第2巻 生きている街
第九章 止めれば死ぬ街
南部水循環都市リーヴァは、遠くから見ると青白い骨に包まれていた。街の中央を貫く給水塔。その周囲を囲む古い集合住宅。石造りの橋と細い煙突。人間が造り直した部分はくすんだ灰色で、その隙間を埋めるように旧文明の結晶管が走っている。
朝日を受けた結晶管は、街全体に張り巡らされた血管のように光った。
「きれいだろ」
駅の案内役を務める老人が言った。
「観光客はみんな最初にそう言う。住んでる側は、もう何とも思わんがね」
エリオットは列車の窓から身を乗り出した。
「これ、全部まだ動いてるの?」
「水と暖房はほぼ全部だ。発電は半分。冬場は熱交換塔も使う」
「すごいな」
「危険です」
隣から即座に訂正が入った。エリオットは振り返らずに言う。
「褒めてるだけだよ」
「君の『すごい』は、だいたい触る前兆なので」
「今回は触らない」
「前回もそう言いました?」
「言ってない。善処するって言った」
「なお悪い」
レイヴン・エルドは相変わらずだった。第九旧研究施設の一件から三週間。研究院と事故処理局は、なぜか二人を再び同じ案件へ放り込んだ。
正式な理由は、旧晶設備の異常に対し、研究と事故処理を同時進行する必要があるため。非公式には、前回の班で「この二人は放っておくと喧嘩するが、喧嘩している間に仕事が進む」と評価されたらしい。エリオットとしては甚だ不本意だった。
「で、今回は何が起きてるんだっけ」
「資料を読みましたか」
「読んだ。あんたの口から聞いた方が早い」
「それを読んでいないと言います」
「要約能力を評価してるんだよ」
レイヴンは小さく息を吐いた。
「住宅区地下の晶脈成長率が、過去五年間の平均から二百八十パーセント増加。三日前、第三給水路の内壁へ侵食。昨日、二区画で床面隆起。現在も増加中」
「原因不明」
「ええ」
「止めれば?」
「街の給水と暖房の七割が停止」
エリオットはようやく窓から離れた。
「……なるほど」
「冬まで四か月。現代設備だけで代替するには最低二年」
「止めれば凍える。動かせば結晶に飲まれる」
「簡潔に言えば」
「じゃあ面白いな」
老人がぎょっとして振り返る。レイヴンは目を閉じた。
「言い方」
「問題として、だよ」
「住民の前では言わないでください」
「それくらい分かる」
「前回の実績があります」
「まだ引っ張る?」
「便利なので」
列車が駅へ滑り込む。ホームには市役所職員、技術者、警備隊員――そして、明らかに歓迎していない住民たちが待っていた。横断幕には大きく書かれている。
『設備を止めるな』
『封鎖反対』
『事故処理局は帰れ』
エリオットは一度レイヴンを見た。
「歓迎されてるな」
「君も一括りですよ」
「研究院は書かれてない」
「私の後ろを歩けば同類に見えます」
「じゃあ先に行く」
「勝手に行かない」
「子ども扱いやめろよ」
「行動が改善されたら」
二人は並んで列車を降りた。そこで最初に投げられたのは、石ではなかった。小さな木札だった。
レイヴンの靴元へ落ちる。
『止めたら、冬に誰が死ぬ?』
手書きの文字。レイヴンはそれを拾った。何も言わず、外套のポケットへ入れた。
エリオットは横顔を見た。列車の中でなら「規定通りです」とでも言いそうな男が、ここでは何も言わなかった。たぶん、答えを持っていないのだ。
それは少しだけ意外だった。
第十章 封鎖線の向こう側
最初の会議は、開始から十二分で怒号になった。
「第三住宅区は本日正午をもって立入制限区域に指定します」
レイヴンが言う。市長の机を囲んだ住民代表たちが一斉に立ち上がった。
「ふざけるな!」
「三百人住んでるんだぞ!」
「避難先はどうする!」
「学校体育館と北倉庫を開放します」
「冬じゃなくても寒いんだよ、あそこは!」
「現在の第三住宅区よりは安全です」
「安全、安全って――」
机が叩かれる。エリオットは壁際で腕を組んでいた。レイヴンは声を荒げない。
だから余計に住民の怒りを逆撫でする。
「地下侵食は住宅基礎まで二・四メートルです。成長率が維持された場合、四十八時間以内に床面へ到達する棟が出ます」
「そんな数字で家を捨てろってのか」
「家を捨てろとは言っていません。四十八時間、区域外へ移動してください」
「その四十八時間のあと戻れる保証は?」
レイヴンが止まった。一拍だけ。
「ありません」
部屋がざわめく。エリオットは天井を見た。正直すぎる。
だが嘘を言うよりはいい。
「一つ聞いていい?」
エリオットが口を挟んだ。視線が集中する。
「第三住宅区の地下って、元は何?」
市の技師長が答える。
「旧水循環路だ。地下水を熱交換塔へ送り、各区画へ分配する」
「今も?」
「一部は使ってる。というか、止められない」
「図面ある?」
「あるが、古いぞ」
「見せて」
レイヴンが横を見る。
「何を考えています?」
「まだ何も。だから見る」
「区域へ入るつもりでは」
「図面だよ。紙は襲ってこない」
「君の場合、紙でも油断できませんが」
「何したと思ってるんだよ俺」
会議室の空気が少しだけ緩んだ。住民代表の一人が、思わず鼻を鳴らす。レイヴンはそれ以上止めなかった。
図面は市庁舎地下の保管室にあった。紙の地図と、旧文明の薄い金属板。補修記録。改造履歴。
エリオットは床に全部広げた。
「これ、ひどいな」
「何が」
レイヴンが横へしゃがむ。
「現代の配管を旧晶管に継ぎ足して、その先でまた旧設備に戻してる。しかも年代ごとに別の工法」
「故障箇所をその場で直してきた結果でしょう」
「街全体が継ぎはぎだ」
「人間の街は大体そうです」
「いや、あんたが言うと皮肉に聞こえるな」
「事実です」
図面を追う。第三住宅区の地下で、旧晶管が幾重にも交差している。その一部は、現在使用中。
一部は廃棄。だが境界が曖昧だった。
「これ、廃棄管が生きてる可能性ない?」
「根拠は」
「侵食が住宅基礎じゃなくて配管沿いに伸びてる。結晶が適当に成長してるなら、もっと放射状になる」
レイヴンは図面を見る。
「つまり、自己修復」
「かもしれない」
「廃棄済みの設備を、施設側が故障と判断して修復している?」
「それなら止め方があるかも」
「確認には地下へ入る必要がありますね」
「そうだな」
「許可します」
エリオットは目を瞬いた。
「早くない?」
「必要な調査です」
「前回のあんたなら三回止めてた」
「前回の君なら許可前に行っていた」
「成長したな、俺ら」
「私は元からです」
「そういうとこだぞ」
地下へ降りる前、レイヴンは赤い封鎖帯を第三住宅区の入口へ張った。住民たちは遠巻きに見ていた。その中に、一人の少女がいた。
十歳くらい。赤い毛糸の帽子。彼女は封鎖帯の向こうにある集合住宅を見ていた。
エリオットが視線を追う。
「家?」
少女が頷く。
「猫がいる」
「連れて出なかったの?」
「逃げた」
「名前は?」
「ミル」
「色は」
「灰色」
「見つけたら連れてくるよ」
「ヴェイル」
背後から声。
「何」
「勝手に約束しない」
「見つけたら、だよ」
「調査目的を忘れないでください」
少女がレイヴンを見る。
「おじさん、猫きらい?」
沈黙。エリオットは吹き出しそうになった。
「……嫌いではありません」
「じゃあ探して」
「調査経路上にいた場合は」
「言い方が固いなあ」
「君は黙ってください」
少女は少し笑った。レイヴンは封鎖帯の留め具を確認する。その時、エリオットは気づかなかった。
少女が、赤い帽子の下で入口の構造をじっと見ていたことに。
第十一章 街の下を流れるもの
地下水路は生暖かかった。階段を下りるほど湿度が上がり、石壁に水滴が浮かぶ。その壁面を、淡い青色の結晶線が走っていた。
「これ、全部現役?」
エリオットが灯りを近づける。市の技師長、ガレスが頷いた。
「主幹はな。横枝の半分は死んでるはずだ」
「はず」
「百年以上継ぎ足してるんだ。全部把握してる奴なんかいない」
レイヴンが前を照らす。
「それを聞くと、封鎖判断がさらに妥当に思えます」
「処理官殿。市民の前でそれ言うなよ」
「言いません」
「エリオットには言うのにな」
「彼は市民代表ではありません」
「人間では?」
「分類上は」
「おい」
ガレスが笑った。前回より明らかに、レイヴンの言葉が少しだけ雑になっている。エリオットはそれを指摘しなかった。
面白いので放っておくことにした。第三分岐へ入る。そこから景色が変わった。
壁一面を結晶が覆っている。透明ではない。白濁した青。内部で細い光が脈動している。
「待って」
エリオットが手を上げた。レイヴンが止まる。測定器を向ける。
「四十七秒じゃない」
「前回施設と比較しないでください」
「癖になったんだよ。こっちは……十五・二秒」
「規則的?」
「かなり」
ガレスが眉を寄せる。
「それが何だ?」
「生きてる設備って、大体周期がある。圧力調整とか、信号更新とか」
結晶管へ耳を近づける。中で水音がした。次の瞬間。
脈動。水音が変わる。
「弁だ」
エリオットが言った。
「結晶が弁になってる」
ガレスが顔色を変える。
「そんな記録はない」
「記録がないだけ。ほら、十五秒ごとに圧力逃がしてる」
「もしこれを止めたら?」
レイヴン。
「主幹圧が上がる。別の弁が動けばいいけど、死んでたら破裂」
「つまり侵食部分を切除するだけでは駄目」
「そういうこと」
レイヴンは結晶壁を見た。
「街が依存しているのは、旧設備ではなく」
「今できあがってる結晶そのもの、だな」
その時、奥で何かが鳴いた。高く短い声。三人が止まる。
エリオットが笑う。
「猫」
「調査経路上ですね」
「言ったな?」
「事実を確認しただけです」
声の方へ進む。小さな保守室。扉の隙間から灰色の尻尾が見えた。
「ミル?」
エリオットがしゃがむ。猫は奥へ逃げる。
「警戒されてるじゃないですか」
「猫はそういうもんだよ」
「詳しいですね」
「好きだから」
「初耳です」
「聞かれてないし」
エリオットが手を伸ばす。猫は唸った。レイヴンが横から鞄を開け、乾燥肉の包みを出した。
「何それ」
「非常食」
「猫にやっていいの?」
「少量なら」
肉をちぎり、床へ置く。猫が鼻を動かす。数秒後。
ゆっくり出てきた。
「……慣れてない?」
「何が」
「猫」
「嫌いではないと言いました」
「好きなんじゃん」
「結論を急がないでください」
猫を抱き上げたのは結局レイヴンだった。外套に灰色の毛が大量につく。エリオットは笑いを堪えられなかった。
「写真欲しいな」
「ありません」
「まだ撮ってない」
「撮らせません」
地上へ戻り、少女へ猫を渡す。少女は泣きそうな顔で抱きしめた。
「ありがと、おじさん」
レイヴンの眉がわずかに動く。
「まだ二十代です」
エリオットがついに吹き出した。
「そこ気にするんだ!」
「黙ってください」
少女は笑いながら走っていった。その背中を見送ってから、ガレスが言う。
「で、どうだ」
エリオットは地下の測定記録を見る。
「簡単には止められない」
レイヴンも続ける。
「しかし、このままにもできません」
「最悪だな」
「ええ」
初めて二人の答えが完全に一致した。
第十二章 一室だけ
調査班の宿は、市庁舎近くの古い旅館だった。ただし、宿泊予約が市側の混乱で一部消えていた。
「一室?」
エリオットが聞き返す。宿の女将が申し訳なさそうに手を合わせる。
「本当にすみません。二人部屋なら一つだけ」
「俺はいいけど」
「私は別を探します」
レイヴンが即答した。
「この時間から?」
「市庁舎の休憩室でも」
「何で」
「何で、とは」
「寝ればいいじゃん。一室で」
「君は気にならないんですか」
「別に。列車でも向かいだったし」
「列車と寝室を同一視しないでください」
「ベッド二つあるんだろ?」
女将が頷く。
「ありますよ」
「じゃあ解決」
「君の中では」
「合理的だろ」
その言葉に、レイヴンが一瞬だけ黙った。
「……それを君から聞くとは」
「褒めた?」
「まだ」
結局、同室になった。エリオットは荷物をベッドへ放り、すぐ机に図面を広げた。レイヴンは外套の猫毛を取っている。
「まだついてる」
「分かっています」
「袖」
「見えています」
「背中」
「……どこです」
エリオットが笑いながら毛を取る。
「はい」
「どうも」
「猫好きなくせに毛は嫌なんだ」
「服に付着しているのが嫌なだけです」
「はいはい」
「その返事、便利ですね」
「覚えた?」
「使う予定はありません」
夕食は一階の食堂だった。大鍋の煮込みと固いパン。避難中の住民も何人か泊まっていて、食堂は騒がしい。
エリオットは一口食べた。
「うまい」
向かいのレイヴンも食べる。
「どう?」
「何が」
「うまい?」
「食事として問題ありません」
「うまいって言えばいいのに」
「感想を強制しないでください」
「昨日の宿より?」
「前回の宿よりは」
「ほら、うまいじゃん」
「比較評価です」
隣の卓の住民がくすくす笑った。レイヴンは気づいているが無視した。食後。
部屋へ戻ると、エリオットは図面の前に座った。
「廃棄管だけ切り離せないかな」
「主幹に接続している以上、反応が読めません」
「じゃあ主幹側から『ここは修理不要』って認識させる」
「どうやって」
「それを考えてる」
レイヴンも向かいへ座る。
「私は封鎖区域を明日拡大します」
「まだ?」
「侵食速度は上がっています」
「住民反発するぞ」
「承知しています」
「怖くない?」
エリオットが何となく聞いた。レイヴンはペンを止める。
「何がです」
「嫌われるの」
「仕事に必要なら」
「答えになってない」
「好かれる必要はありません」
「でも石投げられるかも」
「避けます」
「そうじゃなくて」
エリオットは言葉を探した。
「自分の判断で、ここの人らの生活変えるわけじゃん」
レイヴンは少し長く黙った。
「怖くない人間がやるべき仕事ではないと思います」
「怖いんだ」
「失敗は」
短い答えだった。
「嫌われることより?」
「比較する意味がありますか」
「ないか」
エリオットは図面へ戻った。しばらく紙の音だけが続いた。夜半。
エリオットが顔を上げる。レイヴンは机に突っ伏していなかった。椅子へ真っ直ぐ座ったまま目を閉じている。
「寝るならベッド使えよ」
目が開く。
「寝ていません」
「今絶対寝てた」
「考えていただけです」
「目閉じて?」
「静かな方が考えやすい」
「じゃあ俺がうるさいって?」
「自覚があるなら助かります」
「感じ悪いな」
「九回目でしたか」
「覚えてたの?」
「便利なので」
レイヴンは立ち上がる。
「私は床で寝ます」
「なんでだよ」
「資料を広げたのは君でしょう」
見ると、片方のベッドはエリオットの紙で埋まっている。
「あ」
「片付けてください」
「今配置覚えたとこだから動かしたくない」
「では床で」
「いや俺が――」
「君は明日地下へ入る」
「あんたもだろ」
「私は床でも寝られます」
「変なとこ頑固だな」
「君にだけは言われたくない」
結局、エリオットは資料を半分だけ片付けた。二人ともベッドで寝た。翌朝。
床に一枚落ちた図面の端へ、レイヴンの字で小さな印が付いていた。廃棄管と現役管が交差する三地点。エリオットはそれを見て笑った。
寝る前に考えていたらしい。
「やっぱ気になってんじゃん」
「何が」
「直し方」
「事故を止めるのが仕事です」
「はいはい」
「使わないと言ったでしょう」
「俺が使うんだよ」
第十三章 逃げた子ども
封鎖区域拡大は、予想以上に荒れた。午前九時。第三住宅区の住民へ退避命令。
午前十時。市庁舎前に百人近くが集まる。午前十一時。
警備隊と住民が揉み合いになる。
「押すな!」
「家から薬取らせろ!」
「三十分だけでいい!」
「全員確認してから――」
怒号。レイヴンは警備線の前に立っていた。エリオットは市庁舎二階からその様子を見ていた。
「向いてないな、あいつ」
ガレスが横へ来る。
「何が?」
「住民対応」
「でも逃げない」
「そこは評価してる」
レイヴンは同じ説明を何度も繰り返している。危険区域。四十八時間。
薬や生活必需品は職員が回収する。許可なく入れない。同じ言葉。
声を荒らげない。しかし一人ひとりの質問には答えている。エリオットは図面へ視線を戻した。
「俺らは俺らの仕事するか」
午後。地下測定の準備中。警備員が飛び込んできた。
「子どもが一人いない!」
レイヴンが振り返る。
「誰です」
「第三住宅区の避難者。母親が気づいて――赤い帽子の女の子」
エリオットの顔から血の気が引いた。
「猫の子」
「何?」
「昨日の子。家に――」
レイヴンはもう動いていた。
「封鎖線確認。侵入痕を探してください。ヴェイル、来て」
「言われなくても」
「単独で行かないために言っています」
第三住宅区の裏手。封鎖帯の留め具が一つ外れていた。人が潜れる隙間。
レイヴンが舌打ちする。初めて聞いた。
「怒るんだな」
「今言います?」
「ごめん」
二人で区域へ入る。昨日まで人がいた通りは、もう静かだった。窓は閉まり、洗濯物だけが残っている。
地面の所々から細い結晶が突き出していた。
「昨日より増えてる」
「走らないで」
「急ぐだろ」
「足元を見て急いでください」
階段を上がる。少女の家は三階。扉が開いていた。
「いる?」
返事なし。レイヴンが中へ入る。床に赤い帽子。
その先。廊下の床板が盛り上がっている。青い光。
「まずい」
エリオットが測定器を出す。
「成長速度、昨日の二倍」
奥から物音。
「ミル!」
少女の声。レイヴンが走る。
「走るなって言ったのあんた!」
「状況が変わりました!」
居間。少女が棚の下へ手を伸ばしている。猫が奥で鳴いていた。
「こっちへ!」
レイヴンが叫ぶ。少女が振り向く。その瞬間。
床が割れた。青白い結晶が槍のように突き出す。レイヴンが少女を抱えて横へ飛ぶ。
外套が裂ける。
「レイヴン!」
「平気です。猫を!」
「猫!?」
「約束したんでしょう!」
「覚えてたのかよ!」
エリオットは棚を蹴って隙間を作る。灰色の猫を掴む。引っ掻かれる。
「痛っ!」
床の結晶がまた膨らむ。
「出るぞ!」
三人と一匹で廊下へ。階段の下からも結晶が上がってくる。
「塞がれる!」
「窓」
「三階だぞ!」
「隣棟との渡り板があります」
「なんで知ってる」
「避難図を読みました」
「資料読むの役立つな!」
「今更ですか!」
窓を開ける。隣の建物まで古い整備用板が渡っている。幅三十センチ。
少女が青ざめる。
「無理」
レイヴンがしゃがむ。
「私を見て」
少女が見る。
「向こうまで十歩です。数えられる?」
頷く。
「私が前。君が真ん中。ヴェイルが後ろ」
「俺、猫持ってるんだけど」
「落とさないで」
「当然だろ」
一歩。二歩。板が軋む。
少女は泣いている。
「三」
レイヴンが数える。
「四」
後ろで窓枠が結晶に押されて割れる。
「五」
エリオットは猫を抱え、少女の背中を見た。
「六」
「あと半分」
「七」
「八」
隣棟の壁へ結晶が走る。
「九」
「十」
レイヴンが少女を抱き上げて窓へ入れる。エリオットも飛び込む。直後、渡り板が折れた。
猫が大声で鳴いた。
「全員いる?」
「いる」
レイヴンの袖から血が落ちている。
「平気じゃないじゃん」
「浅い」
「見せろ」
「外へ出てから」
「またそれ」
「今は正しい」
今度は反論できなかった。外へ戻ると、少女の母親が駆け寄ってきた。抱きしめる。
泣きながら叱る。少女も泣く。猫だけが迷惑そうだった。
レイヴンは少し離れた場所で、自分の腕へ包帯を巻いている。エリオットが横へ座った。
「貸して」
「できます」
「片手で?」
包帯を奪う。傷は長いが浅い。
「縫うほどじゃないな」
「言ったでしょう」
「だからって自分でやるな」
レイヴンは黙って腕を預けた。エリオットが包帯を巻く。
「怒ってる?」
「誰に」
「子どもに」
「いいえ」
「自分に?」
「少し」
「封鎖線、抜けられたから?」
「ええ」
「全部防ぐの無理だろ」
「それでも想定するのが仕事です」
「大変だな」
「君に同情されると不安になります」
「感じ悪い」
「十回目」
「記念だな」
包帯を結ぶ。レイヴンが腕を確認する。
「上手ですね」
「研究室で怪我多いから」
「誇らないでください」
エリオットは笑った。その日の侵食測定結果は、さらに悪化していた。残り時間は、四十八時間ではない。
二十四時間もなかった。
第十四章 正しい暴動
夕方、市庁舎の窓が割れた。石だった。今度こそ本物の。
「全員下がれ!」
警備隊が盾を上げる。外では住民が叫んでいる。第三住宅区の侵食悪化を受け、レイヴンが第二住宅区の一部まで追加避難を決めた直後だった。
「これ以上どこへ行けってんだ!」
「設備を止めるな!」
「事故処理局が壊す気だ!」
誰かが「冬に殺される」と叫んだ。エリオットは会議室で歯を食いしばった。間違っていない。
住民は間違っていない。レイヴンも間違っていない。それが一番厄介だった。
「処理官」
市長が青い顔で言う。
「警備隊を増員してくれ」
「住民を制圧するためには使いません」
「だが施設へ侵入されたら――」
「封鎖設備の保護には配置します」
「同じことだろ!」
「違います」
レイヴンは窓の外を見る。
「彼らは敵ではない」
エリオットが顔を上げた。短い言葉。でも、妙に残った。
「じゃあ、俺は地下行く」
「今?」
「今」
「外がこの状態で?」
「だから。あと何時間ある?」
ガレスが答える。
「主幹圧の上昇まで、推定十四時間」
「寝てる暇ない」
レイヴンは数秒考えた。
「私も行きます」
「市庁舎は?」
「警備責任者へ任せます」
「住民対応は?」
「市長の仕事です」
市長が嫌そうな顔をした。エリオットは少し笑う。
「逃げた?」
「適切な役割分担です」
「はいはい」
地下へ入る。侵食は明らかに進んでいた。結晶管が太くなり、廃棄通路を埋めている。
エリオットは三つの分岐を測定した。
「やっぱり」
「何が」
「修復対象を追ってる」
図面を床へ広げる。
「ここ。百二十年前に閉鎖された第四熱交換路。それから五十八年前に切った排水路。侵食方向が全部、旧接続先へ向かってる」
「設備側は切断を故障と認識している」
「たぶん」
「なら、修復を止めるには」
「『壊れてない』と思わせる」
「どうやって?」
エリオットは黙る。それが問題だった。旧文明設備に対して現代人が入力できる命令は限られている。
言語体系も完全には分かっていない。第九施設では偶然、待機命令が通った。だが都市設備は規模が違う。
「主幹を一度止めたら?」
「再起動できない可能性が高い」
「じゃあ駄目」
「君が即答するとは」
「止めて街が死んだら研究どころじゃない」
レイヴンが少し目を細める。
「何」
「いえ」
「今褒めようとした?」
「気のせいです」
「絶対そうじゃん」
「集中してください」
二人はさらに奥へ進む。旧制御室。端末の半分は死んでいる。
壁面に古い操作図。エリオットは一枚ずつ読む。
「修復、流量、圧力、熱交換……」
「何かありますか」
「『保守延期』」
「延期?」
「これだ」
小さな項目。施設の自動修復を一定期間停止するための整備命令。
「使える?」
「たぶん。ただし期間指定が旧暦」
「換算は」
「できる。でも最大値が分からない」
「試験入力」
「いいの?」
「局所枝だけなら」
エリオットが端末を操作する。短い命令。五分。
送信。壁の結晶が一度脈打つ。止まる。
「……止まった」
測定。成長率ゼロ。
「やった」
「まだです」
「分かってるけど、一回くらい喜ばせろよ」
五分後。結晶が再び動き始める。エリオットが笑った。
「通る」
「期間を延ばせば街全体へ適用できる?」
「理論上は」
「最大期間は」
「調べる」
端末記録を漁る。一時間。二時間。
外の騒ぎが地下まで響く。ようやく、エリオットが数字を見つけた。
「……十年」
「何?」
「最大延期期間。現代換算で、たぶん十年ちょっと」
レイヴンが画面を見る。
「十年後には再び修復を開始する」
「そう」
「根本解決ではない」
「でも十年ある」
エリオットは振り向く。
「十年あれば、新設備に置き換えられる」
「現在の試算では二年から五年」
「だったら十分」
レイヴンは黙った。エリオットには分かった。この男はもう計算している。
失敗率。再起動不能。入力誤認。
住民数。冬までの時間。
「どう?」
「……候補にはなります」
「候補?」
「街全体へ送る前に、系統図を確認します」
「また慎重だな」
「十年分の責任を今入力するんです」
その言い方で、エリオットも黙った。確かに。自分には「十年ある」と見える。
レイヴンには「十年しかない」とも見えるのだろう。どちらも同じ数字だった。
第十五章 街が自分を直す
午前三時。暴動は収まりかけていた。住民も疲れている。
警備隊も。その時、市全域で地鳴りがした。低く、長く。
地下から。レイヴンとエリオットは同時に顔を上げた。
「主幹圧!」
ガレスが計器へ飛びつく。
「上昇してる! 急に!」
「原因は?」
「分からん!」
次の瞬間。市庁舎の床を青い線が走った。結晶。
「全員外へ!」
レイヴンの声が響く。床板が盛り上がる。壁の配管が軋む。
窓の外。街路の石畳を突き破り、青白い結晶が伸びていく。攻撃ではない。
修復。街全体を、旧文明の設計へ戻そうとしている。
「暴動だ」
エリオットが言った。
「何?」
「地上の振動。石投げたり、警備柵倒したり、群衆が一斉に動いた。設備が『損傷』と判断したんだ」
「そんなことで?」
「昔の街なら地震検知と連動してたかもしれない!」
レイヴンが即座に命令する。
「全住民を開けた場所へ。建物から離す。地下入口封鎖。ガレス、主幹圧を逃がせる系統は」
「第二排水路! だが手動弁だ!」
「場所」
「地下南端!」
「行きます」
「俺も」
「当然です」
「今日は止めないんだな」
「君が必要なので」
一瞬。エリオットが笑う。
「今、ちゃんと褒めた?」
「走って」
「はいはい!」
地下はもう別物だった。壁が狭まっている。結晶が旧配管の形を再現しながら伸び、現代の補修材を押し潰していく。
街を直している。人間にとって壊しながら。
「右!」
レイヴンが叫ぶ。結晶枝を避ける。南端弁室。
扉が半分埋まっている。
「開かない!」
「退いて」
レイヴンが短銃を抜く。
「撃つの?」
「蝶番だけ」
二発。扉を蹴る。
「思ったより荒いな!」
「急いでいるので!」
中の手動弁は巨大だった。鉄の輪。二人で回す。
動かない。
「錆びてる!」
「見れば分かります!」
「油!」
「ない!」
「最悪!」
レイヴンが梃子棒を差し込む。
「一、二、三」
二人で押す。軋む。少し動く。
「もう一回!」
押す。弁が回る。水が轟音を立てて流れ出す。
主幹圧が落ちる。
「これで数分」
「数分?」
「結晶が排水路も修復したら終わり」
「端末まで戻るぞ」
二人で走る。途中、天井が落ちる。レイヴンがエリオットの襟を掴んで引く。
石片が目の前へ落ちた。
「助かった」
「礼は後」
「言ってるじゃん」
「走れ!」
旧制御室。端末はまだ生きている。エリオットが飛びつく。
「保守延期、全系統」
「待って」
「時間ない!」
「期間」
「最大」
「十年でいいんですか」
「何が」
「十年後、この街はまた同じ問題に直面する」
「だから十年で変えるんだよ!」
レイヴンが画面を見る。
「失敗したら?」
「失敗しないように十年使う!」
「誰が保証する」
「誰も!」
エリオットは振り向く。
「でも今ここで止めたら、この街は今年の冬に困る。何もしなかったら今夜潰れる。だったら十年残すしかないだろ!」
レイヴンは数秒、エリオットを見る。地鳴り。天井から粉が落ちる。
「……入力してください」
「認証」
レイヴンが認証票を出す。
「今回は投げないんだ」
「近いので」
「前回ちょっと格好良かったのに」
「黙って」
二つの認証。研究院。事故処理局。
期間。十年。送信。
端末が青く光る。街中の結晶が一斉に脈を打った。一度。
二度。三度。そして、止まった。
地鳴りが消える。水音だけが残る。二人は息を切らして立っていた。
「……十年」
エリオットが言う。
「ええ」
「長い?」
「短い」
「俺もそう思う」
レイヴンが少しだけ驚いた顔をした。
「でも、ゼロよりは長い」
エリオットが続ける。
「その間にやるしかない」
レイヴンは端末へ視線を戻した。
「そうですね」
それだけだった。
第十六章 次に選べる時間
朝日が昇る頃、街は静かだった。静かすぎるくらいに。昨夜伸びた結晶は、家屋の壁を突き破ったまま停止している。
道路には亀裂。水道の一部は止まった。第三住宅区の三棟は居住不能。
それでも、街そのものは残った。そして旧晶設備の大半も、まだ動いている。
「十年」
市長が会議室で繰り返した。
「本当に十年なのか」
「誤差はあります」
エリオットが答える。
「旧暦換算だから、短ければ九年半。長ければ十一年くらい」
「その後は?」
「自動修復が再開する可能性が高い」
「……また同じになる」
「同じにしなければいい」
レイヴンが資料を置いた。
「現在設備への段階移行計画を、本日から開始してください」
「金がない」
「国庫補助の事故復旧枠を申請できます」
「全部は出ない」
「研究院の実証都市指定を使えば追加予算が取れる」
エリオットが口を挟む。
「俺から話す。ここ、研究価値高いし」
市長が二人を交互に見る。
「お前たち、最初からそれを考えてたのか?」
「いいえ」
レイヴンが即答する。
「昨夜決めました」
「そんなものでいいのか」
「もっと良い案があるなら歓迎します」
「……ない」
「なら、今ある時間を使うべきです」
住民への説明会は午後に開かれた。怒鳴る者もいた。泣く者も。
家を失った人間もいる。
「助かった」と言う人ばかりではなかった。
当然だった。エリオットは壇上の横に立ちながら、それを見ていた。研究者の報告書なら、結果は「成功」と書ける。
侵食停止。主設備維持。人的被害なし。
だが、目の前の人間にとってはそれだけではない。家の壁に穴が開いた。店が使えなくなった。
十年以内に街の構造を変えなければならない。成功という言葉は、少し軽すぎた。説明会の最後。
一人の男が立った。駅で木札を投げた男だった。
「処理官」
レイヴンが見る。
「最初に聞いた。止めたら冬に誰が死ぬって」
「覚えています」
「答えは?」
会場が静かになる。レイヴンは一度、エリオットを見た。なぜ見る。
エリオットは眉を上げた。レイヴンが前を向く。
「分かりません」
ざわめき。
「現在の設備を止めた場合、被害が出る可能性はあります。十年後の移行に失敗しても同じです」
「なら何でそんな案を」
「今夜、街が崩れる可能性を下げるためです」
「それだけか」
「いいえ」
レイヴンは続けた。
「次に選べる時間を残すためです」
男は黙った。
「今日の私たちには、完全な解決手段がありませんでした。だから十年後の人間が、今日より多くの選択肢を持てるようにする。それが今回選んだ方法です」
エリオットは横でその言葉を聞いた。次に選べる時間。覚えておこうと思った。
たぶんこの男は、こういう時にだけ本音を言う。説明会が終わる。外へ出ると、赤い帽子の少女が待っていた。
腕には灰色の猫。
「おじさん!」
レイヴンが足を止める。
「……処理官です」
「レイヴンおじさん」
エリオットが肩を震わせる。
「笑わないでください」
「無理」
少女が紙袋を差し出す。
「お母さんが。ありがとうって」
中には焼き菓子。レイヴンが受け取る。
「どうも」
「猫にもお肉ありがと」
「それは非常食です」
「猫好きなんだよ、この人」
「ヴェイル」
「違うの?」
「……嫌いではありません」
少女が笑った。エリオットも笑った。レイヴンは諦めたようにため息をついた。
第十七章 任務外
帰りの列車は翌朝だった。その前夜。エリオットは市役所で最後の研究資料を受け取り、宿へ戻ろうとしていた。
駅前の食堂に、見覚えのある黒い外套が見えた。
「何してんの?」
レイヴンが顔を上げる。
「食事」
「見れば分かる」
「では質問の意味がありません」
「一人?」
「今のところ」
「じゃ座る」
「許可を求める順番が逆では」
エリオットは向かいへ座った。
「任務終わったし」
「だから何です」
「もう現場責任者じゃないだろ」
「明朝までは任務期間です」
「細かいなあ」
店員が来る。エリオットはレイヴンと同じ煮込みを頼んだ。
「昨日と似てる」
「この街の料理は大体そうでしょう」
「うまかった?」
「またそれですか」
「今日は答えるまで聞く」
レイヴンは煮込みを一口食べた。
「……悪くありません」
「うまい?」
「悪くない」
「うまい?」
「君は子どもですか」
「うまい?」
レイヴンが目を閉じた。
「美味しいです」
エリオットは満足して頷いた。
「言えるじゃん」
「二度と言いません」
「なんでだよ」
しばらく普通に食べる。仕事の話をしない時間。前回の任務後にはなかった。
エリオットはふと気づく。
「これ、経費?」
「違います」
「じゃあ完全に任務外じゃん」
「食事まで業務にしたくありません」
「誘えばよかった?」
「何を」
「俺を」
「なぜ」
「相棒なんだから」
レイヴンのスプーンが止まった。
「誰が?」
「今二回一緒にやっただろ」
「それを相棒とは呼びません」
「じゃあ何回から?」
「回数の問題ではない」
「細かいな」
「君が雑なんです」
「でも今回、俺いなかったらどうしてた?」
「別の研究者を呼びました」
「ひど」
「事実です」
「じゃああんたいなかったら、俺は?」
「施設を壊していたでしょうね」
「俺そこまで?」
「あります」
「……否定しにくい」
レイヴンが少し笑った。今度は分かった。確かに笑った。
「何」
「自覚が育って何よりです」
「感じ悪いな」
「十一回目」
「まだ数えてるのかよ」
「便利なので」
食事を終える。店を出る。夜の街はまだ傷だらけだった。
道路の結晶は撤去されていない。家の窓には避難中を示す白布。それでも、水路の音がする。
暖房塔の煙も上がっている。
「正解だったかな」
エリオットが言った。レイヴンは歩きながら答える。
「分かりません」
「あんたでも?」
「未来の結果まで知っているなら事故処理は簡単です」
「じゃあ何で決められる?」
「決めないという選択も結果を生むからです」
「難儀な仕事だな」
「研究者に言われたくない」
「俺らは失敗しても論文になる」
「最低ですね」
「冗談だよ」
「知っています」
少し歩く。エリオットが聞く。
「なあ。次も俺?」
「何の話です」
「任務」
「まだ決まっていません」
「もし選べるなら?」
レイヴンは前を見たまま考える。
「君の方が適切なら」
「それ褒めてる?」
「条件付きです」
「最大限?」
「前回ほどではありません」
「下がったのかよ」
「今回は封鎖線を越えなかったので、その点は改善」
「子ども探しで越えたけど」
「あれは許可済みです」
「律儀だなあ」
宿の前へ着く。レイヴンが扉を開ける。
「明日は七時出発です」
「早」
「六時半には起きてください」
「起こして」
「なぜ私が」
「同室だし」
「自分で起きてください」
「寝坊したら列車遅れるぞ」
レイヴンが黙る。
「……六時半」
「よろしく」
「次から別室を取ります」
エリオットは笑いながら中へ入った。
第十八章 十年分
リーヴァの旧晶設備には、その後正式に更新期限が設定された。十年。研究院は街を「旧晶・現代設備移行実証都市」に指定し、事故処理局は毎年の点検を義務づけた。
書類の上では、それだけだった。だが、リーヴァの住民にとっては十年の意味が違った。子どもが大人になる時間。
店を移す時間。家を直す時間。新しい配管を一本ずつ引く時間。
失敗して、やり直す時間。エリオットは帰還後、研究院の報告書へこう書いた。
『本処置は根本解決ではない。旧晶自動修復機構を一時延期したに過ぎず、期限到来時には同様あるいはより大規模な侵食再発が予測される。したがって成功と評価するには早い。』
そこで一度筆を止めた。少し考え、追記する。
『ただし、当該処置によって、別の解決を選択するための時間は確保された。』
提出翌日。事故処理局から修正済みの共同報告書が戻ってきた。レイヴンの赤字が一箇所だけ入っている。
『別の解決』
その横。
『より良い解決、とは限らない。』
エリオットはしばらく見た。
「ほんと細かいな」
そう呟きながら、修正を消さなかった。代わりにその下へ書く。
『では、次に選べる時間。』
数日後、再び戻ってきた書類には、もう赤字はなかった。承認印だけが押されていた。それが、二人が初めて同じ答えに署名した記録になった。
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