第2話 居座る雨

「――どけよ」


 自分の声に、自分で驚いた。掠れて、思いのほか低い。誰かに向かって声を出すのは、何日ぶりだろう。


 猫は動かない。


 地面に足を貼りつけたみたいに、僕を見上げたまま動かない。


 雨が、僕たちの間を叩き続けている。


 灰色の水滴が、猫の耳の先から滴り落ちる。


人通りのない路地には、僕たちの他に動くものが何もなかった。並んだ家の窓に灯る明かりも、雨のカーテン越しに滲んで、輪郭を失っている。


 追い払うつもりで一歩踏み出すと、猫はびくりと身を縮めた。それでも、逃げなかった。ただ、少しだけ目を伏せた。


 もう一度、足を踏み出す。

 今度こそ動くはずだと思った。



 猫は動かなかった。



 三度目。

 四度目。

 同じことの繰り返し。


 軒先の暗がりで、僕たちは睨み合ったまま、雨音だけが積もっていく。


 どこかの側溝が、水を吸いきれずに小さく溢れている音がした。遠くで車が一台、水たまりを踏んで通り過ぎる。


その音に、猫の耳がぴくりと動いた。


 足先で、そっと押しやるふりをしてみる。猫はよろけながらも、また同じ位置に戻ってきた。頑固というより、他に行くあてがないだけなのかもしれない。


それでも、動かないという一点だけは、驚くほど頑なだった。


「……なんで動かないんだよ」


 誰も聞いていない路地に、僕の声だけが落ちる。


 返事なんて期待していなかった。


 それでも猫は、応えるみたいに、か細く鳴いた。


 しゃがみ込んで、猫を覗き込む。



 近くで見ると、思っていたより小さい。骨ばった体に、濡れた毛が張りついている。


震えは止まらない。

右目の下のあたりに、小さな模様があるのが、こんな距離でもう一度見えた。


 僕は、しばらくその震えを見ていた。


 行くところがないなら、行くところがないなりの顔をすればいい。なのにこの猫は、怯えているくせに、目だけはまっすぐ僕を見上げてくる。


 (なんだ、なんなんだ!)


 立ち上がって、背を向ける。


 濡れた前足が、僕の膝に触れた。


 反射的に身を引くと、猫はよろけて、そのまま鞄のストラップによじ登ろうとした。


爪が引っかかって、ずるっと滑り落ちる。


もう一度。また、滑り落ちる。


 三度目は、ストラップの代わりに僕のズボンの裾を選んだらしい。


爪が布地に引っかかったまま、器用に後ろ足だけで立ち上がろうとして――そのままバランスを崩し、水たまりに尻もちをついた。しばらく呆然とした顔でこちらを見上げたあと、何事もなかったように毛づくろいを始める。


 (間抜けだ)


 そう思った瞬間、喉の奥で何かが動きかけた。


笑いに似た何か。

すんでのところで、押し戻した。

今はまだ、そんな資格はない。


 濡れそぼった猫は、それでも懲りずに僕を見上げてくる。諦めたのか、そのまま僕の足元に座り込んだ。雨に打たれるがまま、動こうとしない。


 しばらく、そうして睨み合っていた。


 連れて帰るなんて、馬鹿げている。


お母さんに何て言えばいいのかも分からないし。

飼い方なんて何ひとつ知らない。

第一、僕にそんな余裕があるとは思えない。頭の中では、まっとうな理由がいくつも並んだ。


 背を向けて、歩き出す。


 一歩。

 二歩。


 振り返らなかった。

 振り返れば、また心が引き戻される、そんな予感があった。


 角を曲がる手前で、足が止まった。


 雨が、急に体温を奪うように強さを増していた。首筋を伝って、シャツの中まで冷たさが入り込んでくる。指先の感覚が、もうほとんどない。


 ――なのに。


 気づいたら、来た道を引き返していた。猫はさっきと同じ場所に、同じ格好で座っていた。まるで、僕が戻ってくることを知っていたみたいに。


 両手で抱え上げる。


 (なんで?)


 なぜそうしたのか、自分でも説明できない。


 ただ、このまま置いていったら、何かが決定的に壊れる気がした。それだけだった。


 (軽い)


 想像していたより、ずっと軽かった。


 抱えた腕の中で、猫はしばらく震えていたけれど、やがて力を抜いた。雨脚は相変わらず強い。


それでも猫は、嫌がる素振りを見せなかった。雨に濡れることに、慣れているみたいに。


 「このままだと、風邪をひいちゃうな」


僕は、ジャケットの前を少しだけ開き、猫を胸元に抱き入れた。


生地の隙間から、濡れた頭がひょこりと覗く。


歩くたびに、小さな鳴き声が漏れた。


(文句を言っているのか、安心しているのか)


 家までの道のりを、僕は無言で歩いた。街灯の下を通るたび、覗いた毛皮が光を跳ね返して、白と茶色の模様が浮かび上がる。信号待ちで立ち止まると、猫は胸元でわずかに身じろぎして、また丸くなった。


 閉店したクリーニング屋のガラスに、自分の姿が映った。


伸びっぱなしの前髪。

落ちくぼんだ目の下。


(誰だ、これは。)


記憶にある自分の顔と違って見えた。

ふいっと、目を逸らして、また歩き出す。


 胸元の重みと、体温だけが、やけにはっきりしていた。それ以外のものは、相変わらず遠いままなのに。


 玄関で靴を脱ぎ、洗面所からタオルを取ってくる。色あせた、しばらく使っていないタオルだった。畳んだまま、埃をかぶっていた場所から引っぱり出す。


 猫を包んで拭くと、抵抗もせず身を任せてきた。拭かれるがまま、目を細めている。毛の下から、思ったよりしっかりした体つきが感じ取れた。


 濡れた毛をタオルでこすりながら、ふと手が止まった。



(誰かの世話を焼くのは、いつぶりだろうな)



 誰かのために手を動かすことなんて、ここのところずっとなかった。自分のことすら、まともに構っていなかったのに。


 部屋の隅、埃をかぶったカメラバッグに、視線が一瞬だけ吸い寄せられた。けど、すぐに、目を逸らす。


 台所を探して、小皿に水を汲んでくる。差し出すと、猫はためらいもせず顔を近づけて、小さな音を立てて舐め始めた。


(何か食べさせるものはあっただろうか)


ふと、そう考えている、自分に気がついた。少し前まで、そんなことを考える余裕すらなかったはずなのに。


 雨が好きな人がいた。


 そんな記憶の断片が、不意に胸をよぎったが、すぐに蓋をする。


 (今は、ダメだ)


 水を飲み終えた猫は、丸めておいた古いタオルの上に、迷いなく体を預けた。まるで最初からそこが自分の場所だったみたいに。


 台所には、僕自身の夕飯は何も用意されていなかった。


今日も、たぶん何も食べていない。

それに気づいても、体は動かなかった。


猫のために水を汲む手は動いたのに、自分のために何かをする気は、少しも起きなかった。


 その落差に、笑ってしまいそうになる。


 (笑わなかったけれど)


 タオルの中で、猫が小さく身じろぎした。丸くなって、僕の膝の上に移ってくる。安心しきったその重みに、僕はしばらく動けなかった。


 こんなに簡単に、誰かに体温を預けられるものなんだろうか。


 まだ名前もつけていない。


 呼びかける言葉すら、僕は持っていない。それでも構わず、猫は僕の膝を選んで眠っている。


 窓の外では、まだ雨が降り続いている。


 止む気配はない。

 

 この猫みたいに、居座るつもりなのかもしれない。


 時計の針が、いつの間にかずいぶん進んでいた。電気もつけていない部屋の中で、雨音と、膝の上の小さな寝息だけが聞こえている。

 

昨日までなら、この静けさは息苦しいだけのものだった。


今は、少しだけ違う静けさに感じられる。

理由は、うまく言葉にできない。


 膝の上で、猫の呼吸が少しずつ穏やかになっていく。目を閉じて、もう眠りかけている。あっという間だった。


 膝の上の猫に、僕はもう一度手を伸ばした。今度は、追い払うためじゃなかった。


 濡れた毛から、なぜか懐かしい、においがした。

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