第41話 見張り
初雪は、ひと晩で三寸積もった。
戸を開けると、庭の敷石が消えていた。柱の根元と軒の下にだけ昨日の土が残り、その先は、踏み出す足をためらわせるほど平らに白い。裏山では下の段の墓が丸く覆われ、上の段は、斜面を渡る一枚の雪に沈んでいた。
植え直した畝には、楊文が藁を厚く掛けた。
少し退けた方がよいと言うと、掛けすぎで枯れるなら来年は薄くする、と返ってきた。それでも翌朝には、株の真上だけ藁が軽くなり、抜いた分が畝の裾へ寄せられていた。
初雪の日、子供たちは仕事をしなかった。
楊文が今日はいいと言うと、四人は庭へ駆け、両腕で雪を掻き集めた。何かを積み上げようとしていたものが崩れ、そこから雪玉が飛び始める。阿淵だけが少し離れたところで丸め、手を出す小鵲へ一つずつ渡していた。
沈曉は堂の縁に立っていた。隣へ来た楊文も腕を組み、雪玉の行く先を目で追う。
「毎年やるんだ、あれ。初雪の日だけな。師匠がそうしてた」
飛んできた一つが柱に当たり、砕けた雪が沈曉の膝へ散った。
小鵲が走ってきて謝るので、当たっておりません、と答えて袖で払った。小鵲はほっと息をつき、庭へ戻ってゆく。
楊文の目がそこへ下り、何も言わずに、口元だけが緩んだ。
秋の終わりから進めていた冬支度も、雪の日を挟んで十日ばかりで済んだ。
薪を積み、雪落としの長い棒を用意し、風の入る戸を張り直す。増えた人数に合わせて夜具も出した。楊文は去年の薪の量を指で示し、それに半分ほど足すよう
沈曉は薬を作った。
咳や腹下しの包み、霜焼けに塗るもの、それから切り傷の薬。四人が刃物や木を扱うので、切り傷の分は作るそばから減り、堂の隅では毎日、
三日目、阿禾が隣へ座り込んだ。
「手伝えますか」
「押す力が要ります。同じ強さで、同じところを」
柄を譲ると、十を数えるうちに片側へ力が寄った。沈曉は薬研を止め、溝の両側から少しずつ粉を取って、阿禾の掌へ置いた。
片方にはまだ粗い粒がある。
「難しいです。先生も、最初は下手でしたか」
先生、と呼んだ顔を見てから、沈曉は答えた。
「下手でした」
阿禾が笑い、もう一度柄へ手を掛けた。今度は押すたびに自分の肩を見ている。沈曉はその手の外側へ指を添え、傾くところだけを戻した。
近場の観へ出した三通に、まだ返事はなかった。
一通は、届けられずに戻ってきた。
「宛先の観に、人がいなかったそうです」
阿柏が差し出した紙は、折り目のところが擦れて白くなっていた。
「閉まっていたのか」
「いえ。門は開いていたと。人だけが、いなかったと」
「墓は」
「そこまでは、聞いておりません。聞くべきでしたか」
楊文は紙を受け取り、元の折り目に沿って畳んだ。
「今度から、聞け。閉まってたか、人がいなかったか、墓はどうか。三つだ」
「三つ」
「覚えとけ」
阿柏はその場で二度繰り返し、二度目には順を違えずに言えた。
翌日、楊文は薪をいつもの倍割った。斧が止まると、山の向こうから、少し遅れた音が返ってきた。
雪の夜、沈曉が見張りに立った。
上ってきた足跡も、四半刻もすれば浅くなる。
沈曉は灯りを岩陰へ寄せ、林の暗い縁を見ていた。
指先を袖へ入れ、一本ずつ曲げた。
符を出す指だけは包まずにいたので、温まる前にまた冷える。膝の上で指を伸ばしていると、下の道から、雪を踏む音が近づいた。
楊文が火鉢を運んできた。
「代わりに来たわけじゃねえ」
持ち手に布を巻き、筵の脇の平石へ下ろすと、灰の下に細い赤が見えた。
「寒すぎる。一人でいい夜じゃねえ」
「見張りは、一人で足ります」
「足りるかどうかの話はしてねえ」
「では、何の話でございましょう」
「炭がもったいねえって話だ。一つの火鉢に、一人しか当たらねえのは無駄だろ」
沈曉は夜具の端を寄せた。
楊文が腰を下ろすと、筵の下で雪が潰れた。右手をつくところで一度動きが緩み、膝を折り直してから、その腕を火へ差し出した。
二人分の息が、炭の上で白く交わった。
しばらく喋らずにいた。
山のどこかで枝の雪が落ちるたび、楊文も沈曉も顔を上げた。落ちたあとには葉の擦れる音が続き、それもやむと、炭の小さく崩れる音が近くに戻る。
沈曉は靴の中で足の指を動かした。
火に向けた掌へようやく熱が届いても、
「あんた、寒いの平気なのか」
「平気ではありません。慣れています」
「違うのか、それ」
「違います。平気な者は、寒いと思いません。慣れた者は、寒いと思いながら座っていられます」
「屁理屈だな」
「理屈です」
「同じだろ」
「違います」
沈曉は火へ目を戻した。
「……理屈でございます」
「今、言い直しただろ」
「……言い直しました」
楊文は少し笑い、灰を寄せた。
露わになった炭に赤みが広がると、二人とも、それへ指を近づけた。
楊文の掌には、厚くなったところが幾つもあった。
指の付け根は硬く盛り上がり、親指の腹には細い裂け目が走る。火に向けた皮膚は赤く、その凹凸へ光が溜まっていた。
「あんたの手、変わらねえな」
楊文が言った。
「初めて会った時と、同じ手だ。俺の手はこの一年でこんなに硬くなったのに、あんたのは変わらねえ」
自分の掌を上へ返し、左の指で押す。
「ここ、去年の秋に
「手ってのは、記録だ。何をやったかが、そのまま残る」
沈曉も掌を返した。
同じ火が当たっているのに、こちらには指の影ばかりが長く落ちる。かつては剣で皮が擦れても、次の朝にはどこを傷めたか分からなくなっていた。いまは肩の擦れが何日も残る。北へ来る途中、荷紐を当てぬようにした場所は、まだ衣の下にあった。
「剣は、あまり使いませんので」
「そういうことじゃねえよ、たぶん」
楊文はそれ以上言わず、開いていた掌を火の上へ戻した。
沈曉も手を戻す。指を少し広げると、隣の大きな手の影が、その間へ入った。
懐へ手を入れた拍子に、布包みが指へ触れた。
上ってくる間に潰していなかったか、沈曉は取り出して膝で開いた。古銭を収めた折り目の脇に、桃の花びらが一枚あった。
去年、別れた道で拾ったものだった。
いまは薄茶色になり、端がわずかに反っている。灯りへ寄せると、脈の細い筋だけが布の上へ影を落とした。沈曉は花びらに触れず、その下の布を指先で平らにした。
「それ、あの時のか」
「はい」
「捨てりゃいいのに。もう花じゃねえだろ、それ」
「花ではございません」
銭を別の折り目へ戻し、花びらを折らぬよう、布をゆっくり重ねた。
「ですが、まだ、形はございます」
楊文は包みが閉じるまで見ていた。
それから炭を一つ足し、火箸の先で灰を均した。
「阿禾のことを、伺ってもよろしいですか」
沈曉が言うと、楊文は火箸を持ったまま頷いた。
「兄が、兵に取られたと」
「去年の春だ。村から七人行って、誰も戻ってきてねえそうだ」
「便りも、ございませんか」
「ない。あいつは、忙しいから書けねえんだって言う」
炭の端が崩れ、火箸で寄せると、赤いところが灰へ埋もれた。
「帰ってこねえこともある、ってな。あいつに、言っとくべきか」
沈曉は包みを懐へ収めた。あの列には若い顔が幾つもあった。けれど、阿禾の兄の顔も、送られた先も知らない。
「お兄様がどうなったかは、まだ分かりません」
「ああ。死んだと決めつける気はねえ。ただ、帰ってくるとばかり思って待たせていいのか」
「……お話しになるなら、春まで待ってもよろしいのでは」
「なんでだ」
「聞いたあとも、ここで暮らすのです。今は畑仕事も少なく、雪で山も下りられません。考えずに済む時間が、あまりないでしょう」
楊文は火箸を置いた。
「聞かせたあとのことまで、考えてんのか」
「ええ。話す方は、言い終えれば済みますが」
風が雪を細く流し、岩の裏へ寄せていった。
「あんた、いつもそこまで考えるのか」
「たいていは」
「疲れねえか、それ」
「疲れます」
楊文がこちらを見た。沈曉は火へ手を差し出したまま、指先を温めている。
しばらくして、楊文は炭へ目を戻した。
「待たせておく方が、酷いのかもしれん。……だが、まだ十四だ」
しばらくして、その目が下の段の端へ動いた。
「
「はい」
「師匠が考えてたやつは、聞けずじまいだ。だから、勝手には書けねえ。でも、いつまでも幼名のままってのも、な」
牌は雪に半ば隠れ、木の上の方だけが細く出ていた。
「あんたなら、何て付ける」
「その子は、どのような子でございましたか」
「よく喋った。あと、飯を残さなかった」
「掃除は」
「毎日やってた。誰も見てなくても、順番通りに」
楊文は膝の上で片手を動かした。
「阿禾に似てる。似てるが、あいつよりは静かだった」
沈曉は牌を見ていた。
あの子の箒を持ったことはある。短い柄も、握るところの黒ずみも覚えていた。その柄を握って庭を掃く、生きていた子の姿だけが、浮かばなかった。
「分かりません。……その子を、知りませんので」
「そうか」
「申し訳ございません」
「謝る話じゃねえよ」
楊文は夜具を膝へ引いた。
「知ってる奴が、決めるべきなんだろうな。なら、俺が考える」
雪は、いつの間にかやんでいた。
雲の切れ目に星が見える。秋の夜道で見上げた並びが北の空にあり、沈曉は、あの時はまだ遠くにあった山の上から、それを見ていた。
楊文が腰を浮かせかけた。
「そろそろ、代わろうか」
「もう少し、いてください」
足元へ出しかけていた手が止まった。
楊文は沈曉を見て、ゆっくり腰を戻した。
「珍しいな、あんたがそう言うの」
「……寒いので」
「火鉢があるだろ」
「火鉢は、片側しか温まりません」
「そりゃそうだ。背中は自分じゃ温められん」
楊文は肩の雪を払い、少し近くへ座り直した。沈曉も夜具の端を引き、二人の膝に掛かるよう直した。
背を預けた岩は冷たいままだが、隣の袖に触れるところだけ、しばらくすると夜気と違う温かさを持ち始めた。沈曉は手を火へ向け、そのまま座っていた。
雪の下では、墓も、その間を通る道も境を失っている。春に解ければ、いま見えない土がまた露わになる。低いところから先に水が走り、掘れば容易く崩れる土になるだろう。
朝までに、炭はもう一度足された。
最初の返事は、二度目の雪が積もった日に届いた。
文を出して、ひと月近くになる。
帰り際、若い衆が一度振り返った。
「あの観、何かあったんですか」
「さあな」
「そうですか。まあ、俺も聞かない方がいいんでしょうね」
楊文は答えず、男が門を出てから紙を開いた。
先月、当観の墓域が荒らされた。
短い文の末尾に、一行だけ、別の話が添えてある。
先代が、そちらの道長と碁を打った折の話を、母から聞いております。
楊文はそこを二度読んだ。
「碁は俺も打てねえ」
紙を渡しながら、呟くように言った。
沈曉は軒の明かりへ寄せて読んだ。端の濡れとは別に、二箇所、墨の輪郭が崩れている。そこを指で擦らぬように、乾いた角を持ち直した。
「骸が三つ、供物は残されたまま」
「同じだな」
「はい。同じでございます」
庭には子供たちの足跡が散っていた。
真っすぐ走ったものが途中で大きく曲がり、滑った跡に別の足が踏み込んでいる。小鵲の残したらしい浅い跡を、幅の広い足が横切っていた。
楊文も、しばらく庭を見ていた。
「返事、書くか。何て書く」
「こちらは、まだ荒らされていない。ただ、林の境目に足跡があった。夜の見回りを始めた。……それだけでも」
「役に立つか、それが」
「同じことが幾つの観で起きているか、知ることには役立ちます」
「向こうは、それを知ってどうする」
「近くの観にも、確かめることはできます。一軒の話ではないと分かれば、ほかへ知らせる者も出ましょう」
「役所が動かねえのにか」
「この文も、役所を通らずに届きました」
楊文は紙へ目を戻し、最後の一行をもう一度見てから、丁寧に畳んだ。
その夜、楊文は返事を書いた。
太い筆跡が、一画ずつ紙を埋めてゆく。書き終えると腕を伸ばして見直し、足りなかった字を行の端へ小さく添えた。
沈曉は隣で、別の紙を広げていた。
「何書いてんだ」
「覚えです。どこで、いつ、何があったか。書き留めておかないと、繋がりが見えません」
楊文が覗くと、沈曉は書き終えた方を少し寄せた。日付、場所、起きたこと。行の間には、あと一行入るほどの隙間が空いている。
「これ、隙間が空いてるな。入るって、まだ何もないだろ」
「入るかもしれません」
「あんた、こういうこと得意そうだな」
「習慣です」
次の行へ移る手が、同じ幅だけ下がった。
二十年、こうして書いた紙を重ねたことがある。最後に火へ入れたときも、日付から順に読めなくなったわけではなかった。端が燃え、墨だけが残り、それも紙の形を失って崩れた。
沈曉は筆へ墨を足した。
今度の紙には、
二通目は、それから十日後に届いた。
別の観からだった。貼り直された封を開くと、初めの三行には時候の挨拶と息災を尋ねる文句が、端を揃えて書かれていた。
四行目から字が詰まっていた。
墓が荒らされたのではない。修行中の弟子が二人、夜のうちに姿を消した。逃げたのかもしれないが、荷も持たずに出ていくのは妙だ。捜しているが見つからない。何か聞いていないか。
最後は余白を使い切り、斜めに下がる行が紙の端まで続いていた。
「骸じゃねえ」
楊文は、そこから目を上げなかった。
「生きてる奴が、消えてる」
沈曉も受け取って読んだ。消えた二人について、出身と年頃が書き足されている。残していった荷の中身まで記したあとで、字は紙の縁に行き当たっていた。
「……この二人が、無事に逃げただけならよろしいのですが」
「そう思ってねえだろ、あんた」
「それだけとは、思いきれません」
「骸を掘るのが面倒になったら、どうする」
庭で子供が呼ぶ声がした。返す声は三つあり、楊文は戸口の方を見た。
「返事は。何と」
「夜は、一人にするな。それだけだ」
立ち上がりながら、楊文は言った。
「効くかどうかは知らん。だが、それしか書けん」
庭へ出ると、雪を掻いていた阿禾に何かを言った。四人が一度手を止め、揃って頷いてから、また雪へ鍬を入れた。
三通目と四通目は、続けて来た。
どちらも初めに文を出した相手ではなかった。こちらの返事が隣の観へ回り、そこで聞いた者が、さらに別の観へ伝えたのだという。
墓が荒らされた。骸だけが消えた。役所は動かない。
同じ話を、異なる手が書いていた。三通目は細かく震える字で、行の終わりまで端が揃っている。四通目は丸い字が途中で大きくなり、最後には、話しかけるような文に変わっていた。
どうすればよろしいか、お教えください。
楊文の指が、その一行で止まった。
「何て返す」
「……分かりません」
「知っていることは、書けます。骸だけが盗られること。私の見た観では古い墓が残っていたこと。夜に、声のない列が通ること。ですが、気づいてから何をすればよいかは、私にも分かりません」
楊文は筆をこちらへ寄せた。
「じゃあ、それを書け」
「分からない、と書くのでございますか」
「分からんことを分かってる奴がいる、って分かるだけで、向こうは少し楽になる」
沈曉は筆を取った。
自分で見たところと、人から聞いたところを分けて書くうちに、紙は思いのほか埋まった。最後に、こちらでも見回りを続けていることを添え、墨が乾くまで、膝の上へ広げていた。
誰かが代わりに仕事をすると、その脇へ印がつく。阿淵のところがいちばん多く、小鵲が数えて騒ぐと、阿淵は翌日から、仕事を終えても黙っているようになった。
黙っていても、洗った椀は伏せられ、薪は
井戸の縄は毎朝凍った。
ある朝、沈曉が湯を持って行くと、小鵲は
「先生より上手いです」
「そういうことは、本人のいないとこで言え。聞こえてんだよ」
屋根から楊文の声が降ってきた。
「先生は、なんで湯を全部かけるんですか」
「早いからだろ」
「縄が傷みます」
「傷んだら、替えりゃいい」
小鵲が首をすくめた。
沈曉は濡れた縄を縁から離し、次に下ろす分を、凍った石へ触れぬように寄せた。翌朝も、湯は彼が持っていった。
いつの間にか、沈曉にも持ち場ができていた。
薬草の畝である。雪を払い、藁を掛け直し、折れた枝を取り除く。毎日通っているうち、子供たちも、その一角のことは彼に尋ねるようになった。
柱の紙に気づいたのは、何日か経ってからだった。
四人の名の下に、沈曉、と細い字が足してある。前に見た阿柏の字だった。すぐ下に畝の場所が書かれ、横には、ほかの者と同じ小さな印がついていた。
沈曉は水桶を持ったまま、しばらくそれを見た。
紙は少し傾き、下の角が湿って浮いている。空いた手で角を撫でつけると、戸口を通る風に、また少し持ち上がった。
背後から阿柏が来て、何か間違っておりますかと訊いた。
「いえ」
沈曉は桶を置いた。
「このままで、結構でございます」
その日の昼、当帰の畝を見た。
藁を分けると、表の土が薄く凍り、その下には水を含んだ重い土があった。端を少し崩して押すと、指の跡が艶を帯びて残る。
「なんか、まずいのか」
楊文が後ろに立っていた。
「水はけが、悪いようです」
「日は直ったんだろ」
「日は直りました」
沈曉は畝の低いところを示した。雪の解けた水が、そこで止まっていた。
「こちらへ溜まるようです。下の土も、まだ濡れております」
「じゃあ、移した方が悪かったのか」
「日を避けるには、こちらがよろしいのでしょう。ただ、水の抜ける方も、見ておくべきでございました」
「面倒だな」
「面倒でございます」
楊文も屈み、同じ土を押した。
「分かるもんなのか、これ。俺が見ても、ただの土だぞ」
「押せば分かります」
「押してみたけど、硬いとしか」
「その下はいかがですか」
もう少し指を入れ、楊文は首を傾げた。
「べたつくな」
「そこへ、水が残っております」
沈曉は崩した土を戻した。
「春に、畝を作り直した方がよろしいかと。土をほぐして、いまより高く積みます。混ぜる土も、見ておきましょう」
「じゃあ、春に運ぶか」
楊文が立ち上がった。
沈曉は、畝へ添えていた手を止めた。杭の先には雪が少し残り、その下の土は、いま押した指の形を保っている。
藁を元へ掛け、沈曉も立った。
午後、市へ下りた。
塩と油、それから阿禾の踵に巻く布が要った。凍った道の緩いところを選び、楊文が空の背負い籠を揺らして先を歩く。沈曉は油を入れる壺を布で包み、荷の上で動かぬよう結び直していた。
「あんた、値切れるようになったんだって」
楊文が振り返らずに言った。
「……誰から聞きました」
「阿禾。この前、麓で薬売ってるとこ見たらしい」
「値切りました。一度だけです。筆でございます。もう少しお安くなりませんか、と申しました」
「それだけか」
「それだけです」
「一度でも値切ったなら、たいしたもんだ」
塩屋では三升を頼み、決まった値を払った。
升の縁へ揃えられた塩が包まれるのを見届け、次に布屋へ行くと、楊文は棚の端の白布を指した。薬を当てる分のほかに、繕いにも使うという。
「これを三尺。値、聞かせろ」
店の男が値を言うと、楊文は半分を返した。男は笑い、布の端を卓へ広げた。
「そりゃ無茶だ。目を見てくださいよ」
「去年は幾らだった」
「去年は去年ですよ」
「幾らだったかって聞いてる」
「……まあ、今よりは」
「今よりは、いくらだ」
「勘弁してくださいよ」
男は一度巻き戻しかけ、手を止めて、少し安い値を言った。
「北のせいなんです。あっちへ持っていかれるもんだから」
「さっきの値なら、去年の倍だ。布が倍になったのか。運び賃が倍か」
男が口を開きかけると、楊文は待った。
「そりゃあ、その、運ぶ手間も上がってますし。人足がみんな北へ行っちまって、こっちに回す者がいないんですよ」
「手間賃か。それは分かる。じゃあ、そっちだけ乗せろ」
話は幾度か往復し、初めの値の八分で決まった。
男が尺を当てる傍らで、楊文は切り口を確かめて銭を出す。布を畳んで渡すとき、男は次も頼むと声を掛けた。
「見たか。あれが、値切るってことだ。言ってみろ、要点」
店を離れると、楊文が言った。
「相手の言い分の中で、数の合わないところを一つだけ突く。突いたら、黙って待つ」
楊文は立ち止まった。
「……あんた、そういうとこは早いな。褒めてる。ただ、なんか腹が立つ」
そう言って、また歩き出す。
「あんたのは、なんだ。聞いた話じゃ、一言言っただけで通ったらしいじゃねえか。それは値切りじゃねえ。脅しっていうんだ」
沈曉は渡された布を籠へ収め、油の壺を取り出した。
油屋では、お前が言えと楊文に押し出された。
値を聞き、運び賃がどれほどかを尋ねると、店の親父は樽の口を示し、量っている間に減る分まで話した。どこか一つを指そうと聞いていたが、話が終わるまで、沈曉の指は壺の縁にあった。
「では、この値で結構でございます」
「いや、道士さま。それじゃこっちが気が引ける。これで」
親父は値を下げた。
楊文が額へ手を当てた。
「なんでだよ。あんた、言い値で買うって言っただけだろ」
「はい」
「それで下がるのは、おかしいだろ」
「おかしゅうございます」
「他人事みたいに言うな」
親父は二人を見比べ、少し多めに油を量ってから、壺へ注いだ。
楊文はまだ額を押さえていたが、やがて肩を揺らして笑った。沈曉が栓を確かめ、布で口を拭う間に、笑い声はやんだ。
顔を上げると、楊文がこちらを見ていた。
口元にはまだ笑いがある。沈曉は壺を持ったまま、自分の手に油がついていないか確かめた。
「何か」
「いや」
楊文は壺を受け取り、籠の中の布を寄せて、その間へ据えた。
帰り道に入っても、まだその話をしていた。
「顔かもしれん。あんた、値切る時、脅してる顔してねえもんな。むしろ、断られたら諦めそうな顔してる」
「諦めてはおりません」
「諦めそうな顔なんだよ。あれは、断りにくい」
「直しましょうか」
「直すな」
返事が早かったので、沈曉は顔を向けた。
「直したら、値が戻る」
楊文は前を向き直し、荷紐を引いた。
市の外れの高札場に、人足を募る新しい紙があった。北の宿場まで荷を運ぶという。楊文が日当のところを指し、秋よりまた上がっていると言った。
「戻って来ねえのか。運ぶもんが増えたのか。どっちだと思う」
「両方でございましょう」
「だろうな」
風が紙の下をめくり、貼った糊の筋が光った。
二人は山へ向かった。
五通目の便りは、一行だけだった。
墓が荒らされた、と書かれ、名も日付もない。届けた者に訊くと、どの観から来たものかは分かったが、いつのことかまでは知らないという。
沈曉はその旨を覚えへ書き、五通を卓へ並べた。
弟子が消えた報せと、日付のない一枚を脇へ置く。残る三通にも、はっきり日を記したものと、上旬、中旬とだけ記したものがあった。文中の地名をたどり、卓の上で位置を少しずつずらした。
「こちらが東でございます。最初が十月の初め。次が中旬で、その先は下旬に入った頃です」
「西へ寄ってるな」
「分かっている分では。こちらは十日ほど間がございますが、その先は六日か七日ほどで、次の報せになっております」
「早くなってる」
「日にちの曖昧なものもございます。これだけでは、同じ者が順に回っているとも言いきれません」
楊文は脇へ置いた二通を見てから、卓へ指を置いた。
「だが、こっちはこの先だ」
白澗山のある方だった。
沈曉は新しい紙を一枚足し、まだ空いているところへ、確かめたい地名を書いた。
秋に入山したときの傷は塞がっていたが、冷えて乾くようになってから、縁が少し割れている。本人は大丈夫だと言い、靴を脱ぐときだけ足を浮かせた。
市で買った布を切り、端を揃えて重ねる。
薬研を動かしていると、楊文が厨へ入ってきた。
「まだやってんのか。毎晩やってんだろ、それ」
「まだ三晩です」
「三晩続けりゃ、毎晩だろ」
「……そうですね。今夜も、終わりませんでした」
楊文は竈のそばへ座った。火を見ているだけで用を言わず、沈曉も手を止めなかった。
薬研の軋る音が、厨の低い天井へ返る。粗いものが挟まると一度だけ手応えが変わり、それを越えると、また滑らかに一巡する。
「あんた」
「はい」
「南に、戻る気はあるのか」
沈曉の手が止まった。
溝の片側に寄った粉へ目を落とし、ややあって柄を引く。
「今は、ありません」
「じゃあ、いつか戻るのか」
南には、借りたままの部屋があった。
窓の下へ置いた薬箱、乾かしていた草、床越しに聞こえる藁を打つ音。留守がこれほど長くなるとは、家の者に伝えていない。溜まった部屋代を払い、荷を引き取る用も残っていた。
「分かりません」
竈の中で薪が崩れた。
「分からないから、今は、ここにおります」
楊文はしばらく黙り、脇にあった薪を一本取った。
「なら、いい」
火へ差し入れてから、続けた。
「畝、作り直すんだろ。春に」
「春に」
楊文の手が、次の薪へ伸びた。まだよく燃えている火の中へそれも入れると、炎が高くなり、壁に映る二人の影を押し上げた。
沈曉はまた薬研を挽いた。
戸の向こうで、雪がまた敷居に寄り始めていた。
厨には、薪を足す音と、薬研の音が続いていた。
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