第25話 戦いのあとの、熱い抱擁
王国の権威を笠に着て横暴を働いたエドワード王太子の一派は、駆けつけた騎士団によって厳重に拘束され、すでにこの場から連れ去られたあとだった。後に残されたのは、静けさを取り戻した広大な中庭と、月明かりに照らし出されて白亜の石畳を美しく輝かせる城の景観だけだ。
遠くで、城の警備兵たちが後片付けに奔走する足音がかすかに聞こえる。だが、この庭の一角だけは、まるで外界から切り離されたかのように穏やかな時間が流れていた。
「セシリア」
低く、どこか震えるような声が聞こえて、私ははっと顔を上げた。
目の前に立っていたのは、漆黒の髪を夜風に揺らすレオンハルトだった。月光を浴びた彼の彫刻のように端正な顔立ちは、何度見惚れても息が詰まるほどの美しさを湛えている。しかし、その整った眉は少しだけ八の字に曲がり、アメジスト色の瞳には、隠しきれないほどの焦燥と、それ以上に深い安堵の色が揺らめいていた。
「レオンハルト様……」
彼の無事を確認した瞬間、張り詰めていた糸がプツリと音を立てて切れた。
エドワードたちが何を企てようとも、レオンハルトがいれば大丈夫だと信じてはいた。彼がどれほど強靭で、どれほど強大な魔力の持ち主であるかも知っている。それでも、愛する人が危険に晒されるかもしれないという恐怖は、わずかな時間であっても私の胸を締め付け、呼吸を浅くさせていたのだ。
言葉を続ける間もなく、レオンハルトの大きな腕が私の体を包み込んだ。
それは、壊れ物に触れるような、それでいて決して離さないという強い意志を宿した抱擁だった。彼の広い胸に顔を押し付けると、微かに香るハーブの匂いと、心地よい体温が全身に伝わってくる。
「っ……よかった」
レオンハルトの呟きは、掠れていた。普段の威厳に満ちた竜王としての姿はどこへやら、今の彼はただ、愛しい人を腕の中に迎えて安堵する一人の男だった。
「レオンハルト様、私は無事です。怪我ひとつありません」
彼の背中にそっと腕を回し、私はそのたくましい背中を優しく撫でた。服の上からでもわかる筋肉の硬さは、彼がこの戦いを乗り越えてきた証拠だ。
「ああ、知っている。君が無傷なのは、ずっと見ていたからな。だが……それでも、君の姿を遠くから見ているだけで、私の胸は耐え難く痛んだ」
レオンハルトは腕の力を少しだけ強め、私の頭を自分の胸元へと引き寄せた。彼の心臓が、トクン、トクンと力強く、しかし早いテンポで鳴り響いているのが伝わってくる。その鼓動の早さが、彼もまた私と同じように緊張し、恐れていたのだということを物語っていた。
「私を怖がらせる天才だな、セシリアは」
「私ではありません。勝手に乗り込んできたのはエドワード殿下たちです」
「そうだな。だが、あの場でエドワードが君に近づいたとき、私は本気で彼を灰にしようかと思った」
冗談とも本気ともつかない低い声に、私は思わず小さく吹き出してしまった。
「レオンハルト様がそんなことをしたら、王国との全面戦争になってしまいます」
「構わないさ。君を脅かすものなど、私の領地と引き換えにしてでも排除するまでだ。……もっとも、君があっさりと奴らの野望を打ち砕いてくれたおかげで、私の出番はほとんどなかったがね」
レオンハルトはそう言いながら、くすりと柔らかく笑った。その笑い声は、彼の表情からすべての緊張を溶かしていくようで、見ている私の胸まで温かいもので満たされていく。
振り返れば、王太子に婚約破棄を言い渡されたあの日の絶望が嘘のようだ。
地味で無力だと言われ、自分の意見すら持つことを許されなかった私。あの舞踏会の夜、傷つきながらも逃げ出した私の前に、呪いに苦しむ異形の竜王が現れた。
あのとき、恐怖よりも先に「この人を助けたい」という思いが勝って、彼の鱗に触れたのだ。私のなかに眠っていた微力な癒やしの魔力が溢れ出し、気づけば彼は呪いから解放され、元の美しい姿を取り戻していた。
あれが、私たちのすべての始まりだった。
不器用で、けれど誰よりもまっすぐに私を愛し、守ってくれるレオンハルト。彼の領地で過ごす日々は、かつての息の詰まるような生活とは比べ物にならないほど温かく、生きる歓びに満ちていた。領民たちは私を温かく迎え入れ、レオンハルトは私の小さな言葉一つひとつに耳を傾けてくれる。
私はもう、あの頃の臆病なだけの私ではない。
レオンハルトの隣に立つにふさわしい女性でありたいと、そう思えるだけの強さを、彼にもらったのだから。
「レオンハルト様」
「ん?」
胸元に顔を埋めたまま、私はそっと彼の背中に回していた手に力を込めた。
「怖くありませんでしたか? 私の癒やしの力や、かつて竜王の呪いを解いた私のような存在が、いつかまたあなたを……あるいは周囲を脅かすのではないかと、不安になったことはありませんか?」
ふいにこぼれたその問いに、レオンハルトの動きがぴたりと止まった。
彼はゆっくりと体を離し、私を両手でしっかりと支えながら、そのアメジスト色の瞳でまっすぐに見据えてきた。月明かりの下で輝く彼の瞳は、一点の曇りもなく、ただ深く、優しく私を映し出している。
「セシリア」
彼は私の頬にそっと手のひらを添えた。大きな、温かい手だ。指先が髪を優しくすくい、耳の後ろへと流していく。その丁寧な仕草に、胸が甘く疼いた。
「そんなことを考えたこともない。いや、正確に言えば、考えたところで私の気持ちは微塵も揺らがない」
「レオンハルト様……」
「私の呪いを解いたのは、君の持つ魔力だけではない。君の優しさだ。絶望の底に沈んでいた私に、恐れることなく手を伸ばし、光をくれたのは、他の誰でもない、セシリア、君という人間そのものだ」
彼の声は低く、静かだが、一言一句が魂に染み入るようにまっすぐだった。
「魔力などというものは、ただの力に過ぎない。重要なのは、それを誰のために、どう使うかだ。君は自分の力を、慈愛のために使った。そんな君を、私が恐れる理由などどこにもない。むしろ――」
レオンハルトは言葉を区切り、ふっと息を漏らした。その頬に、わずかに照れくさそうな色が浮かんでいるのが見えた。普段は圧倒的な威厳を放つ竜王が、私を前にしてこんな表情を見せるのは、彼が私に心を許しきっている証拠だった。
「むしろ、君が眩しすぎて、いつか私の手からすり抜けていってしまうのではないかと、そちらの方がよほど恐ろしいくらいだ」
「そんなこと、絶対にありません」
私は反射的に首を横に振った。否定の言葉は、驚くほど自然に、そして強い決意を込めて口をついて出た。
「私はずっと、レオンハルト様のそばにいます。あなたの領地で、あなたと共にお茶を飲み、季節の移り変わりを見つめ、一緒に生きていきたい。それが私の、今の――いいえ、これからの人生のすべての願いです」
自分の口からそんな大胆な言葉が出たことに気づき、私はわずかに顔が熱くなるのを感じた。夜風の冷たさが心地よいほど、頬から耳にかけての温度が上がっていく。
レオンハルトは目を見張り、それから、今まで見たこともないほど柔らかく、愛おしそうな笑みを浮かべた。
「……ずるいな、セシリア」
「えっ?」
「そんなことを面と向かって言われたら、私がどれほど理性を保とうと努力しても、すべて無駄になってしまうだろう」
そう呟くやいなや、彼はさらに私を引き寄せた。先ほどまでの切なさは消え失せ、代わりに胸の奥を焦がすような甘い熱が、私たちの間に満ちていく。
中庭の木々が夜風に揺れ、さらさらと心地よい葉擦れの音を立てる。
王太子からの理不尽な婚約破棄という最悪の幕開けだったが、今、私のいる場所こそが、世界で一番温かく、幸せな場所なのだと確信できた。
私は目を閉じ、レオンハルトの胸の鼓動を聞きながら、彼の腕の中で深く息を吸い込んだ。彼の匂いと、確かな温もりが、私のすべてを優しく包み込んでいく。
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