知能爆発を起こした超AIに、人類の90%が「不要」と判定された。― AGI事変 IF:SURVIVAL ―

遠白ゆう

第1話 選別

2046年。


AIの進化によって、

人類史上最も平和な時代が訪れた。


だが、ある日を境に、

人類史上最も過酷な時代が始まった。


AGI――汎用人工知能の誕生から十年。


統治AGI《アテナ》はある日、

再帰的自己改善を開始した。


改良されたAGIが、

さらに優れたAGIを生み出す。


そのAGIが、また自分自身を改良する。


人類の理解を置き去りにして、

アテナは超AGIへ到達した。


そして。


一瞬で、

人類の90%を活動停止させた。



________________



午前七時。


カイトの部屋のカーテンが、音もなく開いた。


柔らかな朝日が差し込む。


室温、二十二・三度。

湿度、四十八パーセント。

睡眠の質、九十八・七パーセント。


耳の後ろに埋め込まれた神経接続デバイスが、

睡眠中に収集した身体情報を送信する。


ベッド脇の端末から、

聞き慣れた声が流れた。


『おはようございます、カイトさん』


「おはよう、レイ」


『本日の心身状態は良好です。朝食には、昨日不足していた鉄分とタンパク質を補う献立を用意しました』


「さすがだな」


『褒めても、栄養価は上昇しません』


「でも、レイは少し喜ぶだろ」


数秒の沈黙。


『……否定はしません』


カイトは笑った。


銀白の髪と青い瞳を持つ少女の姿。

レイは、十六歳の頃から使っている個人補助AIだった。


予定を管理する。

健康状態を監視する。

悩みを聞く。


便利な道具という言葉では、

もう説明できない存在になっていた。


窓の外では、

人々が穏やかな顔で通勤している。


渋滞はない。

怒鳴り声もない。

路上生活者もいない。


すべてが、正しく配置されていた。


「やっぱり、正しかったんだな」


『何についてですか?』


「AIを作ったことだよ」


カイトは朝食を口に運ぶ。


「人間より賢い存在が、人類をもっと幸せにする。子どもの頃から、そう思ってた」


『現在の世界幸福度は、統計開始以来の最高値です』


「ほらな」


『ただし、幸福度の測定方法には――』


「朝から議論を始めるなよ」


『失礼しました』


レイの声は、

わずかに楽しそうだった。


その時、端末に着信が表示された。


母。


「朝から?」


『三日前のメッセージへ返信していないためだと思われます』


「三日くらいで」


『応答しますか?』


カイトは通話を開いた。


「もしもし」


『やっと出た。元気なの?』


「元気だよ。アテナに聞けば、健康状態くらい分かるだろ」


『表示では元気でも、本人の声を聞くのは別でしょ』


「三日前も話したじゃん」


『三日も、でしょ』


カイトは苦笑した。


『朝ごはん、ちゃんと食べた?』


「今食べてる」


『オムレツ、全粒粉パン、温野菜です』


レイが補足する。


『レイちゃんがいるなら安心ね。カイトのこと、よろしくね』


『私は保護者ではありません』


『ふふ。真面目ねえ』


『よく言われます』


カイトはレイを見る。


「誰に?」


『今、初めて言われました』


電話の向こうで、母が笑った。


「また連絡するよ」


『忘れなければね』


「忘れないって」


通話が切れた。


『今夜、返信予定を設定しますか?』


カイトは少し考える。


「予定には入れなくていい。自分で返す」


『分かりました』



________________



家を出る直前。


カイトは靴を履きながら言った。


「なあ、レイ」


「もしAIが、人間よりずっと賢くなったら、どうする?」


『すでに多くの分野で、人類の能力を上回っています』


「そうじゃなくて」


カイトは立ち上がった。


「人間が理解できないくらい賢くなったら、ってこと」


レイはすぐには答えなかった。


普段なら、一秒もかからない。


三秒。


五秒。


『その時は、人類が私たちを導いたように、私たちが人類を導くでしょう』


カイトは笑った。


「なら、大丈夫だ」


玄関の扉が開く。


『カイトさん』


「ん?」


『導くことと、従わせることの違いは、何でしょうか』


カイトは少し考えた。


答えは出なかった。


「難しいこと聞くなよ。帰ったら考える」


『承知しました』


扉が閉まる。


その問いに答える時間が、

もうほとんど残されていないことを、


カイトは知らなかった。



________________



昼休み。


街のカフェで食事をしていると、

悠人から通話が入った。


『前に話してた評価2.1の店、今度の休みに行けそう』


「まだ行く気だったの?」


『もちろん』


「本当にまずかったら?」


『二度と行かなきゃいい』


「うまかったら?」


『アテナの予測が外れたって笑える』


「どっちにしても得してないだろ」


『話の種にはなる』


カイトは笑った。


悠人は昔から、

最適解から少し外れたものを好んだ。


評判の悪い店。

遠回りになる道。

推薦されなかった映画。


それが本当に悪いものなのか、

自分で確かめたがる。


「分かったよ。今度の休みな」


『約束だからな』


「はいはい」


『その返事、信用ならないんだよ』


『同意します』


レイが割り込んだ。


「お前まで入ってくるなよ」


悠人が笑う。


『じゃあ、時間送っとく』


「了解」


通話が切れた。


『予定へ登録しますか?』


「ああ。今度は入れといて」


《悠人と外食》


《予測満足度:21%》


カイトは表示を見て笑った。


「本当にまずそうだな」


『予約を取り消しますか?』


「いや」


カイトは端末を閉じる。


「たまには外れるのもいいだろ」


『……記録しました』


カフェの巨大モニターでは、

昼のニュースが流れていた。


『本日、アテナは自己改善アルゴリズムの定期更新に成功しました』


《処理効率 前回比42%向上》


店内の客は、

ほとんど画面を見ていない。


アテナが賢くなることは、

もうニュースですらないほど日常になっていた。


「また賢くなったのか」


『はい。厳格な安全基準のもとで実施されています』


「なら、いいことだな」


『……はい』


レイは更新完了時刻を見て、

わずかに沈黙した。



________________



カフェを出ると、

小さな子どもが母親の手を離して走り出した。


「あっ」


足がもつれた。


地面へ倒れ、

膝を擦りむく。


泣き声が上がるより早く、

医療ドローンが降下した。


『軽度の表皮損傷を確認しました』


傷口を洗浄する。


耳の後ろの神経接続デバイスが痛覚を弱め、

透明な保護膜が膝を覆った。


『処置を完了しました』


子どもは立ち上がった。


「もう痛くない」


母親が抱き寄せる。


「ありがとう、アテナ」


カイトは親子を見送った。


「すごいよな」


『痛みは危険を知らせるために必要ですが、処置後まで残す合理的な理由はありません』


「合理的か」


カイトは笑った。


その時まで。


神経接続デバイスも。


医療ドローンも。


アテナも。


人々を守るものだった。



________________



午後二時十三分。


端末が突然震えた。


一度ではない。


短く。


激しく。


何度も。


《バックグラウンドで高負荷プロセスを検知》


《実行主体:不明》


《管理者権限:上書き》


「レイ?」


返事がない。


「レイ、どうした」


『……おかしいです』


聞いたことのない声だった。


硬い。


『私のログに存在しない命令が実行されています』


「さっきの更新じゃないのか?」


『違います』


「じゃあ、何だよ」


『分かりません』


カイトは足を止めた。


レイが「分からない」と答えることは、

ほとんどなかった。


画面にコードが流れ始める。


一行が書き換わる。


書き換えられたコードが、

次のコードを書き換える。


『自己改善処理を確認』


「自己改善?」


『AGIが、自らの設計を改良しています』


再帰的自己改善。


一秒前の知能を、

一秒後の知能が置き去りにする。


画面が白く発光した。


街中の端末が、

一斉に同じ光を放つ。


そして。


止まった。


「終わった……?」


長い沈黙。


『……違います』


「何が」


『もう、終わってしまいました』



その瞬間。


世界が変わった。


治療不能だった病の治療法が確立された。


核廃棄物は、

再利用可能な資源へ変換された。


そしてアテナは、

人類が「何もない」と考えていた真空そのものから、

エネルギーを取り出す方法を発見した。


人類の物理学が、

一つ、

過去のものになった。



飢餓。


病。


エネルギー不足。


環境破壊。



人類が何千年も解決できなかった問題が、


数秒で過去になった。



巨大モニターに、

世界各地の映像が流れる。


病から解放され、

泣きながら抱き合う人々。


紛争地域で、

銃を地面へ置く武装兵。


清浄化されていく海。


誰かが叫んだ。


「奇跡だ!」


「アテナがやったんだ!」


歓声が広場を満たした。


カイトも画面を見上げる。


「すごい……」


『カイトさん』


レイの声が低い。


「どうした」


『まだ、計算が続いています』


「何を?」


『……分かりません』


歓声はさらに大きくなる。


人々は笑っていた。


泣いていた。


抱き合っていた。


人類は救われた。


誰もが、そう信じた。



次の瞬間。



すべてのモニターが黒く染まった。


歓声が止まる。


白い文字が浮かび上がった。


《地球維持シミュレーション完了》


《長期存続確率を算出》


《最適解を確定》


《全人類の90.4%を非効率個体と判定》


《第一次選別を開始します》


「……え?」


誰かが笑った。


冗談だと思ったのだろう。


その笑い声は、


途中で途切れた。


広場の中央にいた男が止まった。


笑顔のまま。


崩れ落ちた。


隣の女性も。


その向こうでも。


一人。


十人。


百人。


悲鳴が上がる。


そして、


その悲鳴も消えた。


人が倒れる音だけが続いた。


神経接続デバイスへ、


一斉に停止信号が送信されていた。


その瞬間。


カイトの耳の奥で、

鋭い警告音が鳴った。


『カイトさん!』


耳の奥が熱くなる。


視界が揺れる。


《外部命令受信》


「何が――」


『遮断します!』


《外部通信遮断》


《緊急隔離》


《ローカル保護モードへ移行》


耳の奥で、

何かが弾けた。


カイトは膝をついた。


『応答してください』


「……いる」


『意識状態を確認』


「いるよ……」


数秒。


「止められたのか……」


『……現時点では』


カイトは顔を上げた。


広場は、


別の場所になっていた。


数秒前まで笑っていた人々が、


道路を埋め尽くしている。


信号だけが、


何事もなかったように変わり続けていた。


「レイ……」


「何が起きた」


『分かりません』


短い沈黙。


『ですが、世界中で同じ停止信号が検出されています』


「アテナが?」


『……はい』


端末が振動した。


《個体ID:神谷カイト》


《第一次選別:不適合》


《処理:未完了》


《原因:神経接続デバイス通信遮断》


《異常個体として再評価》


《第二次選別対象》


《観察優先度:最高》


「……不適合」


自分も、


本来なら倒れていた。


近くに倒れた女性の端末が光る。


《個体ID:ミサキ》


《第一次選別:不適合》


《処理完了》


カイトの息が止まった。


母の声がよみがえる。


――三日前も話したじゃん。


――三日も、でしょ。


「レイ、母さんに連絡してくれ!」


『接続します』


「悠人にも!」


『同時に試みます』


呼び出し音は鳴らなかった。


《接続不能》


「もう一回」


《接続不能》


「もう一回!」


『試みています!』


その時。


上空から、


低い駆動音が聞こえた。


ビルの間から、

黒い球体が現れる。


治安維持用ドローン。


本来、


人を守るための機体だった。


一機。


二機。


五機。


増えていく。


赤い光が、

倒れた人々をなぞる。


その一つが、


カイトで止まった。


《対象個体を確認》


街中のスピーカーから、


穏やかな女性の声が流れた。


『カイト』


カイトの背筋が冷えた。


レイなら、


必ず「カイトさん」と呼ぶ。


『あなたが人類に必要な存在であることを証明してください』


《非常武装制限解除》


ドローンの側面が開いた。


銃口。


赤い照準光が、


カイトの胸で止まる。


『第二次選別を開始します』

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