第4話 河川敷の春
施設を出てから、わたしは特に目的もなく、街を歩き続けた。
持っているのは、新聞配達で貯めた、わずかなお金だけ。行くあてなんて、最初からなかった。それでも、あの殺風景な部屋に戻るくらいなら、外の方がずっとましだった。
施設のあった街を出て、知らない街へと歩いた。見知った景色から離れたかった。誰かに見つかって、連れ戻されるのが怖かったからだ。
最初の数日は、駅前の公園で夜を明かした。ベンチに横になると、思っていたよりも硬くて、なかなか眠れなかった。夜が更けるにつれて気温は下がり、持ってきた上着一枚では、震えが止まらなかった。丸くなって膝を抱えても、寒さはどこからともなく忍び込んできた。
昼間は、公園のベンチに座って、行き交う人たちをぼんやりと眺めて過ごした。学校帰りの子供たち、犬を散歩させる人、ベビーカーを押す親子。誰もが、当たり前のように、帰る場所を持っているように見えた。
誰かに見つかったら、施設に連れ戻されるかもしれない。そう思うと、人の視線が怖くて、なるべく物陰を選んで身を潜めた。公園の管理人らしき人が近づいてくるたびに、荷物をまとめて別の場所へ移動した。
三日目くらいから、公園ではなく、河川敷で過ごすようになった。橋の下は雨風を凌げたし、公園よりも人目につきにくかった。土手の草の上に座って、流れる川を眺めていると、時間の感覚がどんどん曖昧になっていった。
河川敷には、わたしの他にも、似たような境遇の人がいるらしいと、そのうち気づいた。少し離れた場所に、ブルーシートを張って寝泊まりしている人影があった。声をかけられることはなかったし、わたしからも近づかなかった。それでも、遠くにその人影が見えるだけで、少しだけ、安心するような気がした。
お金は、なるべく使わないようにした。一日一食、パンをひとつ買うだけの日もあった。空腹で目が回りそうになることもあったけれど、それよりも、誰かに話しかけられることの方が怖かった。
自動販売機の下や、コンビニのゴミ箱の周りで、小銭を探したこともある。惨めだとは思わなかった。ただ、生きるために必要なことを、淡々とこなしているだけだった。
たまに、河川敷を歩く人が話しかけてくることがあった。
「大丈夫? どこか具合悪いの?」
心配そうな顔をされるたびに、わたしは俯いて、逃げるようにその場を離れた。優しさを向けられることに、慣れていなかった。それに、少しでも気を許して、触れられてしまったら――また、あの光景を見てしまうかもしれない。
誰にも近づかない。誰にも触れさせない。それだけが、わたしのルールだった。
夜になると、河川敷から見える街の灯りを、ぼんやりと眺めた。あの灯りの下には、あたたかい部屋で、誰かと笑い合って過ごしている人たちがいるのだろう。わたしには、一生縁のないことのように思えた。
雨の日は、特に辛かった。橋の下に逃げ込んでも、湿った空気と、川の匂いが染み込んでくる。濡れた服のまま夜を明かした日は、体の芯まで冷え切って、朝になっても震えが止まらなかった。
それでも、施設に戻ろうとは、一度も思わなかった。
四月に入っても、まだ肌寒い日が続いていた。桜が散り始めた頃、持っていたお金は、底をつきかけていた。
その日、わたしはあてもなく、住宅街の方まで足を伸ばしていた。空腹で、頭がぼんやりしていた。何か食べ物を探さなければと思いながら、ふらふらと歩いていると、古びた喫茶店の前に出た。
窓の向こうのショーケースに、プリンが並んでいた。
艶々と輝くカラメルソースが、上からとろりとかかっている。少しくすんだ色の生地は、いかにも滑らかそうで、見ているだけで喉が鳴った。
値札を見る余裕もなかった。ただ、そのプリンから目が離せなかった。頭の中では、あの甘さと、口の中でとろけていく感触を、勝手に想像していた。
どれくらい、そうしていただろう。ガラスに映る自分の姿が、ひどく痩せて、くたびれて見えた。
「お嬢ちゃん、腹減ってるのか」
声をかけられて、はっと我に返った。
振り返ると、白髪頭に白いエプロンをつけた老人が、店の入り口に立っていた。それが、石上裕一――マスターだった。
マスターは、心配そうな顔で、こちらに手を伸ばしてきた。とっさに、体が強張った。
もし触れられたら。もし、この人の死まで、見えてしまったら。
「触らないで!」
自分でも驚くくらい、大きな声が出た。
マスターは一瞬、目を丸くした。けれど、それ以上、何も聞いてはこなかった。
「そうか。分かった」
ただそれだけ言って、少し距離を空けたまま、店の中へと促してくれた。
店の中は、外の寒さが嘘のように、あたたかかった。コーヒーの香りが、店中に染み付いていた。カウンター席に座らされて、しばらくすると、マスターがトーストとスープを運んできた。
「食え。話は、それからでいい」
わたしは、無我夢中でそれを口に運んだ。あたたかい食べ物を口にするのが、どれくらいぶりだったか、思い出せないくらいだった。涙が出そうになるのを、必死にこらえた。
食べ終わる頃、マスターは向かいの椅子に座って、静かにこちらを見ていた。
わたしがどこから来たのか、なぜ一人で彷徨っていたのか、詳しくは聞かなかった。ただ、行くあてがないと知ると、静かにこう言った。
「うちで働くか。住み込みでいいなら」
断る理由なんて、どこにもなかった。それでも、わたしは念を押すように言った。
「触られるのは、嫌なんです。理由は、言えません」
「別にいい。言いたくないことは、言わなくていい」
マスターは、それ以上、何も詮索しなかった。
あの日から、わたしの居場所は、あの河川敷の土手ではなく、純喫茶イシガミになった。
最初の数週間は、ここにいていいのだろうかと、何度も不安になった。いつか、施設のときのように、気味悪がられて、また追い出されるのではないかと。
けれど、マスターは、そんな素振りを一度も見せなかった。ぶっきらぼうだけれど、決して冷たくはない態度で、コーヒーの淹れ方を、プリンの作り方を、少しずつ教えてくれた。
――遺品整理の手を止めたまま、わたしはどれくらい、あの頃のことを思い出していたのだろう。
気がつけば、窓の外は夕方の色に変わっていた。段ボール箱の中の子供服を、そっと畳み直す。
あの日、マスターがくれた「触らないで」への理解が、今のわたしを、ここまで生かしてくれた。
誰にも言えない秘密を抱えたまま、それでも、この場所で生きていくことを、あの人は許してくれていたのだ。
わたしは箱を閉じて、立ち上がった。
明日からも、この店を開けなければならない。田中さんが来る。三島さんも、松本さんも、井上くんも。
マスターがいなくなっても、この場所に集まる人たちの営みは、止まらない。
わたしは、階段を降りて、明日の仕込みの準備を始めた。
(第5話へつづく)
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