第17話 魂をやる

 大型個体の前脚が振り下ろされた。


 修真は時雨を引き上げ、刃先を前脚の内側へ滑り込ませた。受け止める力はない。狙ったのは、わずかに軌道を逸らすことだけだった。


 暗灰色の刀身が赤黒い表皮を擦り、甲高い音とともに弾かれる。


 右肩へ衝撃が突き抜けた。固定具の下で筋肉が強く攣り、修真は壁際へ身体を投げ出す。直後、前脚が肩のあった場所へ落ち、舗装を深く砕いた。


 飛び散った破片が頬を切った。


『修真!』


 無線から玲華の声が響く。


「生きてる」


 修真は左手を壁につき、倒れかけた身体を支えた。時雨は二メートルほど先で高度を失い、地面すれすれを震えている。


 接続は切れていない。それでも、一度動かすたびに右肩から胸まで痛みが走った。


 大型個体はすぐには次の攻撃へ移らなかった。全身を走る裂け目を開閉させながら、修真と時雨の間で注意を揺らしている。


 目らしい器官はない。だが、こちらを見ていることだけは分かった。


 裂け目から滲んだ黒い血の匂いが、海風に混じって届く。


 甘い。


 そう感じた瞬間、喉の奥が勝手に動いた。


 修真は唾を飲み込み、巨体の脚へ視線を戻す。血の匂いを気にしている場合ではない。


「玲華、今どこだ」


『北側から回ってる。あと三分』


「正面から入るな。こいつは時雨を警戒してる」


『あなたも狙われてるでしょ』


「両方だ」


 大型個体が一歩出た。


 後方からは、金属を引っ掻く軽い足音が近づいている。防火区画を破った小型個体まで戻ってきたら、広い搬送路では両側から挟まれる。


 修真は左側の倉庫へ目を向けた。


 外壁沿いには幅四メートルほどの搬送路があり、その先に開いたままの搬入口が見える。大型個体には狭く、内部には棚や作業車両もある。直線で追われるよりは時間を稼げる。


「西三号倉庫へ入る」


『中に小型がいたら逃げ場がない』


「ここにいても、もうすぐ来る」


『分かった。通信を切らないで』


「切るつもりはない」


 修真は倉庫沿いに走り出した。


 大型個体が舗装を蹴る。その巨体からは想像できない速さだったが、傷ついた内脚はまだ十分に伸びていない。まっすぐ進む速度に比べ、方向を変える動きだけがわずかに遅れた。


 修真は時雨を右側の配管支柱へ回した。


 刀身が支柱の陰へ隠れる。大型個体の裂け目が時雨の消えた方向へ向く間に、修真は倉庫壁へ寄って進路を変えた。


 反応が遅れたのは一瞬だけだった。


 大型個体が身体を捻り、左側の前脚を横へ振る。


 修真は壁際へ踏み込んだが、傷めた右肩のせいで上体を十分に伏せられなかった。爪の先端が左脇腹を掠め、衣服ごと皮膚を裂く。


「っ……!」


 熱いものが脇腹を伝った。


 足は止めない。


 大型個体の後脚が路面へ着く直前、修真は支柱の陰から時雨を出した。体重を支えようとしている脚へ横から刃を当てる。


 深くは入らなかった。それでも大型個体は時雨を振り払おうと身体を傾け、倉庫壁へ肩をぶつけた。


 金属板が大きく凹む。


 修真はその隙に搬入口へ滑り込んだ。


 内部には背の高い棚が三列並び、中央の通路に無人のフォークリフトが残されていた。奥には反対側の搬出口がある。


「玲華、倉庫の中へ入った。西側の搬出口へ――」


 雑音が声を消した。


「玲華?」


 返事はない。端末の通信表示も消えている。


 大型個体が搬入口へ身体を押し込んだ。肩が左右の壁へ当たり、外装板がひしゃげる。速度は落ちたが、止まってはいない。


 修真は中央通路を進み、フォークリフトの左側を抜けた。大型個体は修真を追って右へ身体をずらしたものの、巨体が車体へ引っかかる。


 鉄骨の潰れる音が倉庫へ響いた。


 時雨を棚の上へ回す。


 大型個体からは見えない位置で待たせ、フォークリフトを押し潰した瞬間に背後から下ろす。狙うのは傷ではなく、全身から伸びた硬い突起の隙間だった。


 刃が表皮を浅く裂く。


 大型個体は即座に上体を振り、腹部から伸ばした突起で時雨を払った。


 衝撃が右腕へ返り、修真の足が止まりかける。


 同じ攻撃は、もう通らない。


 修真は時雨を呼び戻さず、棚の向こうへ逃がした。刃を追った大型個体が左へ身体を向けた間に、自分は右側の通路へ入る。


 正面から倒す必要はない。玲華たちが来るまで生き残ればいい。


 その判断を嘲笑うように、奥の搬出口で影が動いた。


 赤黒い四足の身体。頭部の左右に並んだ膜が、倉庫内の音を拾って細かく震えている。


 小型個体だった。


 前を小型、後ろを大型に塞がれた。


 修真は足を止めず、右側の棚へ向かった。棚と壁の間には、人一人がようやく通れる作業路がある。大型個体は入れないが、小型個体なら追ってこられる。


 小型個体が先に走った。


 修真は通路へ飛び込み、棚に積まれた工具箱を左手で押し落とした。床へぶつかった金属音に、頭部の膜が大きく開く。


 小型個体の顔が音の方向へ逸れた。


 修真はその脇を抜けようとしたが、相手の修正は予想より速かった。前脚の爪が左腿へ食い込み、身体を引き戻される。


 修真は床へ倒れた。


 小型個体が背中へ乗り、肩口へ爪を突き立てようとする。修真は左前腕をその胸へ押し当てたが、人間の腕力で押し返せる重さではない。


 時雨は大型個体の向こう側にいる。


 距離は十メートルを超えていた。


 傷つく前でも、安定して届かせられる範囲ではない。今の右腕で呼び戻せば、接続そのものが切れるかもしれなかった。


 小型個体の爪が降りてくる。


「時雨、来い」


 修真は右肩の痛みを無視し、刀身の位置だけを思い浮かべた。


 胸の奥を強く引かれる。


 棚の向こうで金属音が響き、時雨が飛び上がった。大型個体の前脚を掠め、棚の隙間を抜けて修真のもとへ向かう。


 遅い。


 このままでは間に合わない。


 修真は時雨を小型個体の背中へ突き込むのではなく、その眼前へ横切らせた。小型個体が首を引いた瞬間、左脚を腹の下へ差し入れて蹴り上げる。


 身体がわずかに浮いた。


 修真はその下から転がり出た。直後に時雨が側面へ突き刺さり、小型個体を棚へ叩きつける。


 黒い血が修真の頬へ散った。


 甘い匂いが鼻腔を満たし、舌が勝手に唇の端へ触れそうになる。


「やめろ」


 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 修真は左手で口元を拭い、付着した血を床へ擦りつけた。身体の奥から、惜しむような感覚が返ってくる。


 背後で棚が倒れた。


 大型個体が通路を塞いでいた棚を押し潰し、こちらへ進んでくる。修真は立ち上がろうとしたが、傷ついた腿が体重を支えなかった。


 小型個体もまだ動いている。時雨の刺さった身体を震わせ、棚から離れようとしていた。


「抜け」


 刀身を引き抜く。


 その命令だけで右腕に激痛が走った。指先から感覚が消え、固定具の下で何かが切れたような感触がした。


 時雨は修真の前まで戻ったものの、高度を保てずに揺れている。


 大型個体との距離は六メートル。


 修真の右には壁、左には崩れた棚がある。背後は小型個体に塞がれ、頭上の点検口へ上がるには両腕と無傷の脚が必要だった。


 逃げ道はない。


 大型個体が前脚を振る。


 時雨を正面へ出したが、突起に触れただけで弾き飛ばされた。爪の軌道は逸らしきれず、修真の胸から左肩へ浅く裂傷を刻む。


 身体が壁へ叩きつけられた。


 息が止まり、視界が暗くなる。


 大型個体が近づいてくる。


 時雨は修真の前へ戻ろうとしていた。弾かれても浮かび上がり、再び大型個体へ刃を向ける。


 だが、今の力では倒せない。


 修真は分かっていた。


 大型個体は時雨の軌道を覚え、傷の周囲へ硬い突起を増やしている。わずかな血でつないだ接続と、壊れかけた右腕では、再生を上回る傷を与えられない。


「無理だ」


 掠れた声が漏れた。


 時雨の震えが止まった。


 修真は刀身を見た。乾いた血管のような赤い線が、暗灰色の表面をゆっくり脈打っている。


 そこから、何かが修真の奥へ触れてきた。


 右手から吸われている血とは違う。皮膚でも、肉でも、その下の骨でもない。身体のどこにもない場所へ細い棘を差し込まれ、自分というものの輪郭を探られている。


 もっとよこせ。


 言葉が聞こえたわけではなかった。


 失血と痛みで、そう感じただけかもしれない。


 大型個体が前脚を持ち上げる。


 修真は、父の残した古い記録を思い出した。久世家の地下で一度だけ目にした、閲覧を禁じられた資料。内容の大半は黒く塗り潰され、人間と棘の境界を壊すという警告と、ひとつの呼び名だけが残っていた。


 魂移し。


 何を移すのか。実行した人間がどうなったのか。修真は何も知らない。


 それでも、時雨が求めているものには心当たりがあった。


 渡せば死ぬかもしれない。生き残っても、自分ではなくなるかもしれない。


 修真の脳裏に、朝の食卓が浮かんだ。


 冷蔵庫に残っていた牛乳と、澪が見つけたプリン。帰ってきたら一緒に食べるという、あまりにも小さな約束だった。


 ここで死ねば、その約束だけではなく、久世家も澪の居場所も失われる。


 自分を置き去りにした者が誰なのか、問いただすことさえできない。


「死ねない」


 修真は左手を伸ばし、時雨へ触れた。


 刀身の表面から髪の毛ほどの棘が伸び、掌へ突き刺さる。普段の吸血とは違い、血が流れ出す感覚はなかった。


 代わりに、胸の奥を掴まれた。


 全身が時雨へ引かれる。記憶も、意思も、名前も、肉体の外へ引きずり出されそうになる。


 大型個体の爪が迫る。


 怖くないはずがなかった。


 それでも修真は、手を離さなかった。


「俺の魂をやる」


 暗灰色の刀身が震えた。


 応じたのか、修真の腕が震えただけなのかは分からない。


 修真は大型個体を見据えた。


「だから、あいつを殺せ」


 何かが切れた。


 音も、痛みも、匂いも一度に遠ざかった。


 暗闇の中で、修真は自分が床に倒れていることを知っていた。それ以上にはっきり分かったのは、時雨の位置だった。


 右前方一・八メートル。


 大型個体まで二・九メートル。


 振り下ろされる前脚の角度と、その内側に生じたわずかな隙間まで、触れているように感じられる。


 邪魔だ、と修真は思った。


 時雨が消えた。


 直後、遅れて金属音が響く。


 大型個体の前脚が途中から切断され、黒い血を撒き散らしながら床へ落ちた。


 修真は軌道を命じていない。どこを切れとも考えていなかった。ただ、迫る脚を邪魔だと思っただけだった。


 時雨はすでに大型個体の右側へ回っている。


 伸びてきた突起を避け、その根元を切断する。次には腹部へ潜り込み、再生途中の内脚を斬り上げた。


 大型個体が身体を捻ったときには、時雨は背後へ抜けていた。


 修真が考えるより速い。


 いや、考えが形になる前に、時雨がその続きを選んでいる。


 自分で動いているのか。修真の意識の奥を拾っているだけなのか。判断する余裕はなかった。


 大型個体が突起を一斉に伸ばす。


 修真が危険を感じるより先に、時雨は射線から外れた。壁と棚の隙間を通り、死角から同じ傷へ戻る。


 修真の右肩が内側から裂けた。


「ぐっ……!」


 鼻から血が落ち、視界が揺れる。


 速くなった時雨の反動だけは、消えていなかった。


「待て」


 時雨が大型個体の頭上で静止した。


 止められる。


 少なくとも、まだ修真の言葉は届いている。


 大型個体は切断された脚を再生させながら後退した。傷の周囲へ硬い突起を増やし、正面と右側を重点的に守ろうとしている。


 修真は荒い息を整え、その変化を見た。


 同じ軌道を繰り返せば、また対応される。


「ひとつの傷にこだわるな。守った場所は捨てろ」


 時雨が動いた。


 右から迫ると見せて上へ抜け、大型個体が突起を向けた瞬間には左後方へ回る。傷を庇えば反対側を切り、突起を増やせば根元を狙った。


 修真は一撃ずつ指示していない。


 どこを守らせ、どちらへ逃がすか。その意図だけを決めれば、時雨が必要な軌道を選んだ。


 大型個体が後退を始める。


 初めて、修真から逃げようとしていた。


「逃がすな」


 倉庫を出た大型個体を、時雨が追う。


 二十メートルを越えても接続は揺らがない。二十五メートルに達すると右腕が痙攣し、目の奥まで熱くなったが、それでも刀身の位置は指先より近く感じられた。


 時雨は正面へ回らず、左右と背後を短く往復して逃げ道を削った。大型個体が左へ動けば左脚を切り、右へ身体を振れば支えにした内脚へ潜り込む。


 再生の始まった傷には、閉じる前に別角度から刃を入れた。


 大型個体の動きが鈍る。


 右肩にあった古い傷を守る突起も、ほかの傷を補うために薄くなっていた。


「そこだ」


 時雨が右肩へ突き刺さる。


 一度抜き、同じ位置へ下から入り直す。傷が深く開き、全身の裂け目から黒い血が噴き出した。


 甘い匂いが倉庫の中まで押し寄せる。


 修真の喉が鳴った。


 時雨も一瞬だけ軌道を乱し、噴き出した血のほうへ刃先を向けた。


「違う」


 修真は歯を食いしばった。


 今すべきことは、あれを飲むことではない。


「終わらせろ」


 大型個体が残った脚で突進してくる。時雨は背後へ回り、接地した外脚を切断した。


 巨体が前へ崩れる。


 その勢いを殺さず、時雨は頭部にあたる肉塊の真上へ移動した。


「落ちろ」


 暗灰色の刃が落下する。


 大型個体は頭部の装甲を閉じようとしたが、間に合わなかった。時雨は硬い表皮を貫き、その内側にある骨のような器官まで深く切り裂いた。


 巨体が大きく震える。


 傷を閉じようと肉が盛り上がるたび、時雨が内部でわずかに動き、再生する組織を切断した。


 それも修真が一つずつ命じた動きではなかった。


 やがて大型個体から力が抜け、道路へ沈み込んだ。地面を揺らした衝撃が、倉庫の壁を伝って修真の背中へ届く。


 修真は動かない巨体を見つめた。


 玲華がいれば、異界反応の消失を確認できる。だが通信は戻らず、修真自身には完全に死んだか判断できない。


 時雨を傷の中へ残し、再生の兆候を待つ。


 十秒が過ぎても、肉は動かなかった。


 そのとき、搬出口側から軽い足音が聞こえた。


 もう一体の小型個体が現れた。頭部の膜を開き、大型個体の血と修真の位置を確かめるように立ち止まる。


 修真は立てない。


 右腕も左脚も、すでに限界だった。


 それでも、時雨は大型個体の内部にある。


「そいつも止めろ」


 時雨が巨体から抜けた。


 小型個体が身を沈めたときには、刀身はすでにその側面へ回り込んでいる。一度目を避けて右へ跳んだ先へ、時雨が軌道を変えた。


 暗灰色の線が横切る。


 小型個体は二歩進み、前後へ分かれて崩れた。


 それを見届けたところで、修真の意識から音が抜け落ちた。


 時雨が戻ってくる。


 同時に、遠ざかっていた痛みが一度に押し寄せた。


 右肩、脇腹、左腿が焼けるように痛み、吐き気が込み上げる。修真は床へ胃液を吐き、その中に赤い血が混じっているのを見た。


 時雨が目の前へ浮かんだ。


 血に濡れた暗灰色の刀身、その中央に、以前にはなかった細い亀裂が走っている。閉じた瞼のような形だった。


「……何をした」


 返事はない。


 修真にも、何を渡したのか分からなかった。


 胸に左手を当てる。心臓は動いている。澪の顔も、帰るという約束も思い出せる。


 なら、まだ自分は自分だ。


「帰る」


 壁へ手をついて立とうとしたが、左脚から力が抜けた。身体が床へ戻り、自分の血と落とし子の黒い血が混じった場所へ手をつく。


 濃い甘さが鼻腔を満たした。


 修真の視線が、大型個体の死骸へ吸い寄せられる。道路の窪みには、裂け目から流れ出した黒い血が溜まっていた。


 時雨もゆっくりと刃先をそちらへ向ける。


「やめろ」


 時雨は止まった。


 しかし、修真の身体は止まらなかった。


 喉が焼けるように乾き、空になった胃が激しく縮む。戦闘中に感じていた甘さとは違う。もっと深く、身体の内側から削られるような飢えだった。


 飲め。


 その言葉が、誰のものとも分からない声で頭の中へ浮かぶ。


 修真は床を掴み、黒い血から顔を背けた。だが、次の瞬間にはまた血溜まりを見ていた。


「これは……俺じゃない」


 そう口にしても、確信は持てなかった。


 閉じた瞼のような亀裂を浮かべた時雨が、修真の傍らで沈黙している。


 黒い血は、ひどく甘い匂いがした。

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