第3話「狂気の光と盲目の少女」
聖書が崩れ去った衝撃も冷めやらぬうちに、空間がぐにゃりと歪んだ。
「まだ……終わっていません」
四郎の目から、一筋の透明な滴が零れ落ちる。
「海を渡ったのも、聖書を出したのも……すべて彼らの念だと言うのなら。……この奇跡はどう説明するのですか!」
四郎が腕をかかげると、水面に新たな光の輪が生まれた。
光の中から姿を現したのは、ボロ布を纏った一人の小さな少女の幻影だった。その瞳は濁り、光を失っている。
「私の前に連れてこられた、盲目の少女……絹(きぬ)です」
四郎の声に、締め付けられるような痛みが混じる。
「生まれつき目の見えぬ彼女に、私は手を差し伸べました。ただ『神の光を見よ』と祈りを捧げ、その両目に触れた。すると……少女の目は光を取り戻し、泣いて私を拝んだのです! これも……集団催眠だと言うのですか! 人の身体の理(ことわり)すら変える力が、ただの狂気だと言うのですか!」
伝承における第三の奇跡――『盲目の少女の開眼』。
ルチアが急いでアナライザーの照準を少女の幻影に合わせる。
「体組織の再生データを確認中……! い、いえ、違います! 神代鑑定士、少女の視神経に再生の痕跡はありません! 細胞レベルでの治療は行われていません!」
「やっぱりな」
蓮は静かにため息をつき、少女の幻影へと歩み寄った。
「少女の目は、治してなどいなかった。……そうだろ、四郎」
四郎の顔が凍りつく。
「少女はな、『救世主様に触れていただいたのだから、見えないはずがない』という猛烈な自己暗示にかかったんだ。本当は何も見えていなかった。光の輪郭すら掴めていなかった。だが、お前を失望させないため……そして、周りの大人たちの『奇跡だ!』という歓声に呑まれ、見えた振りを演じたんだよ」
「そんな……そんなはずはない! 彼女は泣いていた! 私の顔を見て、綺麗だと言ってくれたんだ!」
「『見えた振り』をしなきゃいけない空気を、お前と、周りの大人たちが作ったんだ」
蓮の声は、どこまでも残酷なほど平坦だった。
「お前も気づいていたはずだ。少女の手が、お前の服を掴む時にわずかに泳いでいたことに。……だがお前は『奇跡が起きた』と思い込みたかった。奇跡を起こし続けなければ、民衆の狂気に呑み込まれて殺されると知っていたからだ」
「ああぁぁぁ……っ!」
四郎が頭を抱え、叫んだ。
少女の幻影が、苦しい笑みを浮かべたまま霧のように霧散していく。
「お前が起こしたとされる奇跡は、すべてそうだ。民衆の『救われたい』という狂気と、お前の『救世主でいなければならない』という恐怖が噛み合って生み出した……悲惨な自傷行為なんだよ」
「嘘だ……嘘だ……! ならば私は……私は一体、何のためにあの地獄に立ったのだ……!?」
四郎の叫びに呼応するように、保管庫のコンクリート床が激しく鳴動を始めた。
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