鳥取空港
二〇二五年十二月二十九日。年末年始連休の初日、鳥取空港の手荷物受取所は混雑していた。一機だけの小さなターンテーブルは、まだ回り始めていない。至近で待つ人垣から少し離れ、独りで待つ。
気圧でかすかに痛む耳に、親子連れやカップルの会話が聞こえてくる。鳥取砂丘に砂の美術館、鳥取市内あちこちの温泉地。楽しげな声に混じる、観光地やイベントの名に実感が伴わない。五年以上も帰らずにいると、故郷への思い入れはこうも薄れるのだろうか。それとも単に、胸の内に澱む弔いの影が、陽気な空気を遮っているだけなのだろうか。
スーツケースを待ちながら、スマホの機内モードを解除すると、即座にショートメッセージが二件入ってきた。両方、兄貴からだった。
『飛行機は無事飛んだようだな。今から迎えに行く』
『空港に着いた。到着ロビーで待つ』
出迎えはありがたいが、目印くらいは伝えてくれ、と内心で毒づく。メールやメッセージのやりとりが続いているとはいえ、本人と会うのは数年ぶりだ。その間、実家方面にはいろいろあった。面影もない別人になってたら――と考えかけて、自分で否定する。兄貴は見た目に頓着しない。ガワが極端に変わることは、そうそうないだろう。
回る手荷物のほぼ最後、ようやく出てきたスーツケースを回収し、到着ロビーへ出た。少し前まで大勢いた乗客たちは、空港バスや迎えの車へ次々と消えていく。
出口へ向かう人の波の横、壁際にひとり、静かに腕を組んで動かない男がいた。暖かそうなニットのカーディガンに、厚めのスラックス姿。鼻筋の通った精悍な顔に見覚えがあった。
目につくように手を振る。男は反応しない。スマホでメッセージを打った。
『俺、目の前にいるんだけど』
送信と共に、かすかな振動音が聞こえた。男が自分のスマホを取り出し、目を見開いた。
「ヒロか?」
「ひさしぶりだな兄貴。気付かなかった?」
口角を引き上げてみせると、兄貴は曖昧な苦笑いを浮かべた。顔の印象は数年前からほとんど変わらない。が、以前の兄貴はこんな表情をしなかった。大阪の国立大を出て、今は県庁で出世コースまっしぐららしいが、宮仕えの日々で「完璧超人」も丸くなったのだろうか。それとも所帯を持って変わったのか。
俺は懐から名刺入れを出し、中身を一枚抜いて掲げた。
『Trattoria SHIROUSAGI/トラットリア・シロウサギ オーナーシェフ 小泉比呂哉 東京都杉並区西荻北8-3-B1F』
赤白緑のイタリアトリコローレを基調に、兎のシルエットをあしらったカード。他人行儀に両手で差し出せば、兄貴は笑いながら背筋を伸ばし、流れるようなうやうやしさで受け取った。
「店は順調なのか?」
「おかげさまで。どうにか黒字は続いてる」
「それはなによりだ。にしても」
名刺と俺の顔とを見比べながら、兄貴は感慨深げに言った。
「ヒロ、おまえもすっかり東京の男になったな。父さん母さんもきっと驚くぞ」
「そんなに変わったか?」
「ああ、髪型も服装もすっかり垢抜けた。俺が同じカットで同じものを着ても、こうはいかないだろう」
大したものは着てないが、言われて悪い気はしない。黒のチェスターコートも、白のニットもテーパードパンツも、駅前の古着屋で深く考えずに買ったものだ。服にあまり金をかけたくない身として、リサイクルショップが多い西荻窪の街はありがたい。
髪型も変わったものじゃない。ごく普通に短く揃えただけだ。細かいところは、馴染みの美容師に完全に任せている。彼の仕上げの腕だろうか。帰ったら礼を言っておこう、忘れていなければ。
「それより、忙しいんじゃないのか兄貴。葬式、昨日だったんだろう。後片付けでばたばたしてると思ってたが」
「だからといって、おまえを空港に放り出したままにはできんだろう。高原鉄道と町営バスで帰ってくるつもりだったのか」
「そのつもりで、乗り換えも調べてあったんだけど」
言えば兄貴は、心底呆れた風に笑った。
「まあいい。来い」
促されるまま、空港の駐車場へ向かう。出口を抜けた途端、身を切るような潮風が頬を刺した。
事前に調べていたルート案内によれば、鳥取空港から鳥取駅までは連絡バスで二十分、そこから黄菅高原鉄道へ乗り換えて終点まで一時間、さらにそこから町営コミュニティバスで十五分ほど。とはいえそれは、接続がうまくいった場合の話だ。黄菅高原鉄道の運行は平均二時間に一本程度で、コミュニティバスは厳密に二時間に一本。だからこそ乗り継ぎ計画は入念に、完璧に組んできていた。とはいえ、不要ならその方が間違いなくいい。
走る車の助手席で、ルームミラーを見上げた。広い後部座席には、ピンク色のチャイルドシートが無造作に積まれている。娘が生まれたとは何年か前に聞いた。電話で報せを受けて、これで俺も「おじさん」か、と冗談めかして笑ったものだ。
「なあ、兄貴」
姪っ子、今年いくつだ――訊こうとして、言葉が喉に引っかかった。
ハンドルを握る左手に、無地の指輪が光っている。銀色の輝きに、圧し潰されるような重さを感じた。
「なんだ、ヒロ」
兄貴の返事。家族のことは、訊く気になれなかった。別の話題を探した。
「あいつ、鳴神谷で見つかったってのは本当なのか」
どうにも、名前を口にする気になれなかった。それでも、自明な意図は通じたようだ。
「ああ。谷底で、潰れた乗用車と一緒にな。葬儀の時に見たかぎりでは、アキラくんの死に顔は安らかだった」
兄貴の言葉に、明らかな違和感がある。
「待ってくれ。乗用車は潰れてたんだろ? ならなんで――」
「途中で車外に投げ出されたらしい。本人の身体が綺麗なままだったのは、不幸中の幸いだった」
一瞬納得しかけたが、やはり腑に落ちない。車から投げ出された人間の表情は、そうも安らかだろうか。うーん、と唸っていると、兄貴は少しばかり声を潜めた。
「神隠しでも疑っているのか」
「鳴神谷と聞けば、な」
不吉な名だった。昔から、黄菅山で神隠しに遭った人間の遺体が、鳴神谷の底で見つかると言われている。古くは「成神谷」、つまり神に成った者の谷、の名だったとも聞いている。真に受けてはいないが、気にはなる。
「地元でも、気味悪がっている人間はいる。ただ今回は、明らかに車の転落だったからな。上の道のガードレールが壊れていたし、そこへ続くタイヤ痕もあった。特に不審な点はないと、警察も言っていた」
「それならそうでいいんだが。ところで」
この話を続けたくなく、少しばかり筋道を変える。
「葬式の後片付け、俺も手伝った方がいいか」
「そうだな。手は多い方が助かる。それに――」
兄貴はそこで一段、声を落とした。
「――おまえの罪滅ぼしにも、なるだろう」
「わかったよ」
責める口調ではなかった。けれどじわりと包み込んでくるような、正しさの圧があった。ああ、やっぱり兄貴は兄貴なのだと思い知る。
昔は冗談めかして「完璧超人」と呼んでいた。穏やかな口調で、優しい笑顔で、いつも正しいことを言う。物心ついた頃から、兄貴はずっとそうだった。
冷たさはなかった。むしろ思いやりで満ちていた。だからこそ何も言えなかった。間違っているのは、反論したくなる俺の方だ――落ち着いた微笑を前に、自分の小さな我儘を押し通す気にはなれなかった。
否応なく思い出されてくる。俺はどんな場所から逃げていたのか。
だが、今は、少しはましなはずだ。
「もうこれで、あいつと会うこともないんだし、な」
吐いた言葉は、弔いと受け取ってもらえただろうか。
一応半分は、悔やみの言葉のつもりだった。だが残り半分は、俺自身にもよくわからない。逃避に近い、何かだったのかもしれない。
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