第8話 舟形山落城|朝比奈泰満、初陣へ

 年が明けても、曳馬は落ちなかった。

 掛川城から西へ向かう兵と荷は、途切れることなく続いていた。

 米。

 塩。

 矢。

 馬のための草。

 傷薬。

 冬になれば薪も要る。

 泰満は、それらが城門を出ていくたび、帳面の数字が減っていくのを見た。

 その一方で、新しい荷が城下へ入ってくる。

 村から集められた米。

 駿河から運ばれてきた物資。

 近隣から集められた人足。

 戦は、ずっと続いていた。

 曳馬城を囲んだからといって、毎日城攻めをしているわけではない。

 柵を作る。

 道を押さえる。

 敵が外へ出ぬよう見張る。

 こちらへ物資を運ぶ。

 傷を負った者を戻す。

 疲れた兵を休ませ、別の兵と入れ替える。

 泰満が掛川で見ているのは、その繰り返しだった。

「長いですね」

 蔵の前で、泰満は呟いた。

 隣にいた時茂が振り向く。

「何がだ」

「曳馬です」

「城攻めとは、そういうこともある」

「井伊の時は、もっと早く終わりました」

「あれと比べるな」

 時茂は米俵を数える家臣へ目を向けた。

「井伊の山城は孤立していた。曳馬は違う」

「斯波がおります」

「それだけではない」

 時茂は西を見る。

「城の中にどれだけ兵糧があるか。周りに味方する者がどれほどいるか。外から助けが来る望みがあるか。それで城の粘りは変わる」

「戸田ですか」

 時茂はすぐには答えなかった。

「泰以兄上が、ずっと気にしている」

 それだけ言った。

 斯波の軍勢を曳馬まで通した。

 その時点で、戸田が今川方ではないことは明らかだった。

 だが、戸田が次に何をするのかは分からない。

 曳馬を助けに来るのか。

 別の場所へ兵を出すのか。

 あるいは、こちらが疲れるのを待っているのか。

 泰満には、敵が何もしないことさえ不気味に思えた。

 そんな頃、泰以が掛川へ戻った。

 先触れが来たのは昼前だった。

 泰満は城門へ向かった。

 やがて西から、数十騎ほどの一隊が姿を現した。

 大軍ではない。

 泰以も曳馬の陣を離れたわけではなく、兵の入れ替えと物資の確認を兼ねて一時戻っただけだった。

 馬上の泰以は、出陣した時より少し痩せて見えた。

 髭も伸びている。

 具足には泥が残り、袖口には乾いた土がついていた。

 その後ろから彌太郎が来る。

 こちらはもっと疲れていた。

「叔父上」

 泰満が声をかけると、泰以が馬上から見た。

「泰満か」

「お帰りなさいませ」

「うむ」

 泰以は馬から降りた。

 泰満は思わず尋ねた。

「曳馬は」

「まだだ」

「固いのですか」

「固い」

 泰以は短く答えた。

「落とせそうにありませぬか」

「落とすだけなら、いずれ落ちる」

 泰満は首を傾げた。

「では、何が問題なのです」

「その前に、こちらが崩れぬことだ」

 泰以は城内へ歩き始めた。

 泰満もその横につく。

「城を囲むというのは、敵を閉じ込めるだけではない。こちらも同じ場所に縛られる」

「兵が動かせなくなる」

「そうだ」

 泰以は頷いた。

「曳馬に千人置けば、その千人は他へ行けぬ。二千置けば二千だ」

 泰満は黙って聞いた。

「敵も、それは分かっておる」

「戸田も」

「当然だ」

 泰以は足を止めた。

 城の西側へ目を向ける。

「わしらが曳馬を見ている間、戸田がこちらを見ておらぬと思うか」

「思いませぬ」

「ならばよい」

 泰満も西を見た。

 そこに敵の姿が見えるわけではない。

 だが、以前とは違う。

 浜名湖の向こう。

 中之郷の先。

 さらに西。

 そこに戸田がいる。

「中山からは」

 泰以が尋ねた。

「何度か知らせが来ております」

「変わったことは」

「父上に聞かねば分かりませぬ」

「そうか」

 泰以はまた歩き始めた。

 広間では、泰能と時茂が待っていた。

 泰以は曳馬の様子を報告した。

「城兵はまだ持ちこたえております。斯波方も簡単には折れませぬ」

「攻めれば落とせませぬか」

 泰能が尋ねる。

「落とせましょう」

「ならば」

「死人が増えます」

 泰以は淡々と言った。

「急いで落とす理由がなければ、今は囲んで削った方がよろしい」

 時茂が尋ねた。

「西は」

 泰以の顔が少し変わった。

「それを話したかった」

 泰満も顔を上げた。

「戸田は静かすぎる」

 泰能が眉を寄せる。

「静かであることが、問題なのですか」

「斯波を曳馬へ通した者です。何もせず見ているとは思えませぬ」

「曳馬へ援軍を出すと」

「それなら分かりやすい」

 泰以は首を振った。

「曳馬に来れば、こちらも迎えればよい」

「では」

「別の場所だ」

 広間が静かになった。

 泰以は続けた。

「こちらの兵が曳馬へ寄っているなら、手薄になっている場所を狙う方がよい」

 泰能が言った。

「中之郷ですか」

「あり得ます」

「他には」

 泰以は答えなかった。

 少し考えてから言った。

「西からの報せを急がせた方がよろしい」

 時茂が頷く。

「中山へ人を出しましょう」

「それと」

 泰以が言う。

「舟形山にも」

 泰満はその名を聞いた。

「舟形山」

 思わず口にする。

 泰以がこちらを見る。

「知っておるか」

「名だけは」

「普門寺の近くだ」

 泰以は床へ指を置いた。

「掛川から西へ進めば、曳馬へ向かう道だけではない。浜名湖の北へ抜ける道もある」

 指が西へ進む。

「そこを戸田に押さえられると面倒だ」

「中之郷とも近い」

 時茂が言った。

「そうだ」

 泰以は頷いた。

「多米のところへも知らせを入れておいた方がよい」

 泰能はすぐ家臣を呼んだ。

 その日のうちに、使者が西へ走った。

 泰満は城門からそれを見送った。

 何も起きてはいない。

 少なくとも、まだ掛川には悪い知らせは届いていない。

 それなのに泰以は動いた。

 井伊の山を見て、道のない斜面を使った時と同じだった。

 目の前にいる敵だけを見ない。

 まだ姿を見せていない敵を見る。

 三日が過ぎた。

 泰以は曳馬へ戻る予定だった。

 朝から兵の支度が始まっていた。

 彌太郎は荷を確かめ、杉山と村越は供の者を集めている。

 泰満も手伝っていた。

「今度も私は残るのでしょうか」

 何気なく尋ねると、彌太郎が帳面から目を上げた。

「曳馬へ行きたいのでございますか」

「行きたいです」

「私は戻りたくございません」

「なぜです」

「寒いからです」

 泰満は笑った。

「戦だからではなく?」

「戦も嫌にございます」

「彌太郎殿は、本当に戦がお嫌いですね」

「好きな者の気が知れませぬ」

 彌太郎は真顔だった。

「若も一度出れば分かります」

 その時だった。

 城門の方が騒がしくなった。

 声が上がる。

「伝令!」

 泰満と彌太郎は同時に振り向いた。

 一騎が城内へ駆け込んできた。

 馬は白い息を吐いている。

 乗っている男は泥にまみれていた。

 泰満は胸騒ぎを覚えた。

 男は馬から降りると、支えられるようにして広間へ向かった。

 泰満も後を追う。

 広間には泰能、泰以、時茂が集まった。

 伝令は膝をつくなり頭を下げた。

「申し上げます!」

 息が切れている。

「落ち着け」

 時茂が言った。

「どこからだ」

「舟形山にございます!」

 泰以の目が鋭くなった。

「申せ」

「戸田勢、舟形山城へ押し寄せ――」

 伝令が息を吸った。

「城、落ちましてございます!」

 泰満は息を呑んだ。

 誰も声を出さなかった。

 泰以だけが、ゆっくり目を閉じた。

「いつだ」

「二日前にございます」

「多米は」

「兵を退いております。多くの手負いが出たとのこと」

「城兵は」

「分かりませぬ。ただ、戸田勢が城へ入ったことは確かにございます」

 泰以が目を開いた。

「数は」

「千を越えると」

「どれほど越える」

「詳しくは。ですが、千五百ほどとも」

 泰能が顔を上げる。

「千五百」

 泰以は驚かなかった。

 時茂が兄を見る。

「兄上」

「やはり来たな」

 低い声だった。

 泰満は、その言葉を聞いた。

 驚いていない。

 泰以は、戸田が動くと思っていた。

 だが、分かっていても防げなかった。

 兵は曳馬にいる。

 敵を囲むために、多くの兵が西遠江へ出ている。

 その間に、さらに西を突かれた。

 泰満は初めて、戦場が一つではないことを実感した。

 曳馬。

 舟形山。

 中之郷。

 掛川。

 離れた場所にある城が、一つの戦の中でつながっている。

「多米だけでは取り返せぬでしょう」

 時茂が言った。

「手負いが多ければなおさらだ」

 泰以も頷いた。

「戸田が千五百入れたのであれば、多米だけに任せる話ではない」

 泰能が立ち上がった。

「氏親様へ急使を」

「すぐに」

 時茂が答える。

 だが、氏親からの沙汰は早かった。

 舟形山落城の報せは、掛川だけに届いたわけではなかった。

 翌日。

 駿府から使者が入った。

 広間に泰能、泰以、時茂が並ぶ。

 泰満も後ろに控えた。

 使者が書状を差し出す。

「御屋形様より御沙汰にございます」

 泰能が受け取った。

「申せ」

「掛川朝比奈勢は、ただちに舟形山へ向かい、戸田勢を討ち、城を奪還せよとの仰せにございます」

 泰能の表情が引き締まった。

「承知しました」

 使者が続ける。

「曳馬の囲みは他勢とともに維持するように、と」

 泰以が小さく頷いた。

 泰満には、その意味が分かった。

 曳馬も捨てない。

 舟形山も取り返す。

 兵を二つに分けなければならない。

 使者が下がると、すぐに軍議になった。

「掛川からどれほど出せる」

 泰以が尋ねる。

 時茂が答えた。

「寄り子を急ぎ集めれば、千五百ほど」

「足りる」

「戸田も同程度です」

「だから足りる」

 泰能が尋ねた。

「私も参ります」

 泰以は首を振った。

「泰能殿は曳馬へお戻りください」

「しかし」

「曳馬の囲みを緩めれば、大河内と斯波が出てきます」

 泰能は黙った。

「舟形山はこちらでやります」

「叔父上が」

「はい」

 泰以は迷わなかった。

「掛川勢をまとめ、わしが行きます」

 泰満の胸が強く鳴った。

 また出陣する。

 今度も、自分は残されるのだろうか。

 そう思った時だった。

 泰以がこちらを見た。

「彌一郎」

「はい」

「支度せい」

 泰満は一瞬、返事ができなかった。

「……私も、でございますか」

「そう言っておる」

「曳馬ではなく」

「舟形山だ」

 泰以は平然としている。

「初陣だ」

 その一言で、周りの音が遠くなった。

 初陣。

 待っていた。

 ずっと行きたいと思っていた。

 だが、いざその言葉を聞くと、胸の中に湧いたものが喜びだけではないことに気づいた。

 戸田勢は千五百。

 多米勢を破り、城を奪った兵である。

 そこへ自分も行く。

「どうした」

 泰以が尋ねた。

「嫌か」

「いえ」

 泰満はすぐに答えた。

 それから一度、息を吸った。

「参ります」

「うむ」

 横で彌太郎が大きく息を吐いた。

「若の初陣に、よりによって山城でございますか」

 泰以が振り向く。

「山は好かぬ」

「では、なぜ行くのでございます」

「敵がそこに入ったからだ」

 彌太郎は何も言わなくなった。

 泰満は自分の手を見る。

 いつの間にか、掌に汗をかいていた。

 泰以が立ち上がる。

「明朝、掛川を出る」

 泰満も頭を下げた。

「承知しました」

 声は震えていなかった。

 だがその夜、泰満はなかなか眠れなかった。

 目を閉じるたび、まだ見たことのない舟形山が浮かんだ。

 その山の上には戸田の兵がいる。

 明日、自分はそこへ向かう。

 朝比奈彌一郎泰満。

 元服して得たその名で、初めて戦場へ出る。



今川クロニクル『宇津山朝比奈記』

史料・創作メモは上記参照。

関連史跡・考察は作者noteに掲載しています。


本作『宇津山朝比奈記』は、noteのほか、小説家になろう・カクヨムでも連載しています。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録(無料)

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る