肆ノ夜 となりのへや
その部屋には、窓がなかった。
だから僕は、ずっと変だと思っていた。
引っ越してきたばかりのマンション。
僕の部屋は廊下の突き当たりにあって、その隣には、
細い壁を挟んでもう一つ部屋がある。
少なくとも、僕はそう思っていた。
引っ越しの日。
父さんが家具を運びながら言った。
「ここ、隣も部屋なのか?」
「たぶん」
母さんが答えた。
「使ってない部屋みたい」
僕は壁を見た。
確かに、隣から生活音は聞こえなかった。
テレビも。
話し声も。
足音も。
何も聞こえない。
静かな部屋だった。
だから。
最初の音を聞いたときも、ただの建物の音だと思った。
午前一時十三分。
ベッドに入って、スマホを眺めていたときだった。
――トン。
壁の向こうから。
小さな音がした。
僕は顔を上げた。
静かに待つ。
何も起こらない。
「……気のせいか」
そう呟いて、スマホに目を戻す。
――トン。
また鳴った。
今度ははっきり聞こえた。
壁を。
誰かが。
指で叩いた音。
僕はベッドから降りた。
壁に近づく。
耳を当てる。
何も聞こえない。
しばらく待っていると。
――トン。
すぐ耳元で鳴ったように聞こえた。
僕は驚いて壁から離れた。
心臓が速くなる。
でも。
怖いというより、気になった。
誰かいるのだろうか。
僕は壁を軽く叩いた。
――トン。
数秒。
何もない。
やっぱり気のせいだった。
そう思った瞬間。
――トン。
返ってきた。
僕は固まった。
もう一度。
――トン、トン。
返事。
――トン、トン。
僕は思わず笑った。
「誰だよ」
もちろん返事はない。
代わりに。
――トン、トン、トン。
三回。
僕は三回叩いていない。
なのに。
三回。
その夜は、それ以上何も起こらなかった。
翌朝。
母さんに話した。
「隣の部屋から音がした」
「隣?」
「うん。壁を叩く音」
母さんの手が止まった。
「何回?」
「え?」
「何回、叩いたの?」
「……三回くらい」
母さんは黙った。
「どうしたの?」
「もう、叩かないで」
「なんで?」
「いいから」
母さんはそれだけ言った。
いつもなら冗談で返す人なのに。
そのときだけは。
本気だった。
その日の夜。
僕は音を待ってしまった。
午前一時。
何もない。
一時五分。
何もない。
一時十二分。
何もない。
そして。
一時十三分。
――トン。
僕は目を開けた。
昨日と同じだった。
――トン。
僕は布団を頭までかぶった。
返事はしない。
母さんに言われた。
絶対に。
返事をしてはいけない。
――トン。
しばらくして。
音が止まった。
僕は少しだけ安心した。
その瞬間。
――トン、トン、トン。
三回。
昨日と同じ。
僕は布団の中で息を止めた。
すると。
今度は四回。
――トン、トン、トン、トン。
五回。
――トン、トン、トン、トン、トン。
六回。
――トン、トン、トン、トン、トン、トン。
回数が増えていく。
まるで。
何かを数えているようだった。
七回。
八回。
九回。
そして。
十回。
音が止まった。
僕は布団の中で震えていた。
静寂。
何も聞こえない。
もう終わった。
そう思った。
――コン。
今度は。
壁ではなかった。
僕の部屋のドアだった。
僕はゆっくり顔を出した。
ドアを見る。
閉まっている。
――コン。
もう一度。
誰かが。
外からノックしている。
「……母さん?」
返事はない。
――コン。
僕はベッドから動けなかった。
そのとき。
スマホが震えた。
母さんからメッセージが来ていた。
『起きてる?』
僕はすぐに返信した。
『起きてる』
数秒後。
『ドア開けないで』
僕は画面を見つめた。
『なんで?』
既読がつく。
しばらくして。
『今、家の前にいる』
僕は凍りついた。
母さんは外出していたらしい。
でも。
今。
僕の部屋のドアの向こうには。
誰かがいる。
――コン。
ノック。
僕はスマホを握りしめた。
『父さんは?』
『一緒にいる』
じゃあ。
ドアの向こうにいるのは誰だ。
――コン。
また鳴った。
そして。
今度は声がした。
「開けて」
母さんの声だった。
僕は息を呑んだ。
「母さん?」
思わず声が出た。
スマホが震える。
『返事しないで』
同時に。
ドアの向こうから。
「ねえ」
母さんの声。
「開けてよ」
僕は口を押さえた。
スマホを見る。
『絶対に開けないで』
『絶対に返事しないで』
『それは私じゃない』
ドアの向こうで。
誰かが笑った。
「どうして?」
声が変わった。
母さんの声ではない。
父さんでもない。
子供の声。
それも。
僕の声だった。
「昨日、返事してくれたじゃん」
僕は壁を見た。
昨日。
僕は壁を三回叩いた。
その向こうから。
三回返ってきた。
――トン。
――トン。
――トン。
ドアの向こうで。
僕の声が言った。
「だから、今日は開けてよ」
僕は動かなかった。
すると。
部屋の中で。
――トン。
音がした。
僕はゆっくり振り返った。
壁。
さっきまで何もなかった壁。
そこから。
音がする。
――トン。
僕は後ずさった。
――トン。
壁が。
少しだけ膨らんだ。
まるで。
向こう側から。
誰かが手を押しつけているように。
「……嘘だ」
僕は呟いた。
壁の向こうには部屋なんてない。
母さんがそう言っていた。
ここは外壁だ。
そのはずだった。
なのに。
壁の向こうから。
足音が聞こえた。
――ペタ。
――ペタ。
――ペタ。
裸足のような音。
それが。
壁の向こうを。
僕の部屋に沿って歩いてくる。
僕のベッドの横。
机の横。
クローゼットの横。
そして。
僕の背後で止まった。
――トン。
僕のすぐ後ろの壁を。
何かが叩いた。
僕は振り返れなかった。
スマホが震えた。
母さんからだった。
『今、管理会社の人と話した』
『お願いだから聞いて』
続いて。
『あなたの部屋の隣には、部屋はない』
『最初からない』
『あそこはずっと外壁』
僕は画面を見つめた。
その下に。
もう一つメッセージが届いた。
『だから』
『昨日、あなたが叩いた音に』
『誰が返事したのか』
僕はスマホを落とした。
その瞬間。
部屋の電気が消えた。
真っ暗になった。
何も見えない。
ただ。
壁の向こうから。
最後の音がした。
――トン。
僕は目を閉じた。
返事をしなかった。
しばらくして。
ドアの向こうから。
僕の声が聞こえた。
「ねえ」
静かな声だった。
「もう、隣にいるよ」
僕はゆっくり目を開けた。
部屋は真っ暗だった。
でも。
窓から入る街灯の光で。
ベッドの横だけが。
ほんの少し見えた。
そこに。
人が立っていた。
顔は見えない。
ただ。
こちらを向いている。
僕は声を出せなかった。
その人が。
ゆっくり手を上げる。
そして。
僕の部屋の壁を。
三回叩いた。
――トン。
――トン。
――トン。
僕は理解した。
ずっと。
勘違いしていた。
あの音は。
「隣の部屋」から聞こえていたんじゃない。
最初から。
僕の部屋の中から。
聞こえていた。
そして翌朝。
母さんが部屋に入ったとき。
僕の姿はなかった。
ベッドも。
机も。
何も変わっていない。
ただ。
壁には、爪で削ったような文字が残っていた。
たった一言。
――『となりが、できた。』
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