う」

 炭の端が崩れ、火箸で寄せると、赤いところが灰へ埋もれた。

「帰ってこねえこともある、ってな。あいつに、言っとくべきか」

 沈曉は包みを懐へ収めた。あの列には若い顔が幾つもあった。けれど、阿禾の兄の顔も、送られた先も知らない。

「お兄様がどうなったかは、まだ分かりません」

「ああ。死んだと決めつける気はねえ。ただ、帰ってくるとばかり思って待たせていいのか」

「……お話しになるなら、春まで待ってもよろしいのでは」

「なんでだ」

「聞いたあとも、ここで暮らすのです。今は畑仕事も少なく、雪で山も下りられません。考えずに済む時間が、あまりないでしょう」

 楊文は火箸を置いた。

「聞かせたあとのことまで、考えてんのか」

「ええ。話す方は、言い終えれば済みますが」

 風が雪を細く流し、岩の裏へ寄せていった。

「あんた、いつもそこまで考えるのか」

「たいていは」

「疲れねえか、それ」

「疲れます」

 楊文がこちらを見た。沈曉は火へ手を差し出したまま、指先を温めている。

 しばらくして、楊文は炭へ目を戻した。

「待たせておく方が、酷いのかもしれん。……だが、まだ十四だ」


 しばらくして、その目が下の段の端へ動いた。

「小竹(シャオジュー)の号、まだ決めてねえ」

「はい」

「師匠が考えてたやつは、聞けずじまいだ。だから、勝手には書けねえ。でも、いつまでも幼名のままってのも、な」

 牌は雪に半ば隠れ、木の上の方だけが細く出ていた。

「あんたなら、何て付ける」

「その子は、どのような子でございましたか」

「よく喋った。あと、飯を残さなかった」

「掃除は」

「毎日やってた。誰も見てなくても、順番通りに」

 楊文は膝の上で片手を動かした。箒(ほうき)の柄を握るほどの幅に指を曲げ、それを、また開いた。

「阿禾に似てる。似てるが、あいつよりは静かだった」

 沈曉は牌を見ていた。

 あの子の箒を持ったことはある。短い柄も、握るところの黒ずみも覚えていた。その柄を握って庭を掃く、生きていた子の姿だけが、浮かばなかった。

「分かりません。……その子を、知りませんので」

「そうか」

「申し訳ございません」

「謝る話じゃねえよ」

 楊文は夜具を膝へ引いた。

「知ってる奴が、決めるべきなんだろうな。なら、俺が考える」


 雪は、いつの間にかやんでいた。

 雲の切れ目に星が見える。秋の夜道で見上げた並びが北の空にあり、沈曉は、あの時はまだ遠くにあった山の上から、それを見ていた。

 楊文が腰を浮かせかけた。

「そろそろ、代わろうか」

「もう少し、いてください」

 足元へ出しかけていた手が止まった。

 楊文は沈曉を見て、ゆっくり腰を戻した。

「珍しいな、あんたがそう言うの」

「……寒いので」

「火鉢があるだろ」

「火鉢は、片側しか温まりません」

「そりゃそうだ。背中は自分じゃ温められん」

 楊文は肩の雪を払い、少し近くへ座り直した。沈曉も夜具の端を引き、二人の膝に掛かるよう直した。


 背を預けた岩は冷たいままだが、隣の袖に触れるところだけ、しばらくすると夜気と違う温かさを持ち始めた。沈曉は手を火へ向け、そのまま座っていた。

 雪の下では、墓も、その間を通る道も境を失っている。春に解ければ、いま見えない土がまた露わになる。低いところから先に水が走り、掘れば容易く崩れる土になるだろう。


 朝までに、炭はもう一度足された。


 最初の返事は、二度目の雪が積もった日に届いた。

 文を出して、ひと月近くになる。麓(ふもと)の若い衆が袍の内から出した紙は、封もなく、端が濡れて波打っていた。峠向こうの道観(どうかん)から預かったものだという。

 帰り際、若い衆が一度振り返った。

「あの観、何かあったんですか」

「さあな」

「そうですか。まあ、俺も聞かない方がいいんでしょうね」

 楊文は答えず、男が門を出てから紙を開いた。


 先月、当観の墓域が荒らされた。骸(むくろ)が三つ、持ち去られた。供物は残っていた。役所へ届けたが、取り合ってもらえない。そちらは変わりないか。

 短い文の末尾に、一行だけ、別の話が添えてある。

 先代が、そちらの道長と碁を打った折の話を、母から聞いております。

 楊文はそこを二度読んだ。

「碁は俺も打てねえ」

 紙を渡しながら、呟くように言った。

 沈曉は軒の明かりへ寄せて読んだ。端の濡れとは別に、二箇所、墨の輪郭が崩れている。そこを指で擦らぬように、乾いた角を持ち直した。

「骸が三つ、供物は残されたまま」

「同じだな」

「はい。同じでございます」

 庭には子供たちの足跡が散っていた。

 真っすぐ走ったものが途中で大きく曲がり、滑った跡に別の足が踏み込んでいる。小鵲の残したらしい浅い跡を、幅の広い足が横切っていた。

 楊文も、しばらく庭を見ていた。

「返事、書くか。何て書く」

「こちらは、まだ荒らされていない。ただ、林の境目に足跡があった。夜の見回りを始めた。……それだけでも」

「役に立つか、それが」

「同じことが幾つの観で起きているか、知ることには役立ちます」

「向こうは、それを知ってどうする」

「近くの観にも、確かめることはできます。一軒の話ではないと分かれば、ほかへ知らせる者も出ましょう」

「役所が動かねえのにか」

「この文も、役所を通らずに届きました」

 楊文は紙へ目を戻し、最後の一行をもう一度見てから、丁寧に畳んだ。


 その夜、楊文は返事を書いた。

 太い筆跡が、一画ずつ紙を埋めてゆく。書き終えると腕を伸ばして見直し、足りなかった字を行の端へ小さく添えた。

 沈曉は隣で、別の紙を広げていた。

「何書いてんだ」

「覚えです。どこで、いつ、何があったか。書き留めておかないと、繋がりが見えません」

 楊文が覗くと、沈曉は書き終えた方を少し寄せた。日付、場所、起きたこと。行の間には、あと一行入るほどの隙間が空いている。

「これ、隙間が空いてるな。入るって、まだ何もないだろ」

「入るかもしれません」

「あんた、こういうこと得意そうだな」

「習慣です」

 次の行へ移る手が、同じ幅だけ下がった。

 二十年、こうして書いた紙を重ねたことがある。最後に火へ入れたときも、日付から順に読めなくなったわけではなかった。端が燃え、墨だけが残り、それも紙の形を失って崩れた。

 沈曉は筆へ墨を足した。

 今度の紙には、白澗(はくかん)山の名がある。脇にはまだ乾かぬ楊文の返事が置かれていた。


 二通目は、それから十日後に届いた。

 別の観からだった。貼り直された封を開くと、初めの三行には時候の挨拶と息災を尋ねる文句が、端を揃えて書かれていた。

 四行目から字が詰まっていた。

 墓が荒らされたのではない。修行中の弟子が二人、夜のうちに姿を消した。逃げたのかもしれないが、荷も持たずに出ていくのは妙だ。捜しているが見つからない。何か聞いていないか。

 最後は余白を使い切り、斜めに下がる行が紙の端まで続いていた。

「骸じゃねえ」

 楊文は、そこから目を上げなかった。

「生きてる奴が、消えてる」

 沈曉も受け取って読んだ。消えた二人について、出身と年頃が書き足されている。残していった荷の中身まで記したあとで、字は紙の縁に行き当たっていた。

「……この二人が、無事に逃げただけならよろしいのですが」

「そう思ってねえだろ、あんた」

「それだけとは、思いきれません」

「骸を掘るのが面倒になったら、どうする」


 庭で子供が呼ぶ声がした。返す声は三つあり、楊文は戸口の方を見た。

「返事は。何と」

「夜は、一人にするな。それだけだ」

 立ち上がりながら、楊文は言った。

「効くかどうかは知らん。だが、それしか書けん」

 庭へ出ると、雪を掻いていた阿禾に何かを言った。四人が一度手を止め、揃って頷いてから、また雪へ鍬を入れた。


 三通目と四通目は、続けて来た。

 どちらも初めに文を出した相手ではなかった。こちらの返事が隣の観へ回り、そこで聞いた者が、さらに別の観へ伝えたのだという。

 墓が荒らされた。骸だけが消えた。役所は動かない。

 同じ話を、異なる手が書いていた。三通目は細かく震える字で、行の終わりまで端が揃っている。四通目は丸い字が途中で大きくなり、最後には、話しかけるような文に変わっていた。

 どうすればよろしいか、お教えください。

 楊文の指が、その一行で止まった。

「何て返す」

「……分かりません」


「知っていることは、書けます。骸だけが盗られること。私の見た観では古い墓が残っていたこと。夜に、声のない列が通ること。ですが、気づいてから何をすればよいかは、私にも分かりません」

 楊文は筆をこちらへ寄せた。

「じゃあ、それを書け」

「分からない、と書くのでございますか」

「分からんことを分かってる奴がいる、って分かるだけで、向こうは少し楽になる」

 沈曉は筆を取った。

 自分で見たところと、人から聞いたところを分けて書くうちに、紙は思いのほか埋まった。最後に、こちらでも見回りを続けていることを添え、墨が乾くまで、膝の上へ広げていた。


 厨(くりや)の柱には、持ち場を書いた紙が貼ってあった。

 誰かが代わりに仕事をすると、その脇へ印がつく。阿淵のところがいちばん多く、小鵲が数えて騒ぐと、阿淵は翌日から、仕事を終えても黙っているようになった。

 黙っていても、洗った椀は伏せられ、薪は竈(かまど)のそばへ揃っていた。

 井戸の縄は毎朝凍った。

 ある朝、沈曉が湯を持って行くと、小鵲は釣瓶(つるべ)を引き上げる途中で、縄を持ったまま困っていた。水を吸ったところが縁に凍りついている。そこへ少しずつ湯を落とし、縄が離れるのを待ってから、残った氷を指でほぐした。

「先生より上手いです」

「そういうことは、本人のいないとこで言え。聞こえてんだよ」

 屋根から楊文の声が降ってきた。

「先生は、なんで湯を全部かけるんですか」

「早いからだろ」

「縄が傷みます」

「傷んだら、替えりゃいい」

 小鵲が首をすくめた。

 沈曉は濡れた縄を縁から離し、次に下ろす分を、凍った石へ触れぬように寄せた。翌朝も、湯は彼が持っていった。


 いつの間にか、沈曉にも持ち場ができていた。

 薬草の畝である。雪を払い、藁を掛け直し、折れた枝を取り除く。毎日通っているうち、子供たちも、その一角のことは彼に尋ねるようになった。

 柱の紙に気づいたのは、何日か経ってからだった。

 四人の名の下に、沈曉、と細い字が足してある。前に見た阿柏の字だった。すぐ下に畝の場所が書かれ、横には、ほかの者と同じ小さな印がついていた。

 沈曉は水桶を持ったまま、しばらくそれを見た。

 紙は少し傾き、下の角が湿って浮いている。空いた手で角を撫でつけると、戸口を通る風に、また少し持ち上がった。

 背後から阿柏が来て、何か間違っておりますかと訊いた。

「いえ」

 沈曉は桶を置いた。

「このままで、結構でございます」


 その日の昼、当帰の畝を見た。

 藁を分けると、表の土が薄く凍り、その下には水を含んだ重い土があった。端を少し崩して押すと、指の跡が艶を帯びて残る。

「なんか、まずいのか」

 楊文が後ろに立っていた。

「水はけが、悪いようです」

「日は直ったんだろ」

「日は直りました」

 沈曉は畝の低いところを示した。雪の解けた水が、そこで止まっていた。

「こちらへ溜まるようです。下の土も、まだ濡れております」

「じゃあ、移した方が悪かったのか」

「日を避けるには、こちらがよろしいのでしょう。ただ、水の抜ける方も、見ておくべきでございました」

「面倒だな」

「面倒でございます」

 楊文も屈み、同じ土を押した。

「分かるもんなのか、これ。俺が見ても、ただの土だぞ」

「押せば分かります」

「押してみたけど、硬いとしか」

「その下はいかがですか」

 もう少し指を入れ、楊文は首を傾げた。

「べたつくな」

「そこへ、水が残っております」

 沈曉は崩した土を戻した。

「春に、畝を作り直した方がよろしいかと。土をほぐして、いまより高く積みます。混ぜる土も、見ておきましょう」

「じゃあ、春に運ぶか」

 楊文が立ち上がった。

 沈曉は、畝へ添えていた手を止めた。杭の先には雪が少し残り、その下の土は、いま押した指の形を保っている。


 藁を元へ掛け、沈曉も立った。


 午後、市へ下りた。

 塩と油、それから阿禾の踵に巻く布が要った。凍った道の緩いところを選び、楊文が空の背負い籠を揺らして先を歩く。沈曉は油を入れる壺を布で包み、荷の上で動かぬよう結び直していた。

「あんた、値切れるようになったんだって」

 楊文が振り返らずに言った。

「……誰から聞きました」

「阿禾。この前、麓で薬売ってるとこ見たらしい」

「値切りました。一度だけです。筆でございます。もう少しお安くなりませんか、と申しました」

「それだけか」

「それだけです」

「一度でも値切ったなら、たいしたもんだ」


 塩屋では三升を頼み、決まった値を払った。

 升の縁へ揃えられた塩が包まれるのを見届け、次に布屋へ行くと、楊文は棚の端の白布を指した。薬を当てる分のほかに、繕いにも使うという。

「これを三尺。値、聞かせろ」

 店の男が値を言うと、楊文は半分を返した。男は笑い、布の端を卓へ広げた。

「そりゃ無茶だ。目を見てくださいよ」

「去年は幾らだった」

「去年は去年ですよ」

「幾らだったかって聞いてる」

「……まあ、今よりは」

「今よりは、いくらだ」

「勘弁してくださいよ」

 男は一度巻き戻しかけ、手を止めて、少し安い値を言った。

「北のせいなんです。あっちへ持っていかれるもんだから」

「さっきの値なら、去年の倍だ。布が倍になったのか。運び賃が倍か」

 男が口を開きかけると、楊文は待った。


「そりゃあ、その、運ぶ手間も上がってますし。人足がみんな北へ行っちまって、こっちに回す者がいないんですよ」

「手間賃か。それは分かる。じゃあ、そっちだけ乗せろ」

 話は幾度か往復し、初めの値の八分で決まった。

 男が尺を当てる傍らで、楊文は切り口を確かめて銭を出す。布を畳んで渡すとき、男は次も頼むと声を掛けた。


「見たか。あれが、値切るってことだ。言ってみろ、要点」

 店を離れると、楊文が言った。

「相手の言い分の中で、数の合わないところを一つだけ突く。突いたら、黙って待つ」

 楊文は立ち止まった。

「……あんた、そういうとこは早いな。褒めてる。ただ、なんか腹が立つ」

 そう言って、また歩き出す。

「あんたのは、なんだ。聞いた話じゃ、一言言っただけで通ったらしいじゃねえか。それは値切りじゃねえ。脅しっていうんだ」

 沈曉は渡された布を籠へ収め、油の壺を取り出した。


 油屋では、お前が言えと楊文に押し出された。

 値を聞き、運び賃がどれほどかを尋ねると、店の親父は樽の口を示し、量っている間に減る分まで話した。どこか一つを指そうと聞いていたが、話が終わるまで、沈曉の指は壺の縁にあった。

「では、この値で結構でございます」

「いや、道士さま。それじゃこっちが気が引ける。これで」

 親父は値を下げた。

 楊文が額へ手を当てた。

「なんでだよ。あんた、言い値で買うって言っただけだろ」

「はい」

「それで下がるのは、おかしいだろ」

「おかしゅうございます」

「他人事みたいに言うな」

 親父は二人を見比べ、少し多めに油を量ってから、壺へ注いだ。

 楊文はまだ額を押さえていたが、やがて肩を揺らして笑った。沈曉が栓を確かめ、布で口を拭う間に、笑い声はやんだ。

 顔を上げると、楊文がこちらを見ていた。

 口元にはまだ笑いがある。沈曉は壺を持ったまま、自分の手に油がついていないか確かめた。

「何か」

「いや」

 楊文は壺を受け取り、籠の中の布を寄せて、その間へ据えた。


 帰り道に入っても、まだその話をしていた。

「顔かもしれん。あんた、値切る時、脅してる顔してねえもんな。むしろ、断られたら諦めそうな顔してる」

「諦めてはおりません」

「諦めそうな顔なんだよ。あれは、断りにくい」

「直しましょうか」

「直すな」

 返事が早かったので、沈曉は顔を向けた。

「直したら、値が戻る」

 楊文は前を向き直し、荷紐を引いた。

 市の外れの高札場に、人足を募る新しい紙があった。北の宿場まで荷を運ぶという。楊文が日当のところを指し、秋よりまた上がっていると言った。

「戻って来ねえのか。運ぶもんが増えたのか。どっちだと思う」

「両方でございましょう」

「だろうな」

 風が紙の下をめくり、貼った糊の筋が光った。

 二人は山へ向かった。


 五通目の便りは、一行だけだった。

 墓が荒らされた、と書かれ、名も日付もない。届けた者に訊くと、どの観から来たものかは分かったが、いつのことかまでは知らないという。

 沈曉はその旨を覚えへ書き、五通を卓へ並べた。

 弟子が消えた報せと、日付のない一枚を脇へ置く。残る三通にも、はっきり日を記したものと、上旬、中旬とだけ記したものがあった。文中の地名をたどり、卓の上で位置を少しずつずらした。

「こちらが東でございます。最初が十月の初め。次が中旬で、その先は下旬に入った頃です」


「西へ寄ってるな」

「分かっている分では。こちらは十日ほど間がございますが、その先は六日か七日ほどで、次の報せになっております」

「早くなってる」

「日にちの曖昧なものもございます。これだけでは、同じ者が順に回っているとも言いきれません」

 楊文は脇へ置いた二通を見てから、卓へ指を置いた。

「だが、こっちはこの先だ」

 白澗山のある方だった。

 沈曉は新しい紙を一枚足し、まだ空いているところへ、確かめたい地名を書いた。


 夕餉(ゆうげ)のあと、沈曉は阿禾の踵に塗る薬を作った。

 秋に入山したときの傷は塞がっていたが、冷えて乾くようになってから、縁が少し割れている。本人は大丈夫だと言い、靴を脱ぐときだけ足を浮かせた。

 市で買った布を切り、端を揃えて重ねる。

 薬研を動かしていると、楊文が厨へ入ってきた。

「まだやってんのか。毎晩やってんだろ、それ」

「まだ三晩です」

「三晩続けりゃ、毎晩だろ」

「……そうですね。今夜も、終わりませんでした」

 楊文は竈のそばへ座った。火を見ているだけで用を言わず、沈曉も手を止めなかった。

 薬研の軋る音が、厨の低い天井へ返る。粗いものが挟まると一度だけ手応えが変わり、それを越えると、また滑らかに一巡する。

「あんた」

「はい」

「南に、戻る気はあるのか」

 沈曉の手が止まった。

 溝の片側に寄った粉へ目を落とし、ややあって柄を引く。

「今は、ありません」

「じゃあ、いつか戻るのか」

 南には、借りたままの部屋があった。

 窓の下へ置いた薬箱、乾かしていた草、床越しに聞こえる藁を打つ音。留守がこれほど長くなるとは、家の者に伝えていない。溜まった部屋代を払い、荷を引き取る用も残っていた。


「分かりません」

 竈の中で薪が崩れた。

「分からないから、今は、ここにおります」

 楊文はしばらく黙り、脇にあった薪を一本取った。

「なら、いい」

 火へ差し入れてから、続けた。

「畝、作り直すんだろ。春に」

「春に」

 楊文の手が、次の薪へ伸びた。まだよく燃えている火の中へそれも入れると、炎が高くなり、壁に映る二人の影を押し上げた。

 沈曉はまた薬研を挽いた。


 戸の向こうで、雪がまた敷居に寄り始めていた。

 厨には、薪を足す音と、薬研の音が続いていた。

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