第7話 おめでとうございます

――こういうのは気晴らしなんだ。


 そうして紡は自分自身に言い訳をした。


 紡の意志を抱き込んだ使命感が堂々たる振る舞いで指示を出す。紡はその使命感を疑うことなくシャープペンシルを手に取った。そして、まるで誰かに操られているかのように、紡はシャープペンシルを動かしていく。


 まもなくノートの端に、【蓮見荒太】という文字が表れた。


 今、紡の傍には誰もいない。紡がなにを言っても聞き取る生徒はおらず、彼の声は喧騒に溶けていくことだろう。


 だから紡はなにも心配せずに呟いた。


「手入れ様、手入れ様、この人との関係をお掃除してください」


 ホームルーム前の予鈴が鳴った。同時に、荒太とさきほどのクラスメイトが教室に入ってくる。紡は【蓮見荒太】という文字を消しゴムで急いで消した。


 これだけ。たったこれだけで、まじないは完了だ。


 無意識のうちに溜め込んでいた息をはき出して、紡は荒太の様子を横目に窺う。荒太はこちらのことなど気に留めた様子もなく、クラスメイト達と楽しげに喋っていた。


――ちいさい頃はそれほど嫌に感じなかったんだけどな。


 紡はぼんやりと筆箱の金具を眺めながら思う。


――今は、荒太がいない方がもうすこし楽に息ができる気がする。


 クラスの中では紡の気持ちも穏やかになれた。人気者の荒太は周りからたくさん話しかけられるため、わざわざ紡のところまで来ないのだ。


 文化部の紡とバスケット部の荒太では、下校時間が重なることもほとんどない。だから紡も安心して家に帰れた。あとは、ときおり届くチャットが来ないことを願って夜を過ごすだけだった。


 ――しかし、この日はすこし様子が違った。いつものように机に向かって勉強をしていたとき、不意にスマートフォンから着信音が鳴り響いた。


 紡に電話をかけてくるのは家族以外に誰もいないはずだ。荒太とのやり取りもチャットくらいで、彼からの着信は一度もなかった。


 紡は反射的にスマートフォンを手に取り、着信画面を見る。そこには、【非通知着信】の文字が表示されていた。


 ……普段の紡なら、誰ともわからない電話には決して出なかっただろう。けれど、そのときの紡の身体は不可思議な感覚に支配されていた。


 それは学校で《手入れ様のまじない》をしたときにも抱いた使命感に似ていた。


――この電話には出なければならない。


 胸中には非通知着信に対する不審感があるというのに、紡の指はどうしたことか通話ボタンを押そうとしていた。


――この電話には出なければならない。


 紡は使命感に抗えなかった。

 指が緑色の通話ボタンに触れる。途端に着信音がやんだ。


『恐れ入ります。こちらは佐藤紡さんの携帯電話でお間違いないでしょうか?』


 そして、スマートフォンの向こうから事務的な女性の声が聞こえてきた。


「はい、そうです」


 紡はぼんやりとしたまま答える。


『わたくしは朝比奈と申します。佐藤紡さんにお伝えすることがあり、お電話を差し上げました』

「伝えること……ですか?」

『はい。あなたは幸運に選ばれました。三日後の十一時、これからお送りする住所にお越しください』


 その言葉を聞いた瞬間、霞がかった紡の思考が一瞬で晴れた。


――これはとても大切な情報だ。


 紡はそのように思うと、なにかに突き動かされるようにシャープペンシルを取った。


「すみません。もう一度お願いします」

『三日後の十一時です。住所はこれからお送りします』


 紡は朝比奈から発せられた短い情報を必死にノートに書き記す。そして一度、スマートフォンの音声をスピーカー設定に変えた。通話をしながらスマートフォンの画面を確認するためだ。


 ほとんど同時に、メールの着信通知が画面上部に表れた。素早くその通知に触れ、内容に目を通す。


「これは、なんの住所――」

『それでは、失礼いたします』


 しかし紡が質問しようとしたときには、朝比奈は用件を伝え終えたとばかりに会話を切り上げた。彼女のことを引き留める間もなく、通話終了の音が無情に鳴り響く。


 紡はしばらく呆然と、画面に表示されたままのメールを見つめていた。


 送信者のアドレスには見覚えのないドメインが使用されている。メールのタイトルは【おめでとうございます】のみ。そしてメールの本文には、近所の住所が記されているだけだった。


「……胡散臭い」


 思わず口から出た言葉が紡自身を冷静にさせた。


――どうして俺は、非通知の電話に出てしまったのだろう……?


 後悔が腹の中で渦巻き、鈍い痛みを誘発する。けれど、不思議なことにどれほど胡散臭くても紡はこの情報を無視できなかった。


「三日後……ゴールデンウィーク初日じゃん」


 紡は疲れた声で呟く。

 もともとゴールデンウィークになにか予定があった訳ではない。長い休日をなんとなく過ごし、なんとなく終わらせるつもりであった。


 そこに舞い込んできたひとつの予定。

 紡は不安と後悔の中に、微かな好奇心が生まれていることに気付く。


 それは小学校や中学校に入学したばかりの時のような、未知の環境に期待と不安を抱いた時の感覚に近かった。

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