第23話 曙光
冷えた身の内で、熱が一つに集まってゆく。
四肢の果てから夜が入り込んだように、肩も膝も冷たい。その奥に残る微かな温もりへ、沈曉は息を細く通し、寄り合うものの端が散らぬよう印を継いだ。どこを締め、どこを緩めるか、自分の内側で起きていることを、他人の仕事のように正確に見ていた。
夜明けまで、あと半刻ほどだった。
形が定まった。
目を開くと、炭は薄い灰を被り、その割れ目だけが赤かった。雨を含んだ闇が柱の奥に溜まり、膝へ落ちる火の明かりも、すぐ先で途切れている。
右の掌をほどくと、米粒より少し大きなものが載っていた。ほのかに白く、掌の窪みに留まった露のようで、傾ければ炭の赤がその向こうへ透けた。懐の一粒には光を沈める深さがあったが、こちらは指の影さえ通すほど淡い。
微かに温かい。
彼の百年が、これだった。
誰も死んでいない。
この中にあるのは、自分で手放した歳月だけだった。内側を探ると、かつて指の動きに応じて満ちてきた力は遠く、水位の下がった井戸へ縄を下ろすように、辿る先ばかりが深くなる。
二度目は、ない。
背後で息が細く洩れ、沈曉は掌を閉じぬまま、楊文へ向き直った。
小屋に残されていた小鍋には、炉に入る前に沸かした湯があった。火の傍らへ寄せておいたそれを匙へ取り、唇で熱を確かめてから、楊文の顎をそっと開かせる。
乾いた舌へ丹を載せ、白湯を一匙、流した。
喉が動いた。
両手を傷の上へ置くと、細りきった糸が、擦り切れる寸前の生糸のように、辛うじて繋がっていた。腹の底から広がる淡い熱がそこへ触れ、逆立っていた毛羽を伏せながら、切れかけた芯を包んでゆく。
彼の百年が、楊文の内へ沁みていた。痩せたところに新しい繊維が重なり、ほどけかけた結び目は、そこからゆっくり締まり直す。
沈曉は手を添えたまま、その行く先を追った。
張っていた腹が少しずつ緩み、内側で開いていたところが閉じ始めた。溜まった血も散り、糸を押していたものが退いてゆく。
楊文の胸が、大きく上がった。
息が深く入り、ゆっくりと出た。胸に掛けた布が持ち上がり、静かに沈む。その次も、その次も、小さな波が岸へ寄せるように同じところまで戻ってきた。沈曉は唇に色が差すのを見ながら、掌を傷へ置き続けた。
今はもう、次を数えて待つほどの間がなかった。
それでも、その呼吸を聞いていた。
*
雨音が退くと、小屋は急に広くなったようだった。屋根の破れから落ちる雫が一滴ずつ聞き分けられ、その合間へ、遠い鳥の声が細く入ってくる。地面に近いところには濡れた葉の匂いが籠もり、戸口の闇だけが、灰を溶いたように薄くなり始めていた。
沈曉は傷から手を離しかけ、曲がったままの指を見た。開こうとすると節のあたりが突っ張り、片手でもう片方を支えて、一本ずつ伸ばさねばならなかった。
ほどいた掌を擦り合わせると、表は温まるのに、指の芯には井戸底の石に似た冷たさが残った。
立とうとして膝に力を入れた。
腰が上がらず、板敷きへ手をつき直すと、ようやく身体が持ち上がった。壁までの五歩を歩く間に息が乱れ、背を預けて座ると、腿の重みがそのまま床へ沈んだ。
疲れている。
手を膝へ置き、息の整うのを待つ。その間にも、耳の奥で小さな音がしていた。
規則正しく鳴るそれに合わせて、手首の内が打っている。
自分の脈だった。
楊文の息ばかりを聞いていた耳へ、今度は自分の身体の音が届く。休んでいれば収まるものなのか、確かめるように、沈曉はしばらくその音を聞いた。
これまでは疲れが届くより先に、修為が身体を満たしてきた。
満たすものが、減った。
減った分だけ、彼は、ただの体になっていた。
手を持ち上げ、明かりへ向けた。
甲にも指にも、目に見える変わりはなかった。ただ、いつものように力を通そうとすると、指先へ届くまでに間がある。もう一度試みて、腕を下ろした。掌の重みが、膝の上に残った。
喉が渇いていた。
洗っておいた欠け椀へ旅の水入れから水を注ぎ、両手で支えて飲むと、喉を落ちる冷たさが胃の腑まで届いた。そこでようやく息をつき、空いた椀を見下ろす。
もう一杯、注いだ。
水がうまかった。
椀を置くとき、火の縁がぼやけて見えた。
目を細めれば輪郭が戻り、開けばまた、細い炎のまわりへ、濡れた紙に色が滲むような暈ができる。夜の道でも足もとの石を見分けてきた目だった。額へ手を当ててから、火をもう一度見た。
脈の音、指先へ届かぬ力、腕の重み、水の味、滲む火。
五つ。
数えた指を下ろしても、身体にはそのすべてが残っていた。
重い瞼を閉じ、壁へ頭を預けた。
背に触れる板も、袖から入る朝の空気も冷たい。その冷たさの向こうで、楊文が寝息を立てている。
悪くない、と思った。
湯治場の朝にも、同じ言葉を口にした。
あのときは隣で楊文が笑い、歩き出してからも一度振り返った。今は眠っている男へ目をやり、沈曉は椀を傍らへ寄せた。
屋根の破れには、洗い晒した布に似た空の白さがあった。梁の黒い縁から雫が一つ落ち、軒の向こうでは、葉に残る雨が朝の風に揺れていた。
*
日が高くなると、板敷きに差す光が楊文の袖まで延びた。濡れて黒くなった衣の縁に、乾き始めたところだけ薄く色が戻っている。
その中で瞼が動き、開いた目が天井の破れを辿った。腹へ下りた手が晒しに触れると、眉が寄った。
「……いって」
声が出た。
沈曉は膝の手を持ち上げかけ、そのまま置いた。昨夜、名を呼ぶたびに待っていた声が、掠れながらも、目の前の男の口から出ている。
楊文は巻かれた晒しを見下ろし、確かめるように、今度はそこを押した。
「いっ……つつ」
「押さないでください」
沈曉は壁際から言った。
「塞がったばかりです」
楊文の顔がこちらへ向き、止まった。
沈曉は膝を揃え、背を伸ばしていたつもりだったが、壁から肩を離すと、腰に重さが戻ってくる。座り直した手を楊文が見、その目が顔へ上がった。
長く、そこに留まった。
屋根の破れから斜めに入る光の中を、細かな灰が漂っていた。二人の間で浮いては落ち、動かぬ柱の影へ入ると見えなくなる。
楊文の目を辿って、沈曉はこめかみへ手をやった。髪を指で梳き、一房を目の前へ引くと、黒い中に白があった。
墨のような髪の中で、その一筋だけが、朝の光を受けて銀色だった。
指を緩めると、髪は頬の脇へ戻った。
楊文は自分の腹を見てから、もう一度、こちらを見た。
こめかみから、開ききらぬ指へ、壁に預けた背へと目が動く。沈曉は手を膝へ戻し、その視線が顔へ帰ってくるのを待った。
何をした、と問われれば、今度は答えるつもりだった。
命を分けました。
そう言う言葉まで、用意していた。
「……あんた」
楊文の声は低かった。
「老いねえんだろ」
「――」
「傷も、残らねえ。湯で見た。あんたの体には、何にも残ってなかった」
起き上がろうとして傷が引かれたらしく、楊文は途中で息を止め、肘で身体を支えた。
「なのに、それか」
沈曉はこめかみへ指をやった。
薄れた墨色の下に、もとの白が覗いている。指先へ力を通すと、白い筋はいったん髪の中へ紛れたが、手を離すにつれて、また淡く浮いてきた。
もう一度触れかけ、その手を膝へ戻した。
楊文の目は、その動きを追っていた。
「あんたはな」
声が、少し震えた。
「昨日まで、減らねえ男だったんだ。長いことだ。それが、俺の一晩で」
言葉が切れた。
楊文は息を吸い、腹の傷を庇うようにゆっくり吐いてから、沈曉を見た。
「……助けるなって言ってんじゃねえ」
「勝手に減るな」
戸口の向こうで鳥が鳴いた。楊文の手は腹の晒しを掴んだままで、その指の節へ、朝の光が白く当たっていた。
沈曉は顔を上げ、その続きを聞いた。
「減るなら、言え。言ってからにしろ。……あんたは、いつも、勝手に一人で払う。牢ん時もだ。路銀を全部置いて、一人で捕まりやがって」
楊文は肘の支えを緩め、頭を下ろした。しばらく天井へ目を向け、呼吸を整えている。
「俺は、まだあんたを許してねえ」
「はい」
「けどな。……あんたが減るのは、腹が立つ」
沈曉はその横顔を見ていた。
湯治場で許していないと言った口が、今朝は減るなと言い、返事を待つように閉じている。
膝に置いた手を持ち上げかけ、掌を上に向けたまま、また下ろした。
命を分けました、と言うための言葉は、まだ口の内に残っていた。けれど楊文が待っているのは、それではないのだろう。
沈曉は一度、深く頷いた。
楊文が横目でこちらを見、ふん、と小さく息を鳴らして、天井へ目を戻した。
*
破れ屋根から差す日が、板の継ぎ目を一つずつ越えていた。濡れた端から立つ湯気は、ほどけた薄絹のように光の中を昇り、梁へ届く前に消えてゆく。夜じゅう籠もっていた炭と雨の匂いへ、日の当たる土の匂いが混じり始めた。
沈曉は壁に背を預け、楊文は横になったまま、戸口の向こうを聞いていた。葉から雫が落ちる音と、鳥が枝を移る音がした。
楊文の腹が、大きく鳴った。
二人の目が合った。
どちらも何も言わず、先に楊文が腹へ目を落とした。今度は押さずに手を置き、そのまま、日の差してくる方へ顔を向けた。
小屋の中は、少しずつ明るくなっていった。
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