第2話 目覚めと少年

くすくす、あはは。


 どこかで笑い声がする。

 目の前は真っ白で、自分がどこにいるのかも分からない。身体を動かそうとしても、手足の感覚すらなかった。


 死後の世界とは、こんなにも何もない場所なのだろうか。


 死んだら意識も何もかも消えると思っていた。それなのに、淡くぼんやりとした意識だけが残り、遠くから話し声まで聞こえてくる。耳を澄まそうにも、そもそも耳がどこにあるのかさえ分からない。


 どうしたものかと考えていると、湿った土と草の匂いがした。


 おお、嗅覚!


 感覚が戻ったことを喜んだのも束の間、今度はあらゆる刺激が一斉に押し寄せてきた。


 背中に触れる湿った土。ざらついた手のひら。肌を包む暖かな空気と、髪を撫でる優しい風。

 真っ白だった世界が暗闇へ沈んだかと思えば、その向こうから眩しい光がまぶたを刺激する。


「うっ……」


 四肢に力を込め、重たいまぶたを開いた。


 視界いっぱいに、若々しい緑の葉が広がっている。いくつもの枝が太陽を遮り、その中心には、ごつごつとした太い幹がそびえていた。


 少し痛む背中を起こして、辺りを見回す。辺り一面が緑に覆われ、その合間から小さな花が顔を覗かせている。見たことのない花に目を奪われた瞬間、強い風が身体を煽った。舞い上がった花びらが、抜けるような青空へ吸い込まれていく。


 遠くには柵で囲われた牛が何頭かいて、のんびりと地面の草を食んでいた。


 まだうまく回らない頭で周囲を観察する。夢の中かと思ったが、背中の痛みと眩しさに悲鳴を上げる目が、これは現実なのだと訴えていた。


「何がどうなってるんだ?」


 自分の身体を確かめるように触れていく。全身に筋肉痛のような痛みはあるが、それ以外に異常はなさそうだ。腕には点滴の跡すらなく、呼吸をつなぐ機械もない。


 恐る恐る、深く息を吸ってみる。


 胸が膨らみ、湿った草の匂いを含んだ空気が肺を満たした。苦しくない。息をするだけで痛んでいた身体が、今は自分の力で当たり前のように呼吸している。


 身につけている服にも見覚えがなかった。半袖の白いシャツに、茶色の半ズボン。入院生活が長かった俺には、外出用の服など一着あったかどうかも怪しい。


 首元には、深い朱色をした小さな石が下がっている。指先で触れてみると少しざらついていて、どことなく植物の種に似ていた。


 状況を整理しよう。


 俺は、病室で死んだはずだ。


 長い闘病生活だった。今でも薬の匂いや、腕に針が刺さる感触を覚えている。それなのに、今は外にいて、身体の感覚もすべて戻っている。


 試しに腕を動かしてみる。握った手を開き、もう一度強く握る。それだけの動作が驚くほど軽い。こんなふうに身体を自由に動かせたことなど、今まで一度もなかった。


 嬉しいはずなのに、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 生きていた頃の俺は、こんな当たり前の感覚すら知らなかったのだ。


 喜びと悲しみ、それ以上の混乱が入り交じり、頭の中がぐちゃぐちゃになる。立ち上がろうとしたものの、急な立ちくらみに襲われ、湿った地面へ座り込んだ。


「やあ。お目覚めかい?」

「ん? えっと、君は……」


 おはよう、と少年の高い声が頭上から降ってきた。


 見上げると、太い木の枝に小さな少年が座り、こちらを見下ろしている。五、六歳くらいだろうか。丸みを帯びた顔に、小さな身体。どこにでもいそうな少年だが、その目だけが異様だった。


 瞳も黒目もなく、両目が真っ白に光っている。


 一瞬、身体が強張った。病院にも目の不自由な子はいたが、この少年は明らかに違う。白い目は淡く発光しているように見え、その視線は間違いなく俺を捉えていた。


「えっと……」

「今、君は戸惑っているね。突然知らない場所にいたら当然だ。身体まで動いている。不思議だろう? タカラくん」

「俺の名前……なんで知ってるの?」

「君のことは何でも知っているさ」


 少年は得意げに笑い、枝の上で身体を起こした。太い幹に手を伸ばすものの、もぞもぞ動くばかりで一向に降りてこない。やがて俺と地面を交互に見ると、何かを思いついたように笑った。


「タカラくん。今から飛び降りるから、受け止めてくれよ」

「へ? わっ、ちょっと!」


 待てと言うより先に、少年は枝を蹴って飛び降りた。


 考える間もなく両腕を伸ばす。落ちてきた小さな身体は、勢いよく俺の腕の中へ収まった。


 腕にかかった重みを、危なげなく受け止められている。以前の自分なら、腕を伸ばすことすら難しかったはずなのに。


 新しい身体に感動しながらも、少年をそっと地面へ下ろした。


「こら! 急に飛び降りたら駄目だろ!」

「ナイスキャッチというやつだな。よいよい」

「聞いてる?」

「聞いてるとも! どうも人間の身体は弱いからな。受け止めてくれて助かったよ」

「人間の身体って……当たり前だろ」


 少年は愉快そうに笑った。白く光る目で俺を見つめる姿には、人間とは思えない不思議な雰囲気が漂っている。


「それで、君はなんで俺のことを知ってるの?」

「ああ、自己紹介がまだだったね。私は案内人だ。君の最初の一歩を導くために生まれたんだよ」

「へ? 生まれた?」

「そう。生まれた」

「どう見ても六歳くらいだけど」

「人間の身体を借りているんだ。幼子のほうが警戒されにくいだろう?」

「ちょっと待って。さっきから人間、人間って……君も人間だろ? 流行りの冗談か何かなの?」

「ああ、そうか。先にそこから説明するべきだったね」


 六歳ほどの見た目に反して、大人びた物腰をしている。それなのに、少年が言っていることは何一つ理解できない。


 ただ、この少年は俺を知っている。口ぶりからすると、俺が置かれている状況についても何か知っているようだった。


 少年は俺の手を握ると、大きな木を背にして、ゆっくりと歩き出した。

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