第14話
翌夜、一緒に夕飯をとりながらディートリヒは落ち着いた顔で言った。
「ヴァルナーと話した。ヴァルナーはすでに縁談を考えていたそうだ」
「縁談、ですか」
「ああ。お前もフレデリカいればやりづらいだろうと考えていたらしい」
「そうでございましたか」
ヴァルナーの目からはそう見えていたのだと思うと少しだけ気が楽になった。
「フレデリカの十年の忠義には報いる必要がある。俺が縁談を探そうかと思ったが、父親と仕事だと断られた」
給仕をする侍従の指先が少し震えた。
結婚後、愛人とも噂されていた側近の結婚の世話をすれば、噂は本当で、結婚後に厄介払いしているとも取られかねない。
「フレデリカの忠義には、別の形で報いれば良いかと」
「ああ」
その後フレデリカと顔を合わせた時も、フレデリカは何も言わなかった。イングリッドも必要なことだけを話した。
二週間ほど経った頃に、フレデリカから声をかけられた。
「奥様、お話がございます。この度縁談がまとまりまして、婚姻を機にお暇をいただくことになりました」
「そう、おめでとうございます。あなたが長い間この城を支えてくれたこと、私も感謝しています」
「もったいないお言葉に存じます」
「あなたの知っていることを、できる限り残していってもらえると助かります」
「承知いたしました。できる限り滞りのないよう、努めてまいります」
フレデリカは深く頭を下げた。
結婚相手は領内の男爵家の若い当主だという。イングリッドも一度招待したことはあるが、領地経営は現実で、本人も真面目で実直な当主という印象だった。フレデリカは辺境伯家の奥向きを十年近く取り仕切ってきた人間で、陪臣の家柄でもある。
良縁がいくつもあった中から選んだのだろう。
縁談がまとまった以上、近いうちにフレデリカはいなくなる。
婚姻後の生活に向けてやることも多いはずで、奥向きの引き継ぎに割ける時間はそれほどないだろう。
こちらとしても必要なことを早めにまとめておく必要がある。
フレデリカがいなくなった後の体制についてはディートリヒにも話を通しておきたかった。
「お前がそれでいいと思うならそうしろ」
共同寝室でイングリッドの作った計画書を見ながらディートリヒはあっさりと言った。
「ありがとうございます」
イングリッドの考えとしては、各室の室長がそれぞれの責任を持って判断する。イングリッドはそれぞれの室長を通じて全体の判断を行うというそれだけだった。
「人手は足りるのか。足りないなら早めに補充した方がいい」
「ひとまずは今いるものでやってみます。足りない時はまた相談いたします」
「分かった」
一旦会話が途切れる。
ディートリヒが欠伸を噛み殺した。
「お疲れのようですね」
「ああ。国境の方に少し動きがあってな」
「戦になりますか?」
「大規模なものはない。去年が厳冬だったからな。作物も家畜も被害を受けている。飢えて国境を超えてくる者はいても、軍は動かせない」
そう言うディートリヒの眉間の皺は険しい。
イングリッドは何と返して良いのかわからなかった。
「……私には戦のことはわかりかねますが、閣下は早くお休みになった方がよろしいかと」
「ああ」
言いながらディートリヒはソファに体を沈めて動こうとしない。よほど疲れているのだろう。
イングリッドはそれ以上は言わず、ディートリヒの手から書類だけ受け取った。
「……他に何かないか」
「何かとは?」
「何でもいい」
イングリッドは言葉に詰まる。
特にディートリヒに報告するようなことはない。
「ーー侍女のエルナが、珍しく失敗をしましたの」
捻り出した話題は、我ながらディートリヒの興味を引くとは思えなかった。続けていいのか逡巡していると、ディートリヒが少しだけ顔を動かした。
「それでいい。続けてくれ」
イングリッドはそのまま話し続ける。いつもは一言えば三は分かるような利発なエルナが、単純な思い違いで指示の意味を間違い、ミリーに指摘されて初めて自分の間違いに気づき、顔を赤くしてイングリッドに報告しに来た。
イングリッドの話を聞きながら、ディートリヒはうとうとと何度か瞼を閉じていた。
「閣下、眠っていらっしゃいます」
「……起きている。聞いていた」
「もうお戻りください」
「いや、聞いている。続けてくれ」
「もう終わりました」
「……」
「もう夜は冷えます。ここで寝たらお風邪を召されます」
「まだ大丈夫だ」
「お戻りくださいませ。私も戻ります」
ディートリヒは渋々起き上がり自分の寝室に戻っていった。
イングリッドは扉が閉まるのを確認して、自分も寝室に戻った。
「……ヘルガにも、ですか」
フレデリカからの引き継ぎをヘルガにも聞かせたいと言うイングリッドに、フレデリカは一瞬眉を顰めたが、すぐに普段通りの顔に戻る。
「承知いたしました」
フレデリカの持っている知識は膨大だった。今までは聞いた事にしか答えなかったのだと思うと少しだけ複雑ではあったが、少なくとも今は惜しみなく教えてくれているのだと思えばありがたかった。
ヘルガが持ち場に戻った後、フレデリカは少しだけ声を落とした。
「奥様にだけ、お伝えしておいた方がよろしいことがございます」
「何かしら」
「リネン室のゲルダと衣装室のイルゼでございますが、二人の生家は元は同じ家ですが折り合いが悪く、二人を配置する際や昇進の際はお気をつけくださいませ」
イングリッドは思わずフレデリカを見つめた。
続けて、今必ず二人がかりで行っている作業を昔一人で行っていたために起こった事故について、客人のプライベートな情報、使用人の背景について、淡々とフレデリカは話した。
「ありがとう。本当に助かるわ」
イングリッドは本心から言ったが、フレデリカは表情ひとつ変えずに軽く頷いた。
その後もフレデリカは、惜しむことなく自分の経験を伝えてくれた。
あまりにも長い時間こちらにいるので、イングリッドは心配になって聞いた。
「フレデリカ。こちらとしてはありがたいのだけど、ご自分の支度はよろしいの?」
「はい。嫁いでからのことはいくらでも取り戻せますが、こちらにはそうそう帰ってくることはできませんから。婚約者にも理解していただいております」
フレデリカにそう言われればどれだけ申し訳なくとも甘えさせてもらうしかなかった。
「フレデリカの功労への褒賞は必要ですが、これでは多すぎてかえって本人の名誉を傷つけます」
イングリッドに言われてディートリヒは驚いたように眉を上げた。
「そうなのか」
「閣下の、十年の功労に報いようとする心情は理解いたしますが、説明のつく形にする必要がございます」
例えば一括ではなく年金という形を取る、一部は嫁入りの贈答という形を取る、中身は同じでもイングリッドの名前を使う、といくつか方法を提示すれば、ディートリヒも任せると頷いた。
ディートリヒの希望に最大限寄せる形で体裁を整えた。
報奨の中身を知り、ヴァルナーが感激して泣いていたとディートリヒに聞いた。
フレデリカの結婚が決まってから一か月以上が経った。
今日が、ギリギリまで働いてくれていたフレデリカの最後の勤務日だった。
ミリーは泣いていた。エルナも目が潤んでいた。たくさんの使用人たちが別れを惜しんでいた。
悲しさだけではない。誰もが、おそらくはフレデリカを疎んじていたものでさえ、フレデリカがいなくなる事に不安はあるのだろう。
イングリッド自身も不安がないわけではない。ただ分からないなりにやっていくしかないのだろうという観念のようなものもあった。
ディートリヒの執務室で、フレデリカが深く頭を下げた。
「今まで大変お世話になりました。ありがとうございました」
ディートリヒは軽く頷いた。
「長い間よく仕えてくれた。お前がいなければここまで来れなかった。礼を言う」
「もったいないお言葉でございます。閣下にお仕えできたこと、光栄に存じます」
フレデリカもいつも通りの声の調子で返す。
イングリッドは自分はいてはいけないような気がして、用事のある振りをして席を外した。
ディートリヒが当主に就任してからの十年を、イングリッドは知らない。
ただ、フレデリカがあれだけの仕事を一人で抱え込まなくてはいけない状況だったのだろうとは推測できた。
「奥様」
執務室から出てきたフレデリカがイングリッドに一礼した。
「長い間、この城を支えてくれてありがとう。お幸せに」
「奥様も、どうぞお健やかに」
イングリッドはフレデリカの背中を見送った。フレデリカは振り返らなかった。
イングリッドは自分の部屋でフレデリカの置いていった鍵束を眺めた。
この城に来て初めてフレデリカを見たとき、最初にあったのは羨望だった。
全ての用事がフレデリカを通して行われ、全てフレデリカの判断が必要だった。こうなれば替えの効かない人間になれると思った。
だが、フレデリカ一人がいなくなる事がこれだけの大事件になったのだ。おそらくは今後もフレデリカ不在の不都合は出てくるだろう。
この体制は当時の最善であって、今はそうではない。
イングリッドの役目は辺境伯夫人として奥向きを整えることであって、この城に自分の居場所を作ることではない。
鍵束から必要な鍵を外していく。
フレデリカのものよりもずっと小さくなった鍵束が、今のイングリッドの役目の形だった。
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