第20話 囚われたセシリアとエドワードの歪んだ執着
(レオンハルト様……)
胸の奥が締め付けられるように痛む。彼の身が案じられて、全身から力が抜けていくようだった。自分の無力さが歯痒い。あの時、もっと何かできたはずだ。彼を一人で行かせなければ、彼の盾にでもなれたら、もしかしたらこんなことには――。いや、それは傲慢だ。竜王である彼が、自分のために危険を冒したのだ。そして、自分はあっけなく捕らえられてしまった。
手首と足首には、見慣れない鈍い光を放つ魔力の拘束具がはめられている。通常の力ではびくともしないばかりか、癒やしの魔力を込めようとすると、逆に体の奥から魔力が吸い取られるような感覚に陥った。これは、竜の魔力を封じるために特化した術式なのだろうか。
どのくらいそうしていただろう。時間感覚が曖昧になり始めた頃、重々しい金属の軋む音が響き渡り、部屋の扉がゆっくりと開いた。薄明かりが差し込み、目に眩しい。思わず顔を背けた先、そこに立っていたのは、かつて自身の婚約者だった男、エドワードだった。
彼の顔には、微かな疲労と、それ以上に傲慢な自惚れが張り付いているようだった。セシリアは息をのんだ。彼の瞳の奥に宿る、ねっとりとした粘着質な光が、何よりも不快だった。
「……エドワード、殿下」
セシリアの声は掠れて、思ったよりもずっと弱々しかった。彼がここにいるということは、まさか、この捕獲劇の裏に彼が関わっているのだろうか。思考が急速に回転し始める。
エドワードはセシリアをゆっくりと見下ろすと、嘲笑を浮かべた。
「ようやく目を覚ましたか、セシリア。まさか、そんな牢の奥底で、貴様と再会することになるとはな」
その声には、かつての冷たさだけでなく、底知れない愉悦が混じっているように聞こえた。セシリアは身震いした。
「随分と落ちぶれたものだな、伯爵令嬢。たった数ヶ月前まで、王太子の婚約者として王城を謳歌していたお前が、今や汚れた地下牢の囚人か。哀れなものだ」
エドワードの言葉は、ねっとりとセシリアの心にまとわりつく。しかし、その言葉の刃は、不思議とセシリアの心には深く届かなかった。かつての彼女ならば、きっと傷つき、絶望しただろう。しかし、今のセシリアには、彼が放つ言葉の毒が、ひどく色褪せて聞こえた。
「……何の御用でしょうか」
セシリアは努めて冷静に問い返した。声はまだ震えていたが、それは恐怖からではなく、目の前の男に対する生理的な嫌悪感からだった。
エドワードは一歩、また一歩とセシリアに近づいてくる。その歩みは、まるで獲物を追い詰める捕食者のようだった。彼の足音が、この静寂な空間に異様に響く。
「用だと? 当然だろう。貴様を捕らえたのは、この私なのだからな」
彼はそう言って、ゆっくりとセシリアの目の前に跪いた。そして、汚れた彼女の頬に、凍える指を這わせようと手を伸ばす。セシリアは反射的に顔を背けた。
エドワードは気にすることなく、空を切った手をそのまま宙で握りしめ、愉しげに目を細めた。
「やはり、見違えるほど美しくなったな、セシリア。あの地味で目立たなかった伯爵令嬢が、まるで別人のようだ」
彼の視線が、セシリアの身体の隅々まで這い回る。肌が粟立つような不快感に、セシリアは耐えきれずに身を引いた。拘束具が、冷たい音を立てる。
「まさか、あの呪われた竜王が、貴様をここまで変えるとはな。正直、驚きを通り越して、感銘すら受けた」
エドワードの言葉は、奇妙な熱を帯びていた。彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の中を歩き回り始めた。セシリアの視線は、彼の後を追う。
「貴様の癒やしの力……あれほど強力なものだったとは、誰も知らなかった。いや、貴様自身も、知らなかったのだろう?」
彼の言葉は、セシリアの心をざわつかせた。癒やしの力。レオンハルトを救った力。それと、今の状況に、一体どんな関係があるというのだろう。
「……それが、何だというのです?」
セシリアは、冷たく言い放った。彼の言葉の端々から、何か企んでいることが伝わってくる。
エドワードは壁に飾られた、錆びついた剣に触れながら、フフ、と乾いた笑い声を漏らした。
「何、だと? はは、実に面白い。貴様はまだ分かっていないのだな。その力が、どれほどの価値を持つかを」
彼はセシリアの方へと向き直る。その顔には、狂気にも似た光が宿っていた。
「あの竜王は、貴様を手に入れたことで、呪いから解放されただけでなく、より強大な力を得た。それも、貴様の癒やしの力によって。貴様は、あの忌々しい竜を、絶世の美男子に戻しただけでなく、さらなる高みへと導いたのだ」
エドワードの言葉は、セシリアの胸に鉛のように重く響いた。レオンハルトを癒やしたことに後悔はない。しかし、彼がそのために狙われる原因になってしまったのだとしたら、自分の存在が、彼にとって重荷になっているのだとしたら――。
だが、すぐにその思考を打ち消した。レオンハルトは、そんなことを決して思わない。彼はいつも、真っ直ぐな愛と信頼を自分に注いでくれた。自分も、彼を信じ抜かなくては。
「レオンハルト様は、私をモノのように扱ったりはなさいません。そして、私の力は、私自身のものであり、誰かに利用されるためにあるのではありません」
セシリアは、震える声に力を込めて反論した。
エドワードは、セシリアの言葉を聞き終えると、呆れたようにため息をついた。
「相変わらず、可愛げのない女だ。あの時、私がお前との婚約を破棄しなければ、その力は私のものとなっていたはずなのに。いや、あの時点では、まだ目覚めてすらいなかったか。運命とは、皮肉なものだな」
彼の言葉には、今更ながらの後悔と、取り逃がした獲物への未練が滲んでいた。セシリアの力が、まさかこれほどまでに強大であるとは、彼も想像していなかったのだろう。
「だが、これでいい。貴様を一度手放したことで、私自身の未熟さを思い知らされた。竜王レオンハルトなどという不埒な輩に奪われるなど、王族としての最大の恥だ」
エドワードは、セシリアの目の前まで来ると、再びゆっくりと跪いた。
「セシリア。もう一度、私のもとに戻ってこい。貴様は、私にとって必要な存在だ。いや、貴様の力こそが、この国の未来を担う。竜王などという、野蛮な異形の王に仕えるよりも、王太子の、いや、いずれは王妃として、私の隣で、この国を支えるのだ」
彼の言葉は、甘く囁かれているようでいて、その実、セシリアを自分のもとに繋ぎ止めるための、冷酷な命令だった。彼の瞳には、かつての婚約者への愛情など、微塵も宿っていなかった。そこにあるのは、セシリアの「力」に対する、剥き出しの欲望と、それを手に入れようとする歪んだ執着だけだ。
「貴様の癒やしの力と、それに伴う新たな能力……。それがあれば、私とこの国は、盤石となる。この私に、絶対的な力を与えてみせろ。そうすれば、貴様は再び、王城の輝かしい舞台へと戻れるのだ」
エドワードの言葉は、セシリアの心に、冷たい氷の矢のように突き刺さった。彼が求めているのは、セシリア自身ではない。彼女の持つ、都合の良い「力」だけだ。
「レオンハルトなど、遠い昔の夢物語だ。貴様は所詮、あの竜王に利用されているに過ぎない。さあ、賢い選択をしろ、セシリア」
彼は、セシリアの手首に嵌められた拘束具に、おぞましい指を伸ばした。その瞬間、セシリアの心に、凍てつくような怒りが燃え上がった。
レオンハルト様が、私を利用している? 彼の深い愛情が、偽りだと?
そんな馬鹿な。あの温かな瞳、優しく包み込む腕、そして、どんな時も真っ直ぐに自分だけを見つめてくれた、彼の心。あの全てが、偽りであるはずがない。
セシリアは、エドワードの言葉を、耳を塞ぎたくなるような汚れた雑音として認識した。彼の歪んだ欲望、自分への見当違いな執着、そしてレオンハルトへの侮辱。その全てが、セシリアの心を、より強く、より頑ななものへと変えていく。
彼が本当に欲しがっているのは、私の癒やしの力だけだ。そして、その力を手に入れるためなら、どんな嘘でも、どんな卑劣な手段でも使うだろう。かつて私が、彼にとって価値のない、地味な伯爵令嬢でしかなかったように、今もまた、私は彼にとって、ただの道具なのだ。
冷たい牢の底で、セシリアはきつく唇を噛み締めた。その瞳に、今まで感じたことのない、揺るぎない決意の光が宿る。
レオンハルト様が、自分を守るために戦ってくれている。ならば、私も、ここで決して屈してはならない。彼が私を信じてくれるように、私も彼を信じ抜く。そして、何が何でも、この場所から、彼の元へと帰ってみせる。
エドワードの歪んだ執着など、決して受け入れるものか。
セシリアは、自分を蝕もうとする闇に対し、静かに、しかし確かな意志を燃え上がらせた。
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