第1話 過去は、追いついてくる

 弟の悠理(ゆうり)が、人を殺した。


 その報(しら)せを父さんから受けたとき、俺は大学にいた。講義の合間の、間延びした昼下がりだった。窓の外では誰かが笑っていて、俺はその声を、遠い国のもののように聞いていた。


 妹の澪(みお)が性的暴行を受けた事件から、まだ間もなかった。


 澪がボロボロにされたことが、悔しかった。腹の底が焼けるほど憎かった。それでも俺には、何もできないと思っていた。何をどうすれば取り返せるのか、見当もつかなかった。憎しみだけが行き場を失って、身体の内側で腐っていくのがわかった。


 心を失くしたようになってしまった澪を両親と悠理に任せ、俺だけが日常へ戻ろうとしていた。講義に出て、周囲と同じ顔をして、ノートの端に意味のない線を引きながら、事件などなかったかのように生きようとしていた。


 そんな矢先に、父さんから電話がかかってきた。


「……悠理が」


 それきり、言葉が続かなかった。息を吸う音だけが、何度も繰り返された。


 受話口の向こうでは、これまで聞いたこともない、雄叫びのような音が響き続けていた。人の出す音とは思えなかった。喉が裂けるのもかまわず、何かを吐き出し続けているような音だった。


 あとになって知った。


 あれは、母さんの悲鳴だった。


 母さんは救急車で運ばれた。澪を一人にするわけにはいかず、俺が実家へ戻ってそばにつき、父さんは警察へ向かった。


 部屋の隅で、澪は膝を抱えて座っていた。名前を呼んでも、返事はなかった。俺は結局、何と声をかければいいのかわからないまま、少し離れた場所に腰を下ろした。


 俺がどうしようもない現実から目を背け、日常へ逃げ帰ろうとしていたあいだ、悠理はたった一人で犯人たちを捜し続けていたらしい。


 悠理は警察よりも早く犯人たちを突き止め、復讐を遂げた。


 悠理の復讐は苛烈を極め、現場は目を覆いたくなるほど凄惨だったという。


 澪が被害に遭った事件と、それに対する復讐という背景もあり、悠理の犯行は連日、大々的に報じられた。


 私刑は許されるのか。


 テレビの中では、会ったこともない大人たちが、俺の弟について語り合っていた。弟の行為は殺人にほかならないと糾弾する者がいた。一方で、復讐されて当然だと擁護する者もいた。警察への批判が起こり、そのどさくさに紛れるようにして、俺たち家族の情報が漏れた。


 インターホンが鳴りやまなくなった。カーテンを閉めきった部屋の中まで、シャッターの音が滲んでくるようだった。


 名前も顔も住所も、瞬く間にネットへ拡散された。


 澪は人を恐れ、家から一歩も出られなくなった。


 母さんは精神を病み、うつ病になった。


 俺も大学にいられなくなり、退学した。


 父さんだけは、崩れかけた家をどうにか支えようとしていた。会社を辞めず、家族を養おうと踏ん張り続けていた。朝になれば背広を着て、いつもと同じ時間に家を出る。その背中だけが、家の中でただ一つ、形を保っているもののように見えた。


 けれど、やがて父さんの勤め先まで特定された。


 悪戯電話や、殺人犯の父親を雇い続けることへの抗議が会社に殺到した。そして、退職を余儀なくされた。


 最後の出勤の日も、父さんはいつもと同じ時間に、いつもと同じように背広を着ていた。


 そのすぐあと、母さんは自ら命を絶った。


 最初に見つけたのは、父さんだった。


 ベッドの上には、家族の写真が何枚も並べられていたらしい。どれも、事件の前に撮られたものばかりだったという。


 犯人たちを殺したあと、悠理は自首した。


 あの日から、俺は一度も悠理に会っていない。


 家族を滅茶苦茶にした元凶は、澪を傷つけた犯人たちだ。


 けれど、崩れかけていた家族に最後の一撃を加えたのは、悠理だったとも言える。


 悠理を恨んでいないと言えば、嘘になる。


 だが、それ以上に俺は自分自身を責めていた。


 妹のために動けなかったこと。


 母さんを守れなかったこと。


 ぎりぎりまで家族を支えようとしていた父さんの力にさえ、なれなかったこと。


 何もできなかった自分が、情けなかった。後ろめたかった。


 大学を辞めたあと、俺は一人で東京へ移った。


 父さんは反対しなかった。それどころか、俺が言い出すのを待っていたような顔をしていた。


「東京みたいに人の多い場所のほうが、隠れ蓑になる」


 そう言って、送り出してくれた。玄関先で、それ以上は何も言わなかった。


 父さんは澪を連れて田舎へ移り、そこでテレワークをしながら、ひっそり暮らしていくつもりだった。


 東京で最初に就職したのは、工場だった。


 油の匂いのする、古い建物だった。単純な作業の繰り返しで、誰も俺の顔を見なかった。ここでなら生きていけるかもしれない、と思った。


 しかし、予想よりもはるかに早く身元が割れた。


 何者かが職場へ電話をかけてきたのだ。


 殺人犯の家族を雇っているのか、と。


 電話は毎日続いた。事務所の受話器が鳴るたび、作業場の空気がわずかに強張るのが、背中越しにわかるようになった。


 社長は申し訳なさそうな顔で、俺に頭を下げた。


「本当に、すまない。うちみたいな小さいところじゃ、あれを全部受けきれん」


 悪いのは社長ではない。だから俺は、退職を受け入れた。頭を上げてくださいと言うのが、精一杯だった。


 別の仕事を見つけ、また働き始めた。


 だが、しばらくすると同僚に気づかれた。休憩室で、誰かがスマホで俺の名前を検索しているのが、視界の端に映った。翌日から、隣に座る人間がいなくなった。


 他の仕事では、動画配信者がインタビューと称して職場まで押しかけてきたこともある。カメラを向けられ、当時のお気持ちを聞かせてください、と笑顔で言われた。


 そのたびに、俺は仕事を辞めた。


 そんな生活が、二十四歳になった今までずっと続いている。


 騒ぎは最初の頃ほど激しくない。それでも、ネットには忘れるという機能がない。過去に起きた凄惨な事件として何度も掘り返され、そのたびに俺たち家族の名前も引きずり出される。


 事件は、なかなか過去になってくれなかった。


 いつしか俺は、人を信じられなくなっていた。


 いや、不信どころではない。


 人間が嫌いになっていた。


 すれ違う誰もが、俺の名前を知っているかもしれない。知らないとしても、知った瞬間に同じ顔をするのだと思うと、それだけで息が浅くなった。


 父さんはどうにか生計を立て、今も澪と暮らしているらしい。


 そこへ逃げ込みたいと思うことは、たまにある。夜、電気もつけない部屋で天井を見ているときなど、特にそうだ。


 けれど、家族の中で誰より無力だった俺が、今さら父さんを頼ることだけは許されない。


 そう思っていた。




 現在の職場である大型書店で働き始めて、もうすぐ半年になる。


 朝いちばんに届いた荷を検品し、台車に積んで売り場へ運ぶ。結束紐をカッターで切り、棚に差し、空いたところを埋める。返品の伝票を作り、また台車を押してバックヤードへ戻る。手順はとうに身体が覚えていた。


 仕事にも慣れた。


 一人で黙々と作業をしていても、誰からも気に留められない。その程度には要領よく立ち回れるようになっていた。


 仕事は、できすぎても目立つ。できなさすぎても目立つ。


 だから俺は、いつも少しだけ手を抜いた。褒められもせず、叱られもしない。ほどほどの働きぶりに見えるよう、加減していた。


 話しかけられれば返事はする。それ以上は続けない。休憩室では隅の椅子に座り、スマホの画面を見ているふりをして時間を潰す。それだけで、俺という人間は店の背景の一部になった。


 ここの仕事は、わりと性に合っている。


 紙とインクの匂いは嫌いではなかった。客は棚の背表紙を見ている。店員の顔など、誰も見ていない。人が大勢いるのに、誰の視線もこちらへ向かない場所というのは、思っていたより貴重だった。


 できることなら、このまま目立たず、長く働き続けたかった。


 もっとも、そう思い始めた頃に限って、過去という闇は静かに追いついてくる。


 その日、補充分の文庫を抱えてバックヤードへ戻ろうとしたときだった。


 従業員用のドアの前に、興奮した様子で話し込んでいる若いスタッフが二人いた。


 胸の奥で、嫌な予感がした。


 根拠はない。ただ、この手の予感だけは、これまで一度も外れたことがなかった。


 俺は本棚の陰へ身を滑り込ませ、二人の声が聞き取れるところまで、そっと近づいた。


 予感は当たっていた。


「──だから、あの一ノ瀬だって」


「え、名字が同じなだけじゃなくて?」


「顔も出てんだよ、当時の。ネットって消えないから」


 声を潜めているつもりらしいが、抑えきれない熱がにじんでいた。誰かに早く聞かせたくてたまらない、あの調子だ。


 二人は、俺が殺人犯──一ノ瀬悠理の親族だと気づいたらしい。


 小さく舌打ちが漏れた。


 ここも、そろそろ辞め時か。


 半年。長くもったほうだ。次はどこで働こうかと、頭の隅がもう勝手に算段を始めている。そのことに、自分でうんざりした。


 ため息をのみ込んだ、そのときだった。


 従業員用のドアが開き、一人の女性が出てきた。


 棚越しに覗くと、新人アルバイトの朝倉栞(しおり)だった。胸の名札だけが、まだ真新しく光っている。


 興奮の冷めない二人は朝倉を呼び止め、声を潜めて何事かを話し始めた。口元を押さえ、くすくす笑っている。


 タチが悪い。


 ああやって、少しずつ広がっていくのだ。休憩室へ、更衣室へ、シフトの合間の雑談へ。そして誰かが電話をかけるか、誰かがカメラを持ってくるかする。


 前の職場と同じだ。その前とも、さらにその前とも同じだった。一度始まってしまえば、あとは順番どおりに進んでいくだけだ。俺にできるのは、そうなる前に自分から消えることだけだ。


 もう視界にも入れたくなくなり、俺はその場を離れようとした。


 その背後で、思いがけない声が上がった。

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