スライム・パンデミック
まめたろー
分別変異《ガベージ・ミュータント》
第1話 人間を分別する
この世界はスライムで満ちている。
人間が飼うペットの三巨頭といえば、犬、猫、スライム。そう言われるほどだ。
スライムは優秀な生き物だ。彼らは雑食で、埃も、床に落ちた髪の毛も、食事として飲み込んでいく。部屋の隅からキーボードの隙間まで、どこでも平らげてくれる。掃除をしているつもりはないのだろうが、結果として部屋は片付く。
そして何より、安全だ。
スライムは、死んだものしか食べられない。埃も、抜けた髪の毛も、生ゴミも、みんな死んでいる。だから食べられる。
生きているものには、反応しない。近づいても、包まない。犬は噛むが、スライムは噛まない。だからこの生き物は、赤ん坊の寝ている部屋に放しておける。
ただ、このスライムには稀に突然変異が起きる。
ゴミと一緒に、ひとつながりの死体を取り込んでしまったときだ。
埃や、抜けた髪の毛や、こぼれた血は、それ単体では「一匹」ではない。切り離されていない、続いている体だけが、スライムにとっての一匹になる。
そのときスライムは二つに分離する。分かれた片方は、取り込んだものを食べ続ける。そして食べ終えたとき、食べられたはずのそれは――スライムになっている。
変異したスライムは、食べたものの形を継ぐ。
そして、もう一つ継ぐ。
自分が食べた種を、殺せるようになるのだ。
死んだものしか食べられないという掟は、変異しても変わらない。
ただ、殺してしまえば、それは死んだものになる。
●
飼い主に捨てられた野良スライムが、生ゴミを漁っていたカラスの死骸を、ゴミごと食べた事例があった。
その一羽は、次の日から、生きたカラスを殺しはじめた。
カラスはその後、絶滅危惧種に指定されている。いま空を横切る黒い影のうち、本物のカラスは二割にすぎない。残りの八割は、スライム科カラスだ。
スライム科ネズミ、スライム科ハト。名前を挙げていけばきりがない。
どれも、最初の一匹は死骸から始まっている。
そして、もう一つ、知られていなかったことがある。
変異したスライムは、融合する。
ただし条件が三つある。変異していないものは、けっして融合しない。異なる種になったもの同士も、融合しない。そして融合しても、変異先の生き物一匹ぶんを超える大きさにはなれない。
つまり――スライム科カラスが二体くっついても、カラス一羽になるだけだ。数がひとつ減って、大きさは変わらない。だからそれは、誰の目にも留まらなかった。
人類は一度、きちんと確かめている。ペットのスライムを二体、同じ容器に入れた。何度やっても、何匹使っても、くっつかなかった。
「スライムは融合しない」
その一文は、いまも小学校の理科の教科書に載っている。
正しい手順で実験して、正しくない結論に辿り着いた。それだけのことだ。
便利な生き物だ。ただし飼い主の手を離れたとき、彼らは生態系そのものを書き換える。
●
男は几帳面な性格だった。
ゴミは分別する。袋の口は縛る。収集日の前夜に出す。
だから、それもそうした。
黒いポリ袋が四つ。重さが均等になるように分けたのは、運ぶときにバランスが崩れないからだ。それ以上の意味はない。
路地裏には野良がいくらでもいる。飼い主に捨てられたスライムが、生ゴミを漁って生きている。
餌に困らない野良は、際限なく育つ。膝に乗る大きさで飼われていたものが、二年で人の胴ほどになる。食わせてしまえば骨も残らない。
それでも、人ひとりを丸ごと呑めるほどにはならない。形を持たないスライムは、ある大きさを超えると自分の重さで崩れてしまう。
形を持ってしまえば、話は別だ。
男の計算は正しかった。四つの袋は、朝までに空になっていた。
ただ一つ、彼が間違えたことがあった。
四つに分ければ、それはもう一人ではない。彼はそう考えた。分けられた肉は部品であって、一匹ではない。だから変異は起きない。
スライムは、そう解釈しなかった。
切り口があろうとなかろうと、続いている肉は、続いている一匹だ。
そして、スライムは自分の体積を超えるものを取り込めない。
つまり彼は、わざわざ――取り込める大きさに、分けてやったのだ。
四つの袋には、四体の野良が寄ってきた。
四体が分離し、八体になった。そのうちの四体が、食べ続けた。
食べ終えた四体は、それぞれが人間の四分の一だった。
変異している。同じ種だ。合わせても、一人ぶんを超えない。
条件は、三つとも揃っていた。
三日目の夜、四つの塊は互いを見つけて、路地の隅で一つになった。
それは、立ち上がった。
記録によれば、最初の一体は市街地を七時間ほど歩いている。防犯カメラに残った映像では、それは人間と区別がつかない。歩幅も、信号で立ち止まる仕草も、自動販売機の前で少し迷う動作も。
変異したスライムは、食べたものの形を継ぐ。カラスは飛び、ネズミは壁を伝う。だから、それが歩いたことに不思議はない。
問題は、そのあとだった。
それは、自分の家に帰った。
――カラスと人間の決定的な違いは、そこにある。
カラスは巣に戻るだけだ。人間は、扉を開けてもらえる。
そして、人間の家には、スライムがいる。
侵食は、静かに進んだ。
抵抗らしい抵抗はなかった。当たり前だ。人間は毎日スライムに触れている。膝に乗せ、名前を呼び、床に放して部屋を任せている。この世界の人間にとって、スライムは警戒すべき生き物ではない。
それに、スライムは生きているものを食べられない。あれが人間を守っていたはずだった。
ただ、その掟を回避できる存在が、一つだけある。
人ひとりぶんの体積を持ち、人の形を継ぎ、人を殺せるようになったもの。
殺してしまえば、それは死んだものになる。
そして人ひとりは、人ひとりぶんのスライムに、ちょうど収まる。
スライム科ヒトは、増える方法を本能で知っていた。
三年で市が一つ。五年で県が一つ。
やがて誰も統計を取らなくなった。取る意味がなくなったからだ。
いま、この文章を読んでいるあなたは、たぶん人間だ。
ただ、それを確かめる方法は、もう残っていない。
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