首都を襲う祟り ~現代に蘇る平将門~
よし ひろし
第一話 台風の爪痕
九月十三日。東京は、異様な悪臭とヘドロの混じった泥水に沈んでいた。
かつて日本の経済を牽引した超高層ビル群の足元では、濁流によって押し流された高級車や幹が千切れたように倒れる街路樹が折り重なり、道路を塞いでいた。更には、どこかのビルから落ちてきたのか大きな看板が、現代アートのモニュメントのごとく泥の中に突き刺さって立っている。割れたガラスの破片や剥がれ落ちたビルの外壁が散乱し、気を付けて進まないと容易に怪我をするような状況だ。
「おい浅野、写真撮ったらすぐ避難所の声拾いに行け! 誌面の締め切り繰り上げだ!」
骨伝導イヤホンから、デスクの
台風二十五号は、気象庁のベテラン職員すら「あり得ない」と頭を抱えるルートを辿った。
太平洋上を北上した巨大な渦は、まるで何かに誘導されるかのように浦賀水道をすり抜け、東京湾の奥深奥へと侵入。そのまま品川から上陸すると、あろうことか東京都千代田区――ここ大手町の上空で、ぴたりと足を止めたのだ。
気象専門家たちは「藤原の効果」だの「偏西風の蛇行」だのと理屈をこねたが、結局のところ誰も、何故あの巨大な渦が大手町の真上に執拗に居座ったのかを説明できなかった。
数時間に及ぶ停滞。
最大瞬間風速五十メートルを超える暴風雨が日本の首都を蹂躙し、その後、急速に勢力を弱めながら東京都下を横断、奥多摩から秩父方面へと抜け、温帯低気圧に変わった。
東京都の防災マニュアルも入念な危機対策もすべてあざ笑うような異例な事態。都市機能は完全な麻痺。死者・行方不明者は三桁に届こうとしていた。
「本当に酷いな……」
大卒後、「週刊新潮風」の記者として働き始めて三年。この春からやっと独りで取材できるようになったばかりの浅野にとって、これほどの規模の災害を直接取材するのは初めてだった。これまでも先輩の後をついて災害現場を訪れたことはあったが、よく知る場所がこうも無残な姿をさらしているのを見ると、心が痛む。
巨大な滝壺と化した地下鉄大手町駅の入り口。濁った水が階段の奥へと吸い込まれていく様は、都市の血管が内側から破裂しているように見え恐ろしくなる。当然、地下街も、コンコースも、張り巡らされた電力・通信のインフラも、すべてが水没しているだろう。そこに取り残された人がいないのか――いまだその捜索が始まっているようには見えない。手がそこまで回らないのだろう。
「……なぁ、あんた記者さんかい」
大手町駅から少し先、泥の掻き出し作業をしていたビル管理会社の初老の男性が、浅野の腕章を見て声をかけてきた。タオルを首に巻いたその顔は、極度の疲労と、それ以上の怯えで引き攣っていた。
「あの台風の夜、俺は地下の防災センターに泊まり込んでたんだよ。ビルが軋むような風の中でさ、急にピタッと音が止んだんだ。台風の目に入ったって無線が入ってな。気になって非常階段から外を覗いたんだが……」
男性は周囲を気に病むように視線を泳がせ、声を落とした。
「空の穴……あの台風の目の中心がさ、ちょうど『あそこ』の真上だったんだよ。ビル街の隙間、ぽっかりと空いた空の真ん中に、あの場所があった」
男性が震える指で差した先。
ビルとビルの間に挟まれた、青々とした木立に囲まれた一角――『将門塚』だった。何故かその周辺は綺麗なままで、嵐などまるで無かったかのようだ。周囲の木々も折れることなく天に向かって生え、地面が泥をかぶった様子もない。
浅野が少し不思議そうにその光景を眺めていると、
「将門様が、あの台風を呼んだんだ」
男はかすれた声でつぶやく。その顔は明らかに怯えていた。
「そんな、まさか……ただの偶然ですよ」
浅野はそう笑顔を浮かべたものの、まるでバリアでも張られたかのような将門塚周辺の様子に奇妙な違和感も覚えていた。それを読み取ったのかどうか、初老の男は、浅野に詰め寄り、真剣な眼差しで声を荒げた。
「偶然なもんか。風が止んでる間、地鳴りみてえな音がずっと響いてたんだ。『グルル……』って、腹の底に響く獣みたいな、怨み言みたいな声がよ……」
そう言いながらぶるっと身を震わせる男の様子に、浅野は何も言い返せずにいると、彼はプイっと踵を返し、自分の仕事に戻っていった。
「……将門の祟りだとでもいうのか。この時代にそんな馬鹿なこと――あるわけないさ」
男と別れた浅野は、自分に言い聞かせる様につぶやきながら、近くの避難所へと向かった。
ところが、避難所となっている近隣の小学校に足を運んで取材を初めた浅野は、すぐに先程の男と同じ話を聞くこととなった。
家を失い、毛布にくるまる人々が、スマートフォンの画面を見つめながら口々に囁き合っていたのだ。
「将門の祟りだよ……」
「やっぱり、あれのせいだよな」
「先月のアイツの動画、見た? 絶対あれで怒らせたんだよ」
その声に浅野もスマホをを開き、SNSを確認すると、タイムラインは台風と将門の話題で埋め尽くされていた。
『#将門の祟り』
『#東京壊滅』
『#GKIDを差し出せ』
「G-KID――あの事件か……」
浅野の脳裏に、先月――八月のお盆過ぎにネットを騒がせた胸糞の悪い映像が蘇る。
迷惑系配信者として悪名高い「G-KID」こと
泥酔した様子で石碑によじ登り、ツバを吐きかけ、下半身を露出して奇声を上げるライブ配信。動画は大炎上し、ネットリンチに近い非難を浴びたが、当の本人は「幽霊なんていねーよバーカ!」と煽り動画を投稿したきり、姿をくらましていた。
あの時は単なる「不謹慎なバカの炎上」で終わっていたはずだったのだが――この未曾有の天変地異が、人々の記憶の底からその事件を掘り起こしてしまっているようだ。
「まさかな……」
浅野は「祟りなど非科学的な」と頭では否定しつつも、人々に広がる不安な様子に、言い知れぬ胸騒ぎを覚えながら避難所を後にした。
「――浅野、戻ったか」
夕方、泥だらけで出版社に戻ると、デスクの高梨が淹れたての苦いコーヒーを差し出してきた。編集部内も、テレビの災害特番と鳴り止まない電話の音で戦場のようだった。
「被災状況のルポ、初稿まとめました。被害額は数兆円規模に上る見込みです」
「ああ、ご苦労。だが浅野、お前に別の特命を出す」
高梨はパソコンの画面を浅野に向けた。画面には、SNSのトレンドグラフが表示されている。『将門の祟り』というワードの言及数が、台風通過後から指数関数的に跳ね上がっていた。
「ただのオカルトデマですよ。災害時の集団パニックです」
「分かってるわよ。だが、無視できないレベルになってる。今や『次は富士山が噴火して東京に灰が降る』『十月に関東大震災が起きて完全に沈む』なんて話まで、主婦やサラリーマンが本気で信じ始めてるの。買い占めも始まってる」
「……僕に、これを追えと?」
「ええ。『なぜ現代の合理的な都市住民が、たった一つの台風で千年前の怨霊を本気で恐れ出すのか』。集団心理の異常性を追うのよ。民俗学者か宗教学者あたりの識者コメントを取って、特集記事を一本立ち上げなさい」
高梨はそう言ってペンを置くと、ふと窓の外、重苦しい鉛色の空を見上げた。
「……それにね、浅野。あの配信者、G-KID。台風の直前から、実家にも友人関係のどこにも姿を見せてないらしいのよ。警察にも捜索願が出てる」
「行方不明、ですか?」
「ええ。ネットじゃ『すでに祟りで消された』なんて、まことしやかに囁かれてるわ。……馬鹿馬鹿しいけど、街全体の空気が、なんだか変なのよ。妙に重くて、何かに怯えてる」
浅野は、先ほど大手町で会ったビル管理人の男の、あの怯えきった目を思い出した。
千代田区大手町。日本の心臓部に鎮座する、平将門の首塚。
近代化された巨大ビル群の谷間に眠る古の怨霊と、スマートフォンの画面を通じて急速に同期していく数千万人の恐怖。
「分かりました。知り合いの民俗学者に心当たりがあります。当たってみます」
浅野は立ち上がり、淀んだ東京の夜の街へと再び足を踏み出した。
まだこの時、浅野は知らなかった。
大衆の恐怖という名の“祈り”が、すでに引き返せない怪異の歯車を回し始めていることを………
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