第14話 私が怒っていたのはそこじゃない

 月曜日の昼休み、透羽と講義棟を出たところで、少し離れた場所に立っていたりりあと目が合った。


 公園で最後に話して以来、りりあとは大学ですれ違えば挨拶を交わす程度の関係になっている。


 付き合っていた頃のように頻繁に連絡を取ることはなくなったが、互いに避けているわけでもない。


 だから最初は、今日も軽く言葉を交わして終わるのだと思っていた。


「麟太郎。それと……透羽、今日の昼休み少し時間ある?」


 りりあは俺に声をかけたあと、隣にいる透羽へ視線を移した。


 透羽はすぐには答えず、りりあの表情を見ている。


「少しなら」


「ありがとう。できれば、麟太郎も一緒に来てほしい」


 俺まで呼ばれるとは思っていなかった。


「俺も?」


「うん。2人きりだと、たぶん私が途中で言いたいこと誤魔化すから」


 りりあらしい言い方だった。


 強がるところがあるくせに、自分が逃げそうな時だけは妙に正直になる。


 俺は透羽を見る。


 彼女が嫌なら無理に付き合うつもりはなかったが、透羽はしばらく考えたあと静かに頷いた。


「私は大丈夫」


 それなら、と俺も断る理由はなかった。


 3人で人の少ない中庭へ向かった。


 昼休みの中庭には、弁当を広げている学生やベンチで話しているグループがいくつかいた。


 俺たちは少し離れた場所にあるベンチの前まで歩き、りりあが先に腰を下ろした。


 透羽はその隣ではなく、正面に近い位置へ座る。


 俺は少し距離を空けて、その横へ座った。


「最初に言っとくけど、麟太郎とのことをもう一回どうにかしたいとか、そういう話じゃないから」


 りりあが先にそう切り出した。


 俺との関係については、前に十分話している。


 今さらそこを持ち出すつもりではないことくらい、俺にも分かっていた。


「今日は透羽に話したくて呼んだの」


 りりあはそこで一度言葉を止める。


「私たち、麟太郎と別れてからちゃんと話してないじゃん」


 透羽は否定しなかった。


 以前は3人で出かけることも多く、俺がいない時にも2人で会っていた。


 けれど、別れてからはその関係がほとんど途切れている。


「私も、最初は透羽と話したくなかった。絶対怒ってるの分かってたし、何言われるか怖かったから」


「分かってたなら、別に今さら無理して話さなくてもいいんじゃない?」


 透羽の声は落ち着いていたが、俺と話す時より少し硬かった。


 りりあもそれには気づいたはずだ。


「私もそう思ってた。でも、このままずっと何も言わない方が嫌になった」


 前みたいに戻りたい、とまでは口にしなかった。


 そこを簡単に求めないところを見ると、りりあなりに考えてきたのだと思う。


「まず、麟太郎のことなんだけど」


 りりあがそう言うと、透羽の目が僅かに細くなる。


「私、透羽が麟太郎のこと好きなの知ってたのに、先に告白したでしょ」


「うん」


「そこについては、謝るつもりはない」


 意外だったのか、透羽が少しだけ眉を動かした。


 俺も横で聞いていて、思わずりりあを見る。


「恋愛って、先に好きになった方が優先されるものじゃないし、透羽が麟太郎を好きだったからって、私が諦めなきゃいけないとは思ってない。あの時の私は麟太郎と付き合いたかったし、麟太郎も私を選んでくれた」


 りりあはそこまで言ってから、少しだけ視線を落とした。


「でも、そのあと私がしたことは別」


 透羽は黙ったまま続きを待つ。


「透羽が一回引いてくれたのは分かってた。付き合い始めたばっかりの頃なんて、絶対面白くなかったはずなのに、3人で会う時はいつも通りだったし、私が麟太郎の話しても何も言わず聞いてくれてた」


 その頃の透羽の気持ちを、当時の俺は何も知らなかった。


 俺にとっては、りりあの親友で、3人でいるうちに自然と仲良くなった相手だった。


 けれど透羽にとっては、俺たちが付き合い始めたあとも簡単に気持ちを整理できたわけではなかったのだろう。


「なのに私は、麟太郎と付き合ってるくせに怜央と比べて、最後は内緒で何度も会って……それなのに麟太郎と透羽が仲良くなったら嫌だって思った」


 りりあは今度こそ透羽から目を逸らさなかった。


「そこは、本当にごめん」


 透羽はすぐに返事をしなかった。


 りりあも、許してほしいと急かすことはない。


 少し長い沈黙のあと、透羽が静かに口を開いた。


「私が怒ってたの、それだけじゃないよ」


「うん」


「りりあに先に告白されたことを、ずっと恨んでたわけでもない」


 透羽は一度だけ俺の方を見た。


「麟太郎くんがりりあを選んだ時は、ちゃんと諦めるつもりだった。最初はつらかったし、2人が一緒にいるのを見たくない日もあったけど、それは私が勝手に好きだっただけだから」


 その話は以前、俺も本人から聞いている。


 ただ、りりあに向けて口にすると、言葉の重さが少し違って聞こえた。


「私が本当に腹立ったのは、りりあが麟太郎くんを選んでもらったあと」


 りりあの表情が僅かに固くなる。


「何かあるたび怜央と比べて、麟太郎くんが嫌そうにしてても気づかなかった。気づいた時も、深く考えずに流してたでしょ」


 俺は何も言わなかった。


 あの頃、りりあだけが悪かったとも思っていない。


 俺自身が嫌だと伝えず、傷ついても大したことではないように振る舞っていた。


 ただ、外から見ていた透羽には、俺たちとは違うものが見えていたのだろう。


「それでも麟太郎くんがりりあを好きだったから、私は口を出さなかった」


 透羽の声は低くも強くもない。


 それでも感情が隠れていないことは分かった。


「私が諦めた人を選んでもらったなら、ちゃんと大切にしてよって思ってた」


 りりあは何も言い返さない。


「それなのに怜央が戻ってきた途端、麟太郎くんを待たせたまま迷ってた」


 透羽はそこで一度息を吐いた。


「だったら最初から私に譲ってよって思ったし、そこまで迷うくらいなら返してよって、本気で思った」


 かなり強い言葉だった。


 ただ、それが文字通りの意味ではないことも分かる。


 透羽自身もすぐに少し眉を寄せた。


「麟太郎くんが誰かの物じゃないのは分かってる。でも、それくらい腹が立ったってこと」


「そこは一応、本人として安心した」


 俺が軽く口を挟むと、張りつめていた空気がほんの少し緩んだ。


 透羽はこちらを見る。


「ちゃんと分かってるよ」


「なら大丈夫」


 それ以上は何も言わなかった。


 この話の中心は俺ではない。


 りりあはしばらく黙ってから、小さく頷いた。


「透羽がそこまで怒ってたの、ちゃんと分かってなかったかも」


「分かってたと思うよ。見ないようにしてただけで」


「……それはあるかも」


 りりあは苦笑した。


 けれど、それだけで全部を終わらせるつもりはないらしい。


「でも、私も透羽に言いたいことある」


 今度は透羽が静かに続きを待った。


「麟太郎と別れた直後に、すぐ近づいたのは嫌だった」


 透羽の目が少し動く。


「私が言える立場じゃないのは分かってる。でも、別れたその日に会ってるし、それより前から麟太郎に何か言ってたんでしょ」


 俺は少しだけ居心地が悪くなった。


 浮気の提案について、りりあに細かく話した覚えはない。


「どこまで知ってるんだ?」


「詳しく聞いたわけじゃないよ。でも透羽見てたら、大体分かる」


「どういう見られ方してるの、私」


「親友だったから分かるの」


 透羽はそこで否定しなかった。


「それは怒られても仕方ないと思う」


 りりあが少しだけ驚いた顔をする。


「認めるんだ」


「あの頃の私は、かなり自分勝手だったから」


 透羽は淡々と答えた。


「麟太郎くんを助けたい気持ちがなかったわけじゃない。でも、それだけでもなかった」


 その言葉を聞いて、俺は第1話の夜を思い出した。


 りりあのことを教えに来た透羽は、俺が別れようとした時に止めた。


 そして、自分と浮気をしてみないかと持ちかけた。


 当時は怒りが大きいのだと思っていたが、それだけではなかったことも今なら分かる。


「また見てるだけで終わるのが嫌だった」


 透羽が続ける。


「一度りりあに先に行かれて、そのあと私はずっと引いてた。だから今度も何もしなかったら、また自分で後悔すると思った」


 りりあは少しだけ目を細めた。


「だから別れる前から麟太郎に近づいたの?」


「うん」


「それ、やっぱり性格悪いよ」


「そこは否定しない」


「反省してる?」


「やり方は反省してる。でも、何もせずにいた方がよかったとは思ってない」


 透羽はそこで譲らなかった。


 りりあも少しの間黙っていたが、やがてため息のように息を吐いた。


「そこが透羽っぽくて腹立つ」


「りりあに言われたくない」


「私も大概なのは分かってるよ」


 2人の言い方が、少しだけ以前のものに戻る。


 それを見て、俺はようやく肩の力を抜いた。


「何かさ」


 りりあが少し笑う。


「私、謝ろうと思って来たのに結局透羽にも文句言ってるね」


「その方がいいんじゃない?」


「そう?」


「全部りりあが悪かったって話で終わったら、たぶん私は余計に嫌だった」


 透羽は少し考えてから続ける。


「私も自分の気持ち優先して動いたし、綺麗なことだけしてたわけじゃないから」


「じゃあ、お互い性格悪かったってことでいい?」


「一緒にしないで」


「今そこ否定する?」


 りりあが思わず笑い、透羽も僅かに口元を緩めた。


 俺はそのやり取りを見ながら、以前の2人がどんなふうに話していたのかを少し思い出す。


 すぐに元通りになるわけではない。


 けれど、完全に終わってしまった関係でもないのだろう。


 昼休みが終わる時間が近づき、周囲の学生も少しずつ講義棟へ戻り始めた。


 りりあがスマホで時刻を確認して立ち上がる。


「最後に一個だけ」


 透羽も顔を上げた。


「今すぐ前みたいに戻ってとは言わない。でも、そのうちまた2人でご飯くらい行かない?」


 以前なら当然のようにしていたことなのだろう。


 だからこそ、今は簡単に約束できるものではない。


 透羽は少しだけ考えた。


「すぐは無理かもしれないけど、そのうちなら」


「分かった。それ以上は今言わない」


 りりあは満足したように頷いた。


「じゃあ、そのうち連絡する」


「何回も送ってこないでね」


「1回は送っていいんだ」


「今の言い方なら」


 りりあが笑った。


 透羽も完全に以前の表情へ戻ったわけではないが、さっきまでの硬さはなくなっている。


 それだけでも、今日話した意味はあったのだと思う。


 3人で中庭を出たあと、りりあとは別の講義棟へ向かう途中で別れた。


「じゃあね、麟太郎。透羽も」


「ああ」


「またね」


 透羽がそう返す。


 りりあはその言葉に少しだけ嬉しそうな顔をしたが、何も付け足さず手を振って歩いていった。


 俺と透羽も午後の講義へ向かう。


 しばらく無言で歩いたあと、透羽が小さく息を吐いた。


「疲れた」


「珍しいな。結構言いたいこと言ってたように見えたけど」


「言ったから疲れたの」


「なるほど」


 透羽は少しだけ前を見たまま歩く。


「麟太郎くんがいたから、まだ言えたのかも」


「俺ほとんど何もしてないよ」


「それでよかった」


 もし俺が途中でどちらかを庇ったり、話をまとめようとしたりしていたら、余計にこじれていたかもしれない。


 俺自身も、そこに入るべきではないと思っていた。


「りりあと、また前みたいになれそう?」


「分からない」


 透羽は少し考えてから答えた。


「今すぐ同じようには無理。でも、今日話す前よりは、また会ってもいいと思ってる」


「それなら十分じゃない?」


「かもね」


 そこで会話は一度途切れた。


 ただ、気まずさはなかった。


 講義棟が見えてきたところで、透羽がふいにこちらを見た。


「でも、麟太郎くん」


「何?」


「さっき私が性格悪いって言われた時、否定しなかったね」


「本人も否定してなかっただろ」


「それは私が言うのはいいの」


「面倒くさいな」


「そういうところも含めて好きになってもらわないと困る」


 自然に出た言葉なのか、透羽は言ってから少しだけ表情を変えた。


 俺はそれを聞いて、思わず笑う。


「もう結構慣れてるよ」


「慣れるのと好きなのは違うでしょ」


「じゃあ、ちゃんとその辺も含めて見てる」


 透羽が足を緩める。


「最近、麟太郎くんの方がそういうこと言うようになったよね」


「透羽が散々言ってきたから、少しくらい返してもいいだろ」


「別に嫌とは言ってない」


 そう言いながら、透羽は少しだけ顔を逸らした。


 からかっている時より、こうして不意に返される方が弱いらしい。


 講義棟の入口へ着く直前、透羽が立ち止まった。


「日曜、空いてる?」


「今度の日曜?」


「うん」


 予定を思い返す。


「空いてるよ」


「じゃあ、どこか行かない?」


 以前なら、透羽から誘われたこと自体に意味を探していた。


 今はもう、その必要はない。


「いいよ。ただ、行き先は俺が考えてもいい?」


 透羽が少し意外そうにこちらを見る。


「また誘う側やるの?」


「嫌?」


「全然」


 透羽はすぐに否定した。


「むしろ任せたい」


「じゃあ決まり。あとで時間だけ送る」


「うん」


 そこで別れ、それぞれの教室へ向かった。


 午後の講義が始まってからも、昼休みのやり取りが少しだけ頭に残っていた。


 りりあと透羽の関係は、今日一日で元通りになったわけではない。


 それでも、2人とも言いたかったことを言って、相手からも言い返された。


 曖昧なまま距離を取っていた頃よりは、きっとずっといい。


 そして日曜日。


 透羽と会う約束も決まった。


 次にどこへ行くかは、まだ決めていない。


 けれど、それ以上に考えていることがある。


 俺はもう、透羽に好かれているから彼女と会っているわけではない。


 自分から会いたいと思い、次の時間を作ろうとしている。


 そこまで分かっているのなら、いつまでも透羽だけに気持ちを言わせるわけにはいかない。


 次に2人で会う時には、俺の方からきちんと伝えようと思った。

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