第15話 松影

 門を入ると、音が変わった。

 車輪が石畳の継ぎ目を打ち、蹄の響きが軒の下へ跳ね返る。天秤棒を担ぐ男の、どいた、どいた、という声に店々の呼び込みが重なり、門外から吹き込んできた風まで、人いきれの中へ押し流されてゆく。

 大通りは川へ向かって下っていた。

 二階の軒が道の上へせり出し、店先の幟(のぼり)には米、塩、絹、紙、薬、鉄の字が並ぶ。風が通れば一斉に裏を返し、その下では反物の見本が、客の肩を撫でるほど低く垂れている。

 紅緋(べにひ)、朱、蘇芳(すおう)、深紅。棠梨村で祝言を飾った紅が、ここでは幾つもの名と値を持ち、布問屋の軒を埋めていた。

 果物の台には見慣れぬ実が盛られ、隣の鍋では油が鳴る。蒸籠(せいろ)を開ける白い湯気の向こうを、串の肉や炒り豆を手にした者が通り、飴売りの前では子供が台に両手をかけて背伸びをしていた。

 酒楼の上から弦の音と女の笑い声が降りてくる。船頭、行商、僧、荷役の男、裾を摘まんだ女たちが入り交じり、ぶつかった肩を振り返るより早く、次の肩が二人の間へ割って入った。

「参ったな。棠梨村が三十入るぞ、この街」

 楊文は人波に押されながら、首だけをあちらこちらへ向けている。

 三つ目の辻では露店が輪を作り、その中で猿が芸をしていた。銅鑼に合わせて輪をくぐるたび、見物の足元へ銭が投げられる。易者の卓を挟んだ向こうには、剣を飲む男にも人が集まっていた。

「あれは、種があるな」

 楊文が真剣な顔で言った。

「あるでしょう」

「あんた、分かるのか」

「横からも見なければ、何とも」

 楊文はそちらへ回りかけ、人垣の厚さを見て笑った。諦めて戻ってくると、沈曉の袖を引いて、人の少ない側へ道を取る。

 坂を下るほど、水の匂いが濃くなった。

 桟橋には荷を肩へ受ける男たちが並び、数を読み上げる声の下を、川船の胴がゆっくり上下している。帆柱は林のように重なり、渡し賃を呼ばわる声が、舟と舟との間を抜けて水面を渡ってきた。

「都の言葉だな、あれは」

 絹の店で、番頭と客が話していた。行き交う荷の物音に交じっても、語尾までよく通る喋り方だった。

「船が着きますから。都の物も、都の銭も、都の人間も、水で来ます」

 楊文が沈曉を振り返った。

「詳しいな」

「……そう、聞きます」

 沈曉は通りの先へ目を戻した。

 石の目地は擦り減り、看板は幾つか掛け替わっている。川沿いには新しい倉が増え、左手の路地にあった井戸は、蓋をして荷を積む場所になっていた。軒も商いも変わったのに、足の下の傾きは覚えている。

 十年前、まだ明けきらぬ門前で、荷車の列に混じって立った。戸が開くまで、誰もこちらの顔を見ようとしなかった。

 門をくぐれば、この坂があった。

 一歩出せば次の一歩が下へ運ばれ、気づいたときには川岸で舟を待っていた。船頭が受け取った銭を数え直し、多いと呼びかけてきたことも覚えている。

 そのときの声に重なるように、今の川から渡しの呼び声が上がった。

 沈曉は足元の石を一つ越え、楊文の隣へ戻った。


 宿は川から二本入った通りに取った。

 一階の飯屋では包丁の音がして、二階へ上がる梯子の下を、汁の椀を載せた盆が通る。角の客間の窓を開けると、帆柱の先と向かいの酒楼の裏窓が見えた。夜は騒がしいよ、と帳場の女が笑うと、楊文は騒がしい方が眠れると答えた。

 荷を置くなり、男はもう戸口へ向かっている。

「茶館だ。行くだろ」

「はい」

 通りに面した茶館は、午後の席まで埋まっていた。

 天井から下がる三つの鳥籠の下を、小僧が盆を差し上げて走る。湯を注ぐ音の向こうでは碁石が鳴り、その隣の卓では三人の男が声を張り合っていたが、しばらくすると同じところで笑い出した。

 船の着く刻限、荷の値、女の噂、貸した銭。開いた戸から客が入るたびに話の続きを運び込み、去る者は別の卓で聞いた話を口にしていた。

 楊文は壁際に席を取り、剣を足元へ寄せ、小僧へ酒手を渡した。それから隣の卓へ天気の話を向け、川の水位を尋ね、荷の値へ話が移るころには、相手の男の方が身を乗り出していた。

「先月からだよ、この騒ぎは」

 男は碗を置き、指で卓を叩いた。

「都からお偉方が来なすってな。大罪人を探しとるんだと」

「大罪人」

「十年前の罪人だ。今頃になって、掘り返しとる」

 楊文の手が碗の縁に留まった。

 沈曉は茶を飲み、静かに卓へ戻した。指を離すまでのわずかな間に、鳥籠の一羽が二度鳴いた。

「十年前?」

 楊文は聞き返した。

「そんな昔の話を、今更か」

「そこよ。誰も分からん」

 男は声を低め、その分だけ顔を近づけた。

「知っとるか。十年前、都の南に、皇族様の道観があった。玉のなんとかいう、えらい格式の高い観だ。そこの偉い道士が、ある晩、気が触れてな。仲間を皆殺しにして、観を焼いて、逃げた」

「……皆殺し」

「三十人だか、四十人だかだ。俺が聞いたのは三十何人」

 楊文の指が卓の上で折れ、途中で止まる。

「なんでまた、そんなことを」

「不老不死の薬さ」

 男は片肘を卓に置いた。

「あの観じゃ、帝のご命令で、仙丹を作っとった。何十年もかけてな。それが、いよいよ出来上がるって時に、その道士が独り占めしようとしたんだ。仲間を全部殺して、薬を持って逃げた」

「それで、十年」

「十年、見つからん。だが最近になって、また探し始めた。……帝が、お年を召したんだろうよ」

 男は奥の席を窺ってから笑った。

「みんな、そう言っとる。人が死ぬのが怖くなると、薬が欲しくなる。偉い人ほど、そうだ」

 楊文の口元は動かなかった。

 沈曉は二杯目を注いだ。湯が碗の内側を伝い、八分目で止まる。土瓶を戻した手を、膝に置くまでに少し間があった。

「その道士、名前は」

「知らんよ。人相書きは門に貼ってあるが、あんなもの、十年前の顔だろう。誰だって歳を取る」

 男は肩をすくめ、荷の値の話へ戻った。楊文は一度相槌を打ち、そのあと、冷めた茶を飲み干した。


 茶館を出てから、川沿いの船着き場を三つ回った。

 楊文は荷役の手が空くのを待ち、酒を奢り、川を上り下りする客の話を聞いた。どこでも荷の値と検問の話になり、名を尋ねたい若い道士の姿は、着いては離れる船のどこにも浮かばなかった。

 最後の桟橋を離れるころには、川に灯が点り始めていた。

 夕霧が水面を這い、帆柱を根元から白く包んでゆく。対岸の家並みは薄れ、船の明かりだけが長く伸びて、櫂の通ったあとで幾つにも砕けた。魚と泥と藻の匂いに、どこかで飯を炊く煙が混じっている。

「十年前だ」

 楊文が川を向いたまま言った。

「はい」

「三十何人。……焼いた」

 沈曉は、川を見ていた。

「うちの門派と、同じだ」

 楊文は足を止めた。

「いや、違うか。うちは焼けてない。人が死んだだけだ。……いや、同じか。人が死んで、丹房が焼けた」

 桟橋の灯が二人の足元まで届き、楊文が顔を向けると、横顔の半分が陰になった。

「なあ、あんた。十年前の話と、今の話は、関係あると思うか」

 沈曉は水面へ目を置いたまま、口を開かなかった。

「……ないよな」

 楊文は自分で首を振る。

「十年前の罪人が、今になって門派を襲って歩く理由がない。俺たちの追ってるのは、若い男だ。阿石さんが泊めたのも、白澗観に泊まったのも、二十幾つの若い道士だ。十年前に大罪人だったなら、今は四十か五十だろう」

 沈曉は頷いた。

「関係ないな。……関係ないんだが」

 楊文の目が、霧の向こうへ戻った。

「引っかかる」

 荷を下ろした舟が岸を離れ、船頭が棹を引き上げた。滴る水の音を聞きながら、沈曉は十年前の掌を思い出していた。

 渡すだけの銭を、あの朝は選り分けられなかった。数えるために指を動かすと、その前の晩に数えたものが、また初めから並びかけた。

 彼は懐に手を入れず、川から顔を背けた。


 宿へ上る道で、人の流れが止まった。

「何かあったな」

 楊文が背伸びをした。

 露店の商人が台を引き、親が子供を抱き寄せ、荷車は路地の口へ車輪を入れている。見物のために詰め寄る人波とは逆に、道の中央から左右へ、人の肩が引いてゆく。

 沈曉も軒下へ寄った。

 坂の上から、蹄の音が下りてくる。先を行くのは紺の甲を着けた四人の兵で、道が空いても歩調を変えず、店先や路地の奥へ目を配っていた。

 その後ろに、馬が一頭。

 鞍上の老人は地味な常服を着ていた。長い背をまっすぐに保ち、左手で軽く手綱を取り、右手は膝に置いている。腰は馬の歩みに揺らされず、剣を提げぬその手にも力みがなかった。

 日に灼けた頬には古傷が一筋あり、眉の下の目が、道の両側を、見るともなく見ていた。視線を受けた者が少し退き、その後ろの者も退いて、馬の前に道が開く。

 蹄の音が近づいた。

 沈曉は、その顔を見た。

 十年のうちに頬は削げ、髪に白いものが増えていた。傷の縁に深い皺が寄り、手綱を取る手の甲にも、以前はなかった筋が浮いている。

 背筋だけは、覚えているままだった。

 人垣の中で、彼だけが動かなかった。


 馬が通ると、露店の台が道へ戻され、人々はほどけるように歩き出した。

 沈曉もその間に入っていた。前の男が退けばそこへ足を置き、立ち止まれば自分も待ち、三十歩ほど進んでから、川へ向かって坂を下っていることに気づいた。

 馬の去った方だった。

「おい、そっちは宿と逆だ」

 背後から楊文の声が来た。

 沈曉は止まり、向き直りかけて通行人の肩にぶつかった。舌打ちに詫び、脇へ寄ると壁に手が触れる。夕日を離れた石は冷たく、彼は掌をそこへ据えた。

「……失礼」

「疲れたか」

「少し」

 楊文は川の方を一度見てから、宿へ続く上り坂へ体を向けた。

「飯にしよう。この街は、飯がうまいはずだ」

 その背を追う前に、沈曉はもう一度坂の下を見た。人の頭の間に馬の背が小さく揺れ、辻を折れると隠れた。

 壁から離した掌が、まだ冷えていた。


 宿の飯屋は、着いたばかりの船の荷役で混んでいた。

 楊文は隅に席を取り、川魚の煮付けと青菜と酒を頼んだ。沈曉の前には飯と汁の椀だけが置かれ、それを見た楊文が箸を止める。

「食え。痩せるぞ」

「足りています」

「あんた、いつもそれだ」

 魚の身を骨から外し、皿ごと押して寄越した。沈曉が受け取ると、楊文は帳面を出す。

「今日は、収穫なしだ。船着き場を三つ回って、荷役に酒を奢って、聞いたのは荷の値段の話ばっかりだった」

 頁の端へ短く書きつけ、顔を上げた。

「明日から、手分けしよう」

「はい」

「俺は茶館と、市と、船着き場をもう一度だ。ああいうところは、俺の方が向いてる」

「はい」

「あんたは、道観だ。街に三つあるらしい。同業なら、あんたの方が話が通る。この三年、この辺で妙な話がなかったか、聞いてくれ」

「……分かりました」

「無理はするな。あんた、聞き込みは下手だからな」

「下手ですか」

「下手だ」

 楊文は即座に言った。

「相手が何を心配してるか聞く前に、自分の答えを言っちまうんだ。棠梨村でもそうだった。三日で足りるかって聞いたら、あんた、やりますとしか言わなかった。……余裕なんかなかっただろ、あれ」

 沈曉は飯を飲み下し、箸を揃えた。

「足りました」

「三日のあいだに、あんたの手は震えてた」

「見ていたのですか」

「見てたよ」

 楊文は酒を注いだ。杯を差し出しかけて引き、自分で飲むと、空いた方の手で帳面を閉じた。

「まあいい。……あと、兵の多い場所には近づくな。あんたみたいな顔は、目立つ」

 沈曉は汁の椀を持ったまま、楊文を見た。

「私の顔が、何か」

「いや、そういう意味じゃない。……なんつうか」

 楊文は顎を撫で、少し考えた。

「あんた、道士のくせに、道士に見えねえんだ。仙人の絵から抜け出してきたみたいな面してるくせに、市で葱を値切ってる。役人ってのは、そういう妙な奴を覚えるんだよ」

「気をつけます」

「頼むぞ。……あと、あんまり丁寧に頭を下げるな。あれも目立つ」

「私は、どうすればよいのですか」

「知るか。ぼんやりしてろ」

 沈曉は椀を置き、一度考えてから頷いた。楊文が吹き出し、隣の卓の男たちが振り返る。彼らはすぐに自分たちの酒へ戻り、飯屋にはまた荷の話が満ちた。

 目立つな。

 沈曉は皿に残る魚を箸で分けた。十年、そのために声を整え、身なりを選んできた。その顔を、この男は灯りの下で、当然のように見ている。


 翌朝、宿の前で別れた。

 沈曉は道観のある東の高台へ向かった。川へ荷を運ぶ者たちとは逆に坂を上ると、魚の匂いが遠ざかり、塀を越えてくる香の煙が、細く道を横切った。

 坂の途中で、一度足が緩んだ。

 隣へ目をやると、人一人ぶんの空きがある。荷を掛け直す音も、道端の物へ声をかける男もいない。沈曉はまた前を向き、今度は自分の速さで歩き出した。数歩進んでから、少し歩幅を狭めた。


 一つ目の道観は、門の内に鶏が遊んでいた。

 洗濯物の間を抜けて案内されると、歯の抜けた老道士が、欠けた碗に薄い茶を注いでくれた。道士は二人だけだという。もう一人が庭の洗い物を片付けるあいだ、老人は沈曉の衣を眺め、符を書けるかと尋ねた。

 書けますと答えると、では書いていけ、と黄紙を出された。

 売り物の厄除けの符を三十枚。紙を押さえる老人の手は細かく震え、重ねた端がなかなか揃わない。沈曉は束を受け取り、朱の皿を手元へ引いた。

 皿の底で固まりかけた朱に水を落とし、ゆっくり戻す。紙は一枚ずつ指で撫で、粗い繊維の浮く三枚を脇へ除けた。

「粗い紙は、朱を吸います。吸えば、字が滲む」

「売り物だ。誰も裏まで見やせん」

「裏を見るのは、人ではありません」

 老人の口が開き、そのまま閉じた。

 沈曉は筆を取る前に左の掌を上へ返し、親指の腹で薬指の付け根を押さえた。唇をかすかに動かし、歯を一度鳴らす。その小さな音に、老人の目が指先から顔へ移った。

「……古い結び方だ」

 老人は膝に置いた自分の指を曲げている。

「うちの若いのは、小指から数える。あんた、唱えんのか」

「唱えます。声に出さないだけです」

 沈曉は筆を取った。

 紙の端を押さえ、唇が動き終わると穂先を下ろす。朱の線を一息に運び、筆を上げてから乾く場所へ移す。その手順を繰り返すうち、卓の上には黄紙が静かに広がっていった。

 十枚ほどで茶が冷め、二十枚目を書くころ、鶏が戸口を覗いて鳴いた。老人は筆の運びを見続け、ときおり茶を足すほかには、口を挟まなくなっていた。

 二刻ほどして最後の一枚を脇へ置くと、沈曉は筆を洗った。老人は先に乾いた符を両手で持ち上げ、表を見、裏へ返し、しばらくそのまま眺めた。

「あんた、どこの道観の人だ」

「どこの者でも、ありません」

「そうか」

 老人は符を卓へ戻し、茶を入れ直した。この三年で妙なことはなかったかと尋ねると、眉を寄せて考え、去年は鼠が大量に出た、と話してくれた。


 二つ目は、門前に香を売る店が並ぶ大きな廟だった。

 参拝の人々が石段を上り、供物の籠を抱えた者の後ろに、子供が袖を掴んで続く。沈曉は人の通る脇で案内を待ち、ひとしきり人波が引いてから奥へ通された。

 応対した若い道士は丁寧に茶を勧め、川で女の骸が上がったこと、北の山で虎が出たことを語った。どれも確かめたい徴とは違い、沈曉は茶を飲みながら次の話を待った。

「近頃は、皇軍の方々が忙しくて」

 若い道士は戸の外へ目をやった。

「うちにも二度、人相書きを持って来られました」

「人相書き」

「十年前の罪人だそうです。……我らの同業だとか。恥ずかしい話です」

 伏せた目の先で、膝に置いた手が揃った。

「聞けば、玉雲観の祭酒だったとか。祭酒ですよ。この国の道士のいちばん上です。それが、人を殺して、観を焼いて、逃げた」

 沈曉は茶を飲み、碗を膝の近くへ下ろした。

「どんな人物だったのでしょうね」

「さあ。……ただ、都の年寄りに聞いたことがあります」

 若い道士が少し身を寄せた。

「あの祭酒は、若い頃、この世でいちばん神仙に近い人だと言われていたそうです。人品も、術も。……人は、変わるものです」

「そうですね」

 沈曉は碗を戻した。

「人は、変わります」

 人相書きのありかを尋ねる言葉を飲み込み、茶の礼をした。帰りに香を一本供えると、煙が袖へまとわりつき、門前の風にほどけてゆく。

 石段の下では、次の参拝人が香を買っていた。


 三つ目へ向かう坂で、道の先から人が退き始めた。

 沈曉は横の路地へ入った。細い道は大通りと並んで坂を下り、途中に一つ、通りへ抜ける口がある。そこまで来ると、角の壁へ身を寄せた。

 日向の石畳だけが、戸口ほどの幅で見えていた。

 やがて蹄の音が来た。

 四人の兵のあとから、昨日の馬が近づいてくる。沈曉は息を浅くし、壁に置いた掌を動かさず、鞍上の背が路地の口を横切るのを見ていた。

 わずか三尺ほど先に、日に灼けた首筋があった。

 襟の重ね方も、手綱へ親指を掛ける癖も覚えている。馬が一歩踏み出すと右肩だけがわずかに遅れ、次の歩みでまた戻る。若いころに矢を受けたのだと、この男は言ったことがある。

 その声まで、耳の近くに戻ってきた。

 馬の胴が路地の口を過ぎる際、鐙(あぶみ)に掛けた右足が見えた。爪先の向きが左と違い、膝から下を真っすぐに収められていない。

 足を、やっている。

 沈曉は壁に背を預けた。

 蹄の音が遠のき、人の声が通りへ戻ったあとも、掌を石に据えていた。日陰の冷たさが指の節へ沁み、やがてどこを押さえているのか曖昧になる。

 十年のあいだに、その足を傷めた。

 ほかに何があったのか。壁から手を離しかけ、沈曉はもう一度、掌を当てた。


 路地を出て、坂の途中の茶売りで腰を下ろした。

 頼んだ茶は湯気を上げていたが、口へ運ぶ前に、親父と客の話し声が聞こえてきた。

「あのお人が来なすってから、ぴりぴりしてかなわん」

「あのお人?」

「今のだよ。裴松(ペイ・ソン)様だ」

 碗の縁にかけた指が止まった。

「裴松? あの、北の――」

「そう、あの裴将軍だ。もう将軍じゃねえがな。十年前に足をやられて、退いたと聞いとった」

「隠居のはずでは」

「隠居さ。隠居のお人が、なんで臨江くんだりで検問の指図をしてなさる」

 親父は客の碗に湯を足した。

「知らんよ、俺は。ただ、あのお人が来てから、兵の質が変わった。前の役人どもは、袖の下で通してくれたもんだが、今は誰も受け取らん。あれは、そういうお人だ」

「厳しいのか」

「厳しかないよ。荷役の爺が坂で転んだ時、馬から下りて助け起こしなすった。……そういうお人だから、袖の下を持ってく方が、恥ずかしくなる」

 親父は笑い、湯の入った手桶を卓の下へ戻した。

「あの人は、探し物を見つけるまで帰らんだろうよ」

 沈曉は碗を置き、銭を出した。

 あんた飲んでねえよ、と背中へ声がかかった。彼は歩きながら目礼し、そのまま坂を下った。


 三つ目の道観へは戻らなかった。

 人波に沿って辻を折れ、次の辻でも道を変えた。宿へ戻るなら上らねばならぬ坂を、足は下へ取っている。看板の字を読み、どの辺りにいるかを確かめながら、また別の路地へ入った。

 裴松。

 十年、口にしなかった名を、茶売りはためらいもなく呼んだ。北の、と言うだけで客には通じ、足を傷めた年まで知られている。沈曉の知らぬ十年を、この街の人々は茶の合間に語った。

 路地の先に馬の影がないか、曲がる前に目が動く。

 会ってはならない。そう思うそばから、遅れて動く肩と鐙の足が浮かび、確かめるために、もう一度あの道へ出たくなる。

 沈曉は別の角を曲がった。

 今度は両側に高い塀が続き、奥に木戸があるだけだった。洗い水の流れる細い溝に、空の明るみが映っている。人通りが絶えたことに気づき、彼は足を止めた。

 行く先がなかった。

 踵を返すと、路地の口に二人の兵がいた。紺の甲が日を受け、片方の男が相手に何か話している。二人の間に、大通りの人影が見え隠れした。

 沈曉は道の口へ向かった。

 一歩ずつ、いつもの歩幅で近づくと、話していた兵がこちらへ顔を向けた。視線が衣から顔へ上がり、そのまま相手へ戻る。

 沈曉は二人の脇を通った。

 背後から、今夜はお前の番だろう、という声が来た。もう一人が何か言い返し、甲の触れ合う音がした。

 角を曲がっても、呼び止める声は来なかった。


 大通りでは夕方の市が始まっていた。

 物売りが台を運び、空荷の車が上り、家路を急ぐ者が坂を下ってゆく。沈曉はその流れに入り、今度は宿へ向かう辻を選んだ。

 曲がる手前で、一度だけ振り返った。

 坂の上に、馬が止まっていた。

 乗り手はこちらを向いている。幾百もの頭が二人の間を動き、誰へ目を向けているのか、顔の細部までは見分けられない。

 沈曉は前へ向き直り、人波の中を歩いた。

 背後に、蹄の音は続かなかった。

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