第13話 円心

 朝、鍋の粥は焦げていた。

 沈曉が目を開けると、楊文は火の傍で鍋底を掻いている。匙が底に引っかかるたび、柄を握り直して少しずつ剥がし、こちらに気づくと、済まん、焦がした、と言った。

 差し出された椀には、焦げの欠片が混じっていた。二人はそれを食べ、鍋を洗い、昨夜から残った薪の火を消して林を出た。

 麦の穂が朝日に銀色を返し、濡れた靴先も街道へ出ると乾き始める。四半刻ほど歩いたところで、楊文が空を見上げ、今日は暑くなるな、と言った。

「はい」

「餅、傷むかな」

「なら今日のうちにでも」

「だな」

 包みを掛け直す楊文の袖が、沈曉の腕に触れた。彼は少し脇へ寄り、並んで歩ける幅を空けた。


 次の宿場で茶を頼むと、楊文は椀の来る前に帳面を出した。

 これまでは都から来た若い道士の行方を尋ね、その答えを地名の下に書きつけていた。今朝は新しい頁を開き、湯を運んできた親父へ顔を上げる。

「このあたりで、妙な話はないか。何年でもいい。人が一度に大勢死んだとか、死んだ者が歩いたとか」

 沈曉は差し出された茶を受け取った。椀の縁から湯気が昇り、向かいの男の口元をかすめる。

「そりゃあ、あるさ」

 親父は湯を足したあとも立ち去らず、空いた卓の端に片手をついた。


 最初に出たのは、双柳鎮(ソウリュウチン)の武館の話だった。

「あんたら、剣を提げとるから言うがね。西へ二日、双柳鎮に武館があったろう」

「聞いたことがある。柳の下の武館だな」

「そう、それだ。門人が九人。師範代が、確か鎮の顔役の甥っ子でな。……一年半前の秋だ。ある朝、豆腐屋が桶を届けに行ったら、誰も出てこん」

 親父は盆を引き寄せ、伏せてあった碗を一つずつ起こした。

「中へ入ったら、道場にな。こうだ」

 九つの碗が、輪を作った。

「九人が、こう座っとった。膝を揃えて、内を向いてな。まるで、稽古の前だ。……全員、死んどった」

「斬られてか」

「そこよ。刀傷が一つもねえ」

 最後の碗を置いた指が、その縁を叩く。

「鎮の役人が調べた。毒でもねえ。首を絞められた跡もねえ。表の戸には内側から閂(かんぬき)がかかっとって、裏木戸は開いとった。銭も、剣も、何ひとつ盗られとらん」

「……それで、道場破りか」

「他に何て言うんだ、あんた」

 親父は肩をすくめ、盆の上の碗を一つ取り上げた。

「江湖には点穴の達人がおるって言うじゃねえか。触れずに人を殺すのが。九人まとめてやれる腕の持ち主が、なんで名乗り出ねえのかは、誰も説明できんがね」

 沈曉は茶を口に含んだ。碗を一つ抜かれた輪の隙間から、盆に残った濡れ跡が見える。

「豆腐屋のじいさんは、その日から寝込んだ。……いや、寝込んだのは、屍のせいじゃねえ」

 親父は隣の卓へ目をやり、声を落とした。

「じいさんが言うにはな。前の晩、道場の前を通ったら、灯りが点いとって、中で足音がしとったんだと。稽古してるんだと思って、通り過ぎた。……九人が座って死んどったのは、その夜のうちの話らしいんだ」

 楊文の椀が、卓に触れた。

「足音が、していた」

「じいさんの寝言だろう。歳が歳だ」

 奥から客に呼ばれると、親父は盆を抱えてそちらへ向かった。碗がぶつかり合い、小さく鳴った。


 その晩、楊文は宿の灯りを机に寄せ、帳面の続きを書いた。

「双柳鎮の話は、俺も聞いたことがある」

「はい」

「一年半前だ。江湖じゃ、しばらく騒がれた。あの頃は、俺も、たいした話だと思ってた」

 双柳鎮、一年半前、門人九人。刀傷なし、と書いた筆が、一行分空けたところで止まる。

「あんたは、どう思う」

「座ったまま、というのが」

 沈曉は灯りに向けた帳面へ目を落とした。

「揃って座っていたのなら、動く必要のない場所へ、置かれたのかもしれません」

「置かれた」

「解けた後で、崩れるまでに時が要ります。歩き回った末に、道場の真ん中に戻って座ったのかもしれない。……推測です」

 楊文は穂先を紙から離し、そのまま沈曉を見た。

「上手いな」

 低く言って、筆を机に置く。

「一年半前は、座らせるところまでやってる」

 沈曉は灯芯を少し戻した。明かりが低くなり、紙の上へ落ちた筆の影が濃くなった。


 翌日、街道筋で乾した魚を商う女が、塩汲みの集落の話をした。

 二年ほど前の夏、南の海辺で十数人が一度に死んだという。女の傍らには魚と塩の袋が並び、話すあいだも天秤が小さく揺れていた。

「疫病だってさ。夏場だからね」

 片方の皿へ塩を足し、釣り合うところで手を止める。

「あたしの亭主が、あの塩を仕入れとったのさ。あそこの塩は、白くてね。いい塩だった。……仕入れ先が、ひと夏で消えちまった」

「生き残りは」

「一人だけ。塩汲みの若い衆で、その日は舟で沖に出とったんだと」

 女は錘(おもり)を替え、次の紙を広げた。

「戻ってきたら、村がおかしい。みんな、浜に出て、歩いとったって。呼んでも返事をしねえ。近づいたら、じいさんが……あすこの村の、いちばん年寄りのじいさんがさ。若い衆の顔を見て、こう、掴みかかってきたんだと」

「掴みかかって」

「爪が、腕に食い込んだって。血が出るほど。だけど、じいさんの顔は、寝てるみたいだったって言うんだよ。目を開けたまま、寝てるみたいだったって。……変な言い方だろ」

 天秤の皿が揺れ、やがて静まった。

「若い衆は、舟に逃げて、沖で二晩、待った。三日目に戻ったら、村の連中は、みんな倒れとった。腐っとったってさ。夏場だからね」

 女は塩を包み、紙の角を指で折り込んだ。

「役人が来て、疫病だってことになった。数だけ書いて、名は一つも書かずに帰ったってさ。若い衆は、村じゅうが歩いとったって言い張った。言い張るもんだから、頭がやられちまったってことになってさ。今はどこかの寺で世話になっとるそうだよ。可哀想にね」

 出来上がった包みを脇へ寄せ、女はまた袋に手を入れた。

「あたしゃ、あの塩が惜しいよ。今どき、あんな白いのはねえ」

 楊文は紙に日付を書きつけ、集落の名を尋ね直した。女は首を傾げ、亭主なら知っているかもしれないと言った。


 夜、帳面には南方の塩の集落、と記された。

 二年前、夏、十数人、生き残り一人。その下に、みんな歩いていた、と書き、楊文は聞いたままの言葉を一つずつ足してゆく。爪が食い込む。目を開けたまま寝ているような顔。

「三日、しか保ってねえ」

「はい」

 崩れた、と書いた一行の傍に、筆先が留まる。

「白澗の楔も、こんなふうに勝手に解けかけてたのか」

「いいえ。あちらは、留まっていました」

 楊文は筆を置き、前夜の頁を繰った。

「浅かったんだな。二年前は」

 開いた二頁に、双柳鎮と塩の集落が並んでいた。


 三つ目の話は、洛尾(ラクビ)の渡しで聞いた。

 船頭が櫓(ろ)を押すたびに舟べりへ水が寄り、離れると、細かな泡だけが川面に残る。上流の岸を顎で示されて見ると、木立の切れ目に黒い土台があった。

「見えるかね。あすこに、船宿があった」

「焼けたのか」

「焼いたのさ」

 沈んだ櫓先が、水の下でゆっくり返った。

「二年半前の春だ。宿の一家が、六人。朝、荷を届けに行った者が見つけた。……病だと思った。皆そう思った。だが、傷も、吐いた跡も、何もねえ。親父も、女房も、婆さんも、子供が三人も、寝床に寝たまんまだ」

「寝たまま」

「そう。寝る時の衣のままでな。寝てる格好のまんま、死んどった。だから初めは、寝てるうちに何かあったんだろうと」

 船頭は櫓を止めた。舟が流れに身を任せ、黒い土台が木々の向こうへ少しずつ隠れてゆく。

「弔いの支度をしとったら、日が暮れた。その晩だ。……渡しのこっち岸から、宿の窓に灯りが見えたって者がおる」

 舟底を擦る水の音が、近かった。

「見に行った者はおらん。次の晩も、灯りが点いた。三晩目に、窓を人が横切ったのを、こっち岸の三人が見た。僵尸だと、皆が言うた。わしは見とらんから、言わん」

「灯りは、誰が」

「誰が点けたんだろうねえ」

 再び櫓が動き、岸に沿っていた舟の先が対岸へ向いた。

「四晩目に、若い衆が松明を持って行った。……八人だ。八人で行って、戸を開けもせずに、家ごと焼いた」

「中に、まだ」

「まだ、六人が寝とった」

 楊文は舟べりへ手をかけた。

「確かめずに、か」

「確かめられるかい。あんた、確かめられるか」

 船頭は櫓を握ったまま、楊文を見返した。

「わしの従兄弟が、その八人の一人だ」

 低い声の合間に、櫓の軋む音が戻る。

「あいつは、その年から酒ばかり飲むようになった。焼く前に、家の中で音がしたと言うんだ。何の音だとは、死ぬまで言わなんだ。……もう死んだよ。まだ四十だった」

 対岸の杭が近づき、船頭は櫓を小さく動かして舟を寄せた。

「今でも、あの村じゃ誰もその話をせん。八人のうち、もう四人は死んどる。生きとる者も、あの岸を見ようとせん」

 銭を受け取り、降りる二人へ船頭が声をかけた。

「旅の人。夜、川沿いは歩かんことだ」

 沈曉は岸から上流を振り返った。木立が重なり、船宿の跡はもう見えず、川面に日の光が流れている。


 渡し場の先の石に腰を下ろし、楊文は帳面を開いた。

 二年半前、春、洛尾の上流。船宿の一家六人。死後の灯り、人影、村人が家ごと焼いた、と書くうちに、筆の運びが遅くなる。

「……あんた」

「はい」

「あの村の連中は、間違ってたのか」

 沈曉は川の方を向いていた。水に濡れた杭の先へ鳥が降り、すぐにまた飛び立つ。

「もし私が、あの村を通りかかっていたら、六人は焼かれずに済みました」

「そういう話じゃない」

「……いえ」

 沈曉は荷を取り、肩へ掛けた。

「そういう話です」

 楊文が帳面を閉じる音を聞いてから、道へ足を戻した。


 その先でも、茶を飲むたび、宿で湯を貰うたび、楊文は同じ問いを口にした。

 三年ほど前の秋、東の黒水峠(コクスイトウゲ)の駅逓(えきてい)で人夫が八人、一夜に死んだという。傷はなく、疫病として埋められた。その冬には、北東の鷹帰山(ヨウキサン)の山寺から僧が十二人消え、雪解けとともに骸が現れた。土地の者は狐の祟りと呼んだ。

 一年前の冬、西の梅嶺(バイレイ)で炭焼きが七人。雪に道を閉ざされ、春まで訪ねる者もなかったという。

 半年前には、北西の古渡(コト)に住み着いた流民が姿を消した。幾人いたかを尋ねると、話し手は首を振り、元から幽霊の出る廃村だ、夜に入れば道が塞がって朝まで出られん、と、古くからの噂を繰り返した。

 楊文は聞いたことを頁に分け、場所が曖昧なら余白を残した。死んだと聞いたのか、見かけなくなっただけかを尋ね直し、傷がないという話の脇には、誰が体を見たのかを書き添える。

 飢饉や野盗の話も混じった。人が一度に死ぬ話は、この国では珍しくない。茶屋の卓に肘をつき、片方の話を聞き終えてからもう片方へ向き直る、その背後を、銭の足りぬ客や荷を急ぐ馬方が通ってゆく。

 帳面を開くたび、前の宿で書いた文字が乾いていた。

 楊文の筆から次の地名が生まれるのを、沈曉は傍らで見ていた。歩きもせずに死んだ者から、夜ごと灯りを点ける者へ。三日で崩れた者から、白澗観の、深く留められた骸へ。

 頁の間を辿る指に、鳩尾へ触れた感触が蘇る。

 上達している。

 さらに地名を聞くたび、沈曉の内には別の道が開けていった。東の峠、北東の山寺、南東の船宿。南の集落から南西の鎮へ、西の炭焼きから北西の廃村へ。

 棠梨村と、白澗観。

 十年のうちに通った街道、川を渡った場所、荷を下ろして暮らした村が、その間に収まっていた。

 楊文が頁を繰る音に、沈曉は茶の椀を置いた。まだ地図を広げてはいない男の前に、新しい白紙が現れた。


 三日目の午後、雨に追われた。

 初夏の雨は麦畑を白く煙らせ、街道にいた二人へたちまち追いついた。廃屋の軒へ駆け込むと、落ち残った屋根の端から水が溢れ、土を打つ音で互いの息も聞こえなくなる。

 楊文は濡れた袖を絞り、荷を乾いた柱の際へ寄せた。そこから帳面と、宿場で買った街道の地図を取り出して、庇(ひさし)の奥の床板に広げる。

 山も川もおおまかな絵で、細い山道は途中で途切れている。楊文は帳面を脇に置き、墨を含ませた穂先を整えてから、最初の頁へ戻った。

「双柳鎮」

 一つ、印を打つ。

「洛尾。……塩の集落は、名がねえな。この辺か」

 海辺の辺りには、小さく幅を持たせて記した。

「黒水峠。鷹帰山」

 紙の東側に二つ、印が増える。

「梅嶺。古渡」

 西へ筆を移し、六つ目を打ったあと、古渡の上で手が止まった。

「……これは、入れていいのか」

「迷いますか」

「流民が住み着いてた廃村だ。何人いたのかも分からん。元から幽霊が出るって言われてた場所で、話が全部そっちに吸われてる。……そもそも、人が死んだのかどうかも怪しい」

 楊文は筆を持った手を浮かせたまま、帳面へ目を戻した。

「入れなきゃ、話は綺麗になる。入れると、汚れる」

「入れておいて、後で外せます」

「そうか。そうだな」

 七つ目は薄く打ち、傍に小さな点を添えた。

 八つ目の棠梨村では、谷へ通じる道を確かめ、筆を丁寧に下ろした。九つ目を探すときには、紙を押さえる左手が少し動いた。

 白澗観は載っていなかった。

 楊文は街道から谷の口を測り、山を一つ指で越えて、その奥へ印を打った。墨が乾くまで指を傍に置き、それから静かに手を引く。

 沈曉は軒の外へ顔を向けていた。雨に叩かれた道の窪みが、水を湛え始めている。

「……なあ」

 背後で、地図を引き寄せる音がした。

「これ、見てくれ」

 沈曉は振り返った。


 九つの印が、紙の上に散っていた。

 東と北東、南東、南、南西。西と北西へ目を巡らせると、その内側に棠梨村があり、北の山に白澗観がある。

「並んでる」

 楊文は印を指で辿り、紙の中央へ視線を移した。

「ぐるっと、この辺りを囲んでる。……偶然か?」

 沈曉が口を開く前に、楊文は荷紐の余りを取り出した。麻紐の端を紙の一点に押さえ、東の峠まで伸ばし、そこを爪で挟む。

 押さえる場所を少し変えて測り直し、次に山寺へ、次に渡し場へと端を移した。遠い印には紐を伸ばし、近い印では余りを指に巻く。

「円だ」

 楊文は巻いた紐をほどいた。

「一つじゃねえ。大きさの違う円が、この辺りに重なってる」

「距離は、揃いませんね」

「ああ。だが、ここを真ん中にすると――」

 言いかけ、帳面を引き寄せた。

「年だ」

 雨が庇を叩き、頁の角が湿った風に震える。楊文は片手でそれを押さえ、筆の柄を最も遠い印へ当てた。

「黒水峠が三年前の秋。いちばん古い。鷹帰山が、その冬。……この二つが、外側だ」

 柄が南東へ渡った。

「洛尾が二年半前。塩の集落が二年前。双柳鎮が一年半前。梅嶺が一年前」

 帳面と地図を交互に見比べるうち、声が少し速くなった。

「古渡が半年前。棠梨村が数ヶ月前」

 北の小さな印で、柄が止まる。

「白澗観が、ひと月前だ」

 楊文は紙を見下ろしたまま、沈曉へ問いかけた。

「あんた、分かるか。新しいやつほど――」

「内側です」

「そうだ」

 古い三件は広く外側にあり、塩の集落から武館、炭焼きの里へと、印はおおむね近づいてくる。少し外へ戻るものもあるが、半年の間に起きた三件はさらに奥へ寄り、最後の白澗観が、中央の余白のすぐ近くにあった。

 楊文はもう一度、麻紐を東の峠まで伸ばした。その長さを指で挟んだまま、白澗観へ向け直すと、余った紐が紙の上へ長く垂れた。

「……三年で、ここまで縮んでる」

 沈曉の目は、その紐の端を押さえる指へ移った。

 街道が二本交わり、川が一本流れている。細かな村名の省かれたところに、楊文の爪が当たっていた。


「探してるんだ」

 楊文の声が低くなった。

「この犯人は、何かを探してる。……いや、誰かをだ」

 沈曉は膝に手を置いた。濡れた袖が冷たく肌へ貼りついている。

「考えてみりゃ、初めからおかしかったんだ」

 楊文は帳面を閉じ、膝に載せた。

「門派を滅ぼす理由がねえ。金が目当てなら、白澗観は貧乏すぎる。恨みなら、名乗るはずだ。名を上げたいなら、江湖で言いふらす。……あの晩、あの山から盗られたものは、何ひとつなかった。人だけが死んだ」

 地図へ手を戻し、外側の印をなぞる。

「術を試してるんだと思ってた。実験だ。腕を上げるための。……それは、そうなんだろう。実際、上手くなってる。二年前は三日で崩れた。白澗の楔は、あんたが解くまで留まってた」

 指が内側へ滑り、途中で止まった。

「だがな、腕を上げるだけなら、どこでやってもいいはずだ。都から遠い山奥でも、南の島でもいい。人の少ない土地の方が、都合がいいに決まってる」

 楊文は顔を上げた。

「なんで、この円なんだ。なんで、こんなに几帳面に、内側へ寄ってくる」

 庇から落ちる雨が、幾筋もの糸を引いていた。

「この真ん中に、そいつの探してる誰かがいる。……そう考えると、筋が通る」

 沈曉は雨の糸を見ていた。

「三年前、そいつは大雑把にしか場所を知らなかった。この辺りにいるはずだ、というくらいだ。だから外側からやった。やりながら、聞いて回った」

 楊文の手が、自分の帳面に重なる。

「人が死ねば、噂が立つ。傷のねえ死体が歩いたなんて話は、必ず流れる。……俺たちが今やってるのは、それを拾い集めることだ。そいつは、それを撒いてる」

 沈曉の目が、帳面を押さえる手へ戻った。

「噂が立てば、その土地の道士が動く。祓いに行く。浄宅(じょうたく)だの押煞(おうさつ)だの、それぞれのやり方でな。腕のねえ奴は失敗して、話が大きくなる。腕のある奴が来れば、鎮まる」

 楊文はそこで声を落とした。

「鎮まったら、分かるんだ。ここに、それを鎮められる奴がいる、と」

 雨垂れの落ちるところに小さな穴が穿たれ、溢れた泥水が道へ流れている。

「そいつは、待ってるんだ。反応を。誰が動いたか。誰が、鎮めたか。……誰も来なけりゃ、そこにはいないと踏んで、次を試す。来た奴がいれば、そいつを調べる」

 沈曉は、動かなかった。

「三年、繰り返した。そうやって、探す範囲を狭めたんじゃねえか」

 楊文の指が、紙の中央を押さえた。

「近づいてる。……見つけかけてる」

 沈曉は、その余白を見ていた。

 指の置かれた辺りから真南へ十里ほど。地図には載らぬ村に、雨戸を落とした家がある。棚を空け、戸口に貼った紙には、当分、とだけ書いた。

 あの紙も、今日の雨で端が濡れただろうか。

 糊の剥がれた隅が戸を打ち、その家に用のある者が、まだ立ち止まって読むだろうか。

「あんたは、どう思う」

 呼ばれて、沈曉は地図から目を離した。

「……理に、適っています」

「だろ」

 楊文は短く笑い、額へ落ちてきた髪を払った。その指が紙へ戻るころには、口元の笑いも消えていた。

「気に食わねえのは、ここからだ」

「はい」

「その真ん中の誰かは、たぶん、犯人と同じものを知ってる。この術を知ってる誰かだ」

 楊文は片手を上げ、指を折った。

「師匠か。仲間か。敵か。あるいは、術を教えた本人か」

 四本目で止まった手を、沈曉は見ていた。

「……どれにしても、生きてる」

 楊文は指をほどき、地図の外側へ掌を置いた。

「生きてて、隠れてる。三年も探されて、まだ見つかってない。よほど上手く隠れてるか、よほど、静かに暮らしてるかだ」

 軒を渡る風が冷えた。沈曉は袖の端を膝へ引き寄せた。

「なあ、あんた。もし俺たちがその人を先に見つけたら、話を聞けると思うか」

「……何を、聞くのですか」

「全部だ」

 楊文は地図に目を落とした。

「犯人が誰か。何を探してるのか。なんで、こんな術がこの世にあるのか」

 指先が白澗観の印に触れた。

「それから、頼む。囮になってくれ、と。事情を話せば、分かってもらえるはずだ。何人死んだと思ってる。その人にだって、責任は――」

 その指が止まった。

 楊文は口を閉じ、しばらくしてから首を振った。

「……いや。責任はねえな。悪いのは、殺してる方だ」

 地図の折り目を探り、外側から畳み始める。

「その人だって、逃げ回ってるんだ。三年も追われて、生きた心地がしねえだろう。それを俺が、囮になれとは。……勝手なもんだ、俺も」

 九つの印が、一つずつ紙の裏へ隠れていった。


 沈曉は膝の上に手を置いたまま、最後の折り目が伏せられるのを見ていた。

 ここにいます、と言えた。

 地図へ落としたあの指を、こちらへ向ければいい。楊文は顔を上げるだろう。火を挟んで問うたあの夜と同じ目で、沈曉を見るだろう。

 この手が楔を解くことを、男は知っている。その結び方まで知る理由を、自分の口から話せばよかった。

 紙の端を揃える楊文の指には、薄く墨がついていた。

 周敬の指にも墨がついていたと、あの夜、この男は言った。名を呼んで土を掛け、小竹の号のない牌の前にも立った男が、いま、その山を襲った者の行方を辿っている。

 沈曉は濡れた袖の内で、親指を掌に押し込んだ。

 楊文は畳んだ地図を懐へ収め、こちらの荷が雨に濡れていないかを確かめている。つい先ほど、その円の内にいる者を追いつめるのは勝手だと、言った口で。

 屋根を叩く雨が弱まり、軒から落ちる滴の一つひとつを聞き分けられるようになった。沈曉は口を閉じたまま、袖を整えた。


 雨上がりの街道には、遠い山の稜線まで見えていた。

 濡れた土から薄く湯気が立ち、道端の草に溜まった雫が、二人の裾へ触れて落ちる。庇を出てしばらくすると、楊文はまた地図を取り出した。

「中心の圏内に、何がある」

 乾いた道端へ寄って立ち止まり、川に沿って指を動かす。

「村がいくつか。山が二つ。……街道が交わってるな。宿場が、ここと、ここ」

 川の曲がるところで指が止まった。城壁を示す四角の傍に、ほかの町より大きな字がある。

「臨江城(リンジャンチェン)」

 楊文はその名を読んだ。

「でかい街だ。人も、物も、噂も、いちばん集まる。……もし俺が誰かを探すなら、まず、ここへ行く」

 沈曉は、その字を見ていた。

 水の匂いのする街である。十年前、夜明け前の門をくぐったとき、まだ暗い城壁の下を、川からの湿った風が吹き抜けていた。

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